「駒形どぜう」の渋谷店がむかし、旧宇田川沿いのクアトロの先、旧タワーレコード裏にあったという件で、余談ひとつ。
〈原田芳雄特集〉ということで先日テレビで放送したのを録画してあった藤田敏八監督の『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』(1970)をゆうべ見ていたら、まさに1970年代初頭の宇田川町が、くりかえし写っていた。タイトルに「新宿」の地名を冠しておきながら、新宿より渋谷のほうがロケーション日数が多いのではないかと訝しく思えるほどである。
原田芳雄と渡哲也の両主人公が張りこむ敵の暴力団事務所(「友愛ビル」という名がついている)が、現在の「オルガン坂」、パルコ・パート1と東急ハンズ渋谷店の中間に位置しているのだ。現在はスターバックスのオルガン坂店があるあたりだろうか。もちろん映画ではまだ、パルコもハンズもない。パルコ・パート1が誕生するのは1973年、ハンズは1978年のことだそうである。
ただ、いまも健在の「仁愛病院」や「ルノアール」の看板がはっきりと写っているし、「宇宙百貨」や輸入レコード店「Cisco」があった大向小学校(現・神南小)から渋谷税務署につき抜ける側道も、画面奥に見えている。この、オルガン坂から右へそれていく側道ではご丁寧にも、大向小の生徒らしき児童の登校姿も写っているのだ。この子たちも、いまは50歳くらいになっているだろうが、〈原田芳雄特集〉の名のもとに自分の姿がテレビで流されたことは、当然のことながら誰も気づいてはいまい。この側道には名称があるのかとGoogleで検索してみると、あるにはあるが、「無国籍通り」「コスミック・スロープ(宇宙百貨があることが由来)」「万国旗通り」と、3つの名称が併存し、いまだ統一されていないとのことだ。
ところで『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』の原田芳雄はまだ30歳。若い!
オルガン坂のルノアールには、青山真治監督の『サッド ヴァケイション』公開前の2007年夏、「映画芸術」誌の対談のために呼ばれたことがあった。個室が予約してあり、青山監督のほか、稲川方人さん、坂本安美さんも出席して、旧「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」同窓4人組で『サッド ヴァケイション』について1時間ほど喋った。今からたった4年前のことだが、はるかむかしのことのような気がする。
私が初めてこのオルガン坂を歩いたのは意外と遅く、高校1年の春、1981年にタワーレコードが初めて東京に出現した時のことだ。その後タワーは1995年ごろ、ファイヤー通りの旧・渋谷PAO(セゾングループが “子ども用パルコ” という位置づけで開店したが、短命に終わった)の跡をほぼ居抜きで借り受け、ここに移転し、現在に至っている。現在のタワーレコードの外壁に黄色のペインティングが施されているのは、タワーのコーポレート・カラーである黄色をあしらったものと思われるところだ。しかし、じつはそうではなく、渋谷PAOのカラーリングだった黄色がそのまま転用されているのであって、基本的にはビルディング竣工時から変わっていない。
〈原田芳雄特集〉ということで先日テレビで放送したのを録画してあった藤田敏八監督の『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』(1970)をゆうべ見ていたら、まさに1970年代初頭の宇田川町が、くりかえし写っていた。タイトルに「新宿」の地名を冠しておきながら、新宿より渋谷のほうがロケーション日数が多いのではないかと訝しく思えるほどである。
原田芳雄と渡哲也の両主人公が張りこむ敵の暴力団事務所(「友愛ビル」という名がついている)が、現在の「オルガン坂」、パルコ・パート1と東急ハンズ渋谷店の中間に位置しているのだ。現在はスターバックスのオルガン坂店があるあたりだろうか。もちろん映画ではまだ、パルコもハンズもない。パルコ・パート1が誕生するのは1973年、ハンズは1978年のことだそうである。
ただ、いまも健在の「仁愛病院」や「ルノアール」の看板がはっきりと写っているし、「宇宙百貨」や輸入レコード店「Cisco」があった大向小学校(現・神南小)から渋谷税務署につき抜ける側道も、画面奥に見えている。この、オルガン坂から右へそれていく側道ではご丁寧にも、大向小の生徒らしき児童の登校姿も写っているのだ。この子たちも、いまは50歳くらいになっているだろうが、〈原田芳雄特集〉の名のもとに自分の姿がテレビで流されたことは、当然のことながら誰も気づいてはいまい。この側道には名称があるのかとGoogleで検索してみると、あるにはあるが、「無国籍通り」「コスミック・スロープ(宇宙百貨があることが由来)」「万国旗通り」と、3つの名称が併存し、いまだ統一されていないとのことだ。
ところで『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』の原田芳雄はまだ30歳。若い!
オルガン坂のルノアールには、青山真治監督の『サッド ヴァケイション』公開前の2007年夏、「映画芸術」誌の対談のために呼ばれたことがあった。個室が予約してあり、青山監督のほか、稲川方人さん、坂本安美さんも出席して、旧「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」同窓4人組で『サッド ヴァケイション』について1時間ほど喋った。今からたった4年前のことだが、はるかむかしのことのような気がする。
私が初めてこのオルガン坂を歩いたのは意外と遅く、高校1年の春、1981年にタワーレコードが初めて東京に出現した時のことだ。その後タワーは1995年ごろ、ファイヤー通りの旧・渋谷PAO(セゾングループが “子ども用パルコ” という位置づけで開店したが、短命に終わった)の跡をほぼ居抜きで借り受け、ここに移転し、現在に至っている。現在のタワーレコードの外壁に黄色のペインティングが施されているのは、タワーのコーポレート・カラーである黄色をあしらったものと思われるところだ。しかし、じつはそうではなく、渋谷PAOのカラーリングだった黄色がそのまま転用されているのであって、基本的にはビルディング竣工時から変わっていない。