荻野洋一 映画等覚書ブログ

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中原昌也|個展

2012-03-30 02:31:43 | アート
 東京深川・清澄町のギャラリー、スプラウト・キュレーションで中原昌也の個展が開かれている。わが街・日本橋中洲から清洲橋を渡るだけという至近距離に、この毒性と呪詛が塗り込まれた小世界があることが奇妙で不可思議な感じを受ける。もちろんこれはあまりにも極私的な感覚に過ぎないが、中原がかねてから賞讃している『母のおもかげ』(1959)で主人公少年の父(根上淳)が運転手をつとめる水上バスの航路上に奇しくも展示会場が位置し、あの清水宏の遺作のみごとなパースペクティヴを形成したのが、清洲橋を水上バスでくぐり抜ける際の中洲や浜町の移動ショットなのである。そのことを思いめぐらすなら、根上淳の再婚相手として少年の継母になる女を演じた淡島千景が亡くなった今年に、中原がその清洲橋のたもとに降臨することもまた、まるで縁なきこととも言いきれまい。
 『無題』と称する比較的大きめの絵、それからHair Stylisticsのためのジャケット用アートワーク、モノクロームのシリーズ『悲惨すぎる家なき子の死』。on Sundaysの壁一面に粗暴に張りめぐらされた一昨年の前回個展《IQ84以下!》からさらに不敵な進化を続ける中原昌也の厳密なる夜明けを見るために、清澄白河の駅に降り立つべきだろう。

P.S.
 本来なら、そのあとに歩いて数分の「伊せ㐂」に立ち寄って、どじょうの丸鍋か、まだ寒さの抜けない今ならナマズ鍋を食べることができたら完璧なのだけれど、「伊せ㐂」が昨年に惜しくも休業してしまった以上、そうした贅沢な時間の使い方も永遠にできなくなってしまった。ちょっと北上し森下に出るか、いっそのこと清洲橋を渡って人形町・水天宮界隈で一献傾けるがよいでしょう。人形町駅、和菓子の「玉英堂」前。モクレンの清楚な白い花が咲き誇っていた。


スプラウト・キュレーション(清澄3号倉庫内)で4月14日(土)まで
http://sprout-curation.com

山口晃 新作展《望郷──TOKIORE(I)MIX》

2012-03-29 01:43:19 | アート
 現代美術のエースのひとり、山口晃の新作展《望郷──TOKIORE(I)MIX》はわずか3点の展示だが、心憎い刺激に満ちている。
 最初の作品『忘れじの電柱』は黒炭色に塗装された電柱が数本、メゾンエルメス(東京・銀座晴海通り)の高い天井にむかってまっすぐに直立している。電柱だけでなく、送電基盤や電線、プラスティックの樋も黒く塗装されている。真下に立って電柱を見上げると、その黒さが禍々しく増幅され、なにやら大災害後の荒漠たる視覚イメージを喚起する。黒沢清監督の映画『回路』(2000)が終盤で提示した、人類絶滅寸前の銀座の街路はまったく見るに忍びないイメージだったが、あれを想起させる。
 2つめの作品『正しい、しかし間違えている』は、入れ子状のギャラリー内ギャラリーで、中に入ると、山口の絵画作品が数点展示され、打ちあわせ用ソファ、スケジュールがメモされたカレンダーなどが揃っており、清楚な空間を形成している。しかし、床が斜めに傾いており、鑑賞者の平衡感覚を根底から損なおうとする。
 3つめの作品は、洛中洛外図から着想を得たもっとも山口らしい作品で、『Tokio山水(東京画2012)』という俯瞰による大パノラマである。東京23区がほぼカバーされ、「東京画2012」というサブタイトルから分かるように、ヴェンダースの『ベルリン 天使の詩』『ファラウェイ・ソー・クロース』の天使たちの視点が回帰している。
 山口による大和絵の現代美術への接ぎ木は非常に刺激的で、一見してふざけているが、たとえば横山大観のような近代の大御所をいくら大真面目にたくさん眺めても理解できない日本美術の本質への近道であると思えてならない。ちょうどジャチント・シェルシやグバイドゥーリナを聴くことのほうが、19世紀のクラシック音楽よりもはるかにバッハ体験に近いのと同じように。

『悲しみの青春』 ヴィットリオ・デ・シーカ

2012-03-27 00:22:28 | 映画
 紀伊國屋レーベルからDVDでリリースされたヴィットリオ・デ・シーカの『悲しみの青春』(1971)が見る者の涙腺にもたらす緩みは、どちらかというと、怠惰な感性の持ち主どうしが交わしあう憐憫の風土に属するだろう。冒頭のタイトルバックで、純白のテニスウェア姿で自転車にまたがった一群の若い男女が、名家の広大な庭園内をなめらかに走り抜けていくとき──そこには美しすぎる陽光が、青すぎる木々の茂みが、穏やかすぎる真昼の風が、監督の息子マヌエル・デ・シーカの音楽に乗って通りすぎていくのである。まさに春風駘蕩の境地であり、こうした掛け値なしの幸福の瞬間を描ける映画作家は、ジャン・ルノワールは別格として、ほかにあと幾人も残っていまい。
 しかし、この春風駘蕩というものは案外いつも脆弱なガラス細工なのであって、強靱なるストイックな映画学徒にとっては、あまり肌の合わない作品かもしれない。なまじベルリン映画祭で金熊賞を受賞したばかりに名作扱いされてはいるけれど、むしろ「押し」が効くのは前年の『ひまわり』のほうだろう(そういえば、デ・シーカと名コンビの脚本家チェーザレ・ザヴァッティーニを助けて『ひまわり』を共同で書いたトニーノ・グエッラが、21日に亡くなってしまった…合掌)。

 1930年代、北イタリア。ファシスト勢力の台頭にもかかわらず、まもなく零落するだろう自分たちの未来にまったく頓着していないユダヤ系の名家がある。美貌の令嬢(ドミニク・サンダ)、その病弱な兄(ヘルムート・バーガー)、そしてこの家に出入りし、令嬢を愛してやまぬ文学青年(リーノ・カポリッキオ)。この3人の男女は三角関係を形成する時間さえも持たぬまま、ファシズムの荒波に飲まれ、生を消尽していく。まったくイタリア人らしくない容貌であるブロンドヘアの彼ら(おそらく東欧から流れてきたユダヤ教徒の末裔という設定か?)は、自分たちのことを「黒人」と呼ぶ。この無責任な自嘲によっては当然、何も救われないことを彼らはどこまで理解していたのか。
 ところで私見的解釈だが、ドミニク・サンダがカポリッキオを捨てた理由は、カポリッキオに同性愛的思慕を寄せている自分の兄を思いやってのことだろう。映画史上もっとも美貌の「おこげ」だ。
 同じような時代を扱った最近のイタリア映画に『愛の勝利を』(2009)がある。マルコ・ベロッキオによるこの傑作悲劇を、むせ返る芳香を放つアルコール度数の高いグラッパに喩えるならば、デ・シーカ晩年の傑作は、かき混ぜぬ砂糖がコッパの底でたっぷりと滞留したエスプレッソといったところ。パッケージ・デザインも作品の格調を物語っていて秀逸である。

キューブリックの青の時代

2012-03-24 06:59:46 | ラジオ・テレビ
 巨匠たちの無名時代にスポットを当て、飛躍の瞬間をさぐるという趣旨のドキュメンタリー・シリーズ《巨匠たちの青の時代》というものがNHKで何回か放送されて、ここまでココ・シャネルやマイルス・デイヴィスなどが取り上げられたようである。スタンリー・キューブリックの回『俺の眼を見つけた!』を見たら、珍しいものをたくさん見せてもらった。キューブリックが高校生の時に「ルック」誌に掲載してもらったルーズヴェルト死去翌日のキオスクの売り子の写真であるとか、「ルック」でボツになり現在はNY市立博物館アーカイヴにひっそりと保管される地下鉄での乗客居眠り写真シリーズなど。
 極めつけは、長編デビュー作『恐れと欲望』より以前、22才の時に作られた短編ドキュメンタリー『拳闘試合の日(Day of the Fight)』(1951)のフッテージのかなりの部分を見られたこと。助監督は高校の同級生、製作費は自分の貯金および親戚筋から借金して調達した。「今回、所在不明と思われていた貴重なフィルムを入手することができた」と述べるNHKアナのナレーションが、番組スタッフの昂揚を物語って微笑ましい。
 『拳闘試合の日』を見ると、キューブリックという映画作家がどのようにして、初期に試みられたスチール写真の連続実験から、やがて遠大な移動撮影への嗜好に至ったのかがよくわかる。また、この4年後に監督し、ユナイテッド・アーティスツによって買い上げられたフィルム・ノワールのなかなか出来のいい長編第2作『非情の罠』(1955)の前半で見られるボクシング・シーンの原型がここにあったか、と納得した。

 ちなみに、東京都内にあるニュースリールの貸出をおこなう某社のフッテージの中に、リアルではあるが妙になめらかな横移動撮影を伴う戦場シーンが紛れ込んでいる。あれがニュースリールでないのは一目瞭然だから大丈夫だとは思うが、世のテレビスタッフは気をつけられたし。それにしてもなぜ『突撃』の1シーンが、あの会社のアーカイヴに紛れ込んでしまったのだろう?

『さのさ』(序文 石田民三)

2012-03-21 00:06:43 | 
 3月も後半の声を聞けば、各地の花街が競うように「~をどり」というようなものの開催を告知しはじめるが、たとえば京都・上七軒だと「北野をどり」の季節ということになる。貧乏暇なしの身上ゆえ、こういうものへ首尾よく出かけて行く日が到来するのかは甚だ心許ないが、その埋め合わせか、このたび珍しい『さのさ』なる296ページの和綴じ本に出会った。「さのさ」とは、明治から大正、昭和の長い期間にわたって、比較的気楽なお座敷で好んでつま弾かれた俗曲のジャンル名である。小唄、端唄をもっと通俗的にしたものと考えればよい。
 本書はそんな「さのさ節」の歌詞を美しい行書体で集成した和綴じ本であるが、特筆すべきは、序文を元・映画監督の石田民三が書いていることである。石田民三は『むかしの歌』(1939)、『花散りぬ』(1939)、『花火の街』(1937)など、J.O.スタジオおよびその後身の東宝初期に日本情緒を前面に押し出した作風で知られた戦前の名匠。1947年に45才の若さで引退し、以後は京都花街のひとつ上七軒の御茶屋「万文」主人の座に収まり、悠々自適の粋人生活を死ぬまで送った人である。
 あまり世間で見られる本でなし、やや冗漫なる振舞いながら、石田による序文全文をここに転記するとともに、興に乗って「さのさ節」の中からいくつか、佳さげなものを挙げておきたいと思う。


さのさ談義    石田民三

 明治二十五年頃。法界屋と呼ばれる男女連れの芸人が月琴の伴奏で流し歩いた法界節──日清戦争の頃は時勢をもじって砲界ぶしなどとも書いたが──その月琴が三味線に代って歌詞もすこぶる情緒的になり節調も江戸前に洗練されて唄い出された物がさのさぶし──
 三十二年頃から流行し出してまたゝく間に全国を風靡したが日露戦争の頃には更に隆盛を極め爾来、大正昭和と曲節に多少の変化はあっても江利チエミの今日迄、実に四分の三世紀をすたることなく脈々と唄い継がれて来た──
 淡雪のように消えて行く流行歌の世界では実に稀有に属することである。
 江戸趣味と云うよりむしろ日本趣味とも云うべきその節調が庶民の胸をうつせいもあるだろうが多少の例外は別としてそのほとんどの歌詞に唄いあげられた義理人情の世界とか花街に生きる女人の哀歓とかに大衆は少なからず共感を持つせいであろうと思われる。
 併し、時勢は移る── この共感も我々年輩迄のこと、次の世代には当然他の流行歌と同じように消えて行く運命を辿るだろう。今の我々は「さのさ」の挽歌を奏でゝいるといえるのである──
   ○
 古賀一男、辻ます子、市村進の諸氏がこの消え行くものゝ情緒を惜んでこゝに二百に余る歌詞を採録した。同好の士として欣快の一語に尽きる。まだ若いこの人達が滅ぶるものゝ美しさをいつ迄も残そうと希うひたむきな努力は只の道楽などゝは云えぬものがある。上梓に当って心からなる歓びと敬意を捧げたい。
 丙午新春
 上七軒茅屋に於て──


♪四畳半
かけた三味線
しみじみ眺め
一でゆるめて二でしめて
三であなたの
気を引いて
しまひにゃ互に本調子

♪後朝(きぬぎぬ)に
主を送つて雨戸をあけて
アレ見やしゃんせ朝顔は
庭の枝折戸(しおりど)へ
からみつく
帰すまいとの
辻占(つじうら)か

♪今だから
意見するのぢゃ
ないけれど
こゝらが思案の仕所さ
水の深瀬と色恋は
深くなる程
身が立たぬ

♪紅帯(べにおび)を
解くもはづかし旅の宿
結ぶえにしの
幸せが
燃へてつぼみの
開く夜
恋の望みの乱れ髪

♪なんとなく
只なんとなく好きな人
逢へば互に知らぬ顔
仇な月日が
たつうちに
いつか逢へない
人となる

♪泉水に
泳いで居るのはありゃ金魚
あなたの心によく似てる
上辺はきれいに
見ゆれども
煮ても焼いても
食べられぬ

♪園に咲き
深山の奥に匂ふのも
同じ桜の色なれば
いづれ盛(さかり)も
一時の
散るも恨めし
夜半(よは)の風