大倉草紙

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【京都】 吉田神社

2008年11月12日 05時53分07秒 | 旅 - 京都府
7月20日(日)
当日の行程:(阪急電鉄・烏丸駅)…(自転車) → 【建仁寺】【圓徳院】【高台寺】【八坂神社】【平安神宮】【無鄰菴】【吉田神社】


無鄰菴を出て、吉田神社へ向かう。

          
              俊寛山荘地への道

俊寛の山荘が近くにあるというので、探してみた。
霊鑑寺の横に、「此奥俊寛山荘地」の碑を見つける。
平家物語によれば、この山荘で、俊寛僧都、藤原成親・成経父子、平康頼、藤原師光(西光法師)、源行綱、後白河法皇が平清盛打倒の談合を行っていた。
いわゆる、「鹿ケ谷の陰謀」だ。
山荘の場所は明らかになっていないが、その辺りは「談合谷」と呼ばれるそうだ。

坂が多い。
暑くてくらくらしてくる。
おまけに道が分からない。


   
 後一條天皇菩提樹院稜・後冷泉天皇皇后章子内親王菩提樹院稜

「後一條天皇菩提樹院稜・後冷泉天皇皇后章子内親王菩提樹院稜 」を見つける。
このあたりは、木々が多くて、いくぶんか涼しい。


   
                  大鳥居

吉田神社は、清和天皇貞観元年(859)4月、中納言・藤原山蔭卿(ふじはらやまかげきょう)が一門の氏神として春日大社の四神を勧請し、平安京の鎮守神として創建された。
鎌倉時代以降は、卜部氏(吉田氏)が神職を相伝する。
室町時代末期には、神職吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創設し、大元宮を造営する。
吉田家は、吉田流神道の総本家として、明治時代まで絶大な権威を持っていたといわれる。


   
                  学び藤

本宮の傍には、孝明天皇御寄進の「学び藤」が植えられている。
御神紋(藤紋)に因んでいるのだという。
荒れた感じがするのが、残念だった。


   
                  神鹿

春日大社を分祀したからであろう。鹿の像があった。


   
                 さざれ石

これは、国家発祥の地といわれる岐阜県春日村の山中にあったさざれ石なのだそうだ。
平安時代、惟喬親王(文徳天皇の皇子)に使えた藤原朝臣石位左衛門は、春日村君が畑と京都の往復の道中に、さざれ石を見て「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」と詠んだという。


   
                  本宮

大鳥居をくぐり、長い石段を登ると、左手に本宮がある。


   
                四脚中門と御廊

   
                   本殿

写真では二棟しか見えないが、実際は四棟並んだ春日造りである。
建御賀豆知命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いわいぬしのみこと)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)の四柱を祀っている。


          
              吉田神社の御朱印



   

帰り道、三条京阪で高山彦九郎の銅像を写真におさめる。
高山彦九郎が、京都に出入りする度に、皇居の方角を向いてひれ伏していた姿を再現しているとのこと。