前作『風にそよぐ草』(2009)の奔放さは、イオセリアーニ、ゴダール、ジャック・ロジエの隣人としてのアラン・レネという側面を強調した快作だった。そのレネが91歳で没しておよそ1年。最新作にして遺作となった『愛して飲んで歌って』は、タイトルから察するにイオセリアーニ的、ロジエ的なエピキュリアニスムが横溢しているように予想されるが、どうだろう。
原作はイギリスの戯曲で、「フランスのエスプリとイギリスのユーモア」のみごとなマリアージュというようなことが盛んに喧伝されている。たしかにイギリス北部ヨークシャー地方の実景ショットや、車での移動ショットがもっともらしく挿入されてはいる。しかし見ているこちらとしては、あれらイギリスを示すショットはB班カメラマンと助監督だけで撮ればいいようなもので、作品にとってアリバイになっているように思えない。
つまりこれは、イギリス舞台のフリをしただけの、完全にフランス的な恋のさや当て心理劇である。しかも、物語の中心であるジョルジュが一度として画面に出てこない。人を喰っている。だから、ここはイギリスのヨークシャーですなどと言われても、まったく観客は信じることはできない。また作り手も信じてもらおうと考えていない。そもそもジョルジュはフランス男子の名前だろう。イギリスならジョージのはずだし、カトリーヌではなくキャサリンだ。かんたんなオーセンティシティさえ無視している。
こういう無責任な反-喜劇を、私たち日本人は最も苦手とする。ロメールの『アストレとセラドン』上映中の銀座テアトルシネマで、若い女性客が小声で毒づきながら途中退席していったことが思い出される。『愛して飲んで歌って』というタイトルこそ威勢がいいが、実際には老境にさしかかった男女の往生際の悪い恋のさや当てに終始する。そしてこの往生際の悪さこそアラン・レネである。
私が最初にレネを見たのは高校生の時だ。『去年マリエンバートで』と『二十四時間の情事』の二本立てだった。衝撃を受けた。ゴダール、レネ、ブニュエル、大島…そんな名前のことを頭の中でくり返し考えているだけで高校生活は終わってしまったように思う。しかし『去年マリエンバートで』を見てからずいぶんと経過しているのに、レネと私のあいだの距離はさして縮まりはしなかった。この遠さもまたレネ的だという気がするし、そこが面白いのではないか。
岩波ホール(東京・神田神保町)にて4/3(金)まで
http://www.crest-inter.co.jp/aishite/
原作はイギリスの戯曲で、「フランスのエスプリとイギリスのユーモア」のみごとなマリアージュというようなことが盛んに喧伝されている。たしかにイギリス北部ヨークシャー地方の実景ショットや、車での移動ショットがもっともらしく挿入されてはいる。しかし見ているこちらとしては、あれらイギリスを示すショットはB班カメラマンと助監督だけで撮ればいいようなもので、作品にとってアリバイになっているように思えない。
つまりこれは、イギリス舞台のフリをしただけの、完全にフランス的な恋のさや当て心理劇である。しかも、物語の中心であるジョルジュが一度として画面に出てこない。人を喰っている。だから、ここはイギリスのヨークシャーですなどと言われても、まったく観客は信じることはできない。また作り手も信じてもらおうと考えていない。そもそもジョルジュはフランス男子の名前だろう。イギリスならジョージのはずだし、カトリーヌではなくキャサリンだ。かんたんなオーセンティシティさえ無視している。
こういう無責任な反-喜劇を、私たち日本人は最も苦手とする。ロメールの『アストレとセラドン』上映中の銀座テアトルシネマで、若い女性客が小声で毒づきながら途中退席していったことが思い出される。『愛して飲んで歌って』というタイトルこそ威勢がいいが、実際には老境にさしかかった男女の往生際の悪い恋のさや当てに終始する。そしてこの往生際の悪さこそアラン・レネである。
私が最初にレネを見たのは高校生の時だ。『去年マリエンバートで』と『二十四時間の情事』の二本立てだった。衝撃を受けた。ゴダール、レネ、ブニュエル、大島…そんな名前のことを頭の中でくり返し考えているだけで高校生活は終わってしまったように思う。しかし『去年マリエンバートで』を見てからずいぶんと経過しているのに、レネと私のあいだの距離はさして縮まりはしなかった。この遠さもまたレネ的だという気がするし、そこが面白いのではないか。
岩波ホール(東京・神田神保町)にて4/3(金)まで
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