荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

『母の残像』 ヨアキム・トリアー

2016-09-22 00:56:25 | 映画
 この9日間ほど、仕事でスペインに行っていた。行き帰りのエール・フランス機のなかでは例によって未見・既見の映画を見まくったのだけれども、予備知識のまったくない状態で見た作品のなかに拾いものがあった。日本語字幕なしだったので、あくまで私の拙い語学力による理解の範囲ではあるが、これはちょっとお薦めしたい。タイトルは『Louder Than Bombs』(2015)。きょう帰国して調べてみたら、『母の残像』という邦題で11月に日本公開されることを知った。しかしまだあまりホームページもちゃんとしていない。

 私たち人間は、死別した人間と、死別という「境」によって、新しい関係を築く。築くことができる。私はみずからの経験——親の死、友の死、血縁者の死、そしてリスペクトする先達の死——を通して、その新しい関係性を知ることができつつある。私とその人は、その人が生きていた時とは別の対話をすることができる。その新たな対話の可能性を模索したすばらしい作品として、最近ではオリヴィエ・アサイヤスの『アクトレス 女たちの舞台』(2014)があった。

 『母の残像』は、3年前に事故死をとげた戦争写真家の母親イザベル(イザベル・ユペール)の不在をめぐって、そして事故死の謎、あるいは生前の母の別の顔をめぐって、残された夫(ガブリエル・バーン)と2人の息子がとまどい、揺れ続ける、そんな憂鬱さに沈潜していく映画である。監督はヨアキム・トリアー。ラース・フォン・トリアーの血縁かしら? ——図星。ただしデンマークの鬼才の甥なのに、なぜノルウェー人なのかは今のところわからない。ノルウェーで撮った2作はすでに渋谷のノーザンライツ映画祭で上映済みとのこと。今作が初の英語作品だそう。共同脚本にエスキル・フォクトがクレジットされている。この人の『ブラインド 視線のエロス』という未公開作がWOWOWで放送されたのを見たが、失明した女性の空想をおもしろく描いていた。
 『母の残像』の最初のほうで、長男(ジェシー・アイゼンバーグ)が母の回顧展の準備のために、久しぶりに実家に帰ってくる。月並みな感想だが、この長男の微妙にダメなありよう、不実さが、どこか戦前の小津映画の息子を思わせる。『ソーシャル・ネットワーク』のイメージに引っ張られた感想かもしれないが、長男役のジェシー・アイゼンバーグがすばらしい。もちろんイザベル・ユペール、ガブリエル・バーンもいいし、終盤でアメリカン・スリープオーバー(!)の帰り道、次男がひそかに恋する女子生徒と歩いて帰るシーンが絶品である。夜の闇が白んでいき、尿意をもよおした少女は、他人の家の陰で用を足す。液体の細長いスジが道路をつたい、向こうを向いていた次男の靴にぶつかって、液体は進路を変えていく。次男の目に涙があふれる。
 この涙はもちろん憧れていた少女への幻滅ではない。万感せまる涙である。


11/26よりヒューマントラストシネマ渋谷で公開予定
http://www.ttcg.jp/topics/master-selection/
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『火|Hee』 桃井かおり

2016-09-07 23:31:58 | 映画
 『SAYURI』(2005)以降ロサンジェルスに拠点を移した桃井かおりだが、1本か2本アメリカ映画に出ていたようだけど、岩井俊二のロス生活と同じく、もうひとつ活動実態がよく分からない。ところがロスの自宅だけで撮りあげたという監督作がひょっこり公開されている。上映時間わずか72分の自作自演、ロケ地は自宅、衣裳も本人、劇中の段ボールもシーツもお皿も、すき焼きの肉や鍋まで自前らしい。
 「この私を見よ」。Ecce homo. ニーチェが発狂寸前に書いた著作と同じことを、桃井かおりは言っている。幼いころにみずからの過失によるカーテンへの引火で火事をおこして両親を焼き殺し、学校ではいじめられ、結婚してもあえなく離婚、現在はアメリカに渡って売春婦に身をやつした女。借金にまみれ、ろくでもない白人男とつき合っている。
 殺人事件の担当刑事の要請にもとづき、精神科医の診察を受けることになった日本人女性は、精神科医を相手に洪水のごとく自己吐露をはじめる。この売春婦の絶望と狂気を見る。それは60歳を超えてもなお「をんな」を演じつづける桃井かおりその人の、女優としての凄味と業の深さを、改めて目の当たりにすることでもある。
 この女優さんはほんとうに映画が好きなんだな、というのが随所に理解できる作品である。ここで見せる彼女の演技は、舞台で見せるものからかけ離れた、カメラが目と鼻の先にあるからこそ感知しうるレベルのもので、舞台では再現不能の種類のものだ。映画にしか感知し得ない女の絶望なのである。そして、音の使い方。選曲がよくて、この人は音楽を聴きこんでいるなと思う(選曲担当エンジニアがいたのかもしれないが)。それからゴダール顔負けの音(楽曲と現場ノイズ)の出し入れ、差し引き。これが、単純なシーン割りに終始せざるを得ない本作から、不可思議な活力を導き出している。


シアター・イメージフォーラム(東京・渋谷金王坂上)にて公開中
http://hee-movie.com
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サイ・トゥオンブリーの写真について

2016-09-02 00:22:22 | アート
 過激なまでにざっくばらんな筆運びでならしたサイ・トゥオンブリーの絵画作品やドローイング作品は、一滴の絵の具の垂れぐあいが、一本の鉛筆の線が、子どもにさえ不可能なほどのたどたどしさを誇示している。ほとんど稚戯、落書きにも思えるその筆致を、しかしロラン・バルトは全面肯定した。「《子どもっぽい》だろうか、TWの筆跡は。もちろん、そうだ。しかし、また、何かが余計にある。あるいは、何かが足りない。あるいは、何かが一緒にある。」
 子どもの稚拙さは、大人に達しようと力んだり勉強したり、母親に愛されたかったりした結果だ。トゥオンブリーの筆跡にはもっとノンビリとだらしない余剰がある。「軽やかな蜜蜂の飛翔の跡」と呼ばれるその筆跡は、シュポルテ(支持体)の鉱物性を際立たせ、ジャンル間の差異を縮ませる。
 絵画、ドローイング、彫刻。そして最後に遅れて、写真が彼の表現方法に追加された。ボワボワとピントの合っていない静物や花弁、絵画や遺跡の部分写真は、ディテールの鉱物性がクロースアップされ、見る者の感覚を攪拌し、一緒くたにする。そのときトゥオンブリーは「古代ローマ」などとつぶやいて、私たちを戯れに幻惑する。では、この古代との連関を強弁する姿勢は、擬態にすぎないのか? おそらく彼は、本気で古代ローマ文明の正統的嫡子だと自認していたのだと思う。
 今回のDIC川村記念美術館(千葉県・佐倉)の《サイ・トゥオンブリーの写真——変奏のリリシズム》(2016年4月23日〜8月28日)によって、初めてトゥオンブリーの写真作品の全貌を楽しむことができた。前回、彼の写真を見られたのはいつだったか? ——それは六本木のワコウ・ワークス・オブ・アートのゲルハルト・リヒターとトゥオンブリーの二人展で、確かあれはトゥオンブリーが亡くなる1ヶ月ほど前のことだったはずだ。ヒマワリの花びらをピンぼけで撮ったドライプリントが数点出ていた。
 今回では、トゥオンブリーが亡くなる年の2011年に撮影した最晩年の作品も展示された。それは、サン・バルテルミー島の墓地を写した数点である。墓石、十字架、朝鮮アサガオの花びら、そして見上げた際にさっとシャッターを押したのだろう青空に雲の写真一葉である。


DIC川村記念美術館(千葉県佐倉市)
http://kawamura-museum.dic.co.jp
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『ペット』 クリス・ルノー

2016-08-28 12:56:31 | 映画
 ユニバーサル社のアニメ作品『ペット』を楽しむためには、そのタイトルにもかかわらず、じっさいにペットを飼っている必要も可愛がっている必要もまったくない。ここに登場するメインキャストはすべてペットか、ペットであることに脱落したアウトサイダーかのどちらかなのだが、それは『トイ・ストーリー』シリーズのおもちゃたちとまったく同じポジショニングを踏襲している。踏襲してはいるが、よりオーナー(飼い主)から独立した存在である。
 『トイ・ストーリー』のピクサー社が親会社ディズニーとの呉越同舟のなかで少しずつポテンシャリティを落としつつあるなか、『ミニオンズ』の制作会社イルミネーション・エンターテインメント社がピクサーに取って代わろうとしているように思える。『ペット』が写し出すマンハッタンの世知辛さは、ジョン・ラセターの初期作『バグズ・ライフ』『モンスターズ・インク』まであと一歩まで来ている。
 アレクサンドル・デスプラによる音楽も出来がいい。テイラー・スウィフト、ビースティ・ボーイズのナンバーが彩り、最後にはジョン・トラヴォルタ、オリヴィア・ニュートン・ジョン共演のミュージカル『グリース』の「We Go Together」のカバーで締める。
 失踪する主人公の犬の声がばかに男臭く野太さを感じさせるものだが、この声を俳優のルイス・C・Kがやっている。ルイス・C・Kは先日公開された『トランボ』で、ハリウッド・テンのひとりである脚本家アーレン・ハードも演じていた。実在の人物たちを巧妙に、なおかつパロディすれすれの遊び感覚さえ漂わせながら配置した点が、『トランボ』の最大の長所と言っていいけれども、皮肉なことに最も効果的な登場人物は、原作のノンフィクションには当然出てこない、ようするに実在ではない人物であるアーレン・ハードなのだ。ご存じのようにハリウッド・テンにアーレン・ハードなんていう人間はいない。ブラック・リスティに彼のモデルに近い脚本家はいるが、肺癌に冒され、ダルトン・トランボからの借金を踏み倒したまま逝く彼の悲愴なありようは、『トランボ』で最も美しい人物像だったように思う。彼はまたトランボのいわゆる「プールサイド・コミュニズム」(つまりハリウッドの高額所得者が贅沢ついでに共産主義を信奉していることを皮肉った呼称)に対し「もう何も聞きたくない」と応じている。
 このアーレン・ハードを演じたルイス・C・Kは、メキシコのユダヤ系マジャール人の家系に生まれたスタンダップ・コメディアン兼シナリオライターであり、演出も編集もこなす。今後の動向を注目したいタレントだ。『ペット』の主人公の声優をこの人がつとめたことは大いに示唆的だと思う。


TOHOシネマズ日本橋(東京・三越前)ほかで公開
http://pet-movie.jp
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『ジャングル・ブック』 ジョン・ファヴロー

2016-08-23 02:12:32 | 映画
 前作『シェフ 三つ星フードトラック始めました』(2014)ではみずから主人公を演じつつ、フロリダからニューオーリンズ、テキサスへと遡行し、アメリカ南部への深い愛を吐露したジョン・ファヴロー監督だが、こんどはディズニー映画を無難に乗りきることによって、次回のわがままを通すための後ろ盾と資金を確保しようとしているのだろうか? であるにしても、マーベルコミックという彼のホームグラウンドにおける『アイアンマン』1&2同様、この人の刻印がはっきりと認められる。
 ディズニー映画というと、すぐに歌い上げ調の感動ミュージカルバラードで飾り立ててしまう傾向が近年ますます強まっているが、ジョン・ファヴローはそっちに逃げない。新作『ジャングルブック』は、ディキシーランドジャズをはじめとする南部の音に、涙ぐましい愛情表明を図っている。この表明のためにこそ彼は、本作の監督を引き受けたのではないか。
 たとえばクリント・イーストウッド監督『ジャージー・ボーイズ』(2014)でミュージカルダンスを披露したクリストファー・ウォーケンにディキシーランドをシャウトさせてみせる。彼が声を担当した巨大マントヒヒがディキシーランドジャズに乗せて「俺様はおまえのようになりたいのさ」と主人公少年をいやらしく勧誘する。
 また、巨大ニシキヘビの声を担当したスカーレット・ヨハンソンも「トラスト・ミー」なんて歌詞を気だるく歌うのがエンドクレジットで流れ、挙げ句の果てにはドクター・ジョンの渋いサザンロックが最後に全部持っていくのだ。しょせんはディズニーの特撮効果の品評会だと侮るなかれ。『マレフィセント』で主人を失って何年も経過した羽がバサバサと激しくうねり始める瞬間の映画的興奮を、時にディズニーは現出させうるのだから——

 『ジャングル・ブック』は、古典的名作アニメの実写化という課題を軽やかにクリアする快作だ。〈野性の少年〉を主人公とするという点では、同時期に公開中のデヴィッド・イェーツ監督『ターザン:REBORN』と重複するわけだが、その精神性は180°異なる。同作についての拙ブログ記事にも書いたことだが、主人公の野性性は『ターザン:REBORN』においては、植民地主義者による植民地主義批判という、「盗っ人猛々しい」説教臭さによって塗り込まれてしまった。大英帝国の貴族の子弟でありながらゴリラの集落で育ったターザンが、ベルギーのコンゴ植民地経営の圧政ぶりに対してノーを言ったりする。この政治的バイアスを耐えがたく考える映画ファンも多いことだろう。
 『ジャングルブック』の素晴らしさは、映画の全編があくまでもジャングルの掟に留まるという点である。掟の墨守/逸脱のあいだをつねに揺れながら、旅に出ては引き返し、また離反しつつ、放蕩息子は帰還するのである。オオカミの子として育てられた主人公のモーグリ少年は、ジャングル共同体を愛し、と同時に他者でもある。彼は愛する故郷であるオオカミの里を発たねばならない。彼は離反することによって一体化するのである。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町)ほか全国で公開中
http://www.disney.co.jp/movie/junglebook.html
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『ターザン:REBORN』 デヴィッド・イェーツ

2016-08-18 11:06:04 | 映画
 無条件にすばらしい映画というものが現存するという事実に私たちは日々驚かされてきたのだから、どんな映画作品にもその功罪を問いたいとは思わないが、しかし日常的に「あそこはともかく、ここはそれほど良くはない」などと偉そうに言いたくなってしまう。
 『ハリー・ポッター』シリーズの後期作品群——『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』(2007)、『ハリー・ポッターと謎のプリンス』(2009)、『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART 1』(2010)、『同 PART 2』(2011)——はまったく見ていないから、それらを手がけたリヴァプール出身のイギリス人監督デヴィッド・イェーツがどういう映画を撮る人なのか見当もつかぬまま、彼の最新作『ターザン:REBORN』を見ることになった。
 この作品の「功」の部分から言うなら、主人公ターザン(アレクサンダー・スカルスガルド)とその妻ジェーン(マーゴット・ロビー)の強烈なアフリカ愛だ。こんな理想郷を共有する夫婦を、羨まぬ人はいまい。ターザンはアフリカで孤児となり、ジャングルでゴリラに育てられたが、もともとはイギリス貴族クレイトン家の跡取りなのであり、本作の冒頭、アフリカでの冒険を終えた夫妻は、ロンドンの邸宅で退屈している。だから、ベルギー王室による西アフリカ・コンゴの支配の実態調査を依頼されてからのターザン夫妻の「命の洗濯」ぶりは微笑ましく映る。特に、百獣の王たる夫と共にコンゴに戻った妻ジェーンの喜びようがいい。灼熱の日光に当たっても、抜けるような白い肌がびくともしないのだから、現地の村人たちが彼女に一目置くのも当然だ。
 しかしながら、この映画の「罪」の部分、と言うべきか、本作を見た人なら誰もが疑問に思ったことだろうが、この映画の善玉をみずから任じるイギリスに、ベルギー王室によるコンゴ圧政を叱責する資格が、あまつさえアフリカの救世主を気取る資格があるのか、という問題である。ターザンの時代、大英帝国ほど大がかりに、アフリカおよび中東、インド、中国などを自分たちの都合のいいように支配した国はない。彼らにベルギーをたしなめる資格はない。その点でこれはプロパガンダ映画以前の作品ということになる。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)ほか全国で公開中
http://wwws.warnerbros.co.jp/tarzan/
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『花芯』 安藤尋

2016-08-12 23:19:04 | 映画
 果たして瀬戸内寂聴と映画の相性はいいのか、悪いのか。熊切和嘉監督『夏の終り』(2013)を見るかぎりでは、良さそうに見えて、じつはさして相性がいいように思えない。しかしそれは熊切和嘉監督と満島ひかりが、単に瀬戸内寂聴とマッチしなかっただけなのかもしれない。豊田四郎=市川崑共同監督、三田佳子主演の『妻と女の間』(1976)なんかは意外な拾い物だったのだから。
 安藤尋監督と瀬戸内寂聴の組み合わせは、一見してミスマッチのように思える。でも、意外とそうじゃないという点が、映画というものの良さであろう。『blue』(2001)『僕は妹に恋をする』(2006)『海を感じる時』(2015)で組んできた盟友・鈴木一博のカメラが良かったからなのか、それとも黒沢久子のシナリオが女性の性と心理をうまく捉えていたからなのか、それは分からないが、いやそれだけではないだろう、青春映画のジャンルに偏っていた安藤尋のフィルモグラフィーが、今回いっきに変態を遂げたように思える。

 理工系学部に転籍することでたくみに徴兵を回避したフィアンセ(林遣都)を軽蔑していたヒロイン(村川絵梨)は、なぜ両親の言いなりになって、この凡庸なフィアンセと結婚しなければならないのか? そのことは、林遣都を秘かに慕うヒロインの妹(藤本泉)が、「あれだけ奔放に振る舞っておきながら、肝心要の結婚という段になって、なぜ親の言いなりになったのか?」と、姉に向かって詰問していた。 
 この、肝心要のところで我を通さなかった、という既成事実こそ、この映画の真の主題だと、私は見ながら思った。つまりヒロインは、不幸な結婚を必要としていたのではないかということである。親に言いなりに、「結婚は愛やロマネスクではなく、現実である」などとうそぶきながら、不実なる犠牲をすすんで背負いたいのである。この不幸の発動によって、ヒロインの否定の身振りにガソリンがまぶされていく。彼女は夫のことを一瞬たりとも愛したことも慕ったこともない。それは本人が夫に面と向かって宣言していることである。夫と久しぶりに燃えた一夜、彼女は言い放つ。「愛がなくても、感じるのね」と。さらに「愛する人とセックスしたら、どうなっちゃうのだろう?」とも。
 つまり、身の丈に合わぬ不幸をまとうことによって、彼女は心身共に禁忌を犯す、この身振りを本能的に必要としていたのだ。もっと言うなら、愛する人との幸福な恋愛や結婚を望んでさえいないということになる。事実、恋した間男(安藤政信)と初めて一夜を共にした時の村川絵梨の呆然とした絶望的表情を見てみればいい。責め苦を負い、孤立し、蔑まれ蔑み、絶望することが、彼女の必須課題だったのだ。
 その人生レッスンにつき合わされた夫、子ども、妹、間男、両親などがまことに気の毒なことであるが、彼女は自分がそもそも毒まんじゅうであるという自覚のもとに行動していたのである。その径路を丹念に辿っていく安藤尋の演出は、これまでのフィルモグラフィーから一線を画した。安藤の求めに応じ、裏切りと孤立を選び取っていく冷血漢女性を、体当たりで演じた村川絵梨に喝采を送らねばならない。


テアトル新宿(新宿伊勢丹裏)にて公開中
http://kashin-movie.com
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『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』 黒川幸則

2016-08-08 04:05:25 | 映画
 現在の社会情勢、環境問題、放射線汚染に対する科学の無力を見るにつけ、人類文明はいつ終わりを告げても不思議ではないように思える。かつてのヒット作『マトリックス』の有名な台詞「人類は地球にとってのガン細胞だ」というのは非常なる卓見でり、地球におけるガンの増殖という観点から黒沢清の『回路』のおそろしいリアリティが、現在にずっと続いているのだと思う。
 徐々に人間が減っていき、ガン細胞へと変換されていく。生者と死者のしばしの邂逅を描いた黒沢の『岸辺の旅』、そしてモコモコ星人が人間と同居しながら文明のたそがれを一緒に観察している鈴木卓爾の『ジョギング渡り鳥』、これらの新しい日本映画の延長線上に、黒川幸則監督『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』はある。
 まず、多摩というロケーションがおもしろい。東京でありつつ東京が終わろうとしている空間、関東平野の限界空間、この風景から『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』はピタリと付いて離れない。以前、美術作家Tattakaさんが写した埼玉県朝霞市の風景写真を何枚か眺めながら、大都会の近郊ですでに自然による人類文明の再征服がもう始まっていると思ったことがある。『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』からも同じ予兆を感じた。メイン舞台となる、兄貴分役の鈴木卓爾が主人公の田中淳一郎を居候させる家屋が、すでにして危なっかしい。ちょっと目を離した隙に、今すぐにでも『岸辺の旅』よろしく廃墟に変身し、近くの雑木林に飲みこまれてしまいそうな怪しさが漂っている。
 そして労働から解放され(排除され?)、社会生活を諦めている人々。口では独自の行動規範が大きな声でもっともらしく主張されているが、現実の彼らの生活は無為そのもので、酒場の店番をつとめる柴田千紘以外は、いかなる社会生活からも隔離されている。落伍者としての惨めさはなく、むしろ朗らかでさえあるのだが、それはおそらくカラ元気であろう。カラ元気を出していないと、大きく開口している深淵に落ちていってしまいそうだからだ。
 『岸辺の旅』の幽霊、『ジョギング渡り鳥』のモコモコ星人と同じく、なんら人間と見分けのつかぬ異界の使者が入れ替わり立ち替わり現れて、人間を誘惑し、隙あらばあっちの世界に連れ出していこうと画策している。休業中の音楽家である主人公(田中淳一郎)は、異界の使者たちに特にマークされているらしい。
 ジャック・ロジエのバカンス映画のような登場人物たちのカラ元気とは裏腹に、この映画はぎりぎり文明の淵に留まっているに過ぎない。この映画の監督、黒川幸則は不完全なものに取り憑かれている。画面のつながりよりも暴力的な音響効果に重きの置かれたこの映画には、数多くの意味不明なカット、次へと繋がっていかない行方知れずのカットが散見される。誰かが歩いているカットが中途半端なデュレーションで挿入されるが、それは誰かがどこかへ向かっているという物語構造になんら貢献しないカットなのだ。不完全なものを取り込んで、アンバランスな状態を保っておかないと、映画自体が不明の催眠術によって消滅させられてしまうのかもしれない。
 登場人物たちは「竹林の七賢人」気取りで、アルコール漬けの田園生活を送る。アルコールで始終まどろみつつ、でも覚醒している。アルコールによる酩酊が、この世に踏み留まるための心構えであるとさえ考えているようだ。劇中、冷めたピザが何度も登場するが、冷めたピザをまずいとは誰も言わない。そうした言動が命取りになるためである。彼らの言動、カラ元気は、何かから逃れるための願掛けなのである。


新宿K’s cinemaにて8/19(金)までレイトショー公開
http://www.villageon.ooo
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『映画よ、さようなら』 フェデリコ・ベイロー

2016-08-05 23:46:15 | 映画
 ウルグアイ映画『映画よ、さようなら』のなんとも捨てがたい味わい。
 『映画よ、さようなら』とはまた、ばかに切ない邦題をつけたものだが、主人公ホルヘが勤務する首都モンテビデオ市内のどうやら私立らしいシネマテーカ(Cinemateca)の日々をスタンダード画面でとらえたうらぶれ感がたまらない。その滞留した黴臭さはまるで、『さすらい』(1975)などの頃のヴィム・ヴェンダース作品のようだ。
 観客数の減少、設備の老朽化、家賃の滞納など、シネマテーカには問題が山積している。マルティネス館長という人は年老いたシネフィルで、もはやいかなる問題解決能力も持ちあわせていないことがすぐに分かる。ホルヘの努力もむなしく、支援財団からも支援を打ち切られ、シネマテーカはあっさり潰れる。彼らがその月のプログラムとして開始していた「現代ウルグアイ映画特集」「1960年代イタリア映画特集」「マノエル・ド・オリヴェイラ生誕100年祭」はどれもおもしろそうだったのに、残念だ。「おいおいモンテビデオ市民よ、君たちがちゃんと通わないとだめじゃないか!」と、いくつもの大切な場所をみすみす喪失してきた東京都民のくせに、映画の中の他人を叱責している自分を発見する。

 シネマテーカを引き払う最後の日、ホルヘは事務所のわずかな私物をボストンバッグにつめて館を去るが、じつは、この作品のポテンシャリティがぐっと上がってくるのは、この後半だ。ボストンバッグ1個をさげたホルヘは、モンテビデオ市内を歩き回る。正直、物語がシネマテーカ内で進行していた前半は、設定が1970年代と言われても疑問を感じないほどのアナクロ感が漂っていたが、外に出て行った後半は、これがあきらかに製作当時の2010年のウルグアイのお話なのだと改めて納得する。
 映画が終わり、愛が始まる。シネマテーカの客でもあった大学教授のパオラへのアプローチに踏み出していくホルヘ。45歳で失業した彼の解放の始まりである。パオラに会いにいく直前、美容室で髪を切ってもらうシーンもいい。
 映画が終わり、愛が始まる。でも、もちろんこの作品は映画の終焉をシニカルに語る作品ではない。シネマテーカだけが人生のすべてだったひとりの男の喪失と解放の両方を描いてはいる。これ以上の詳述は避けよう。敢えて言うなら、こうなる。映画が終わり、愛が始まる。そして映画がまた始まる、と。


新宿K’s cinemaにて8/19まで
http://www.action-inc.co.jp/vida/
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『地球に落ちて来た男』 ニコラス・ローグ

2016-07-30 23:13:53 | 映画
 ユーロスペース(東京・渋谷円山町)にてデヴィッド・ボウイー追悼上映『地球に落ちて来た男』(1976)を再見。おそらく中学時代以来ウン十年ぶりの再見だろう。正直言って、部分部分の強烈な記憶はともかく、ほとんどのシーンが新作を見るように新鮮だった。人の記憶なんて曖昧なものである。ニコラス・ローグの演出はかなりアナクロで、現代にはちょっと通用しない部分も少なくない。でもたとえば、眼球のコンタクトレンズを外すカットや、ヘンテコなセックスシーン、桟橋での有名すぎる会話「私のことが嫌いなのね」「嫌いじゃない。誰も嫌えない」、白昼のジン飲酒など、すばらしいイメージは枚挙に暇がない。きょうは同作の評というより、もう少しとりとめなく行きます。

 1928年生まれのこのイギリス人監督の全盛期は、1980年代まで遡る。おととし閉館した新宿歌舞伎町の「シネマスクエアとうきゅう」が1981年にオープンしたとき、こけら落としがニコラス・ローグ監督、フォークシンガー、アート・ガーファンクル主演のラブサスペンス『ジェラシー』(1979)だった。自殺未遂したヒロインのテレサ・ラッセル(ローグ映画のミューズであり、妻でもある)がラストで見せる、気道確保のために切開した喉の傷がじつに鮮烈だったのを、子ども心に覚えている。上映終了後、やくざっぽい男性が愛人っぽい女性といっしょに退場しながら「ああいう女って、いるんだよな」と言っていたのが背後で聞こえてきた。なるほどねと。
 ニコラス・ローグは撮影出身の人で、監督に転身する前は『アラビアのロレンス』の第二班撮影、ロジャー・コーマンの『赤死病の仮面』やフランソワ・トリュフォー『華氏451』なんかのカメラも担当している。イギリス映画の次代エース候補みたいな存在だったはずだ。
 「シネマスクエアとうきゅう」の番組編成を監修していた映画評論家・南俊子さんの趣味だったのか、『ジェラシー』の客の入りが良かったからか、その後は旧作の『赤い影』(1973)まで拾って上映していた。思えばニコラス・ローグばかりでなく、リドリー・スコットのデビュー作『デュエリスト』(1977)、その弟トニー・スコットのデビュー作『ハンガー』(1983)共に「シネスクとうきゅう」での単館公開だった。『ハンガー』もデヴィッド・ボウイー主演である。
 兄リドリーの場合、次作の『エイリアン』(1979)がブレイクしたあとの事後公開だったが、弟トニーの場合、『ハンガー』のあと、いきなり『トップガン』(1986)で世界トップのヒットメイカーになってしまう。『ハンガー』を見たときは正直言って、あんなに偉大なハリウッド監督になるとは思わなかった。そういう意味では、「シネスクとうきゅう」はじつに先見の明のある劇場だったということになる。

 『地球に落ちて来た男』は、大気の調査のために地球にきた宇宙人(D・ボウイー)が、宇宙船の故障のために帰れなくなり、しかたなく先進テクノロジー企業を創業して富を築き、帰還のための宇宙船開発のためにがんばるが、だんだんアルコール依存症になっていく物語である。このモチーフはおそらく、ボウイー自身の楽曲「スペース・オディティ」(1969)の歌詞に登場する主人公、薬物中毒になっていく宇宙飛行士トム少佐から借りてきたものだろう。
 この名曲「スペース・オディティ」は、最近でもベルナルド・ベルトルッチの美しすぎる小品『孤独な天使たち』(2012)でそのイタリア語版(「Ragazzo solo, ragazzo sola」)が使用されていたほか、ベン・スティラー監督・主演の『LIFE!』(2013)でも重要な役割を担っていた。『LIFE!』でベン・スティラーが演じた主人公は、直接的には描かれてはいないものの、あの突如とした躁状態は、おそらく薬物中毒かアルコール依存症によるものだろう。人生応援歌みたいなポジティヴなノリの作品だったが、『LIFE!』は見た目ほどアカルイミライの作品ではないと思う。『孤独な天使たち』の主人公少年の従姉オリヴィアは、薬物依存がかなり深刻だった。おそらく彼女の未来はきわめて暗いものだろうと言わざるを得ない。
 『LIFE!』のベン・スティラーも、『孤独な天使たち』の従姉も、『ジェラシー』のテレサ・ラッセルも、『地球に落ちて来た男』のボウイーも、みなトム少佐の親戚である。


7/31(日)以降はユーロライブで続映
http://bowiechikyu.jp
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松本裕子Objet展@Gallery SU

2016-07-25 23:44:08 | アート
 東京・麻布台のGallery SUで見た松本裕子さん(ふだんは「涙ガラス制作所」として活動 今回初めて本名を知った)のオブジェ展が素晴らしく、2回も見に行ってしまった。この作家を知ったのは偶然で、わが「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」時代の編集委員仲間である廣瀬純の著書『暴力階級とは何か』(2015 航思社刊)の表紙を飾った写真家・中村早さんの作品展を今冬に見に行った際に、一緒に松本裕子さんのガラス工芸作品も展示されており、その見た目は矮小・繊細・脆弱に見えながら、頑強さと放縦さとを体現するガラス作品の数々に、感銘を受けたのである。
 今回はガラス作品ではなく、木彫作品の展示だった。女性のクビが4体ほど。手首が2体ほど。ガラスと立体図形の組み合わせが数点。そして鳥の翼が1対。女性のクビをゆっくり回していくと、木彫とはいえ、彼女たちには固有の人格が宿っていることが手に取るにように分かる。いずれの顔も愁いを帯びて笑顔はないが、決して暗く沈んではいない。むしろ話しかけられるのを待っているような、何かを待機しているような表情に見える。そしていずれのクビにも共通する、後ろで束ねた髪の毛。目は口ほどに物を言い、というが、後ろ頭の髪の束も私には雄弁に思える。感覚の集約を感じさせるのだ。
 そして、鳥の翼。翼の単体で、胴体は作者によって放置され、今回は展示されなかったのだという。胴体から切り離され、無残にもがれた翼はそれでも凛とした威厳を失っておらず、マグネットによってさまざまな鉄にぴょんと吸い付いて、ペットのようにも見える。もがれた翼といえば、どうしてもヴィム・ヴェンダースの代表作『ベルリン 天使の詩』(1987)における、天使から切り離された翼を思い出す。そしてそれは元はといえば『嘆きの天使』(1930)のマルレーネ・ディートリッヒに遡っていく。
 ディートリッヒの時代錯誤な翼を復活させたのが、ディズニー映画『マレフィセント』(2014)におけるアンジェリーナ・ジョリーのもがれた両翼だった。ジェームズ・キャメロン、ティム・バートン、サム・ライミの美術監督を歴任したロバート・ストロンバーグの監督デビュー作である『マレフィセント』には、美術畑出身ならでは美学がたしかに花開いていた。
 そんな、あらぬ夢想と共に、同ギャラリーで松本さんの作品たちを見つめてきた。全作品が売れてしまった最終日、展示を終えた作品たちは梱包され、私たち鑑賞者はもちろん、作者本人のもとからも立ち去っていくのだろう。あらたな持ち主のもとで、マレフィセントの羽のごとくそれは保管されていくのだろう。そうした感慨と共に、ロベール・クートラス(クトゥラ)のコレクションをもつGallery SUの美しい昭和モダニズム(1936頃築)の洋館を後にした。


Gallery SU(東京・麻布台)
http://gallery-su.jp/exhibitions/2016/07/objet-1.html
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『あなたの目になりたい』 サッシャ・ギトリ

2016-07-21 09:41:54 | 映画
 サッシャ・ギトリというとついつい、蓮實重彦が梅本洋一のお葬式で弔辞を読んだ際に出てきた、「この日本でサッシャ・ギトリの全作品レトロスペクティヴが実現するまでは、梅本洋一の死を真に悼むことにはならない」という(弔辞としてはやや人を喰った)言葉を思い出してしまう。あれを聴いた列席者の誰もが「それは無茶な注文だ」と心でつぶやいたにちがいない。しかし今、アンスティチュ・フランセ東京(東京・市谷船河原町)でギトリ作品4本がちゃんと日本語字幕まで付いて上映されたという事実――これには賞讃の念しか思い浮かばない。にもかかわらず、今回私が見ることができたのはたった一本、『あなたの目になりたい』(1943)だけである。情けないとしか言いようがない。
 『あなたの目になりたい』は、マックス・オフュルスも顔負けの流麗なメロドラマで、主人公の男女(サッシャ・ギトリ自身と、彼の妻ジュヌヴィエーヴ・ギトリが演じている)の出会いの場となるパレ・ド・トーキョーの美術展会場における諧謔に満ちた絶好調なコメディ演出から始まって、徐々に画面が陰りを帯びていく変調の妙が、なんとも第一級の匠としか言いようがない。
 恋人をみずから振っておきながら、悲嘆に暮れる彫刻家役のギトリが、すがるように自分の美術コレクションを拝み回したり、ロダンの手の彫刻をさすったりするカットの、あふれるような美への殉教ぶりが感動的だ。
 このカットは、映画冒頭のパレ・ド・トーキョーにおける、ギトリがユトリロやルノワールなど、先人たちへのオマージュの言葉を友人と手に手を携えて歩き回りながら、たっぷりと語るシーンと呼応しているだろう。それらの展示作品はいずれも1871年という年号によって集められた特集のようである。フランスは普仏戦争で敗れたが、そのさなかにこれらの傑作が生まれたのだ。敗戦はしても芸術の美によって勝利を挙げた――そのように豪語するサッシャ・ギトリのダイアローグはほとんどモノローグのように響きわたり、誇り高さが強調される。
 パリ・コミューンで殉じなかった(そしてそれは小心者を意味しただろう)芸術家たちによって傑作が生まれ、それによる永遠の勝利がある。ひるがえって自分は、ナチスドイツ占領下のパリで映画を撮っている。灯火管制のために真っ暗となったパリの街を、懐中電灯で足下を照らしながらナイトクラブから家路につく恋人たちの鮮烈なイメージ——トリュフォーが『終電車』を撮りたくなった理由のすべてが『あなたの目になりたい』にある。
 と同時に、サッシャ・ギトリが占領下でドイツ軍に媚びることによって、恵まれた製作環境を維持し得たという影の部分もあるとのことだ。パリ・コミューンで殉じなかった芸術家が生み出した美を讃えるその声には、どうしても自己正当化の色彩も帯びていることだろう。生きるのが困難な時代にこそ、偉大な芸術が生まれる。1871年のパリから1943年のパリは困難さによって結びついた。そしてそれを目撃する私たちの2016年。全世界が影に覆われつつあるこの現代こそ、第2第3のルノワールが、サッシャ・ギトリが、生まれて然るべきである。そうでなければ、なんのための人間世界なのだろう?


9月発売《珠玉のフランス映画名作選 DVD-BOX 2》に収録予定
http://net-broadway.com/wp/2016/07/16/珠玉のフランス映画名作選%E3%80%80dvd-box-2/
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『ヒメアノ~ル』 吉田恵輔

2016-07-18 23:50:19 | 映画
 『ヒメアノ~ル』は、シリアルキラーの猟奇サスペンス、それからフリーターの一念発起的青春譚、ラブコメディといった複数ジャンルが、絶妙に溶け合っているというよりも、たがいに邪魔し合いながら、空々しい断層を作りだしていく点が非常に面白かった。そしてそうした中和しない各要素——猟奇サスペンス、フリーター青春譚、そしてラブコメディ——が、シネコン向け現代日本映画のクリシェに対する当てこすりにもなっている。
 連続殺人の猟奇性を体現するのはV6の森田剛で、フリーター青春譚は濱田岳とムロツヨシ、ラブコメディは佐津川愛美と濱田岳がそれぞれ受け持っている。彼らの言動ののりしろのような部分に、他のカテゴリーへの橋渡しの契機があるのだが、互いが互いの偵察と監視をしているような構造なのだ。
 シリアルキラーの森田剛にストーキングされた佐津川愛美は、ストーカー被害者としての恐怖と不安に満ちた生活の中で、恋愛も成就させ、ラブコメディのヒロイン役もやりこなしているわけだ。もちろん人の愛は成就されるほうがいいけれども、どうも濱田岳と佐津川愛美だけが、不幸の連鎖のようなこの映画の中で不釣り合いなほどに幸福を享受している。その幸福ぶりがどこか不埒さ一歩手前なものだから、ややこしい。
 現代日本はなにかと「不謹慎」という言葉で他人の不埒さ、不節操を監視し、弾劾する社会に成り果てているが、この映画もそんな構造なのである。シリアルキラーは別に、彼女の旺盛な愛と欲望を叱責するために脅しているわけではないのだが、どうもそうも見えてくる、という嫌らしい構造をこの映画は持っているのである。
 不埒さは、佐津川愛美のコケティッシュな佇まいからも、見え隠れする。『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(2007)など初期の主演作をのぞけば助演の印象が強い佐津川だが、本作では、そうした嫌らしさを見え隠れさせる難しいヒロイン役を好演したのではないか(欲を言えば、もっとできるはずだと思うが、事務所サイドの制約があるのだろう)。


ヒューマントラストシネマ渋谷等でムーブオーバー
http://www.himeanole-movie.com
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ユーロ2016を終えて

2016-07-15 04:00:35 | サッカー
 ユーロ2016の感想を少しばかり。
 まず私にとってのベストマッチは、最も興奮させられたという意味で、イングランドvsアイスランド。イングランドが普通にルーニーのPKで先制するも、そのあとすぐにアイスランドが2点をパパッと取って逆転勝ちするという衝撃的な一戦だった。特にアイスランドの2点目。大きな展開からフリーの選手が決めた1点目は今大会のアイスランド特有のゴールだったが、2点目は違う。まるで好調時のスペインのような華麗なティキタカで、イングランド守備陣を完璧に翻弄してからのゴールだった。スコアは2-1だが、インプレッシヴ・ポイントはそれ以上の差があった。
 ウェールズvsベルギーもおもしろい一戦だった。ナインゴランの豪快ミドルが決まったときには、一方的な展開になると思ったけれど、意外な展開となった。ウェールズの1点目(つまり同点弾)がおもしろい。シメオネのアトレティコ・マドリーが時々使う「芋虫」的なセットプレーで、ジョルダン・ルカクがマークする相手をフリーにさせてしまった。この日初スタメンのジョルダン・ルカクの若さが出て、心理的駆け引きに負けた。
 評判となったリヨンでのフランスvsアイルランド、ハーフタイムでのデシャンのダブル交代も素晴らしかった。カンテOUT コマンIN、スタート時の4-3-3から、最近試していなかった4-2-3-1にシステム変更。トップ下に入ったグリーズマンの2ゴールはいずれも、後半のシステム変更の賜物だった。
 決勝ポルトガルvsフランスは、もちろん、休みの1日少ないフランスの疲労が大きかったけれども、クリスティアーノ・ロナウドの故障交代後がそこはかとなく漂う「鵺的」な妖気が印象深かった。ポルトガル、フランス双方のピッチ上の22人がみな、クリスティアーノの超能力の前に調子を狂わされたかのようだった。内容はともあれ、ポルトガルがついに同国史上初のメジャータイトルを獲得した。12年前の自国開催のユーロ2004決勝で、ギリシャののらりくらりとしたフットボールにしてやられて、涙を流した経験を方法論として体得したかのような、塩漬け型のフットボールを実践しての戴冠だったが、2年後のロシアW杯ではヨーロッパ王者の責任として、イベリア半島元来の美しいフットボールを再興してほしい。昨今は、美しいフットボールを否定するのが新しい、みたいな風潮が大手を振っていて嫌な感じがするから。
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『帰ってきたヒトラー』 ダーヴィット・ヴネント

2016-06-30 04:14:03 | 映画
 アドルフ・ヒトラーが現代のベルリンにタイムスリップして巻き起こす珍騒動であると同時に、ファシズムの足音がもうそこまで近づいていることを示した作品。最初は、そっくりさんタレントによるショーにすぎないと誰もが(最初にヒトラーを発掘して売り出したフリーランスのTVディレクターもふくめて誰もが)高を括っている。しかしバラエティ番組の人気者になった彼が、長い沈黙とレトリックを弄した煽動的なコメントによって、番組収録現場の観覧者や視聴者をうっとりとさせ、ドイツ国民の内に秘めた蒙昧な独善主義、排外主義、アーリア優性主義がもたげさせるための装置と化していく。
 今まさに作られるべき作品だと言える。イギリスがEUからの離脱を選んだのは、排外主義が彼らの本音であることを隠し立てする必要を感じなくなってしまったからであり、ドイツがギリシャのシリザ政権を痛めつけるのは、財政再建のための「緊縮策」という美名のもとでギリシャの財産を収奪するためであり、パリで同時多発テロが起き、シャルリー・エヴド事件が起きたのはEUが域内の通行を自由化したことによる副作用だと言いたい反動主義者が数を増やしているためである。これら現代の政治的危機を、ヒトラーのタイムスリップによって説明しきってしまおうという不敵さが、この作品にはある。そしてタイムスリップしたヒトラーとは、私たちの心のなかに巣くっているものだというのである。
 極右の台頭と民主主義の脆弱化を、ブラック・コメディによって物語化する。これはナチスが政権を奪取する前に、『カリガリ博士』(1920)や『ドクトル・マブゼ』(1922)が未来予想図として物語化されたのと符合してしまっているのだ。現代には、もっと多くの『ドクトル・マブゼ』が必要だ。『帰ってきたヒトラー』をもっと踏みこむことは可能だし、そうした作品がたくさん生まれて、ディフェンスが硬められたらいい。そして日本でもぜひ『帰ってきたヒトラー』のような作品が作られたらいいと思う。


TOHOシネマズシャンテほか、全国で上映中
http://gaga.ne.jp/hitlerisback/
*監督名についての議論の部分は、本記事を読んで作品を見に行こうか考えてくださる方にはあまり関係がない話題に思えたため、コメント欄に移動しました。
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