荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『愛して飲んで歌って』 アラン・レネ

2015-03-28 18:48:52 | 映画
 前作『風にそよぐ草』(2009)の奔放さは、イオセリアーニ、ゴダール、ジャック・ロジエの隣人としてのアラン・レネという側面を強調した快作だった。そのレネが91歳で没しておよそ1年。最新作にして遺作となった『愛して飲んで歌って』は、タイトルから察するにイオセリアーニ的、ロジエ的なエピキュリアニスムが横溢しているように予想されるが、どうだろう。
 原作はイギリスの戯曲で、「フランスのエスプリとイギリスのユーモア」のみごとなマリアージュというようなことが盛んに喧伝されている。たしかにイギリス北部ヨークシャー地方の実景ショットや、車での移動ショットがもっともらしく挿入されてはいる。しかし見ているこちらとしては、あれらイギリスを示すショットはB班カメラマンと助監督だけで撮ればいいようなもので、作品にとってアリバイになっているように思えない。
 つまりこれは、イギリス舞台のフリをしただけの、完全にフランス的な恋のさや当て心理劇である。しかも、物語の中心であるジョルジュが一度として画面に出てこない。人を喰っている。だから、ここはイギリスのヨークシャーですなどと言われても、まったく観客は信じることはできない。また作り手も信じてもらおうと考えていない。そもそもジョルジュはフランス男子の名前だろう。イギリスならジョージのはずだし、カトリーヌではなくキャサリンだ。かんたんなオーセンティシティさえ無視している。
 こういう無責任な反-喜劇を、私たち日本人は最も苦手とする。ロメールの『アストレとセラドン』上映中の銀座テアトルシネマで、若い女性客が小声で毒づきながら途中退席していったことが思い出される。『愛して飲んで歌って』というタイトルこそ威勢がいいが、実際には老境にさしかかった男女の往生際の悪い恋のさや当てに終始する。そしてこの往生際の悪さこそアラン・レネである。
 私が最初にレネを見たのは高校生の時だ。『去年マリエンバートで』と『二十四時間の情事』の二本立てだった。衝撃を受けた。ゴダール、レネ、ブニュエル、大島…そんな名前のことを頭の中でくり返し考えているだけで高校生活は終わってしまったように思う。しかし『去年マリエンバートで』を見てからずいぶんと経過しているのに、レネと私のあいだの距離はさして縮まりはしなかった。この遠さもまたレネ的だという気がするし、そこが面白いのではないか。


岩波ホール(東京・神田神保町)にて4/3(金)まで
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『幕が上がる』 本広克行

2015-03-25 00:45:32 | 映画
 『幕が上がる』は一にも二にも、主演のももいろクローバーZのメンバー5人の熱演あるのみである。これまで空疎な大作や、隙のないエンタメ映画ばかり量産してきたフジテレビ系列の映画にはもう飽き飽きだという向きも多いと思われるが、本作は少しばかり毛色がちがう。本作にしても入念なマーケティングの結果だと言われればそれまでだが、それに留まらない、何かに取り憑かれたような高揚感が製作全体を支配していることは、誰もが認めざるを得ないだろう。『踊る大捜査線』などフジテレビ映画を長くリードしてきた本広克行は例によって鼻白むような、わざとらしくドメスティックな演出過剰で、シーンを空転させている箇所が少なくない。とはいっても、アイドルと演劇の紐帯をこんなふうに準備できる人材は、本広をおいてほかにいない。
 ももクロ演じる高校演劇部の生徒たちと新任教師(黒木華)の運命的な出会いの場面で、生徒のひとり(百田夏菜子)による意地悪い要望にあっさり応じた黒木が、演技の手本を示してやる。見知らぬ教師の高い演技力に不意打ちを喰らった百田夏菜子のモノローグで「なんだ、これは?」とか「神が舞い降りた!」とかそういう強い言葉が吐かれるが、正直言ってあのシーンの黒木華に、そこまでのポテンシャルは感じられなかった。姉御肌の指導者としては全編通していい味は出していたけれども。実際に黒木華の演技に神が舞い降りたというのではなく、鬱屈した女子高生にはそれくらい神がかって見えたということだろうが、映画というのはそのような主観で事足れりとなったためしはない。この教師の即興芝居がほんとうに神がかっていなければならないのだ。ところでこの黒木という女優さんはたいへん不思議な人で、作品によって大きく見えたり小さく見えたりする。やはり女教師を演じた『ソロモンの偽証』では徹底的に矮小化され、ちっぽけな印象を与えたが、『幕が上がる』ではももクロ勢の小柄さもあって、人一倍大きく見える。
 ももクロをスクリーンで見るのは、ユーロスペースでの『NINIFUNI』(2011)以来となる。やはりワンショットよりも、ニーもしくはフルのグループショットの方が写り馴れているようだ。映画のラスト近く、高校演劇の県大会本番の前夜、5人が暗い教室で全国大会進出への決意を新たにするシーンでは、ワンでもツーでも群れでもなく、初めて単独の5人グループとして切り取られる。すると突如として画面が落ちつきと安定を取り戻すのだ。彼女たちが長く5人でやってきたことの動物的馴致がそうさせているのである。黒木の女教師は映画の途中で突然カットアウトしてしまうが、これは映画的画面という名の無意識の欲望装置に鋭く気づいたからだと言うしかあるまい。


全国東映系ほかで上映中
http://www.makuga-agaru.jp

『妻への家路』 張芸謀

2015-03-21 06:03:01 | 映画
 王兵の劇映画『無言歌』(2010)で描かれた反右派闘争のいわゆる「走資派」が投獄される西域の砂漠内牢獄、あそこに政治犯の妻が夫の面会に訪れるシーンが出てくるが、夫の留守を孤独裡にあずかり、狂気に陥っていくあれら妻たちの実存に照明を当てたのが、かつて『黄色い大地』でカメラを担当した「第五世代」張芸謀(チャン・イーモウ)の最新監督作『妻への家路』である。
 中国「第五世代」のフィルモグラフィーは日本公開分はそれなりに見てきたつもりだが、彼らの変節もまたそれなりにつぶさに見てきた。『妻への家路』を今回見てあらためて思うのは、「中華ニューウェイヴ」と持て囃されたかつての「第五世代」も、いまや立派な旧世代になったということだ。おもしろいのは、彼ら「第五世代」が若手期待株として評価されたころに前の世代の映画が醸していたアナクロニズムに、いまの張芸謀が臆せず接近していることである。なぜわざわざ歴史がくり返されるのか? 張芸謀の心情を聞いてみたいものだ。
 文化大革命がインテリ家庭の妻(コン・リー 鞏俐)をいかにして狂気に陥れたのか? 本作はそれをめぐって声高に告発せず、優しく慰撫する。彼女と逃亡犯である夫(陳道明)の10年ぶりの待ち合わせを密告したのは、この夫婦の娘(張慧文)であり、この娘ものちにバレエの夢を絶ち、密告の咎はじゅうぶんに受けたはずである。それでも齟齬は残る。許せぬという心情をどうしても消すことができない。そもそも夫を陥れた文革の首謀者たちさえもが、その後は逆に告発され、投獄された。被害者も加害者も同じである。あとは、この疵に馴致していくしかない。その馴致のみちすじをつけるのが本作だが、それがまるで前の世代の映画のようなタッチなのである。
 映画の序盤、待ち合わせの鉄道駅の陸橋で──妻、逃亡中の夫、密告して駆けつけた娘、夫逮捕に奔走する党役員──この四つ巴のラン&ランのカットバックが(現実にはほんの一瞬のできごとだっただろうに)いつまでも引き延ばされ、なんども4点カットバックがなされる。そのサスペンス演出は現代のものではなく、エイゼンシュテイン、ヒッチコックの末裔のそれである。待ち合わせの前の晩、妻が夫のために蒸かす饅頭の大量さが、じつに切ない。あの饅頭の大量さこそ映画そのものである。その意味では張芸謀も映画の人なのだなと、これまであまり意識しなかったことに気づかされた。


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷映画の跡地)ほかで公開中
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『シェフ 三つ星フードトラック始めました』 ジョン・ファヴロー

2015-03-18 01:40:07 | 映画
 『シェフ 三つ星フードトラック始めました』というタイトルが気に入らず、この作品は無視を決めこんでいたが、これが『アイアンマン』のジョン・ファヴロー監督&主演作であることを遅まきながら知って、それならというので見に行くこととした。『アイアンマン』はヒーロー物のなかではアル中の主人公がよくて、気に入っている作品である。ジョン・ファヴローは役者として『ウルフ・オブ・ウォールストリート』にも出演している。
 ところで現在の映画界では、都会での無味乾燥な生活から脱出し、田舎で無農薬野菜なんかを栽培したりしながら、失われた幸福を再生するというような作品が意外と数多く製作され、大震災以降、一大ジャンルを形成しつつある。原田知世主演、三島有紀子監督『しあわせのパン』(2011)というのを見たときにこのジャンルの形成を、私ははっきりと認識した次第だ。また、認識すると同時に最も忌避すべきものともなった。このジャンルの源流はどこにあるのか? 小泉堯史監督『阿弥陀堂だより』(2002)あたりがそれだと思うが、もっと古いかもしれない。1990年代中盤、音楽業界に一大「癒し」ブームが起きたのだが、それの映画版が数年遅れで起きたということではないか。
 ジャンル名としては、「ロハス映画」とすべきか、あるいは「オーガニック映画」「田園ヘルシー映画」などさまざまに思いつくが、私は個人的に「パン映画」と名づけている。オフィス街を昼時に歩いていると、OLたちがこぞってパンを買っている。肉にかぶりつくのは恥ずかしいし、不健康な気がするし、穀物のぱさついた舌触りが自分の身体を清潔に保ってくれそうな幻想に安住できるためだろう。私の若いスタッフのひとりは、全粒粉のライ麦ビスケットかなんかで昼食としている。その穀物至上主義っていったい何なのだろう? とにかくあれらオフィス街の光景を思い出しながら、『しあわせのパン』的映画に私は「パン映画」と名づけた。
 昨年の吉永小百合主演の『ふしぎな岬の物語』も「パン映画」の代表作だろう。孤島にモーターボートで湧き水まで汲みに行って、あんな人里離れた岬の先っちょで丁寧にドリップコーヒーを淹れたって、客なんか来るわけない。中には漁師が焼酎の代わりにたまにはコーヒーを飲みに来てくれたり、吉永小百合の美貌目当てで日参する客もいるだろうが。あの幻想にはほとほとうんざりさせられる。
 ジョン・ファヴローの『シェフ 三つ星フードトラック始めました』も、「パン映画」のひとつである。しかし「パン映画」にも不良がいるのだというのを本作が教えてくれた。ロサンジェルスで有名フレンチレストランのシェフをやっていた主人公(ジョン・ファヴローが自演)が、料理批評の辛口ブロガー(オリヴァー・プラット)と揉めてツイッターが炎上し、保守的な店のオーナー(ダスティン・ホフマン)とも大ゲンカして解雇、名声も金もいっぺんに失い、悪評のため再就職もできなくなる。故郷のマイアミでキューバ料理のうまさに感心して、キューバ料理の移動販売を始めて成功していく物語。豚バラ肉、チーズなどをはさんでパン生地の表面にバターを刷毛で塗りきつね色に押し焼きする、そんなボカディージョかケバブみたいなサンドイッチだ。セルベッサ(ビールではなくセルベッサだと主人公のスー・シェフ[シェフアシスタント]がことわりを入れていた)やラム酒で乾杯しながらそのボカディージョを大急ぎで作っては売りまくり、テキサスの燻製ステーキをつまみ、ペリコ・エルナンデス(主人公の義父を演じる)のサルサがガンガン演奏されるあたりから、この映画は最高潮となる。
 フロリダ州マイアミ、ルイジアナ州ニューオーリンズ、テキサス州オースティンといった南部諸州の都市を商売しながら周遊し、その土地土地の地場フードを再吸収しながら、主人公たちの移動料理はどんどんふくよかになっていく。都会の敗者が田舎で再生するという「パン映画」の構造こそ墨守しているが、これはクレオール主義の、肉汁礼讃の軽薄なダンス映画だ。ヘルシー志向の穀物映画ではない。『アイアンマン』の監督は当初の見立てどおり「いい奴」だ。そしてこれは『ラム・ダイアリー』に続くイベロアメリカ的、エピキュリアン的な佳作の一本だ。オースティンの庭先みたいなところで催行されるロックフェスの黒人ギタリストがジミヘンみたいでかっこいい。


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷映画の跡地)ほか全国で公開中
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『欲望という名の電車』 ナショナル・シアター・ライヴ2015 @TOHOシネマズ日本橋

2015-03-14 08:36:00 | 演劇
 昨年に引き続き、イギリス演劇の上演舞台を撮影した《ナショナル・シアター・ライヴ2015》が、日本橋、梅田、京都・二条、川崎などいくつかのTOHOシネマズで断続的に上映されている。大阪の会場がなんばから梅田に替わり、次回からは新たにオープンする新宿が加わるらしい。
 今回の上映作品は、テネシー・ウィリアムズ作、ベネディクト・アンドリュース演出による『欲望という名の電車』。いつもと2点異なる点がある。ひとつは上演会場がロイヤル・ナショナル・シアターではなく、ロンドン・サウスバンクの独立系劇場ヤング・ヴィックであること。もうひとつはイギリス演劇ではなく、アメリカの戯曲であること。ロンドンで上演されたアメリカ演劇をわざわざ見るというのも、一風変わった体験でおもしろい。
 ヒロインのブランチを演じたのはドラマ『Xファイル』のジリアン・アンダーソンだが、両親の出自によるイギリス訛りが少女時代に地元の米中西部でいじめの原因となったそうで、米中西部方言とイギリス英語を使い分けるようになったとのことだ。今回はニューオーリンズが舞台となる『欲望という名の電車』だから、南部訛りを駆使することになった。3月9日のニュースによれば、彼女は本作によって、イギリス演劇界最高峰の賞、ローレンス・オリヴィエ賞の主演女優賞にノミネートされている。
 今回の上演でもっともおもしろいのはセットだ。ちょうど東京の青山円形劇場に2階席も設けて少し大型にしたような円形の客席があり、客席にとり囲まれるように真ん中にステージがある。プロセニアムで恭しく上演されるのと違い、役者は360度から見つめられ、逃げ場が失われている。柱と階段と半透明の玄関があるのみで、壁はいっさいなく、完全なるシースルーセットである。さらに、ステージ全体が旋盤上でゆっくりと回転している。これは、先年若くして亡くなった深津篤史が、新国立劇場(東京・初台)でハロルド・ピンターの『温室』を演出した際にも試みられたやり方である。視点はこれによって不断に更新されていく。
 途中、インターミッションで上映される企画VTRで、ヤング・ヴィック劇場の紹介がされていた。劇場側は上演作品が決まると、まずその作品の演出家に常識を覆すようなセットデザイン案を要求する。劇場構造からいって、実験は必定なのだ。そうすることによってレパートリーに亀裂を入れ、新たな生命を吹き込む。これは日本で演劇が上演される際も同様だろうが、古典戯曲が上演される際も、それは常に新作として上演され、新作として鑑賞されるべきである。更新されていく新たな視点、演出がなければ、演劇は死ぬだろう。そのことを、今回の『欲望という名の電車』を見ながら改めて思った。


TOHOシネマズ日本橋(東京・三越前)ほかで上映終了 次回『二十日鼠と人間』は5/15より
http://www.ntlive.jp