荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『あなたの目になりたい』 サッシャ・ギトリ

2016-07-21 09:41:54 | 映画
 サッシャ・ギトリというとついつい、蓮實重彦が梅本洋一のお葬式で弔辞を読んだ際に出てきた、「この日本でサッシャ・ギトリの全作品レトロスペクティヴが実現するまでは、梅本洋一の死を真に悼むことにはならない」という(弔辞としてはやや人を喰った)言葉を思い出してしまう。あれを聴いた列席者の誰もが「それは無茶な注文だ」と心でつぶやいたにちがいない。しかし今、アンスティチュ・フランセ東京(東京・市谷船河原町)でギトリ作品4本がちゃんと日本語字幕まで付いて上映されたという事実――これには賞讃の念しか思い浮かばない。にもかかわらず、今回私が見ることができたのはたった一本、『あなたの目になりたい』(1943)だけである。情けないとしか言いようがない。
 『あなたの目になりたい』は、マックス・オフュルスも顔負けの流麗なメロドラマで、主人公の男女(サッシャ・ギトリ自身と、彼の妻ジュヌヴィエーヴ・ギトリが演じている)の出会いの場となるパレ・ド・トーキョーの美術展会場における諧謔に満ちた絶好調なコメディ演出から始まって、徐々に画面が陰りを帯びていく変調の妙が、なんとも第一級の匠としか言いようがない。
 恋人をみずから振っておきながら、悲嘆に暮れる彫刻家役のギトリが、すがるように自分の美術コレクションを拝み回したり、ロダンの手の彫刻をさすったりするカットの、あふれるような美への殉教ぶりが感動的だ。
 このカットは、映画冒頭のパレ・ド・トーキョーにおける、ギトリがユトリロやルノワールなど、先人たちへのオマージュの言葉を友人と手に手を携えて歩き回りながら、たっぷりと語るシーンと呼応しているだろう。それらの展示作品はいずれも1871年という年号によって集められた特集のようである。フランスは普仏戦争で敗れたが、そのさなかにこれらの傑作が生まれたのだ。敗戦はしても芸術の美によって勝利を挙げた――そのように豪語するサッシャ・ギトリのダイアローグはほとんどモノローグのように響きわたり、誇り高さが強調される。
 パリ・コミューンで殉じなかった(そしてそれは小心者を意味しただろう)芸術家たちによって傑作が生まれ、それによる永遠の勝利がある。ひるがえって自分は、ナチスドイツ占領下のパリで映画を撮っている。灯火管制のために真っ暗となったパリの街を、懐中電灯で足下を照らしながらナイトクラブから家路につく恋人たちの鮮烈なイメージ——トリュフォーが『終電車』を撮りたくなった理由のすべてが『あなたの目になりたい』にある。
 と同時に、サッシャ・ギトリが占領下でドイツ軍に媚びることによって、恵まれた製作環境を維持し得たという影の部分もあるとのことだ。パリ・コミューンで殉じなかった芸術家が生み出した美を讃えるその声には、どうしても自己正当化の色彩も帯びていることだろう。生きるのが困難な時代にこそ、偉大な芸術が生まれる。1871年のパリから1943年のパリは困難さによって結びついた。そしてそれを目撃する私たちの2016年。全世界が影に覆われつつあるこの現代こそ、第2第3のルノワールが、サッシャ・ギトリが、生まれて然るべきである。そうでなければ、なんのための人間世界なのだろう?


9月発売《珠玉のフランス映画名作選 DVD-BOX 2》に収録予定
http://net-broadway.com/wp/2016/07/16/珠玉のフランス映画名作選%E3%80%80dvd-box-2/
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『ヒメアノ~ル』 吉田恵輔

2016-07-18 23:50:19 | 映画
 『ヒメアノ~ル』は、シリアルキラーの猟奇サスペンス、それからフリーターの一念発起的青春譚、ラブコメディといった複数ジャンルが、絶妙に溶け合っているというよりも、たがいに邪魔し合いながら、空々しい断層を作りだしていく点が非常に面白かった。そしてそうした中和しない各要素——猟奇サスペンス、フリーター青春譚、そしてラブコメディ——が、シネコン向け現代日本映画のクリシェに対する当てこすりにもなっている。
 連続殺人の猟奇性を体現するのはV6の森田剛で、フリーター青春譚は濱田岳とムロツヨシ、ラブコメディは佐津川愛美と濱田岳がそれぞれ受け持っている。彼らの言動ののりしろのような部分に、他のカテゴリーへの橋渡しの契機があるのだが、互いが互いの偵察と監視をしているような構造なのだ。
 シリアルキラーの森田剛にストーキングされた佐津川愛美は、ストーカー被害者としての恐怖と不安に満ちた生活の中で、恋愛も成就させ、ラブコメディのヒロイン役もやりこなしているわけだ。もちろん人の愛は成就されるほうがいいけれども、どうも濱田岳と佐津川愛美だけが、不幸の連鎖のようなこの映画の中で不釣り合いなほどに幸福を享受している。その幸福ぶりがどこか不埒さ一歩手前なものだから、ややこしい。
 現代日本はなにかと「不謹慎」という言葉で他人の不埒さ、不節操を監視し、弾劾する社会に成り果てているが、この映画もそんな構造なのである。シリアルキラーは別に、彼女の旺盛な愛と欲望を叱責するために脅しているわけではないのだが、どうもそうも見えてくる、という嫌らしい構造をこの映画は持っているのである。
 不埒さは、佐津川愛美のコケティッシュな佇まいからも、見え隠れする。『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(2007)など初期の主演作をのぞけば助演の印象が強い佐津川だが、本作では、そうした嫌らしさを見え隠れさせる難しいヒロイン役を好演したのではないか(欲を言えば、もっとできるはずだと思うが、事務所サイドの制約があるのだろう)。


ヒューマントラストシネマ渋谷等でムーブオーバー
http://www.himeanole-movie.com
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ユーロ2016を終えて

2016-07-15 04:00:35 | サッカー
 ユーロ2016の感想を少しばかり。
 まず私にとってのベストマッチは、最も興奮させられたという意味で、イングランドvsアイスランド。イングランドが普通にルーニーのPKで先制するも、そのあとすぐにアイスランドが2点をパパッと取って逆転勝ちするという衝撃的な一戦だった。特にアイスランドの2点目。大きな展開からフリーの選手が決めた1点目は今大会のアイスランド特有のゴールだったが、2点目は違う。まるで好調時のスペインのような華麗なティキタカで、イングランド守備陣を完璧に翻弄してからのゴールだった。スコアは2-1だが、インプレッシヴ・ポイントはそれ以上の差があった。
 ウェールズvsベルギーもおもしろい一戦だった。ナインゴランの豪快ミドルが決まったときには、一方的な展開になると思ったけれど、意外な展開となった。ウェールズの1点目(つまり同点弾)がおもしろい。シメオネのアトレティコ・マドリーが時々使う「芋虫」的なセットプレーで、ジョルダン・ルカクがマークする相手をフリーにさせてしまった。この日初スタメンのジョルダン・ルカクの若さが出て、心理的駆け引きに負けた。
 評判となったリヨンでのフランスvsアイルランド、ハーフタイムでのデシャンのダブル交代も素晴らしかった。カンテOUT コマンIN、スタート時の4-3-3から、最近試していなかった4-2-3-1にシステム変更。トップ下に入ったグリーズマンの2ゴールはいずれも、後半のシステム変更の賜物だった。
 決勝ポルトガルvsフランスは、もちろん、休みの1日少ないフランスの疲労が大きかったけれども、クリスティアーノ・ロナウドの故障交代後がそこはかとなく漂う「鵺的」な妖気が印象深かった。ポルトガル、フランス双方のピッチ上の22人がみな、クリスティアーノの超能力の前に調子を狂わされたかのようだった。内容はともあれ、ポルトガルがついに同国史上初のメジャータイトルを獲得した。12年前の自国開催のユーロ2004決勝で、ギリシャののらりくらりとしたフットボールにしてやられて、涙を流した経験を方法論として体得したかのような、塩漬け型のフットボールを実践しての戴冠だったが、2年後のロシアW杯ではヨーロッパ王者の責任として、イベリア半島元来の美しいフットボールを再興してほしい。昨今は、美しいフットボールを否定するのが新しい、みたいな風潮が大手を振っていて嫌な感じがするから。
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『帰ってきたヒトラー』 ダーヴィット・ヴネント

2016-06-30 04:14:03 | 映画
 アドルフ・ヒトラーが現代のベルリンにタイムスリップして巻き起こす珍騒動であると同時に、ファシズムの足音がもうそこまで近づいていることを示した作品。最初は、そっくりさんタレントによるショーにすぎないと誰もが(最初にヒトラーを発掘して売り出したフリーランスのTVディレクターもふくめて誰もが)高を括っている。しかしバラエティ番組の人気者になった彼が、長い沈黙とレトリックを弄した煽動的なコメントによって、番組収録現場の観覧者や視聴者をうっとりとさせ、ドイツ国民の内に秘めた蒙昧な独善主義、排外主義、アーリア優性主義がもたげさせるための装置と化していく。
 今まさに作られるべき作品だと言える。イギリスがEUからの離脱を選んだのは、排外主義が彼らの本音であることを隠し立てする必要を感じなくなってしまったからであり、ドイツがギリシャのシリザ政権を痛めつけるのは、財政再建のための「緊縮策」という美名のもとでギリシャの財産を収奪するためであり、パリで同時多発テロが起き、シャルリー・エヴド事件が起きたのはEUが域内の通行を自由化したことによる副作用だと言いたい反動主義者が数を増やしているためである。これら現代の政治的危機を、ヒトラーのタイムスリップによって説明しきってしまおうという不敵さが、この作品にはある。そしてタイムスリップしたヒトラーとは、私たちの心のなかに巣くっているものだというのである。
 極右の台頭と民主主義の脆弱化を、ブラック・コメディによって物語化する。これはナチスが政権を奪取する前に、『カリガリ博士』(1920)や『ドクトル・マブゼ』(1922)が未来予想図として物語化されたのと符合してしまっているのだ。現代には、もっと多くの『ドクトル・マブゼ』が必要だ。『帰ってきたヒトラー』をもっと踏みこむことは可能だし、そうした作品がたくさん生まれて、ディフェンスが硬められたらいい。そして日本でもぜひ『帰ってきたヒトラー』のような作品が作られたらいいと思う。


TOHOシネマズシャンテほか、全国で上映中
http://gaga.ne.jp/hitlerisback/
*監督名についての議論の部分は、本記事を読んで作品を見に行こうか考えてくださる方にはあまり関係がない話題に思えたため、コメント欄に移動しました。
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『64 ロクヨン』 瀬々敬久

2016-06-24 08:15:41 | 映画
 『64 ロクヨン』の前編につづいて、ようやく後編も見終えた。原作の映画化という制約の中で、監督の瀬々敬久はすばらしい仕事をしている。小説にしろ漫画にしろ、原作のファンは必ずといってその映画化の内容に不満を持つ。彼らの不満に耳を貸すのもいいが、映画作家はそれでも我が道を行くべきである。小説や漫画の原作よりも映画そのものの方が大事だからだ。

 群馬県のある街で、身代金目的の少女誘拐、殺害事件が迷宮入りする。時効を1年後にひかえ、いっきに事件解決になだれ込む後編のストーリーラインがやや凡庸に思えた。しかし前編における、事件当時の焦燥が募っていく迫真の描写がすばらしい。事件捜査は失敗に終わり、少女はポンコツ車の後部ボンネットから絞殺死体で発見される。
 地方都市を舞台とする少女誘拐と殺害。映画はヒッチコック寄りに(楽器演奏のように)作ることも可能だし、シャブロル寄りに(タナトスの品評会のように)作ることも可能であった。しかし、瀬々敬久はそのどちらの戦術も採らない。内田吐夢の『飢餓海峡』のような悪夢残存劇を採用しつつ、瀬々自身の作風へと強烈に引きつけていく。この作品は、瀬々自身の最高傑作『ヘヴンズ ストーリー』(2010)のメジャーにおけるリメイクであり、セルフ・トリビュートでもあるだろう。
 事件に対する悔恨と悲しみはその後も、被害者一家の残りの人生を支配し、捜査を担当した刑事たちの人生をも狂わせていった。むしろこの映画は事件そのものではなく、この波及効果の描写への注力によって定義づけられていく。事件当時の刑事で、いまは群馬県警の広報官である主人公(佐藤浩市)がどれほど奮闘し、もがこうと、さらには警察組織とマスコミ各社が事件の後始末でどれほど紛糾しようと、すべては被害者への慰霊へと、レクイエムへと帰着するほかはない。そして、「大事な子どもを失った家族」の「子どものいない時間」が抽象化し、普遍化し、人も場所もその時間を休みなく見つめ、その静謐な地獄に留まり続ける。


TOHOシネマズ日劇ほか全国で上映
http://64-movie.jp
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『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』 ジェイ・ローチ

2016-06-12 10:26:40 | 映画
 映画作家という存在は不思議なもので、時に受け手たる私たちが彼らに抱くイメージを大幅に狂わせて、たじろがせる。『オースティン・パワーズ』2部作、『ミート・ザ・ペアレンツ』3部作などでとちらかというと大衆迎合的な作風で鳴らしたかに見えるジェイ・ローチが、こんなクリティカルな作品にタッチするのかと思わせるのだ。
 『トランボ』。1930年代後半から1970年代にいたる長期間にわたり第一線で活躍したシナリオライター、ダルトン・トランボ(1905-1976)の伝記映画である。たとえば成瀬巳喜男と同世代の人で、第二次世界大戦後、最も高額ギャランティを取るライターに上りつめたが、冷戦が開始された1947年、非米活動調査委員会、いわゆるHUAC(フアック)からワシントンに召喚された。しかし自身の共産主義思想、友人の左翼活動などについての議会証言を拒否して、議会侮辱罪に問われ、獄につながれる。
 ダルトン・トランボがブラックリストに載って、公式的には活動が許されなくなった1950年代における、彼のサバイバルがおもしろい。いわゆる「フロント」と呼ばれる、名前貸しを許してくれた友人ライターたちの背後に隠れて、低予算のB級映画である意味、全盛期以上に精力的に書きまくる。周知のごとく『ローマの休日』が最も有名なブラックリスト時代の作品だ。この作品におけるオスカーは「フロント」が代理受賞した。
 赤狩りは歴史なのだろうか? とんでもない。これは依然として現在の事象である。それどころか、特に安倍政権誕生後の日本においては、身に覚えのあることとして潜在する状況が、この映画には予言的に写っている。きわめて現在的な危機についての映画である。スタンリー・キューブリック監督『スパルタカス』(1960)とオットー・プレミンジャー監督『栄光への脱出』(1960)という同時期の2作が彼の名誉回復となった作品で、この2作以降、彼は本名でクレジットされるようになる。暗黒時代があり、その暗黒時代がゆっくりではあるが終わりを告げる。このリコンシリエーション(寛解)を跡づける一連が、この作品の最も感動的な部分である。何人かの登場人物は複数の人物をまとめて単一の人物として描かれるが、必要悪的な措置であろう。
 いくら呵責なき史実を描いたところで、作品はあくまでピース・オブ・ケイクに留まる。しかしながら、この『トランボ』は、それ自身があたかもダルトン・トランボによって書かれたシナリオのごとく巧み、かつ時局的であった。殊に、アカデミー賞授賞式でほんとうの受賞者が登壇しないという描写がゾクゾクするほどおもしろい。
 サブタイトルの『ハリウッドに最も嫌われた男』というのは、事実誤認を引き起こす恐れがあるように思う。中流階級以上の出身が多く、高学歴が多いシナリオライター界にあって、珍しく労働者階級の家庭に生まれた彼は、節を曲げないことによってイバラの道を歩んだ反面、業界で最も慕われた存在である。したがって「ハリウッドで最も心配をかけた男」ではあったかもしれないが、『ハリウッドに最も嫌われた男』というのは、宣材として以上の意味を持たない。なお、原作本となったトランボの伝記ノンフィクションの邦訳が、7月に刊行されるそうである。


7/22(金)よりTOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)ほか全国で公開予定
http://trumbo-movie.jp
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『クレールの膝』 エリック・ロメール

2016-06-03 03:44:36 | 映画
 冒頭の、ジャン=クロード・ブリアリがアヌシー湖から悠々とモーターボートをすべらせ、そのまま市街地の運河に入っていき、河口の第一橋である “恋人橋” なる暗示的な名前をもつ橋の下を通過しようとした時に、橋上の女性から「ジェローム!」と声をかけられる一連からして、あまりにもすばらしい流れである。この映画では一貫して、モーターボートの水上での運動感が画面を活気づけることになる。
 橋上から主人公の名を呼んだブルネットの女性は小説家で、オーロラという名前らしい。このAURORAという単語を聴くと、F・W・ムルナウ監督『サンライズ』(1927)のフランス語題名『L’Aurore』を思い出す。もちろん、あの伝説的なサイレント・フィルムに出てくる小舟が醸すシリアスな象徴性と、この『クレールの膝』のモーターボートが醸すブルジョワ的な悦楽姓とは180°ちがうけれども。
 このオーロラという女性小説家と、主人公ジェローム(ジャン=クロード・ブリアリ)のふたりは結局、映画全体を通して「危険な情事」ごっこをからめつつ、恋愛や貞操観念、性欲について議論を深めてゆく。「R」はじめ子音が過剰に強調されるオーロラの訛ったフランス語の豊かさ。会話の中で、ジェロームのブカレスト赴任時に知り合ったようなことが語られていたので、オーロラはルーマニア人なのだろう。共産化した母国を嫌ってフランスの高級別荘地に蟄居し、執筆活動ににいそしむ元貴族令嬢といったところか。戦後フランスに移住したルーマニアの文化人たち──たとえばイヨネスコ、シオラン、そして『コッポラの胡蝶の夢』の原作者ミルチャ・エリアーデなど──がただよわせる危険な香り、一筋縄ではいかぬたたずまいをめぐり、エリック・ロメールがそれまで感じてきたことを、このオーロラという登場人物に込めたのかもしれない。
 一方で、タイトルロールのクレールという少女がいっこうに出てこない。クレールの妹のローラは(こう言ってよければ)「刺身のつま」のような存在だったはずなのに、この少女と主人公のランデヴーが意外なほど長く延長される。撮ってみると可愛いし、いいシーンがいっぱい撮れてしまうので、まるでそれにまかせたかのように。この延長はロメール独特の観客への悪戯、ややサディスティックな焦らしであろう。肝心のクレールについては「そういえば、もうひとり」などと言いたげな、ついでに語っておこうという態度である。
 とはいえ、本作のクライマックスというのか、主人公ジェロームの手とクレールの「膝」がついに接触をはたす、「アウトドアのバルテュス」とでも評言したいこの上もなくエロティックな午後──地元の気象は、登場人物たちの深層心理に対し「図星だろう」と言いたげににわかに悪化し、軽い雷鳴をともなった通り雨がアヌシー湖に叩きつける。湖畔の水草が雨風にたよりなく揺れる実景ショット一発が、非常に利いている。いちど見たら、観客の誰もが生涯忘れられない雨のシーンとなるはずである。


本作をふくむ特集〈ロメールの女たち〉が角川シネマ有楽町で6/10(金)まで開催
http://mermaidfilms.co.jp/rohmer2016/
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『レヴェナント 蘇えりし者』 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

2016-05-26 03:53:03 | 映画
 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ作品はご多分に洩れず、留保つきの微笑みと共に迎えるといった案配だった。どうもこの人はあれもこれもとやり過ぎで、引き算をする勇気がないように思える。しかし、時には過剰の只中にまみれてみたいという欲望もまた、人に活気を与える。
 昨春に『バードマン』のレビューを書いた際、エマニュエル・ルベツキ(正確なスペイン語表記はエマヌエル・ルベスキ)のグリグリと駆けずり回る超絶技巧のカメラワークが映画賞を総なめするのは腑に落ちない、と書いたが、もう降参である。現代はスピルバーグの時代でもキャメロンの時代でもない。ルベスキの時代である。『赤い薔薇ソースの伝説』(1992)が東京国際映画祭で上映されたのが、このメキシコ人撮影監督が日本に紹介された最初だと思うが、最近5年間を見ると、テレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』『トゥ・ザ・ワンダー』の2本、アルフォンソ・キュアロン『ゼロ・グラビティ』、そしてイニャリトゥ『バードマン』『レヴェナント』の撮影をやっており、これは天下人と同義であろう。
 アメリカ開拓時代初期、毛皮猟師団のガイドをつとめるヒュー・グラスという実在の人物が、死の淵から蘇り、息子を殺した猟師仲間を追跡する物語である。設定だけ見れば、完全に西部劇だが、本作には西部劇たろうという意志はまったくない。合衆国の南のメキシコ人イニャリトゥから見れば、これは「北部劇」である。復讐が主人公ヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)の道行きのモチベーションになっているけれども、むしろ映画に活気を与えるのは、熊との格闘、吹雪、怪我、疲労といった、自然界が主人公に与える試練のスペクタクルである。この画面がもたらす興奮はドーピング違反と言いたくなるほどで、ここまでやれば、私は文句を言うのをやめたい。

 明確に述べるほど整理できていないので、ただ触れるに留める件があって、それは北米インディアン(先住アメリカン)の神話性を、主人公ヒュー・グラスがかなりなぞっているように思えることだ。いま読んでいる本のひとつに、最近邦訳が出たばかりのクロード・レヴィ=ストロース著『大山猫の物語』(みすず書房 刊)という本があって、大怪我をして血膿だらけの男が動物の毛皮をかぶって化ける、というエピソードが、アメリカ大陸各部族に伝わる神話の中で縦断的に変奏されていると論じている。
 ヒュー・グラスは映画の中で2度、毛皮をかぶる。最初はみずから倒した熊の毛皮。2度目は、崖から落下死した馬の体内で一夜を過ごすため。そして彼は生傷と血膿だらけの身体である。さらにレヴィ=ストロースは書く。「毎日毎日、女には、骨のかけらを包んでおいたシカの皮からかすかな物音がするのが聞こえる。やがてとうとうそこから痛めつけられ傷だらけのオオヤマネコが姿を現わす。何度かの蒸気浴のおかげで回復する(下線筆者)。コヨーテはそのことを確かめにやってくる。無人となった村でオオヤマネコに出逢ったコヨーテは、自分の無実を主張して罪をクマになすりつけ、復讐するように勧めて、援助を申し出る。」
 傷だらけのオオヤマネコは蒸気浴を使うように、ディカプリオも、一人旅のインディアンによって蒸気浴治療を受けていた。オオヤマネコを陥れようとするコヨーテはさしずめ、本作の悪役フィッツジェラルドだろうか。ディカプリオが瀕死の重傷をきっかけに、森の動物へとメタモルフォーズしていくプロセス。そこにはレヴィ=ストロースによって記述されたモチーフが反響しているように、少し思っただけである。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町)ほか全国で上映中
http://www.foxmovies-jp.com/revenant/

 
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『山河ノスタルジア』 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)

2016-05-22 10:52:52 | 映画
 映画は、1999年の山西省の地方都市(汾陽市)から始まり、第2章では2014年の汾陽、さらに最後の第3章では2025年のオーストラリア・メルボルン郊外、というふうに舞台を変えていく。始めは「今どき珍しいスタンダードサイズの画面か」と、映画作家の古典的なこだわりに興味を持った。しかし次の章で現代に近づくと、画面はヴィスタサイズに切り替わり、未来である2025年でワイドスクリーンが採用されるに至って、これは映画としての拘泥というより、時代性の説明なのかと、少しばかり落胆した。反比例するように、人物たちの手元で操作されるタブレットの小画面が、重要性を帯びていく。
 しかし、『長江哀歌』や『四川のうた』『罪の手ざわり』といった近作と同様、風景に対する作者の圧倒的な信頼ゆえだろう、スクリーンサイズによる質的変化は、不思議なほどに起こっていない。いや、むしろ人間の孤立感に対する視線が後半になるにしたがって、いっそう深みを増していった。最初の章は3人が同じフレームに入ることの不快さが強調され、第2章では母と子が過ごす限定的な時間が無念の色を濃くしていく。最後には成長した息子と母親世代の香港人女性(ジョニー・トー『華麗上班族』に続いて、半年のあいだに2度もシルヴィア・チャンを見られた!)との交流は描かれるものの、人物は相対的に退き、風景の一部に同化したように見える。特に、オーストラリアにおいて英語で育ったため中国語を忘れ、あまつさえ母親の記憶も名前もあやふやになっている大学生の息子が、なんとも不憫である。
 彼ら1999年世代の、失敗したと言っていいだろう人生が容赦なく明らかとなるが、傷の舐め合いもなければ、言い訳もない。ここに登場する人物たちのすべてに、私は共感した。彼らの佇まい、彼らの青春の輝きだけでなく、彼らの愚かさ、誤った人生選択さえもが美しい。
 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の故郷でもある山西省汾陽では、冬場は黄河の水も凍結してしまう。恋のライバルを爆殺しようと用意したダイナマイトでさえ、凍結した黄河の前では「ポコン」という滑稽な音を立てて雲散霧消する小爆発に過ぎない。賈樟柯映画でしょっちゅう見ることのできる爆竹や打ち上げ花火の乾ききった、滑稽な爆発音に、今回はダイナマイトまでが加わった格好だが、そこにはなんら本質的な違いはない。お大尽に出世しようと、一炭坑夫に終わろうと、化け物じみた黄河の水の前では、塵芥にも満たない。でもそれでいいのである。
 ひとつだけ言いたいのは、汾陽の塔(グーグルで調べたかぎりは、おそらく明末に建てられた「汾陽文峰塔」だと思う)へ雪の中、犬を連れてくる趙濤(チャオ・タオ)のフルショットがあまりにも美しいこと、そして彼女の最後の姿を、10年あまり会っていない息子への思慕であるとか、母性愛であるとか、因果応報であるとかに単一的に還元すべきではない、ということである。彼女はたしかに恋人を裏切って一緒になった夫と離婚し、親権も失い、オーストラリアに移住した息子と縁遠くなってしまった。しかし、彼女は彼女の人生を主体性をもって選択している。犬を連れた趙濤の雪の中の姿を、ただそれじたいとして受容しなければならない。そのことを、あのラストの、再び大音量を取りもどすペット・ショップ・ボーイズ『ゴー・ウェスト』の陳腐なビートが、全面肯定していたのではないだろうか?


Bunkamuraル・シネマ(東京・渋谷)ほか全国順次公開
http://bitters.co.jp/sanga/
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『ヘイル、シーザー!』 コーエン兄弟

2016-05-17 03:00:17 | 映画
 作品そのものが映画として輝いているどうかはあやしい気もするが、映画のあれやこれやをぶちまけたドタバタ喜劇になっている。映画ファンのひとりとして、このバラエティ豊かな一篇を大いに楽しませてもらった。それにしても、カウボーイのロープ芸による円形など形態的な拘泥が目を引く点は、やはりコーエン兄弟らしい。
 1950年代、「キャピトル・ピクチャーズ」なる架空の映画撮影所では、史劇スペクタクル、水兵によるアクロバティックなミュージカル、ドイツ系らしき監督によるセックスウォー・コメディなどが、同時並行で進められている。これら撮影中の作品を見ると、もはや全盛期を過ぎ、陰りを帯びたスタジオシステムの只中にあることを、映画ファンならただちに了解するだろう。特にジョージ・クルーニーを主演に、莫大な費用で撮影されているらしい史劇スペクタクルあたりは、ハリウッドの挽歌の匂いが濃厚に漂っている。
 ジョージ・クルーニーを誘拐する共産主義者のシナリオライター・グループ(レッドパージで地位を追われた書き手たちであろう)に混じって、ヘルベルト・マルクーゼ(ジョン・ブルータル)がスターの前ではにかんだりしている。海辺の別荘で人質の監禁のような研究セミナーのような数日間である。
 くわえ煙草の女性編集者(フランセス・マクドナルド)のスカーフがラッシュフィルムの編集機に巻き込まれて、編集者の首が絞まってしまうとか、トラブル処理に追われるプロデューサーの主人公(ジョシュ・ブローリン)に中華料理店で、ロッキード社のスカウトマン(イアン・ブラックマン)が映画を侮辱しつつビキニ環礁の水爆実験の写真を見せるとか、ナンセンスでヘンテコなシーンが、何度も何度も積み重なっていくのがいい。この作品はどうやら、ひたすら無責任に楽しむようにできているようだ。


TOHOシネマズシャンテほか全国で公開中
http://hailcaesar.jp
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『花、香る歌』 イ・ジェヨン

2016-05-11 07:25:34 | 映画
 李氏朝鮮末期に実在したという史上初の女性パンソリ歌手の生涯を描いた『花、香る歌』を、新宿シネマートで見る。原題がいい。『桃李花歌』といって、これはヒロインに厳しい指導をほどこしたパンソリの師匠が、最後の共演時にヒロインに捧げた言葉であり、歌である。桃も李(すもも)も春の花で、パンソリの代表曲『春香歌』からの連想が、師弟愛に応じて広がったものである。
 ヒロインのパンソリ見習い女性を演じるペ・スジは、アイドルグループ「Miss A」のメンバーで、長い期間をかけてパンソリの発声特訓を受けたのちに撮影に臨んだとのこと。愛くるしい顔と、堂に入った大声が素晴らしかった。ただし、彼女のクライマックスたる大舞台での歌唱シーンとなると、いつもオーケストラによるメロディアスな劇伴が被さってしまう。これは非常なる興ざめである。もしかすると、本場韓国の識者が聴けば、彼女のパンソリ発声は、特訓むなしく素のままでは聴けたものではない、という冷徹な判断があったのかも知れない。
 そして、芸道ものとしても、たとえばイム・グォンテク(林権澤)監督による、あのワンカットワンカットの一瞬一瞬が素晴らしかった『風の丘を越えて/西便制(ソビョンジェ)』(1993)あたりに比べると、だいぶウスクチである。日本でも韓国でもアメリカでもヨーロッパでも、演劇と映画のさかんな国では決まって「芸道もの」というジャンルがあって、たとえばジョージ・キューカー『スタア誕生』(1954)にしろ、溝口健二『残菊物語』(1939)にしろ、千葉泰樹『生きている画像』(1948)にしろ、ジャック・ベッケル『モンパルナスの灯』(1958)にしろ、ジャン・ルノワール『黄金の馬車』(1953)にしろ、そして上述のイム・グォンテク『風の丘を越えて/西便制』あるいは『酔画仙』(2002)にしろ、その酷薄さたるや、正視に耐えぬほどすさまじいものがある。
 ところが、この『花、香る歌』はその点ぬるい。しかしさもありなん、皆が皆『残菊物語』だったら、こっちの身が持たない。芸の厳しさ、その果てにある孤高の歓びも描かれるばかりでなく、今作はペ・スジの清新さも強調せねばならない。
 本作公式HP(URLは下記)によれば、ヒロインと師匠(リュ・スンリョン)の進路に立ちふさがる宮廷の重鎮、興宣大院君(キム・ナムギル)は、朝鮮王朝第26代王・高宗の実父で、日韓近代史の重大問題のひとつ「閔妃暗殺事件」(1895)の首謀者として名が挙がる人物。本作ではこの興宣大院君の失脚は描かれても、(いわば息子の妻である)閔妃の暗殺までは描かない。本作があくまでパンソリの芸事に身を捧げた集団の物語として、話を広げなかったのだろう。
 映画のクライマックスで、宮廷の池に舟を浮かべて、そこでパンソリが演奏されるシーンがある。この情景の素晴らしさは出色だった。韓流ブームの一時代を築いたペ・ヨンジュン主演の『スキャンダル』(2003)という作品があって、ド・ラクロの『危険な関係』を朝鮮の両班(ヤンバン)階級に置き換えたもので、これが意外にいい作品だったのだが、じつは今作『花、香る歌』の監督イ・ジェヨンは、『スキャンダル』の監督である。『スキャンダル』でも両班の庭園内の池に舟を浮かべ、舟上の歌い手が非常に風流な歌を歌っていた。あれは庶民の哀歓を叫ぶパンソリよりももっと上流向けの雅歌だったかと思われる。イ・ジェヨンは自身のフィルモグラフィで2度も、水に浮かべた舟から女声を響かせたことになる。あの『スキャンダル』の歌声は素晴らしかったが、当方素人であるがゆえに、あれがどういうジャンルの音楽だったのか、分かりかねるのが残念でならない。


新宿シネマート(伊勢丹前)ほか、全国で順次公開
http://hanauta-movie.jp
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『SHARING』 篠崎誠

2016-05-08 04:57:03 | 映画
 これまで見た篠崎誠の作品の中で、間違いなく最高の作品だと思った。そして、本作を見ながら猛烈な怒りを覚えた。怒りの対象は、大震災以降の5年間の私たちに起こったことのすべて、そして図らずもそれを等閑視した自分自身である。『SHARING』は私たち受け手の心理をもサーチする。
 本作HP(URLは下記)に掲載された識者コメント欄に、精神科医・斎藤環さんの次のような一節があった。「私たちが生きるのは『震災後の世界』ではない。私たちは震災と震災との間、すなわち「災間」に生きる」。この映画のメインモチーフとして登場する「予知夢」は、「あの震災の前日や前週に震災を予知した人々が一杯いましたよ」という不思議発見事件簿なのではない。「予知夢」は、寄せては返す波のごとく、私たちの元を離れていったかと思えば、ドキリとさせる突然さで私たちの眼前に現れる。だから、3.11の悪夢を何度もくり返し見る本作の登場人物たちは、つまり、次のカタストロフィのプレ-イメージを共作しているのではないか。
 私は本作のタイトル『SHARING』を、震災体験からくる心的外傷の共有(とその不可能性)という意味のほかに、まだ現実には誰も見ぬ、次なるカタストロフィの共作という意味でとらえた。まだ起きてはいないことを予知し、その「実在」イメージが各人の脳というスクリーンに投影(映写)されているとしたら、この映画がフィクションなのか、ドキュメンタリーなのかはどうでもよくなる。ドキュメンタリーとは、今ここで起こっていることにカメラを向ける行為である。しかし、これから起こらんとするできごとの映像が、あらかじめ私たちの前に提示されてしまったら? それもドキュメンタリーと認められるのだろうか?
 震災以後の心象風景、さらに私たちが今まさに晒されている危機を映画化するにあたって、篠崎監督はホラーもしくはニューロティック・スリラーのジャンル性を採用した。つまり映画としても興奮させるものを、という篠崎監督の初期から変わらぬ精神がここでも貫かれ、異様なるクロスオーバー的怪物作品が出来上がってしまった。
 そして、映画の主舞台となる大学キャンパスの迷宮性。これは先祖返りでもあるのではないか。篠崎監督の出身校である立教大学の映画サークルS.P.P.は篠崎の在学当時(1980年代)、偉大な先輩である黒沢清や万田邦敏らによって「学園活劇」なる奇妙なジャンルが創造され、立教のキャンパスを使ってゴダール映画のような銃撃戦が展開されていた。本作『SHARING』におけるカメラが、恐れおののいて彷徨う登場人物たちや、誰かの面影を追って走る登場人物たちをダイナミックな移動撮影、手持ち撮影でとらえるとき、私は不遜にも「学園活劇」が亡霊のように、しかも不幸なことに津波や原発事故という最悪な記憶を引き込みつつ、復活してしまったのだと思った。
 これはぜひ、99分のショートバージョンも見てみたくなった。そのバージョンにも、手の平に黒アザのある幼児と女子学生の邂逅シーンはあるのだろうか? 「赤ん坊は生きていたんだ!」と私は心中で叫び、泣いた。あのわずかな光明を、再び目にしたいと思う。


テアトル新宿にて5/13(金)までレイトショー
http://sharing311.jimdo.com
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『二重生活』 岸善幸

2016-05-04 22:14:14 | 映画
 テレビ演出家・プロデューサーの岸善幸の劇場映画デビュー作『二重生活』(6/25公開予定)を試写で見たのだけれど、これが心理サスペンスとして非常によくできている。デビュー作とはいってもベテランの手さばきで、イヤらしい人間のエゴが少しずつ少しずつ漏れこぼれてくる。そして露わになるときはドバッとあられもなく。
 哲学を専攻する大学院生・門脇麦が、担当教授のリリー・フランキーから、修士論文のテーマを「尾行」にしてみたらどうかと持ちかけられる。誰かアトランダムの人物をえらんで、理由なき尾行をしてみる。その尾行から見えてくるもの、起きてくるものを記録し、考察を加える、という研究内容だ。このテーマにのめり込んでいく門脇麦。
 しかし、たまたま尾行対象にえらんだ男(長谷川博己)が浮気していることをキャッチしてしまったことから、話がややこしくなる。ややこしくという以上に、長谷川博己の妻(河井青葉)、幼い娘、浮気相手(篠原ゆき子)による問題の核心が、門脇麦の探偵ごっこによって歪んだかたちで舞台化されてしまい、コントロール不能に陥っていくと言うべきか。
 原作は小池真理子で、3月に公開されたばかりの矢崎仁司『無伴奏』に続いて、競作のような格好になったが、両者は正反対のタイプの映画になっていて、どちらも面白い。
 ヒッチコックの名前を出さずとも(と言って、出してる)尾行というテーマが喚起する、視線の距離、後ろ姿、覗き見の性的興奮、証拠写真、見てはいけないものが見えてしまう禁忌、などといった事柄の映画的魅力は元来、抵抗しがたいものがある。本作はそういう受け手のツボを押していく。そして、あくまで目撃者、記録者でしかなかったはずの門脇麦がいつしか不真面目な侵犯者として逆襲を受けてしまうのと同様に、スクリーンのこちら側で安全に画面上のサスペンスを楽しんでいた私たちも、いつしかその視線の不実をなじられるかも知れない。


6/25(土)新宿ピカデリーほか全国公開
http://nijuuseikatsu.jp
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モランディについて

2016-04-26 17:57:15 | アート
 作家が全人生をかけてものにした作品たちを、2時間ほどそぞろ歩いて見て回り、分かった気になるのが美術館におけるわが行動である。偽善とまでは言わないが、いささか不当なまでに合理的なシステムによって、作家の芸術という芸術を、私たちはむさぼり食っている。
 ジョルジョ・モランディのように終生変わることのない主題と共にあり続けた作家の場合、そのむさぼり具合は洒落にならない状態となる。ちょっと離れて主題やモチーフの傾向を探ってみたり、気になる作品についてはぐっと近づいて、彼(彼女)の絵の具の乗せ方や筆さばきの後を追ってみたりする。マチエールへの耽溺が鑑賞のアクセントとなる。もちろんそこに畏敬の念は存在してはいるにせよ。
 東京ステーションギャラリー(東京駅構内)で開催された《ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏》が、さる4月10日に会期終了した。夥しい数の同じ主題の反復。つまりモランディ家の彼のアトリエに大事に保管されたいくつかの瓶や水差し、缶といったいわゆる「静物」が、角度を変え、配置を換え、組み合わせを換え、光線のあたり具合を調整しながら、何度も何度も描かれ続ける。あたかも主題の限定がかえって「ヴァリアツィオーネ(変奏)」を力強くすると言わんばかりに。
 いや、実際ここでは同じモチーフの反復と(微細な)差異によって、作家の無際限な変奏が保証されている。瓶や水差し、缶といった人工の無機物が、そのつど役柄を交感しながら異なる演技を試し続けている。
 「絵画にとっての小津だな」とか「静かな狂気」なんて安易な形容が頭をよぎってしまうが、規則性と戯れつつ、生が抽象化していき、マチエールの無限な二重コピーを増殖させていく。たおやかで、見た目に美しいその静物たちの中間色や原色が、それじたいの無限性と有限性を同時に肯定し、それじたいの消滅を予告し、また鑑賞者の死と消滅を逆照射している。しかしそれを悲しいとは思わない。メメント・モリ。虚栄とは無縁のまま、たおやかに死滅する静物たちは、美を美と名づけないままに戯れて、そして殉死していく。
 これまでよく知っていた油彩だけでなく、今回展示された作品群にあって、構造性がよりあらわとなるエッチング、モノとモノの関係性、モノとモノでない境目の関係が混ざり合う水彩画がすばらしく、この作家に対する嗜好にあらたな面をつくってくれた。
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千葉泰樹関連記事の一覧

2016-04-19 16:50:07 | 映画
 千葉泰樹作品の記事をインデックス化してみました。そもそもブログなんていう素性の賤しい媒体は、未整理のままポンと投げ出された程度でちょうどいいのであって、わざわざカタログめいたふるまいに及ぶのは、手前味噌もいいところなのは承知しておりますが、少しは便宜なんてものを図ったもいいのではなどと考えてしまいまして。


『義人呉鳳』(1932)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/9d495f380269df6cdd0ba1da0ec06e6f

『生きている画像』(1948)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/e3ca15a677c83dada24e8a672bae3176

『夜の緋牡丹』(1950)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/8bc41fd7785e1c255b98a29729a75516

『下町(ダウンタウン)』(1957)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/07c6db425aee6fb59de14ae91a0c3e7c

『がめつい奴』(1960)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/48e38ce5af8189a1d458162bef428080

『二人の息子』(1961)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/c5517187483cf0b8f07010d9f4bcf554

森繁久彌追悼文(2009)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/afda56b20035babf982918b1655f6803
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