東京深川・清澄町のギャラリー、スプラウト・キュレーションで中原昌也の個展が開かれている。わが街・日本橋中洲から清洲橋を渡るだけという至近距離に、この毒性と呪詛が塗り込まれた小世界があることが奇妙で不可思議な感じを受ける。もちろんこれはあまりにも極私的な感覚に過ぎないが、中原がかねてから賞讃している『母のおもかげ』(1959)で主人公少年の父(根上淳)が運転手をつとめる水上バスの航路上に奇しくも展示会場が位置し、あの清水宏の遺作のみごとなパースペクティヴを形成したのが、清洲橋を水上バスでくぐり抜ける際の中洲や浜町の移動ショットなのである。そのことを思いめぐらすなら、根上淳の再婚相手として少年の継母になる女を演じた淡島千景が亡くなった今年に、中原がその清洲橋のたもとに降臨することもまた、まるで縁なきこととも言いきれまい。『無題』と称する比較的大きめの絵、それからHair Stylisticsのためのジャケット用アートワーク、モノクロームのシリーズ『悲惨すぎる家なき子の死』。on Sundaysの壁一面に粗暴に張りめぐらされた一昨年の前回個展《IQ84以下!》からさらに不敵な進化を続ける中原昌也の厳密なる夜明けを見るために、清澄白河の駅に降り立つべきだろう。
P.S.
本来なら、そのあとに歩いて数分の「伊せ㐂」に立ち寄って、どじょうの丸鍋か、まだ寒さの抜けない今ならナマズ鍋を食べることができたら完璧なのだけれど、「伊せ㐂」が昨年に惜しくも休業してしまった以上、そうした贅沢な時間の使い方も永遠にできなくなってしまった。ちょっと北上し森下に出るか、いっそのこと清洲橋を渡って人形町・水天宮界隈で一献傾けるがよいでしょう。人形町駅、和菓子の「玉英堂」前。モクレンの清楚な白い花が咲き誇っていた。
スプラウト・キュレーション(清澄3号倉庫内)で4月14日(土)まで
http://sprout-curation.com
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紀伊國屋レーベルからDVDでリリースされたヴィットリオ・デ・シーカの『悲しみの青春』(1971)が見る者の涙腺にもたらす緩みは、どちらかというと、怠惰な感性の持ち主どうしが交わしあう憐憫の風土に属するだろう。冒頭のタイトルバックで、純白のテニスウェア姿で自転車にまたがった一群の若い男女が、名家の広大な庭園内をなめらかに走り抜けていくとき──そこには美しすぎる陽光が、青すぎる木々の茂みが、穏やかすぎる真昼の風が、監督の息子マヌエル・デ・シーカの音楽に乗って通りすぎていくのである。まさに春風駘蕩の境地であり、こうした掛け値なしの幸福の瞬間を描ける映画作家は、ジャン・ルノワールは別格として、ほかにあと幾人も残っていまい。
3月も後半の声を聞けば、各地の花街が競うように「〜をどり」というようなものの開催を告知しはじめるが、たとえば京都・上七軒だと「北野をどり」の季節ということになる。貧乏暇なしの身上ゆえ、こういうものへ首尾よく出かけて行く日が到来するのかは甚だ心許ないが、その埋め合わせか、このたび珍しい『さのさ』なる296ページの和綴じ本に出会った。「さのさ」とは、明治から大正、昭和の長い期間にわたって、比較的気楽なお座敷で好んでつま弾かれた俗曲のジャンル名である。小唄、端唄をもっと通俗的にしたものと考えればよい。









