荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

『レヴェナント 蘇えりし者』 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

2016-05-26 03:53:03 | 映画
 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ作品はご多分に洩れず、留保つきの微笑みと共に迎えるといった案配だった。どうもこの人はあれもこれもとやり過ぎで、引き算をする勇気がないように思える。しかし、時には過剰の只中にまみれてみたいという欲望もまた、人に活気を与える。
 昨春に『バードマン』のレビューを書いた際、エマニュエル・ルベツキ(正確なスペイン語表記はエマヌエル・ルベスキ)のグリグリと駆けずり回る超絶技巧のカメラワークが映画賞を総なめするのは腑に落ちない、と書いたが、もう降参である。現代はスピルバーグの時代でもキャメロンの時代でもない。ルベスキの時代である。『赤い薔薇ソースの伝説』(1992)が東京国際映画祭で上映されたのが、このメキシコ人撮影監督が日本に紹介された最初だと思うが、最近5年間を見ると、テレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』『トゥ・ザ・ワンダー』の2本、アルフォンソ・キュアロン『ゼロ・グラビティ』、そしてイニャリトゥ『バードマン』『レヴェナント』の撮影をやっており、これは天下人と同義であろう。
 アメリカ開拓時代初期、毛皮猟師団のガイドをつとめるヒュー・グラスという実在の人物が、死の淵から蘇り、息子を殺した猟師仲間を追跡する物語である。設定だけ見れば、完全に西部劇だが、本作には西部劇たろうという意志はまったくない。合衆国の南のメキシコ人イニャリトゥから見れば、これは「北部劇」である。復讐が主人公ヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)の道行きのモチベーションになっているけれども、むしろ映画に活気を与えるのは、熊との格闘、吹雪、怪我、疲労といった、自然界が主人公に与える試練のスペクタクルである。この画面がもたらす興奮はドーピング違反と言いたくなるほどで、ここまでやれば、私は文句を言うのをやめたい。

 明確に述べるほど整理できていないので、ただ触れるに留める件があって、それは北米インディアン(先住アメリカン)の神話性を、主人公ヒュー・グラスがかなりなぞっているように思えることだ。いま読んでいる本のひとつに、最近邦訳が出たばかりのクロード・レヴィ=ストロース著『大山猫の物語』(みすず書房 刊)という本があって、大怪我をして血膿だらけの男が動物の毛皮をかぶって化ける、というエピソードが、アメリカ大陸各部族に伝わる神話の中で縦断的に変奏されていると論じている。
 ヒュー・グラスは映画の中で2度、毛皮をかぶる。最初はみずから倒した熊の毛皮。2度目は、崖から落下死した馬の体内で一夜を過ごすため。そして彼は生傷と血膿だらけの身体である。さらにレヴィ=ストロースは書く。「毎日毎日、女には、骨のかけらを包んでおいたシカの皮からかすかな物音がするのが聞こえる。やがてとうとうそこから痛めつけられ傷だらけのオオヤマネコが姿を現わす。何度かの蒸気浴のおかげで回復する(下線筆者)。コヨーテはそのことを確かめにやってくる。無人となった村でオオヤマネコに出逢ったコヨーテは、自分の無実を主張して罪をクマになすりつけ、復讐するように勧めて、援助を申し出る。」
 傷だらけのオオヤマネコは蒸気浴を使うように、ディカプリオも、一人旅のインディアンによって蒸気浴治療を受けていた。オオヤマネコを陥れようとするコヨーテはさしずめ、本作の悪役フィッツジェラルドだろうか。ディカプリオが瀕死の重傷をきっかけに、森の動物へとメタモルフォーズしていくプロセス。そこにはレヴィ=ストロースによって記述されたモチーフが反響しているように、少し思っただけである。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町)ほか全国で上映中
http://www.foxmovies-jp.com/revenant/

 
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『山河ノスタルジア』 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)

2016-05-22 10:52:52 | 映画
 映画は、1999年の山西省の地方都市(汾陽市)から始まり、第2章では2014年の汾陽、さらに最後の第3章では2025年のオーストラリア・メルボルン郊外、というふうに舞台を変えていく。始めは「今どき珍しいスタンダードサイズの画面か」と、映画作家の古典的なこだわりに興味を持った。しかし次の章で現代に近づくと、画面はヴィスタサイズに切り替わり、未来である2025年でワイドスクリーンが採用されるに至って、これは映画としての拘泥というより、時代性の説明なのかと、少しばかり落胆した。反比例するように、人物たちの手元で操作されるタブレットの小画面が、重要性を帯びていく。
 しかし、『長江哀歌』や『四川のうた』『罪の手ざわり』といった近作と同様、風景に対する作者の圧倒的な信頼ゆえだろう、スクリーンサイズによる質的変化は、不思議なほどに起こっていない。いや、むしろ人間の孤立感に対する視線が後半になるにしたがって、いっそう深みを増していった。最初の章は3人が同じフレームに入ることの不快さが強調され、第2章では母と子が過ごす限定的な時間が無念の色を濃くしていく。最後には成長した息子と母親世代の香港人女性(ジョニー・トー『華麗上班族』に続いて、半年のあいだに2度もシルヴィア・チャンを見られた!)との交流は描かれるものの、人物は相対的に退き、風景の一部に同化したように見える。特に、オーストラリアにおいて英語で育ったため中国語を忘れ、あまつさえ母親の記憶も名前もあやふやになっている大学生の息子が、なんとも不憫である。
 彼ら1999年世代の、失敗したと言っていいだろう人生が容赦なく明らかとなるが、傷の舐め合いもなければ、言い訳もない。ここに登場する人物たちのすべてに、私は共感した。彼らの佇まい、彼らの青春の輝きだけでなく、彼らの愚かさ、誤った人生選択さえもが美しい。
 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の故郷でもある山西省汾陽では、冬場は黄河の水も凍結してしまう。恋のライバルを爆殺しようと用意したダイナマイトでさえ、凍結した黄河の前では「ポコン」という滑稽な音を立てて雲散霧消する小爆発に過ぎない。賈樟柯映画でしょっちゅう見ることのできる爆竹や打ち上げ花火の乾ききった、滑稽な爆発音に、今回はダイナマイトまでが加わった格好だが、そこにはなんら本質的な違いはない。お大尽に出世しようと、一炭坑夫に終わろうと、化け物じみた黄河の水の前では、塵芥にも満たない。でもそれでいいのである。
 ひとつだけ言いたいのは、汾陽の塔(グーグルで調べたかぎりは、おそらく明末に建てられた「汾陽文峰塔」だと思う)へ雪の中、犬を連れてくる趙濤(チャオ・タオ)のフルショットがあまりにも美しいこと、そして彼女の最後の姿を、10年あまり会っていない息子への思慕であるとか、母性愛であるとか、因果応報であるとかに単一的に還元すべきではない、ということである。彼女はたしかに恋人を裏切って一緒になった夫と離婚し、親権も失い、オーストラリアに移住した息子と縁遠くなってしまった。しかし、彼女は彼女の人生を主体性をもって選択している。犬を連れた趙濤の雪の中の姿を、ただそれじたいとして受容しなければならない。そのことを、あのラストの、再び大音量を取りもどすペット・ショップ・ボーイズ『ゴー・ウェスト』の陳腐なビートが、全面肯定していたのではないだろうか?


Bunkamuraル・シネマ(東京・渋谷)ほか全国順次公開
http://bitters.co.jp/sanga/
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『ヘイル、シーザー!』 コーエン兄弟

2016-05-17 03:00:17 | 映画
 作品そのものが映画として輝いているどうかはあやしい気もするが、映画のあれやこれやをぶちまけたドタバタ喜劇になっている。映画ファンのひとりとして、このバラエティ豊かな一篇を大いに楽しませてもらった。それにしても、カウボーイのロープ芸による円形など形態的な拘泥が目を引く点は、やはりコーエン兄弟らしい。
 1950年代、「キャピトル・ピクチャーズ」なる架空の映画撮影所では、史劇スペクタクル、水兵によるアクロバティックなミュージカル、ドイツ系らしき監督によるセックスウォー・コメディなどが、同時並行で進められている。これら撮影中の作品を見ると、もはや全盛期を過ぎ、陰りを帯びたスタジオシステムの只中にあることを、映画ファンならただちに了解するだろう。特にジョージ・クルーニーを主演に、莫大な費用で撮影されているらしい史劇スペクタクルあたりは、ハリウッドの挽歌の匂いが濃厚に漂っている。
 ジョージ・クルーニーを誘拐する共産主義者のシナリオライター・グループ(レッドパージで地位を追われた書き手たちであろう)に混じって、ヘルベルト・マルクーゼ(ジョン・ブルータル)がスターの前ではにかんだりしている。海辺の別荘で人質の監禁のような研究セミナーのような数日間である。
 くわえ煙草の女性編集者(フランセス・マクドナルド)のスカーフがラッシュフィルムの編集機に巻き込まれて、編集者の首が絞まってしまうとか、トラブル処理に追われるプロデューサーの主人公(ジョシュ・ブローリン)に中華料理店で、ロッキード社のスカウトマン(イアン・ブラックマン)が映画を侮辱しつつビキニ環礁の水爆実験の写真を見せるとか、ナンセンスでヘンテコなシーンが、何度も何度も積み重なっていくのがいい。この作品はどうやら、ひたすら無責任に楽しむようにできているようだ。


TOHOシネマズシャンテほか全国で公開中
http://hailcaesar.jp
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『花、香る歌』 イ・ジェヨン

2016-05-11 07:25:34 | 映画
 李氏朝鮮末期に実在したという史上初の女性パンソリ歌手の生涯を描いた『花、香る歌』を、新宿シネマートで見る。原題がいい。『桃李花歌』といって、これはヒロインに厳しい指導をほどこしたパンソリの師匠が、最後の共演時にヒロインに捧げた言葉であり、歌である。桃も李(すもも)も春の花で、パンソリの代表曲『春香歌』からの連想が、師弟愛に応じて広がったものである。
 ヒロインのパンソリ見習い女性を演じるペ・スジは、アイドルグループ「Miss A」のメンバーで、長い期間をかけてパンソリの発声特訓を受けたのちに撮影に臨んだとのこと。愛くるしい顔と、堂に入った大声が素晴らしかった。ただし、彼女のクライマックスたる大舞台での歌唱シーンとなると、いつもオーケストラによるメロディアスな劇伴が被さってしまう。これは非常なる興ざめである。もしかすると、本場韓国の識者が聴けば、彼女のパンソリ発声は、特訓むなしく素のままでは聴けたものではない、という冷徹な判断があったのかも知れない。
 そして、芸道ものとしても、たとえばイム・グォンテク(林権澤)監督による、あのワンカットワンカットの一瞬一瞬が素晴らしかった『風の丘を越えて/西便制(ソビョンジェ)』(1993)あたりに比べると、だいぶウスクチである。日本でも韓国でもアメリカでもヨーロッパでも、演劇と映画のさかんな国では決まって「芸道もの」というジャンルがあって、たとえばジョージ・キューカー『スタア誕生』(1954)にしろ、溝口健二『残菊物語』(1939)にしろ、千葉泰樹『生きている画像』(1948)にしろ、ジャック・ベッケル『モンパルナスの灯』(1958)にしろ、ジャン・ルノワール『黄金の馬車』(1953)にしろ、そして上述のイム・グォンテク『風の丘を越えて/西便制』あるいは『酔画仙』(2002)にしろ、その酷薄さたるや、正視に耐えぬほどすさまじいものがある。
 ところが、この『花、香る歌』はその点ぬるい。しかしさもありなん、皆が皆『残菊物語』だったら、こっちの身が持たない。芸の厳しさ、その果てにある孤高の歓びも描かれるばかりでなく、今作はペ・スジの清新さも強調せねばならない。
 本作公式HP(URLは下記)によれば、ヒロインと師匠(リュ・スンリョン)の進路に立ちふさがる宮廷の重鎮、興宣大院君(キム・ナムギル)は、朝鮮王朝第26代王・高宗の実父で、日韓近代史の重大問題のひとつ「閔妃暗殺事件」(1895)の首謀者として名が挙がる人物。本作ではこの興宣大院君の失脚は描かれても、(いわば息子の妻である)閔妃の暗殺までは描かない。本作があくまでパンソリの芸事に身を捧げた集団の物語として、話を広げなかったのだろう。
 映画のクライマックスで、宮廷の池に舟を浮かべて、そこでパンソリが演奏されるシーンがある。この情景の素晴らしさは出色だった。韓流ブームの一時代を築いたペ・ヨンジュン主演の『スキャンダル』(2003)という作品があって、ド・ラクロの『危険な関係』を朝鮮の両班(ヤンバン)階級に置き換えたもので、これが意外にいい作品だったのだが、じつは今作『花、香る歌』の監督イ・ジェヨンは、『スキャンダル』の監督である。『スキャンダル』でも両班の庭園内の池に舟を浮かべ、舟上の歌い手が非常に風流な歌を歌っていた。あれは庶民の哀歓を叫ぶパンソリよりももっと上流向けの雅歌だったかと思われる。イ・ジェヨンは自身のフィルモグラフィで2度も、水に浮かべた舟から女声を響かせたことになる。あの『スキャンダル』の歌声は素晴らしかったが、当方素人であるがゆえに、あれがどういうジャンルの音楽だったのか、分かりかねるのが残念でならない。


新宿シネマート(伊勢丹前)ほか、全国で順次公開
http://hanauta-movie.jp
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『SHARING』 篠崎誠

2016-05-08 04:57:03 | 映画
 これまで見た篠崎誠の作品の中で、間違いなく最高の作品だと思った。そして、本作を見ながら猛烈な怒りを覚えた。怒りの対象は、大震災以降の5年間の私たちに起こったことのすべて、そして図らずもそれを等閑視した自分自身である。『SHARING』は私たち受け手の心理をもサーチする。
 本作HP(URLは下記)に掲載された識者コメント欄に、精神科医・斎藤環さんの次のような一節があった。「私たちが生きるのは『震災後の世界』ではない。私たちは震災と震災との間、すなわち「災間」に生きる」。この映画のメインモチーフとして登場する「予知夢」は、「あの震災の前日や前週に震災を予知した人々が一杯いましたよ」という不思議発見事件簿なのではない。「予知夢」は、寄せては返す波のごとく、私たちの元を離れていったかと思えば、ドキリとさせる突然さで私たちの眼前に現れる。だから、3.11の悪夢を何度もくり返し見る本作の登場人物たちは、つまり、次のカタストロフィのプレ-イメージを共作しているのではないか。
 私は本作のタイトル『SHARING』を、震災体験からくる心的外傷の共有(とその不可能性)という意味のほかに、まだ現実には誰も見ぬ、次なるカタストロフィの共作という意味でとらえた。まだ起きてはいないことを予知し、その「実在」イメージが各人の脳というスクリーンに投影(映写)されているとしたら、この映画がフィクションなのか、ドキュメンタリーなのかはどうでもよくなる。ドキュメンタリーとは、今ここで起こっていることにカメラを向ける行為である。しかし、これから起こらんとするできごとの映像が、あらかじめ私たちの前に提示されてしまったら? それもドキュメンタリーと認められるのだろうか?
 震災以後の心象風景、さらに私たちが今まさに晒されている危機を映画化するにあたって、篠崎監督はホラーもしくはニューロティック・スリラーのジャンル性を採用した。つまり映画としても興奮させるものを、という篠崎監督の初期から変わらぬ精神がここでも貫かれ、異様なるクロスオーバー的怪物作品が出来上がってしまった。
 そして、映画の主舞台となる大学キャンパスの迷宮性。これは先祖返りでもあるのではないか。篠崎監督の出身校である立教大学の映画サークルS.P.P.は篠崎の在学当時(1980年代)、偉大な先輩である黒沢清や万田邦敏らによって「学園活劇」なる奇妙なジャンルが創造され、立教のキャンパスを使ってゴダール映画のような銃撃戦が展開されていた。本作『SHARING』におけるカメラが、恐れおののいて彷徨う登場人物たちや、誰かの面影を追って走る登場人物たちをダイナミックな移動撮影、手持ち撮影でとらえるとき、私は不遜にも「学園活劇」が亡霊のように、しかも不幸なことに津波や原発事故という最悪な記憶を引き込みつつ、復活してしまったのだと思った。
 これはぜひ、99分のショートバージョンも見てみたくなった。そのバージョンにも、手の平に黒アザのある幼児と女子学生の邂逅シーンはあるのだろうか? 「赤ん坊は生きていたんだ!」と私は心中で叫び、泣いた。あのわずかな光明を、再び目にしたいと思う。


テアトル新宿にて5/13(金)までレイトショー
http://sharing311.jimdo.com
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『二重生活』 岸善幸

2016-05-04 22:14:14 | 映画
 テレビ演出家・プロデューサーの岸善幸の劇場映画デビュー作『二重生活』(6/25公開予定)を試写で見たのだけれど、これが心理サスペンスとして非常によくできている。デビュー作とはいってもベテランの手さばきで、イヤらしい人間のエゴが少しずつ少しずつ漏れこぼれてくる。そして露わになるときはドバッとあられもなく。
 哲学を専攻する大学院生・門脇麦が、担当教授のリリー・フランキーから、修士論文のテーマを「尾行」にしてみたらどうかと持ちかけられる。誰かアトランダムの人物をえらんで、理由なき尾行をしてみる。その尾行から見えてくるもの、起きてくるものを記録し、考察を加える、という研究内容だ。このテーマにのめり込んでいく門脇麦。
 しかし、たまたま尾行対象にえらんだ男(長谷川博己)が浮気していることをキャッチしてしまったことから、話がややこしくなる。ややこしくという以上に、長谷川博己の妻(河井青葉)、幼い娘、浮気相手(篠原ゆき子)による問題の核心が、門脇麦の探偵ごっこによって歪んだかたちで舞台化されてしまい、コントロール不能に陥っていくと言うべきか。
 原作は小池真理子で、3月に公開されたばかりの矢崎仁司『無伴奏』に続いて、競作のような格好になったが、両者は正反対のタイプの映画になっていて、どちらも面白い。
 ヒッチコックの名前を出さずとも(と言って、出してる)尾行というテーマが喚起する、視線の距離、後ろ姿、覗き見の性的興奮、証拠写真、見てはいけないものが見えてしまう禁忌、などといった事柄の映画的魅力は元来、抵抗しがたいものがある。本作はそういう受け手のツボを押していく。そして、あくまで目撃者、記録者でしかなかったはずの門脇麦がいつしか不真面目な侵犯者として逆襲を受けてしまうのと同様に、スクリーンのこちら側で安全に画面上のサスペンスを楽しんでいた私たちも、いつしかその視線の不実をなじられるかも知れない。


6/25(土)新宿ピカデリーほか全国公開
http://nijuuseikatsu.jp
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モランディについて

2016-04-26 17:57:15 | アート
 作家が全人生をかけてものにした作品たちを、2時間ほどそぞろ歩いて見て回り、分かった気になるのが美術館におけるわが行動である。偽善とまでは言わないが、いささか不当なまでに合理的なシステムによって、作家の芸術という芸術を、私たちはむさぼり食っている。
 ジョルジョ・モランディのように終生変わることのない主題と共にあり続けた作家の場合、そのむさぼり具合は洒落にならない状態となる。ちょっと離れて主題やモチーフの傾向を探ってみたり、気になる作品についてはぐっと近づいて、彼(彼女)の絵の具の乗せ方や筆さばきの後を追ってみたりする。マチエールへの耽溺が鑑賞のアクセントとなる。もちろんそこに畏敬の念は存在してはいるにせよ。
 東京ステーションギャラリー(東京駅構内)で開催された《ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏》が、さる4月10日に会期終了した。夥しい数の同じ主題の反復。つまりモランディ家の彼のアトリエに大事に保管されたいくつかの瓶や水差し、缶といったいわゆる「静物」が、角度を変え、配置を換え、組み合わせを換え、光線のあたり具合を調整しながら、何度も何度も描かれ続ける。あたかも主題の限定がかえって「ヴァリアツィオーネ(変奏)」を力強くすると言わんばかりに。
 いや、実際ここでは同じモチーフの反復と(微細な)差異によって、作家の無際限な変奏が保証されている。瓶や水差し、缶といった人工の無機物が、そのつど役柄を交感しながら異なる演技を試し続けている。
 「絵画にとっての小津だな」とか「静かな狂気」なんて安易な形容が頭をよぎってしまうが、規則性と戯れつつ、生が抽象化していき、マチエールの無限な二重コピーを増殖させていく。たおやかで、見た目に美しいその静物たちの中間色や原色が、それじたいの無限性と有限性を同時に肯定し、それじたいの消滅を予告し、また鑑賞者の死と消滅を逆照射している。しかしそれを悲しいとは思わない。メメント・モリ。虚栄とは無縁のまま、たおやかに死滅する静物たちは、美を美と名づけないままに戯れて、そして殉死していく。
 これまでよく知っていた油彩だけでなく、今回展示された作品群にあって、構造性がよりあらわとなるエッチング、モノとモノの関係性、モノとモノでない境目の関係が混ざり合う水彩画がすばらしく、この作家に対する嗜好にあらたな面をつくってくれた。
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千葉泰樹関連記事の一覧

2016-04-19 16:50:07 | 映画
 千葉泰樹作品の記事をインデックス化してみました。そもそもブログなんていう素性の賤しい媒体は、未整理のままポンと投げ出された程度でちょうどいいのであって、わざわざカタログめいたふるまいに及ぶのは、手前味噌もいいところなのは承知しておりますが、少しは便宜なんてものを図ったもいいのではなどと考えてしまいまして。


『義人呉鳳』(1932)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/9d495f380269df6cdd0ba1da0ec06e6f

『生きている画像』(1948)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/e3ca15a677c83dada24e8a672bae3176

『夜の緋牡丹』(1950)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/8bc41fd7785e1c255b98a29729a75516

『下町(ダウンタウン)』(1957)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/07c6db425aee6fb59de14ae91a0c3e7c

『がめつい奴』(1960)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/48e38ce5af8189a1d458162bef428080

『二人の息子』(1961)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/c5517187483cf0b8f07010d9f4bcf554

森繁久彌追悼文(2009)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/afda56b20035babf982918b1655f6803
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『二人の息子』 千葉泰樹

2016-04-17 17:10:18 | 映画
 シネマヴェーラ渋谷の千葉泰樹特集で『二人の息子』(1961)を初見。かねてより1960年代千葉では屈指の作品と友人から聞かされていたが、噂にたがわぬ素晴らしい作品だった。
 すでに暗くなっているヴェーラの場内に入り、急いで席に座ると、流れてくるのは数秒で伊福部昭とわかる音楽。ざっと「日本映画データベース」で検索しただけだが、本作が公開された1961年11月に伊福部昭が音楽を担当した作品は、11/1 三隅研次『釈迦』、11/8 伊藤大輔『反逆児』、11/12 千葉泰樹『二人の息子』と続いている。なんだろう、このすごさは。さらに翌年2/21には三隅研次『婦系図』、4/18 三隅『座頭市物語』、6/10 田坂具隆『ちいさこべ』もやっている。あまりにも偉大な音楽家である。その年の夏休みには当然『キングコング対ゴジラ』もある。

 一家の父の藤原釜足が嘱託の裁判所勤めをクビになったことから、長男・宝田明、次男・加山雄三、末っ子の藤山陽子の人生も狂わせていく。
 藤山陽子に捨てられて傷心の田浦正巳がカード占いで凶を引いて、やはりこれは悲劇に終わるのかと観客を不安にさせるのがいい。エリート社員の不誠実さに愛想を尽かし、元の鞘におさまって、貧しいながらも幸福をつかむ女性──というシナリオになるケースは多いが、今回、東宝の通常メジャー作品であっても、松山善三の筆は酷薄さをどこまでも失わない。
 はるか以前、シネフィリー全盛期に成瀬巳喜男の『乱れる』について、「松山善三のシナリオなのにすごい」とか「加山雄三でさえすごく見える」とかいう話がシネフィルのあいだで飛び交ったりしたのだが、そういう痛快な皮肉は『二人の息子』の前にあえなく否定される。田浦正巳の結末は凄惨である。
 この凄惨さ、私の勝手な連想に過ぎないのだけれど、昨夏に韓国文化院で見たユ・ヒョンモク(兪賢穆)の『誤発弾』に似通っていると思った。偶然にも同じ1961年の作品である。ソウルの貧困家庭を襲う不幸の連鎖。起こることの悲惨さ、救いのなさでは『誤発弾』に軍配が上がるが、画面から漂うエグミみたいなものは共通している気がする。作風が同じとか同時代性とかそういうことではまったくないのだけれど。


シネマヴェーラ渋谷(東京・渋谷円山町)千葉泰樹特集は4/22まで開催
http://www.cinemavera.com/
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『デッドプール』 ティム・ミラー

2016-04-14 01:08:51 | 映画
 昨今のハリウッドはスーパーヒーロー物のオンパレードで、かなり食傷気味である。『アベンジャーズ』なんて、ハリウッド社会も日本のAKB商法を笑えない段階に来ている。この氾濫ぶりは、少年時代の夢を後生大事に守る成人男性が世界中に蔓延し、自我の温存に余念がないという時代が到来したことが唯一の理由だろう。
 食傷から身を守るには、確固とした映画観にもとずく腑分けしかない。そこで私は『トランスフォーマー』『ミュータント・タートルズ』のマイケル・ベイに汚い言葉を投げ、『アイアンマン』のジョン・ファヴローや『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のルッソ兄弟、あるいは『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』のマシュー・ヴォーンに甘すぎる依怙贔屓をしてみたのだが、それも果たしていつまでもつことやら。
 『X-MEN』シリーズの最新スピンオフ『デッドプール』は、スーパーヒーロー物やアメコミ原作物に興味のない映画観客にとっては、コスチュームさえ『スパイダーマン』と見分けがつかないだろう。スーパーヒーローのヒロイズムそのものを否定し、ミュータント手術を施した敵をただただ追いかけ回す。遅かれ早かれ、こうした内部批判的、かつメタフィジカルな異色作が誕生するのは、誰でも予想のつくことで、そんな文脈から『アイアンマン』に輝きがあったのだ。
 今回の『デッドプール』は、『アベンジャーズ』環境ではなく、『X-MEN』環境の中でアイアンマンごっこをしようとするものだ。『X-MEN』の外伝といえば誰でも思い出すのは『ウルヴァリン』だろうが、異端派を気取ってもなんだかんだ言ってジャスティスを体現するウルヴァリンとも違って、デッドプールは個人的な遺恨やリビドーによってアクションを引き起こす。ウルヴァリンは外伝の登場人物から始まり、ジェームズ・マンゴールドによる日本遠征『ウルヴァリン:SAMURAI』(2013)ではいったん味噌を付けたものの、翌年の『X-MEN:フューチャー&パスト』(2014)では一転、正規メンバーのエースに躍り出ている。
 『デッドプール』はそれら『X-MEN』のセンターポジションとはおよそ無縁な、補欠レベルの物語である。『アイアンマン』に喩えたのは、さすがに褒め過ぎかもしれない。その精神性はむしろ『テッド』にさえ近いものだ。でもポテンシャルはある。本作に登場するX-MENメンバーも、ネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドという小太りの少女と、その用心棒の垢抜けない超合金男コロッサスのみ。二人ともX-MENの中では、あまりランキングが高くなさそう。デッドプールは言う。「このプロジェクト、予算ないんだね」。シニシズムからだって、なにかの歴史が始まる可能性はある。スーパーヒーロー物の嫌いな人にこそ見てもらいたい一篇である。


6/1(水)よりTOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国ロードショー予定
http://www.foxmovies-jp.com/deadpool/
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ウンベルト・エーコ 著『プラハの墓地』

2016-04-09 07:23:25 | 
 ナチスにとってホロコーストの根拠になったとされる史上最悪の偽書『シオン賢者の議定書』の成立過程を、19世紀後半ヨーロッパのさまざまな事象を張りめぐらせながら、まことしやかに解き明かした書が現れた。『プラハの墓地』(東京創元社)。さる2月19日にガンで亡くなったイタリアの記号学者・文学者ウンベルト・エーコ(1932-2016)最後から2番目の小説である(遺作『ヌメロ・ゼーロ』の邦訳は今秋刊行予定)。この邦訳本は作家の死の数日後に発売され(イタリア語原書は2010年刊)、図らずも追悼出版のような形となった。
 パリの犯罪地区に住む主人公シモニーニの自宅兼店舗に、帝政ロシアの秘密警察 “オフラーナ” の長ピョートル・ラチコフスキーが訪ねてくる。主人公シモニーニはエーコの創作だが、ラチコフスキーは実在の人物である。

「あなたは隠れ蓑として古物商を選んだ。ということは、一度使われ、売り払われたものを新品より高く売りつけるのが商売です。しかし数年前『ル・コンタンポラン』誌に、あなたのおじいさんから受け取った危険な文書を載せていますね」

 こうしてシモニーニは帝政ロシアのクライアントのために、幼いころ祖父からくり返し刷りこまれた、イエズス会神父による狭量かつきわめて保守反動的な説を元にしたホラ話めいた陰謀論をあらゆる尾ひれで粉飾し、プラハのゲットーにうずくまる共同墓地にユダヤの長老たちが夜に集まって、おそるべき世界征服の方針を議決したという報告書を執筆する。
 この小説は、エキサイティングなピカレスクロマン(悪漢小説)でもある。ガリバルディによるイタリア統一(1860)、普仏戦争とパリ・コミューン(1870-71)、ドレフュス事件(1894)など、19世紀後半のヨーロッパの重大事件に主人公のシモニーニはことごとく関与しつつ、おもに公文書偽造の分野で暗躍する。そして、主人公は社会正義、平等、平和、進歩思想、民主主義に背を向け、つねに保守反動の側につく。これが祖父の影響によるものなのかは微妙だが、現代世界がやはりどんどん保守反動へと傾斜し、狭量な原理主義的唯神論へと傾斜していくなかで、ある種異様なリアリティを持っている。
 黒魔術、近代啓蒙思想、フリーメイソン、ジャコバン派(フランス革命の主体)、イルミナティ(バイエルン啓明結社)、マルクス主義、フロイト精神分析、それらすべては、ユダヤ人がディアスポラの復讐を果たすために、世界征服の手段として編みだしたものに過ぎない、とこの小説の登場人物たちは主張する。反ユダヤ主義の台頭はこんなふうに準備されたとエーコは苦笑まじりに書きまくる。エッフェル塔の建設、地下鉄の建設さえもがすべて、ユダヤ人の陰謀なのだという。シモニーニのような反動的人物が面白いように暗躍し、虫酸の走る猛毒を世界に注入して回っている。ウンベルト・エーコの筆致は、露悪趣味の上で冴えに冴える。
 しかし、よくよく考えるなら、ガリバルディ一味を失脚させようというサルデーニャ王国の旧体制派の試みは失敗に終わり、ガリバルディがイタリア統一の英雄となっただけでなく、ナポレオン3世のフランス第二帝政も崩壊し、20世紀に入ると、ラチコフスキーの思想統制もむなしくロシアでは社会主義革命が成功する。つまり、主人公シモニーニはヨーロッパ列強のスパイ組織を渡り歩きながら高収入を享受し、パリのグルメとなったが、結局のところ彼が与した側はすべて敗れ去っているのである。小説ではシモニーニの敗走は描かれない。しかし、エーコの露悪趣味の裏の裏をかきながら読み進めるべきである。ましてや主人公は二重人格の症状を呈し、どうやらフロイト博士の治療を受けているらしいのだから、小説の地の文そのものはつねに再審に付されていくかのような疑惑と不穏さに彩られているのだ。
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『家族はつらいよ』 山田洋次

2016-04-06 21:31:32 | 映画
 長崎への原爆投下に材を取りながら、不謹慎の一歩手前まで死体と近親相姦的に戯れてみせた快作『母と暮せば』(2015)から、わずか3ヶ月あまり。早くも山田洋次の新作が届けられた。これはやはり、自他共に現在が山田洋次の全盛期だとの認識が存在する証拠だろう。
 そして今回の新作は『家族はつらいよ』。セルフ・パロディもここまで来ると下卑ていると言わざるを得ないけれども、『母と暮せば』のような渾身の一作のあとにちょこんとした『家族はつらいよ』を持ってくるあたりは、『東京物語』のあとの『早春』を作った小津安二郎を意識しているのは間違いない。山田には、『東京物語』のお粗末なリメイク『東京家族』(2012)という前科がある。
 『家族はつらいよ』は、『東京家族』のキャストがそのままスライドしている。橋爪功と吉行和子の老夫婦、長男夫婦の西村雅彦と夏川結衣、娘夫婦の中嶋朋子と林家正蔵、末っ子の妻夫木聡とその婚約者に蒼井優。彼らは、かつての『男はつらいよ』寅さんシリーズのキャストのように、同じ構造をなぞってみせる。そのなぞり具合にはどこか橋田壽賀子ドラマに近い田舎臭さがある。
 「寅さんシリーズは松竹の象徴」などと判で押したように形容されると、どうも以前から違和感を拭えなかった。戦前の島津保次郎も小津も成瀬も清水宏も、そして戦後の木下惠介も渋谷実も中村登も、東京を描いているはずの寅さんシリーズほど田舎臭くはなかった。たとえ地方の僻地を舞台にしていても、もっと垢抜けていた。

 山田洋次の作家人生を要約するのは難しくはない。明確だからだ。まず第1期の〈プレ寅さん時代〉。この時期はまだ、大島渚、吉田喜重らの退社した大船撮影所におけるヘゲモニーを完全には掌握してはおらず、森崎東、前田陽一ら同僚を相手に少しばかりリードしているに過ぎない。
 第2期は言わずと知れた〈寅さん時代〉であり、「遅れてきたプログラムピクチュア」として、にっかつロマンポルノと双璧をなし、山田を大船の玉座に着けることとなると同時に、その玉座に幽閉もしたのだ。もしこの長大なシリーズに幽閉されていなければ、大島や吉田ほどではないにしても、山田洋次はもう少し国際舞台で名の知れた映画作家になったかもしれない。
 第3期は、1995年の寅さんシリーズ終焉、2000年の松竹大船撮影所閉鎖に伴って「遅れてきたプログラムピクチュア」をたたみ、ごく短期間の〈時代劇3部作〉時代となる。時代劇で腕に磨きをかけた山田は、現在の第4期〈先行作家へのトリビュート〉シリーズの真っ只中にいる。この第4期は、小津や市川崑にオマージュを捧げつつ、自己の出自をパロディとして提示している。異色作といえる『母と暮せば』も例外ではなく、死んだ一人息子(二宮和也)の残された部屋に小津『淑女は何を忘れたか』のポスターが貼ってあったように、松竹大船の出自開陳なのである。

 時代区分にしたがって見るなら、左翼文化人にありがちな庶民礼讃、ふるさと回帰がどうにも教条的な足枷となって、山田の映画を井の中の蛙にしてしまう傾向がある。『おとうと』(2010)のホームレス用ホスピスで息絶える笑福亭鶴瓶、『母と暮せば』の「上海のおじさん」加藤健一など、出来の悪く往生際の悪い男たちの系譜が、山田映画の最も愛すべきところで、その点で言うと、今回の『家族はつらいよ』の落ちぶれた私立探偵(小林稔侍)は線が弱く、『ディア・ドクター』から出てきたような笑福亭鶴瓶の医師もカメオでしかなく、教条性の外部にはみ出していくものに乏しい。


丸の内ピカデリー他、松竹系などで公開中
http://kazoku-tsuraiyo.jp
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『オマールの壁』 ハニ・アブ・アサド

2016-04-02 09:19:01 | 映画
 イスラエルによって占領された、東イェルサレムを含むヨルダン川西岸地区。
 映画の最初で、主人公のパレスチナ青年オマール(アダム・バクリ)がロープをつたって、高い壁を身軽に越えていくさまをとらえる。掃射砲の射撃音が聞こえるが、オマール青年はそんな音もどこ吹く風、壁の向こう側に住むガールフレンド(リーム・リューバニ)の家にを訪れる。このガールフレンドの兄とは幼なじみで、最近、対イスラエル武装グループを結成して、計画を練ったりしている。
 知っておかねばならないのは、分断壁が、イスラエルとパレスチナの境界であるグリーンラインに沿って建っているのではないことだ。壁はパレスチナ自治区内を乱雑に横断し、パレスチナ人の日常を分断する。この分断壁は、いわば「ベルリンの壁」の陳腐なるパロディである。イスラエルは、彼らを戦時中にホロコーストで虐殺したドイツ人が戦後冷戦期に作りあげたのと同じことをしているのだ──その数倍の高さで。まるでパレスチナ人が「進撃の巨人」のような大きさをもつかのような用心深さで。

 主人公オマールはその壁を軽々と乗り越えてみせる存在だが、その引き換えに、彼の心のなかに壁が打ち立てられてゆく。壁を打ち立てるのは、彼を内通者に仕立てようとするイスラエル警察だけではない。同胞たちとの友情、そしてガールフレンドへの愛が、オマールをがんじがらめに縛りつけ、壁のなかに追いこんでいくのだ。このダブルバインド的閉塞が『オマールの壁』という作品に、単なる政治的アジテーションに留まらぬ苛酷さをまとわせる。
 この映画は2度、茶の時間が描かれる。私たちのような外国人にとっては一種のエキゾチズムかもしれないが、この茶の時間がすばらしい。もっとも、序盤の茶と終盤の茶とでは、主人公たちの情況はまったく変わり果ててしまってはいる。フランスの映画作家ブリュノ・デュモンの『ハデウェイヒ』(2009)でも、アラブ人テロリスト家庭での茶の時間が印象深く描かれていたが、いつかはまったく血生臭くない、単に退屈なマンネリズムとしての茶の時間を映画のなかに見てみたいものだ。
 ガールフレンドが白磁のカップソーサーに敷いた伝言の紙切れが、じつに切ない。人間は時に、やむにやまれず間違った選択をしてしまう。それがたぶん間違っているとは自覚していても、それでも選択してしまうのである。ついぞ読まれることのないあの紙切れに対する未練ならざる無念が、主人公を急き立ててゆく。それを知っているのは、私たち観客だけである。だから、その行く末をしっかと見ておくべきなのだ。


4/16(土)より角川シネマ新宿、渋谷アップリンクほか全国順次ロードショー
http://www.uplink.co.jp/omar/
*写真は掲載許諾済み
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『リップヴァンウィンクルの花嫁』 岩井俊二

2016-03-29 14:39:37 | 映画
 これまで岩井俊二には、これと言って評価らしい評価をしたことはなかった。いいとも悪いとも明らかにしなかった。だが、その悪意ある無視が愚行に思えてきた。そろそろ降参しろよ。もう一人の自分が耳元でそう囁いている最中だ。
 私が20代の頃に演出のアシスタントをほそぼそとやりながらシネフィル道を愚直に邁進していたとき、岩井俊二という、少し年上の人が突然出てきて、その上映会がアテネ・フランセでおこなわれた。入口の廊下に電通やら大手メディアから贈られた花束なんかが物々しく飾ってある。なんだ、この岩井というのは。あの峻厳なるシネフィルの礼拝堂たるアテネが、ぽっと出てきた寵児とやらに穢された気がした。
 それからあっという間に、岩井俊二は若手のトップランナーに躍り出た。『Love Letter』(1995)の試写を見た直後の「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」の編集会議で、Aが「『Love Letter』には泣いちゃったけど、泣いたからって良い映画とは限らない」と言った。私は我が意を得て、うなずいた記憶がある。「カイエ」では岩井俊二を大々的には擁護しないことが決定した。
 2002年ワールドカップ日本代表の密着ドキュメント『六月の勝利の歌を忘れない』(2002)が岩井俊二の監督作としてリリースされたことも、複雑な心境を抱かされた。あのドキュメンタリー映像は、私をマネージメントしてくれているプロダクションが製作したのだが、日本代表にずっと密着したディレクターの存在を、私たち内輪の人間は知っている。あれは結局、彼の知名度のなさが招いた悲劇だ。

 『花とアリス』以来(2004)12年ぶりとなる日本での劇映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、大雑把な言い方をすれば、初心に帰ってやり直した映画だ。そして、それがすごい。魔法を使っているのではないかと疑いたくなるほどすごいのだから困ってしまう。『花とアリス』以降、他人の映画のプロデュースとか、ハリウッドへの移住とかいろいろあったが、結局戻ってきたのだ。彼のハリウッド活動って、いったい何だったのだろう。『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、その総括を脇に置いてなされた成果物だ。宿題はまだ残っている。
 何事にも自信がなく、その場限りの取りつくろいでやり過ごしてばかりいるヒロイン(黒木華)は、いわゆる「へたれ」というのかしら、腹立たしいほどにナイーヴな女性である。そこに善意と悪意の入り交じったメフィストフェレス的存在が現れて(綾野剛)、ナイーヴな彼女を騙しに騙し、人生を翻弄してまわる。偶然も折り重なったりして、すべてが綾野剛の差し金ではないにしろ、とにかく流転に次ぐ流転である。受け身の女としての黒木華のおののきぶりを、ひたすら3時間も見続けるという映画体験となる。いろいろと事件は起こるが、いずれもたいしたものではない。なのになぜかすごくて、ラース・フォン・トリアーの大仰な運命劇よろしく、ヒロインと共に私たち受け手を木っぱ舟に乗せ、荒波で悪酔いさせる。
 この映画作家について詳細に分析するのは、不肖私の役目ではない。私はただ目を丸くして「これは岩井魔術だ」などと陳腐な感嘆文を叫びながら、過去20年の非礼に少しばかり恥じ入るという段階にある。


3/26(土)よりユーロスペース、新宿バルト9、品川プリンスシネマなど全国で上映
http://rvw-bride.com
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『ノック・ノック』 イーライ・ロス

2016-03-26 08:06:46 | 映画
 キアヌ・リーヴスの全盛期は、『スピード』『マトリックス』といった大ヒット超大作ばかりでなく、ガス・ヴァン・サントからスティーヴン・フリアーズ、ウディ・アレン、コッポラ、ベルトルッチといった作家の映画にも積極的に参加した1990年代前後ということになる。リチャード・ギアしかり、ケヴィン・コスナーしかり、ハリウッドの二枚目スターがどういう理由で活躍しなくなってしまうのか、そこのところがもうひとつ分からない。
 ただしキアヌ・リーヴスは、ラッキーなカムバック例となりつつある。ひたすら(単調さを恐れることなく)敵のマフィア組織を殺しまくるだけのB級クライムアクション『ジョン・ウィック』(2014)の評判がすこぶるよく、続編の製作も始まっている。『砂上の法廷』『ノック・ノック』と、日本公開も間髪入れずに続く。そしてそのどれもが90分ちょっとのB級アクションかサスペンスである。キアヌは『スピード』『マトリックス』の成功体験の幻影を追うのではなく、やっぱりB級(ここでは正確な歴史的意味では使用していない)でしか生きられないと腹をくくったのだろう。
 そして今回の『ノック・ノック』だ。舞台はLA郊外の一軒家。美人妻と子どもたちの留守のあいだに、不審者の闖入を許したキアヌ・リーヴスが、闖入者のギャル2人組に拘束されてセックスを強要され、そのまましつこくいたぶられる、という内容である。撮影場所はほぼ一軒家セットのみ。主要キャストは妻や妻の同僚、マッサージのおばさんといった脇役をのぞけば、キアヌと変態ギャル2人組だけ。なんとも簡単な映画である。この変態ギャルの家宅侵入の動機を、私たち観客が詮索してもしょうがない。病理学や犯罪心理学の問題はまったく触れようとさえしないからである。ただただ、若い娘にいじめられて怯え、情けない悲鳴を上げるキアヌを鑑賞する、それだけだ。
 この設定、私が少年時代に見てそれなりに恐怖を感じた『メイクアップ』(1977 ビデオ題『メイクアップ 狂気の3P』)とまったく同じである。あの時の犠牲者はシーモア・カッセルだった。シーモア・カッセルのやられっぷりの無残さが圧巻だった記憶がある。はっきり言って『ノック・ノック』は『メイクアップ』のリメイクだ。もし再映画化の権利料を『メイクアップ』の著作者に払っていなかったら、盗作として訴えられるかもしれない。しかし、盗作まがいのこの図々しさこそ、現在のキアヌの立ち位置を図星に言い当てていて、すばらしい。これぞB級精神である。
 と思ったら、そうではない。プレスシートには掲載されていないが、IMDbで確認すると『メイクアップ』の監督ピーター・S・トレイナーとプロデューサーのラリー・シュピーゲルが、2人揃って今作のエグゼクティヴ・プロデューサーに名を連ねている。まあどうせ、ちょっとした駄賃で名前を貸しただけだろうが。
 オープニングのクレジットでやけにスペイン語のスタッフ名が多いなと思っていたら、エンドクレジットで、監督のイーライ・ロス以外はほぼ全員チリ人だと判明した。そしてなんと、全編チリの首都サンティアゴで撮影されたと堂々とクレジットされていた。冒頭のLA中心街、ハリウッド山、サンタモニカの海岸などを順を追ってとらえた空撮のフッテージが、爽快なまでにシラジラしい。これもキアヌ的マジックということにしておこう。


6/11(土)より、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかで “全国訪問” ロードショー予定
http://www.knockknock-movie.jp
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