荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

カフヱ・ド・サイコ

2017-06-25 17:26:11 | 映画
竹藤恵一郎の8ミリ作品で、ゲルニカの楽曲「カフヱ・ド・サイコ」が使用されていたのは、どちらだったか。
ネット上にはまったくと言っていいほど、この情報がない。
『サメロメ』
『メシムラク』
『クレノコレメ』
『もっと別な話』
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アンリ・カルティエ=ブレッソン、そしてソール・ライターについて

2017-06-19 22:31:55 | アート
 先日、脚の悪い老母をわざわざ京都に連れ回した。荻野家の菩提寺である宗派の総本山である知恩院に初参拝させることが主目的である。2日目はあいにく雨に祟られたため、おもに美術館、博物館と屋内観光におとなしく収まった。
 知恩院参拝のあと、祇園の「鍵善良房」で葛きりを食べ、その並びの「何必館」でアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真展を見た。老母はブレッソンの写真よりも地階の魯山人の器展示のほうが興味を抱いていたようだ。まあそれはそれとして、同館のポスターやバナーに採用された『ムフタール街』(1952)という写真は、私の最も愛するブレッソンの作品である。10歳に満たぬ少年が赤ワインのボトルを2本抱えている。おそらく親のお遣いなのだろう。酒瓶を持って歩くことが大人じみて鼻高々だったのか、得意げな微笑を浮かべている。
 ブレッソンの展示を見て刺激を受けたため、東京の自宅に戻っても、ロバート・フランクの『THE AMERICANS』(1958)から十文字美信『感性のバケモノになりたい』(2007)、マルティナ・ホーグランド・イヴァノフ『FAR TOO CLOSE』(2011)などなど、いろいろと手持ちの写真集を片っ端からパラパラとめくっていた。ロバート・フランクについては最近、ドキュメンタリー映画『Don't Blink』も公開されたが、これはじつにいい作品だった。もし機会があったらご覧いただきたいと思う。

 にわかの写真熱を充当してくれたのが、試写と試写の移動途中に時間が少しあって寄ることのできたBunkamuraザ・ミュージアムのソール・ライター展〈ニューヨークが生んだ伝説〉である。この人の写真展を初めて見たが、感動的な発見となった。とくに素晴らしいのが、1950年代から60年代にかけてニューヨークの市井を撮影したまま現像もされずにソール・ライターの自宅スタジオに放置されていたカラー写真の作品群である。この時代の写真作品はモノクロームであることが普通だろう。表現と呼べる写真はつねにモノクロームだった。ところが、ソール・ライターはカラーフィルムの色彩を好んだようである。
 この時代のニューヨークをカラーで見ることができるのは、ハリウッドのテクニカラー作品以外にはほとんどないと思う。後代に生きる私たちにとってソール・ライターのカラー写真作品は、テクニカラーのハリウッド映画に連なるものである。赤い傘が、オレンジの帽子が、緑の青信号が、ねずみ色の残雪が、まっ黒な遮蔽物が、真っ白なワイシャツが、いずれも眩しい。目を喜ばせる。
 ソール・ライターは写真家であり、画家だった。日本美術に精通した彼の抽象画は、禅僧の描く山水と墨蹟であったり、ニコラ・ド・スタールの色彩の横溢であったり、ロラン・バルトが戯れに筆を走らせたざっかけない水彩のようであったりする。やはり、目を喜ばせる。


Bunkamura ザ・ミュージアムにて6/25(日)まで(以後、2018年春に伊丹市立美術館に巡回)
http://www.bunkamura.co.jp/
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『ザ・ダンサー』 ステファニー・ディ・ジュースト

2017-06-13 01:02:58 | 映画
 現在公開されている作品のなかで、個人的に非常に気に入っている作品がある。「キネマ旬報」の星取りレビューでも絶讃の短評を書いたのだが、あまり読まれていない可能性もあるので、ここでもう一回触れておきたい。フランスの女性監督ステファニー・ディ・ジューストの長編デビュー作『ザ・ダンサー』である。
 19世紀末、ベルエポックのパリで活躍した女性舞踏家ロイ・フラー(1862-1928)のことはじつはまったく知らなくて、映画で初めて知った次第だ。アメリカ中西部のフランス系移民の娘である彼女は、田舎でくすぶっていたが、父親の死をきっかけにニューヨークに出て、夢である舞台女優をめざす。芝居の幕間で余興で踊ってみせたところ、そこそこ喝采を浴びたことから、ダンサーに転身する。
 ロイ・フラーを演じたミュージシャン兼女優のソコが、非常に素晴らしい。通常、中性的という言葉はどちらかというと女性性を併せ持つ男性に使われるケースが多いが、ソコは逆で、ある種の男性的な顔貌も兼ね備えた女性である。それほど美貌に生まれついたわけではなかったロイ・フラーは、羽を広げた白鳥のような絹の衣裳と、強烈な照明効果を活用しつつ、肉体の酷使によってオリジナリティを見出す。ひとりのアーティストの半生記という意味では、いわゆる「芸道もの」というジャンルに属する映画である。しかしこれほどフィジカルの強調された「芸道もの」は、パウエル=プレスバーガーの『赤い靴』(1948)以来あっただろうか。「スポ根もの」のような「芸道もの」である。
 まだ時代はコルセットの時代だった。そこに彼女はみずからの肉体によってアール・ヌーヴォーを体現した。初期のシネマトグラフにも踊る彼女がいる。そういう端境にいる感覚が、この作品から伝わってくる。美と悲惨がない交ぜとなってゴロゴロと転がっていく世紀の始まりとは、こういう火のような舞いによって印をつけられた。絵画においてジャポニスムが興ったのと同様に、ロイ・フラーが川上音二郎一座を招聘して、パリで川上貞奴ブームを生み出したのは面白い。映画においても、ロイ・フラーの日本舞踊へのリスペクトの念は印象的だ。上写真は、ロートレックが彼女の舞踏公演を描いた絵である。
 最後にひとつ。本作のシナリオは監督のステファニー・ディ・ジューストとトマ・ビドガンの共同によるものである。ホワイ・ノット・プロダクションの制作担当だったトマ・ビドガンはやがて脚本にも着手するようになり、ベルトラン・ボネロの『サンローラン』(2014)も書いている。『サンローラン』は私の偏愛する作品であり、今回の『ザ・ダンサー』も含め、私はこのトマ・ビドガンというライターが好みのようである。


6/3(土)より新宿ピカデリー、シネスイッチ銀座、Bunkamuraル・シネマほか全国公開中
http://www.thedancer.jp
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『グレートウォール』 張芸謀

2017-05-07 05:38:43 | 映画
 結局のところ、張芸謀(チャン・イーモウ)をどう評価すべきなのか? もうひとつ映画作家としての輪郭がはっきりしてこないし、あまり積極的に評価したいとも思わない。しかしながら、文化大革命を描いた前作『妻への家路』(2014)における前半のクライマックスである主人公夫婦の密会シーン——密会場所である駅の連絡橋にむかう妻(コン・リー)、逃走中の思想犯である夫、夫を追う当局の捜査陣、バレエの主役の座欲しさに父を当局に売った娘の4者のめくるめくカットバック——の、何十カットにも増幅され、サスペンスが宙づりになったまま引き伸ばされていくこのシーンは、まるで映画が発明されて間もない時代の産物のごとく、いまだ私たちがグリフィスの時代、エイゼンシュテインの時代を生きているかのごとく蠢いていた。

 張芸謀の最新作『グレートウォール』は、マット・デイモンを招聘し、中国史上最高額の予算をかけたCGベースの史劇アクションとして見るなら、単につまらなさそうな空疎な超大作にすぎない。『ワールド・ウォーZ』の原作者マックス・ブルックスが、『グレートウォール』の原案スタッフに入っており、まさにこの2作は似たようなイメージに収まる。しかし上のような、無償の運動論的サスペンスとしてとらえた場合の張芸謀映画は、別の表情も見せてくれるかもしれない。
 万里の長城をめぐり、映画は2つの再考をうながす。1つめは長城建設の真の理由である。史実としては、北方民族の侵攻を防ぐためというものだ。しかしこの映画は、モンスターの侵攻を防ぐのが真の建設理由だと説く。ようするにこれは、単にモンスターパニックムービーなのである。
 2つめは長城の用途についてである。これがこの映画の最も素晴らしい部分だ。長城の屋上に無数の飛び込み台が設置され、体重の軽い女子部隊が命綱をつけ、バンジージャンプの要領で落下し、モンスターを長槍で退治してから命綱によって上方に退散する。ハアー!なるほど、万里の長城はこうやって戦争で活用されたわけか。長城とは、トランプ大統領が提唱する移民防止壁ではなかったのだ。ワイヤーアクションの元となる装置、上下運動をくり返しつつ敵を殺戮するための装置だったのだ。

 ところで、中国を代表する歴史大作に、日本の一映画評論家がいちゃもんをつけるのもナンであるが、宋王朝の軍人たちがモンスターのことを「饕餮(とうてつ)」と呼んでいたのが、非常に気になった。たしかに「饕餮」とは怪獣のことだ。私のような青銅器ファンにとっては、饕餮は鳳凰や爬虫類などと並んで、最も親しみのある文様である。殷から西周、東周、春秋戦国時代にかけて青銅器にあしらわれた饕餮文は不気味きわまりなく、紀元前の人々の美的感覚は途方もないとしか言いようがない。ただ、この世のあらゆるものを食い尽くす饕餮は、魔を喰らう、凶事を喰らう、いわば魔除けとしても描かれていたのである。
 日々の美術鑑賞の場において、私のような者はグロテスクなモンスターの図像である「饕餮文」を魔除けとして、ルーペで細部まで拝んで有り難がっている。だから今回の映画で、饕餮の名が取り沙汰されたことじたいをうれしく思う一方、残忍かつ野蛮な異民族(古くは匈奴や鮮卑、中世ではモンゴル族、満州族、19世紀ではイギリス、20世紀では日本のことだ)のアレゴリーと化したのは、非常に居心地悪かった。


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)ほか全国で上映
http://greatwall-movie.jp
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『ムーンライト』 バリー・ジェンキンス

2017-05-01 06:21:25 | 映画
 マイアミのリバティ・スクエアという麻薬・犯罪多発地区で撮影された、泥の中から芽が出る蓮の花のような、朦朧とした夜の美しい月をすくい取ろうとしている映画である。マイアミというと、『マイアミバイス』などの警察映画、アクション映画ばかりが思い浮かぶが、ニコラス・レイの密猟映画『エヴァグレイズを渡る風』(1958)なんていういかにもフィフティーズ的な傑作もある。いずれにせよ、明るい南国の陽光とは裏腹に、油断の許さない暗黒街のイメージがある。ロケーション期間中、スタッフ&キャストにはボディガードが付いた(とはいえ監督自身が地元出身のため、地区の住人はロケに危害を加えなかったそうだ)。
 薬物中毒の売春婦の息子シャロンは、リバティ・スクエアの子どもたちに絶えずいじめられている。シャロンを、小学生、高校生、成人期と3つのパートに描き分け、それを別々のアフリカ系アメリカ人俳優が演じている。面白いことに、その身体的特徴がはなはだしく異なり、別人にしか見えない。小学生のシャロンは小柄で「リトル」とあだ名されている。高校生のシャロンはひょろりと細長く、ゲイに目覚める。彼の孤立と鬱屈ぶりは、ヴィンセント・ミネリ『お茶と同情』(1956)のシスターボーイを思い出させる。そして、大人になったシャロンは筋肉質に肉体改造し、高級車のスピーカーでヒップホップを聴いている。
 『お茶と同情』では、シスターボーイを精神的に助ける舎監の妻をデボラ・カーが非常に印象的に演じていたが、この『ムーンライト』にも、似たような慈愛に満ちた年上の女性が登場する。テレサという、麻薬密売ボスの恋人である。このすてきなアフリカ系女性と主人公シャロンの擬似的な母子関係はずっと続くが、画面上からは前半だけでいなくなってしまう。私たち観客はもっとこのテレサという女性を見続けたいと思い、後半における彼女の不在を寂しく思う。父性の喪失、そして母性の稀薄は、主人公あるいは作者にとって、取り返しのつかない宿命としてあるのだろう。
 アトランタに転居したシャロンが久しぶりにマイアミに帰省して、高校時代の親友(じつは恋心を寄せていた)ケヴィンに会いに行く、夜のダイナーのシーンが出色である。ケヴィンはシャロンに最初は気づかない。ケヴィンは高校時代の裏切りをシャロンに詫びたものの、タフガイとなったシャロンの風貌変化にとまどいを隠せない。登場人物たちの記憶と体験はしっかりとした紐帯で留まっているものの、じっさいのところ3つの時代はもはや別々の作品と言ってよく、撮影手法も色調もまったく異なる。シャロンと母親、シャロンとケヴィンの再会を、ヨリの切り返しで見せていく第3パートは、堂々たるメロドラマへと傾斜し、私たち観客を揺さぶるだろう。


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)ほか全国で公開
http://moonlight-movie.jp
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庭劇団ペニノ『ダークマスター』

2017-02-12 10:20:04 | 演劇
 タニノクロウ主宰の庭劇団ペニノの新作は、『ダークマスター』(こまばアゴラ劇場)で、これは2003年に下北沢駅前劇場、2006年にこまばアゴラ劇場で上演された戯曲の再々演である。3度目となる今回は大阪の場末を舞台にして大幅に改訂されたものである。改訂されたとはいえ、ペニノ旗揚げ3年後に初演された作品ということで、これまで何本も見てきたタニノクロウの演劇作品のなかで最もオーソドックスに小劇場的な、いわゆるお芝居だった。
 腕は一流だが、客あしらいの悪さとアルコール依存症のために、客足がぱたりと途絶えた洋食屋のワンセットドラマである。偶然店にやって来た東京のバックパッカーが、「自分捜し」ついでに、成り行き上この店の見習いとなる。料理未経験の若者の耳に超小型のWiFiイヤホンが装着され、店の主人の指令どおりに料理する。店のありとあらゆる場所にミニカメラが仕掛けられ、上階に閉じこもった主人は的確に指令を出し、若者のつくる洋食はSNSやグルメ評価サイトで好評を得て、あっという間に行列店になってしまう。
 大阪弁の荒っぽい主人と、東京から来たナイーヴな若造の、奇妙な友情と成功をニヒリスティックに描いた喜劇かと思いきや、どうやらそうでもないらしい。若造の耳にイヤホンを入れた次の瞬間から主人は上階に引きこもってまったく姿を現さなくなり、ただ単に指令の声だけの存在となる。それも徐々に若造の腕前が上がるにつれて聞こえなくなっていき、芝居の序盤では主人公とも思われたはずの店の主人は、存在しているのかどうかさえ分からなくなる。
 リモートコントロールによる指令、実体のない司令塔、知らぬ間に群衆を寄せつけるプロモーションなど、ある種ドクトル・マブゼ的、洗脳主義的なドラマが薄気味悪く展開していく。若造の料理パフォーマンスは客たちによってスマホで撮影され、YouTubeなどで世界中に流布される。こんな分かりやすいタニノ演劇があるとは。初期らしい作風なのかもしれない。近年のタニノ演劇はもっと不可解で謎めいていた。おととしの東京芸術劇場アトリエイースト・リハーサルルームにおける『タニノとドワーフ達によるカントールに捧げるオマージュ』などはその極北であった。だから、今回の『ダークマスター』は最新の上演なのに、すこし懐かしい、アナクロの感触がある。
 後半に登場する、札束攻勢で店を翻弄するバブル的な中国人客と、店の若造との確執は、あまりにも分かりやすい比喩的表現に落ち着いていて、疑問に思えた。劇を通じて会場内に笑いが絶えず、その点では成功作ということになるのかもしれない。しかしながら、この大阪的笑いに落ち着いている点に、私は物足りなさも感じた。喜劇ではダメだと言うのではない。しかしもっと挑発的であってほしい。


こまばアゴラ劇場(東京・駒場東大前)できょうマチネで終演
http://niwagekidan.org
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『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』 三木孝浩

2017-01-16 10:51:57 | 映画
*本記事はネタバレを含んでいます。未見の方はご注意ください

 ぼくはあす/きのうのきみと/デートする。五七五の小気味いいリズムを刻んでいる。それは叡山電車の走行リズムであり、溺れた5歳のぼくをどこかの彼女が救ってくれた記憶である。京都の美大生である20歳の主人公の福士蒼汰が、叡山電車の車内で同じく20歳の小松菜奈に出会って、恋に落ちる。すぐに恋人同士となるが、じつは小松菜奈は、時間が逆回転しているパラレル世界から、父母と共にこの世に移転してきたのだという。だから、5歳の時に宝ヶ池で溺れた彼を救ったのは、35歳の時の彼女であり、彼が10歳の時にもう一度家の近くに訪ねてきてくれて一緒にたこ焼きを食べたのは、30歳の時の彼女だ。その見返りとして、福士蒼汰は35歳の時に、まだ5歳の彼女を爆発事故から救うことになるだろう。
 そう考えると、シナリオとしては合点がいく。タイム・パラドックスと青春恋愛譚のマリアージュが、映画興行の黄金比率であることは、『君の名は。』を見れば明らかである。さらに、かつては京都の市電だったという叡山電車の走行が、このセンチメンタルな映画の画面に、ある一定の楽天的リズムを刻みつけている。
 しかし、何かが間違っているのではないか。福士蒼汰と小松菜奈が苦しむのは、時間の逆行のためではない。午前0時をまわるとおたがいの時空間がリセットし、逆方向に一日を重ねるという具合である。ところが、白昼を三条か祇園あたりでデートで過ごすなり、美大のアトリエで彼女をモデルに肖像画を描くなり、下宿でセックスするなりして過ごす分には、彼らはたがいに順行しているわけである。これはじつにご都合主義的だ。時間を逆行するカップルの悲恋を本気で描くなら、一瞬一瞬を共に過ごす2人の男女が、毎秒毎秒逆方向にすれ違っていく物語でなければならない。福士蒼汰にとっての順行は、小松菜奈にとってはつねに逆行なのでなければならないのではないか。
 欺瞞とまでは言わないが、カラオケに行った場合、サビをデュエットできるというのは、都合が良すぎる。彼らにとって音楽はつねに、ビートルズ後期のような、逆回転したテープの流れのようでなければならないはずである。上ったり下ったりする階段を描かずに、踊り場だけを描くことによって、メロドラマを成立させようとしているのは分かる。でも、それで観客を納得させることができるのだろうか。


TOHOシネマズスカラ座ほか全国で上映中
http://www.bokuasu-movie.com
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『家族の肖像』 ルキーノ・ヴィスコンティ

2017-01-09 03:27:06 | 映画
 私事で恐縮だが、私が初めて見たヴィスコンティ映画は、『家族の肖像』(1974)である。日本公開は何年も経ってからやっと実現し、これをきっかけに70年代末から80年代初頭に一大ヴィスコンティ・ブームが起きる。私は同作の日本公開時、中学1年生で、ヨーロッパへのあこがれを最も体現してくれたのが、ヴィスコンティとタルコフスキーだった。ゴダールとトリュフォーへの耽溺はその少し後のことになる。劇中かかる挿入歌(朗々たるカンツォーネ風歌謡)は、当時NHK-FMで毎週土曜の夕方に放送していた『関光夫の夜のスクリーンミュージック』という映画音楽専門番組で録音して、愛聴した。中学時代も今もそういう意味ではあまり変わらないし、成長も正直言って、ない。
 当時見た印象としては、貴族的かつ孤独な暮らしを満喫するバート・ランカスターが、騒々しい間借り人一派によって平和を乱され、追いつめられるストーリーとしてのみ認識した(心理的パニック映画としてのみ見ようとした)。しかし、先日試写で再公開用のニュープリントを拝見して、あらためて感じ入ったのは、ランカスターの暮らしを攪乱する側にも、彼らなりの思いや鬱屈があり、彼らの首領である傍若無人な貴婦人のシルヴァーナ・マンガーノにも、彼女なりの考えがあることである。これは当時の自分には分からなかった。ヴィスコンティの中にあって必ずしも評価が高くない作品だが、なかなかどうして滋味溢れる、そして絢爛たる作品である。
 バート・ランカスターの白日夢の中に登場する美しき母親を、ドミニク・サンダが演じている。ここでは、息を飲むほどの美貌絶頂期のドミニク・サンダが見られる。ヴィスコンティは彼女の美を一滴もこぼすことなく、写し取る。さすがは美の耽溺については追随者のいないヴィスコンティだ。
 1年ほど前に公開された、ベルトラン・ボネロの『サンローラン』では、イヴ・サンローランの老後をヘルムート・バーガーが演じ、サンローランの母親をドミニク・サンダが演じている。以前に拙ブログでこれについて間違いを犯した。『家族の肖像』『サンローラン』共にバーガーとサンダが母子を演じた、と書いてしまったことがあったが、『家族の肖像』においては実際にはサンダはランカスターの母親である。ヘルムート・バーガーは騒々しい間借り人一派のひとりである。ただし、そうした異同はともかく、『サンローラン』にはヴィスコンティの影が色濃く揺らめいているのはまちがいない。


2/11(土・祝)より岩波ホール(東京・神田神保町)ほか全国順次公開予定
http://www.zaziefilms.com/kazokunoshozo/
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『はるねこ』トークショーのお知らせ

2017-01-04 13:41:39 | 映画
つい先ほど決まったことをフライングで告知させていただきます。渋谷ユーロスペースでの『はるねこ』トークショーで、青山真治氏(同作P)と共に登壇することになりました。1/10(火)19:00の回上映後です。なお、火曜はサービスデーにつき1100円均一とお得です。ぜひご来場下さい。
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あけましておめでとうございます

2017-01-01 11:01:21 | 記録・連絡・消息
新年あけましておめでとうございます。

昨年は多忙の折、記事更新の回数が減少しましたが、今年は更新回数の回復に努めて参りたいと思います。
拙ブログのほか、雑誌「NOBODY」連載『衆人皆酔、我独醒(衆人みな酔ひ、我ひとり醒めたり)』、「キネマ旬報」の星取りレビュー、WEB「リアルサウンド映画部」、「boidマガジン」等に文章を寄せております。また、私が2014年まで非常勤講師をつとめた横浜国立大学の大学院生を中心に若い方が創刊したばかりの文芸同人誌「文鯨」の第2号にも寄稿しました。近日発売予定です。

本年もよろしくお願い致します。

2017年元旦
荻野洋一
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スーザン・ソンタグ 著『イン・アメリカ』

2017-01-01 01:43:31 | 
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、全米の劇壇で活躍したシェイクスピア悲劇の伝説的な女優ヘレナ・モジェスカ(1840-1909)の生涯にインスピレーションを受け、モジェスカと同じポーランドに一族の出自をもつスーザン・ソンタグが小説にしている(邦訳 河出書房新社)。
 1861年、ポーランドで劇壇デビューして以来、母国ポーランドの劇作家による戯曲はもちろん、ドイツ語、フランス語、英語を駆使し、あっという間に地元のクラクフとワルシャワでトップ女優に上りつめたが、ワルシャワ帝国劇場の終身契約をあっさり破棄し、1876年、アメリカへの移民を決意する。当初は、天候のいいカリフォルニア州アナハイムで、夫のフワポフスキ伯爵と共にワイン農場の経営にがんばるが、貴族経営の限界で、すぐに失敗。翌1877年、みずからの宿命にもはや観念したのか、西部第一との誉れ高いサンフランシスコのカリフォルニア劇場で、エルネスト・ルグヴェのフランス悲劇『アドリエンヌ・ルクヴレール』で主演デビュー。たちまち全米一の女優となり、シェイクスピア、イプセンなどを演じつづける。
 ソンタグは彼女の生涯を換骨奪胎し、一篇の大ロマネスクに仕上げることに成功している。史実とフィクションを上手に混ぜ合わせ、と同時に、のちに『クォ・ヴァディス』(1895年刊)で世界的文豪に上りつめ、その10年後にノーベル文学賞を受賞することになるヘンリク・シェンキェヴィチを、リシャルト(米国名ではリチャード)の仮名で捏造的に登場させ、ヒロインに恋する年下のツバメをやらせている。このロマネスク的捏造によって生み出されるパッションを、元来は批評家肌のソンタグが体得しているというのは、驚くべきことだ。ユージーン・オニールによってアメリカ近代演劇が始動する前夜の、まどろみのような劇壇における生き生きとした、一女優の冒険と苦闘が、まさに小説そのものとして浮かび上がる。
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『リトル・メン』 アイラ・サックス @東京国際映画祭

2016-12-10 11:42:01 | 映画
 『人生は小説よりも奇なり』のアイラ・サックスの新作『リトル・メン』が、東京国際映画祭の新設部門〈ユース〉で上映され、それから一ヶ月以上寝かせておいたのだけれど、やはりあれは素晴らしい作品だという意見は変わらない。こういう言い方は選別的で気が引けるが、映画をある程度数をこなして、きちんとした筋目に沿って見てきた人間だけに分かる良さなのである。
 パパ-ママ-ボクの一家が、パパの父、つまり祖父の死をきっかけに、マンハッタンの狭いアパートから、ブルックリンの商店街に転居する。そこで店子に入っている婦人服ブティックの母子と出会う。子ども同士は馬が合って親友となるが、親同士は家賃の値上げ問題がネックになって対立していく。
 イギリスの左派高級紙「ザ・ガーディアン」9月20日付けに掲載されたアイラ・サックスの独占インタビュー記事では堂々と「私はマルクス主義のパースペクティヴによって映画を撮る」と宣言し、その文言が見出しにまでなっている。同紙のレビューアー、ピーター・ブラッドショウは『リトル・メン』に5つ星だ。
 痛ましさと祝福がない交ぜとなった傑作『人生は小説よりも奇なり』の最も痛ましいシーンは、ゲイの主人公が恋人との生活を切り上げざるを得なくなり、親類の家に厄介になるなかで、甥の問題を、結果的にはちくったような格好となってしまう一連である。高邁な精神をもつはずの彼は、自分が密告者の不名誉をもってこの世を歩くことはできない。反故にされた約束、会おうという掛け声ばかりの空約束、約束もない冷たい状態、約束そのものを拒む厳しい状態。映画のリズムと人生の上昇・下降をたくみに同調させるアイラ・サックスの、アメリカ的としか言い様がない手綱さばきに舌を巻く。
 逆に『人生は小説よりも奇なり』の最も美しいシーンについて、ある年上の女性とたっぷりと話し合ったことがある。マンハッタンでオペラを見たゲイカップルの二人が、行きつけでないバーで店の者から少し不愉快な扱いを受けつつ、今見た演者の過剰さについてたがいに慣れた感じで討論し、でもそれはギスギスした口論とはならず、あの感動的な、あまりにも愛おしい地下鉄へ降りていく階段前で「おやすみ」を言うシーンへと繋がっていく。『リトル・メン』には、あれに匹敵するシーンはないかもしれない。いや、これ見よがしに良いシーンを設置するのではなく、アイラ・サックスは自分や仲間にこう諭したのかもしれない。「もっと沈潜してみよう、もっと深くに埋めてみよう」と。


東京国際映画祭2016〈ユース〉部門にて上映
http://2016.tiff-jp.net/
*写真は映画祭事務局に掲載許諾を得て使用しています
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『アメリカから来たモーリス』 チャド・ハーティガン @東京国際映画祭

2016-11-26 10:45:11 | 映画
 ドイツ在住のアメリカ人父子(アフリカ系)の生活をぼつりぼつりと語る。ドイツにおける黒人というと、ファスビンダー映画の初期を飾った黒人俳優ギュンター・カウフマンを即座に思い出してしまう。しかしそれもあながち的外れでもなく、21世紀になった現在にあっても人種差別の根は張っており、本作の舞台となる大学都市ハイデルベルクではそれが顕著であることが窺われる。どこまでリアルな描写かはいざ知らず、本作における中学生たちの蒙昧な黒人差別はヘドが出るほど無邪気なレベルである。ヨーロッパでさえ、まだこんな蒙昧さに留まっているのだ。マックス・ヴェーバー、ルカーチ、エーリッヒ・フロム、ハンナ・アーレントが若き日に学びを得たこの大学都市であってさえそうなのかと、暗澹とせざるを得ない。
 しかし、この映画の主人公である13才の黒人少年モーリス(マーキーズ・クリスマス)がひたすら鬱屈し、内向していくのは、町の人の差別によってではない。誰かと仲良くしなければいけないことへの鬱屈であり、アメリカ黒人ならバスケットボールが上手いはずだという紋切り型の期待への嫌悪であり、レイヴパーティの脳天気なEDMでぴょんぴょん跳ねて浮かれるドイツの若者に対する、ラッパーとしての圧倒的な優越意識ゆえなのである。実のところモーリスは人種差別に対し、美的感性レベルの差別で復讐している。本作の原題は「Morris from America」という、アルバムタイトルのようなフレーズだが、じっさいにはそんなクールなものではない。モーリスのラッパーとしての道は、結局この映画の中では成功までは達せず、その端緒についたにすぎないように思える。
 見知らぬ土地であるフランクフルトで迷子になったモーリスを、父親(クレイグ・ロビンソン)が車で迎えに行くラストが、じつに素晴らしい。父親が留守にしていたのは、保守的なハイデルベルクを出て、より自由なベルリンに職を求めるためである。父はモーリスに対し、お前が少年時代にハイデルベルクで孤立し、侮辱されているという経験は、将来お前がアーティストとして身を立てるための重要なアドバンテージになるだろうと慰める。そして、父がなぜアメリカからドイツに来たのかを説明しはじめる。ドイツ美術史を学ぶため留学中のミュンヘン大学から夏休みにアメリカへ里帰りしたお前の母さんに私は恋をし、彼女にまた会いたい一心で、お金もないのにドイツに渡ったのだという説明である。
 若くして逝き、今はもうこの世の人ではない、おそらく素晴らしい優しさと知性と美貌の持ち主だったらしい黒人女性への思慕を吐露する孤独な中年男と、迷子になった息子の、車中におけるカットバック。その慎ましく簡素なカットバックのあまりの美しさによって、独米合作であるこの映画が、やはりアメリカ映画の側に属するということに、思いを致さずにいられない。


東京国際映画祭2016〈ユース〉部門にて上映
http://2016.tiff-jp.net/
*写真は映画祭事務局に掲載許諾を得て使用しています
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『戦火の馬』 ナショナル・シアター・ライヴ2016

2016-11-15 01:52:24 | 演劇
 ロンドン・サウスバンクのロイヤル・ナショナル・シアターが2007年に初演し、ロングランとなった舞台『戦火の馬(War Horse)』が、イギリス演劇の上演ライヴを世界中の映画館で紹介するシリーズ〈National Theatre Live 2016〉に含まれて、TOHOシネマズ8会場で上映中である。公演に感銘を受けたスティーヴン・スピルバーグが2011年に映画化したことは周知。今回上映されたのは、2014年にロンドン・ウェストエンドのニュー・ロンドン・シアターで上演された際の実況録画である。
 なんといっても本公演の最も大きな特長は、南ア・ケープタウンを本拠とするあやつり人形劇団ハンドスプリング・パペット・カンパニーによる等身大の馬のパペットである。スピルバーグによる映画版は本物の馬とCGの組み合わせで乗りきっていて、その判断も当然のことではある。しかしながら、こうして元となった演劇版のパペットによる見事としか言いようのない形態模写、擬声によるいななきや息遣いなどが、この作品の太い生命線であることに気づかざるを得ず、スピルバーグ版もいい映画ではあったけれども、パペットによる独創性とたぐいまれな詩情を捨ててリアリティの追求に引っ張られたのはしかたのないことだ。
 あらゆる動き、音の醸す馬の生命感。ギャロップするときは、3人のパペット遣いも馬と一体化してギャロップしている。首、前足、後ろ足の3人の係が主人公の馬ジョーイを担当する。その他、ジョーイを手塩にかけて育てる農家の飼うアヒルもパペットでコミカルさを出し、後半にはなんと戦車さえもがパペット化されていた。
 ジョーイの首(かしら)を担当したパペット遣いは、厩舎の調教師のような衣裳に身を包み、姿が観客にさらされている。それは決して透明な存在ではなく、あたかもジョーイの意志と一体化し、命を吹き込む守護神のごとく振るまい続ける。まるで日本の文楽における「主遣い(おもづかい)」のようだった。


TOHOシネマズ日本橋ほか、全国8箇所のTOHOシネマズで限定公開
http://www.ntlive.jp/warhorse.html
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『あなた自身とあなたのこと』 ホン・サンス @東京国際映画祭

2016-10-31 01:38:35 | 映画
 本作が先月のサン・セバスティアン映画祭(スペイン)に出品されて監督賞を受賞したちょうど同時期に、私はサン・セバスティアンにいて、でもそれは仕事のためだったので映画なんて見る時間はなく、会場にできたシネフィルどもの行列を指をくわえて眺めるばかりであったが、幸いこうして東京でホン・サンスの新作『あなた自身とあなたのこと』を見ることができた。
 ちょっとコケティッシュな女性主人公ミンジョン(イ・ユヨン)が、飲酒の制限うんぬんをめぐって彼氏(キム・ジュヒョク)とつまらないけんかをし、あえなく別居となる。画家らしい彼氏はひたすら未練の彷徨に酔い、ミンジョンは中年男たちとの飲酒に酔う。意識的にか無意識的にかは知らないが、ミンジョンは酒を飲むたびに他人になっていき、旧知の人物からの呼びかけや問いかけに別人として応答する。どこからどう見ても本人なのに(スネのアザはおそらくホン・サンスが付けさせたものだろう)、シラジラしく次から次へと他人になりすます。
 解離性同一性障害ということもありうる。多量のアルコール摂取によって、本当に彼女の脳をそうさせているのかもしれない。しかし映画は、そうした臨床的な黒い穴を回避して、飲酒滑稽譚にどうしても留まろうとしている。ミンジョンは、ゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』(1990)における「lui(彼)」つまりアラン・ドロンのようなものだろう。この映画を見終えたあと、陶淵明でも李白でもいいが、飲酒を人生の最上のものと位置づけた詩人たちとの精神の交わりを無手勝流に抱きながら、飲みたいところである(じっさいには仕事場に急いで戻っただけですが)。ホン・サンスの心身の健康が続いてほしいと思う(本作を見て、ちょっとばかり気がかりとなったが、それは杞憂だろう)。記念として陶淵明(紀元365-427)の飲酒詩でもコピペしておこう。

秋菊有佳色 by 陶淵明

秋菊有佳色   秋菊 佳色あり
衷露採其英   露をあびて そのはなぶさを採り
汎此忘憂物   この忘憂のものになべて
遠我遺世情   わが世にのこるる情を 遠くす
一觴雖獨進   一觴(いっしょう)ひとり 進むといえども
杯盡壺自傾   杯つきて 壺みずから傾く
日入群動息   日入りて 群動やみ
歸鳥趨林鳴   帰鳥 林におもむきて 鳴く
嘯傲東軒下   嘯傲(しょうごう)す 東軒の下
聊復得此生   いささかまた この生を得たり

【意味】秋の菊がきれいに色づいているので、露にぬれながら花びらをつみ、この忘憂の物に汎べて、世の中のことなど忘れてしまう。ひとりで杯を重ねるうちに、壺は空になってしまった。日が沈んであたりが静かになり、鳥どもは鳴きながらねぐらに向かう。自分も軒下にたって放吟すれば、すっかり生き返った気持ちになるのだ。
(注)下から2行目の「嘯傲(しょうごう)」とは、「うそぶいて自由な気持ちになること、世間を超越したさま」を意味する。



東京国際映画祭 ワールドフォーカス部門にて上映
http://2016.tiff-jp.net/ja/
*写真は映画祭事務局に掲載許諾を得て使用しています
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