荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『鳥の歌』 アルベルト・セラ

2012-02-11 07:18:56 | 映画
 いま話題沸騰の若き映画作家アルベルト・セラの『鳥の歌』(2009)。モノクローム撮影でいうと最近ではコッポラの『テトロ』が鮮烈であったが、『鳥の歌』はよりアルカイックな、いわば古文書を剥がして眺めていくような白と黒と鼠色だけで地球の表面が成り立っている世界である。「レ・ザンロキュプティーブル」誌のライター、ジャッキー・ゴルトベルクは「禁欲的かつ道化的、モンティ・パイソンとストローブの間」と評言しているが、一方で主題寄りの見方をするならば、ロッセリーニ『フランチェスコ、神の道化師』とエルマンノ・オルミ『どんどん歩いていくうちに』の中間であるとも言えるのではないか。

 東方の三賢人が砂漠や氷原、森林や岩山、湖水など、さまざまな土地を経巡りながら、最終的にはキリストの誕生を祝いに行き、マリアが赤子のイエスを抱く馬小屋の軒先で三人が平伏するいきさつを描く。これはロードムービー以前の旅のスケッチであり、その理由はそこには単に道ができていないからで、地球は依然として無垢で、文明によるアレンジを施されてはおらず、未知の惑星としての凶暴な表面をさらけ出している。あたかもSF映画に登場するどこかの無人の惑星のようである。
 リアリズムというよりこれはイノセンスと言った方がよく、このイノセンスはまだじゅうぶんに観客の心を鷲づかみするには至っていないかもしれない。カプリッチ・フィルムズのティエリー・ルナスが上映前の弁論でセラの作風を評して「彼はショットの作家ではなく、シークエンスの人である」と述べていたが、私は逆の感想をもった。いまどきこれほどショットの人はいないように思うし、それはいくぶんかアナクロニズムでもある。決めのショットが単体の持続の中で自足している。その都度、三人の旅路がリセットする。
 誕生したばかりの赤子に三賢人が平伏するシーンで、稀代のチェリスト、パウ・カザルスによる『鳥の歌』が作品中唯一の劇伴として流れるのは、カタルーニャの映画作家セラの面目躍如といったところだ(「パブロ・カサルス」という表記はスペイン語で、カタルーニャ語では「パウ・カザルス」。母音に挟まれたsが[z]音で濁るのはフランス語やポルトガル語などと同じルール)。思えば、紀元零年の時点でベツレヘムに赴く東方の人間がカタルーニャ語をしゃべるわけはなく(東方の三賢人は一説によるとイラン人だったと言われている)、ヘブライ語とカタルーニャ語がなんの断りもなく同居しているのは、きわめて荒唐無稽な状態である。こういうふざけた真似をするから、バチカンから公認を得られなかったのであろう。

P.S.
 『鳥の歌』という曲は、FCバルセロナがホームのカム・ノウで誰かの死去に際し、1分間の黙祷を捧げる時にいつも使用されている。それと、斎藤敦子の指摘によれば、カイエ・デュ・シネマ派がフランス都市部を除けば世界で最も多く残存しているのが日本ではなく、カタルーニャ自治州だということだ。


東京日仏学院(東京・市谷船河原町)の特集《カプリッチ・フィルムズ ベスト・セレクション》内で上映
http://www.institut.jp/
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もうひとつの「サウダーヂ」

2012-02-10 01:00:13 | 映画
 矢口史靖と山崎貴のそれぞれの新作『ロボジー』『ALWAYS 三丁目の夕日'64』には、似たような人々、似たような心情が写っている。ようするに、日本産業社会および日本型ハイテクノロジーの斜陽、終焉に対するノスタルジーである。『ロボジー』は、人型ロボットの開発に失敗したメーカー担当者たちが、苦しまぎれにロボットの筐体サイズにぴったりの老人を臨時に雇って着ぐるみとし、いったいいつまでこの子ども騙しのトリックで世間を欺き続けられるか、というナンセンスなギャグ喜劇。一方、『三丁目の夕日'64』は戦後復興色の濃かった前2作から一転し、著しい経済成長とオリンピック開催を背景に、勢いづく庶民生活と若者の台頭を、例によって「あの頃は良かった」式の懐古調で扱っている。
 これもひとつの「サウダーヂ」であろう。日本人の幸福はあたかも、『モテキ』の大根仁のようにライナーノーツ的イメージとして提示するか、「いまはもう消えてしまった」ことへの懐古においてしか見せることができないかのようである(それにしても、ライナーノーツというジャンルもまた、無茶苦茶に懐古を掻きたてるものではないか?)。フランス人の幸福をアニエス・ヴァルダがその名も『幸福』の中で、冷淡なるクリシェとして提示したことを思い出させる。そして矢口、山崎両者によるそうした方法は、見当外れではいない。誰もが現代日本の直面する、雪崩を打ったような急激な衰退ぶりを肌で感じており、人間という動物には結局のところ、懐古は生きる上での必需品であるからだ。
 それでも「まだ諦めない」と粘りを誇示しつつV字回復を期したり、ごくわずかな風穴を突破口にして新たなオルタナティヴ性をもって世界を出し抜く、ということが大事であるのは論を俟たない。だが、その広大な背後には、だらしなく子ども騙しのトリックで事態をごまかしたり、ノスタルジーに耽溺しつつリアルに対して偏狭になったりする精神性が広がっている。そして、その広がりを見るにつけ、ある社会、ある文明の斜陽、終焉の始まりが本当のことであることが確認できる。コンスタンティノープルで胚胎されたビザンツ文化であるとか、ポルトガル人のサウダーデ(ブラジルではサウダーヂ)は、このように生成していったのだろうか。出来がいいとか悪いとかということではなく、『ロボジー』も『三丁目の夕日'64』も健全な社会で生まれる作品であるとは思えない。そしてその不健全のゆくえも、私は見ていきたいと思っている。
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NHK-BS『役者 奈良岡朋子 〜舞台の上の60年〜』

2012-02-07 02:30:02 | ラジオ・テレビ
 NHKが、昨秋に津軽のイタコ、いわゆる「カミサマ」を舞台上で演じた奈良岡朋子の稽古風景にカメラを密着させた。奈良岡朋子といえば、かつてはテレビドラマのバイプレーヤーとしては不可欠な存在であったが、現在の露出頻度はそれほどではない。大河ドラマ『篤姫』のナレーションは印象深かったけれども、宇野重吉の愛弟子である彼女は現在、所属する劇団民藝をもっぱらメインの活動領域としているようである。
 映画史的には、演劇集団円の芥川比呂志と恋人役で共演した黒澤明の『どですかでん』(1970)がもっとも大きい。しかし、鈴木清順の最高傑作のひとつ『すべてが狂ってる』(1960)もいいし、島津保次郎1937年の名作を斎藤武市がリメイクした『浅草の灯』(1964)では、オリジナル版で坪内美子が演じた役を演っていたのも捨てがたい(作品としては、島津版のほうが比べものにならないくらいに優れているが)。

 今回の彼女の稽古風景を見ていて興味深かったのが、いわゆる「リアリズム演劇」の申し子である彼女が、徹底的に形から入っていく演技の探求方法を模索していたこと。サイコロジカルに役に接近するだけでなく、顔の向き、上げ下げのタイミングなどアクションのディテールを、パート譜のテストのように何度も何度もやり直し、修正を施し、それを身体にすり込ませていく。よく小津演出が「気持ちなし」で形式を追究していた、という証言をいろいろな本で読むことができるが、今回それに近いものを感じ、蒙を啓かれた。
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『閉ざされた谷』 ジャン=クロード・ルソー

2012-02-05 16:47:54 | 映画
 ストローブ=ユイレが「ヨーロッパで最も偉大な映画作家の一人」と賞讃したジャン=クロード・ルソーの長編第2作『閉ざされた谷』(1995)は、作者が10年以上にわたりSuper 8のカメラをもって、南フランスのフォンテーヌ・ドゥ・ヴォクリューズの風景と相対した記録。山間部の映像が独特の構図で切り取られ、ゴダールの『フレディ・ビュアシュへの手紙』(1981)を思い出させる自在な音声編集が施される。ジョルジョーニ、ペトラルカ、ベルクソンの関連要素によって風景への視線を補強しつつ、(おそらく作家自身の)電話の声が、日記映画としての色を強めてもいる。電話の声はごく日常的な会話のようであるが、相手の声は聞こえない。
 アヴィニョンにも住んだ詩人ペトラルカがこの地で、永遠の淑女ラウラへの愛を謳った『カンツォニエーレ』(1336-1374)を書いたのだそうで、実際に本作にも、その故事を観光客向けに告げる看板が写っている。ペトラルカはラウラと交際したことはなく、彼の恋愛叙情詩は独り言である。そして本作の電話の主も「ロラ! ロラ!」(Lauraのフランス語読み)と叫び続けたりもするのだが、これはどこに届くとも思われぬ独り言、つまり「閉ざされた谷」からの咆哮なのだ。
 ヴォクリューズの源泉から地下水の湧き出る洞窟は、人間たちの目の前に、冷たくまっ黒な洞窟の口をパックリと開けている。人間というのは愚かなもので、この闇と空洞の現前ぶりに耐えかねるのか、観光客の誰もが、巨大な闇に向かって小石を投げ込まずにいられないようである(左の写真は映画スチールの転載ではなく、パブリック・ドメイン)。「ボッチョン!」という水面に石が落ちる音がのべつ幕なしにくり返され、それがこの作品の基調音にさえなっている。
 ルソーは、人間個々の生、人格、物語に近づくことを拒否した。大部分のカットは風景のみの無人ショットであって、人間が写っているとしても、山水画の中の点景にすぎない。水の源泉を辿り、水の歴史が生成される渓谷の流れが辿られ、最後に海が写る。海岸線にぽつんとある公衆電話のボックス。ここにひとりの男が入っていく。この男は、さきほどの電話の声の主であろうか?


東京日仏学院(東京・市谷船河原町)の特集《カプリッチ・フィルムズ ベスト・セレクション》内で上映
http://www.institut.jp/
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『三国志英傑伝 関羽』 麥兆輝、莊文強

2012-02-01 02:21:29 | 映画
 そのどれもが傑作であるわけはないのは重々承知の上で、甄子丹(ドニー・イェン)の映画となると、そそくさと見に行ってしまうのは、受け手としての私が単にミーハーだからでしかないのだが、『インファナル・アフェア』シリーズの演出を劉偉強と共につとめた麥兆輝(アラン・マック)と、脚本の莊文強(フェリックス・チョン)の共同監督作品と聞いてしまえば、期待半分、予想通りかなという考え半分で落ち着いてしまう。
 よく、フレッド・アステアのダンスシーンを見た時の感嘆を評して「演出放棄」などと表現されたことがあるが(そしてそれはマーク・サンドリッチのような才能豊かな作り手にとっては、まったく侮辱とも思わないだろう)、最も良い功夫映画、武侠映画にもそれと同じようなことが言える。私は、甄子丹のアクション監督しての、そして顔面芝居としての緊張感が、そうした一見「演出放棄」にも見えるような閾に達するのが先か、それとも肉体的な衰えが先か(彼はもう48歳になってしまっているのだ)、ひやひやするような気持ちで見守っている。
 『三国志英傑伝 関羽』の作品そのものは標準作といったところで、『三国志』の中でも “赤壁”(レッドクリフ)や “鶏肋” などをあえて描かずに、その数年前の、引き留める曹操を振りきった関羽が、蜀に無事帰国するために、5つの関所を手形なしで通れる約束を取りつけたにもかかわらず、じつは後漢のラストエンペラーから暗殺命令が下されていたという “過五関、斬六将” のチャプターを、麥兆輝と莊文強の2人組がごく手短に語りきっている。大軍勢のスペクタクルではなく、1対1の勝負を、さまざまな空間条件の下で腰を据えて撮ることができただろう。
 映画の冒頭、すでに死した関羽の遺骸を柩に安置し、「真にこの男を弔うに値するのは、この俺のみだ」と言わんばかりの曹操を演じた姜文(『鬼が来た!』以外にも監督作はあるのだろうか?)は最高である。


ヒューマントラストシネマ有楽町&渋谷ほかで新春公開
http://www.sangokushi-kanu.com/
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『夜の鳩』『地熱』から見えてくる竹久千恵子のただならぬ影について

2012-01-29 14:27:26 | 映画
 織田作之助が42歳で逝った武田麟太郎を追悼する一文(1946)を偶さか読んでいたところにもってきて、つい最近スカパー!で、武田がみずから腕をふるったシナリオ『一の酉』を石田民三がJ.O.スタジオ(やがてP.C.L.と共に東宝へと糾合する京都のスタジオ)で撮った『夜の鳩』(1937)を見る機会を、奇しくも得たのであった。
 都市生活者の憂鬱な刹那を詳細に描写し続けた武田麟太郎に、織田作がシンパシーとリスペクトを抱いていたことはよく理解できる。そしてなんといっても、石田民三の演出のじつに細やかであるのには恐れ入った。すでに一部では高評価を得てはいるが、より広範な再評価が期待できる映画作家である。私が石田のすごさを知ったのは、1995年に筒井武文が書いた記事によってであり、それからようやくぽつぽつと見始めたのだった。

 『夜の鳩』において浅草・馬道あたりの居酒屋で酌婦をやっている「おきよ」さんというヒロインに血を通わせたのは、年増の色香を発散してやまぬ竹久千恵子という女優の存在だ。溌剌としたモダンさがきわだつ初期の東宝女優たちにあって、この影は異質で、夜の生活が祟ったか、25歳にして「おきよ」さんはみずからの美貌の衰えを嘆いてやまない。そして、ついちょっと前まで浅草界隈で1、2を争う看板娘であったプライドが、「おきよ」さんをいっそうかたくなにするのである。
 竹久千恵子は、山本嘉次郎『新婚うらおもて』(1936)や斎藤寅次郎『思ひつき夫人』(1939)といったナンセンス・コメディにおけるお内儀役もはまっているが、やはり、呆然と立っているだけで淪落の匂いを漂わせる女が、一番似合う。そのいい例が『夜の鳩』であり、三好十郎の原作を鳴滝組の滝沢英輔が映画化した『地熱』(1938)での、炭坑町の勝ち気な酌婦役がこれにとどめを刺すだろう。この仇っぽさは、ただごとじゃない。
 滝沢と山中貞雄ら鳴滝組は、前年に同じく三好十郎の『戦国群盗伝』を前進座と組んで映画化したし、歴史的にはそちらのほうが有名だが、私は個人的には『地熱』のほうを愛する。竹久千恵子、石田民三、鳴滝組といった1930年代が生み出した幾重ものトライアングルをつぶさに眺めていると、『人情紙風船』(1937)のニヒリズムは突然変異ではないことが手に取るようにして分かってくるし、この種子が戦後の川島雄三、三隅研次、さらには神代辰巳をも生み出したのだと思う。
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『贖罪』 黒沢清

2012-01-27 02:02:27 | ラジオ・テレビ
 15年前、小学校の校庭で5人の女児が遊んでいて、その中から最も華やかな少女エミリが選ばれ、体育館に連れ去られてから殺される。エミリの母(小泉今日子)が娘の誕生日に、4人の少女たちを招待し、「あんたたちは、目の前でエミリが殺されようとしているのに、助けなかった。犯人が依然として捕まっていないのは、あんたたちが役立たずだからだ。犯人を捕まえるか、償いをするかしなさい。さもなければ、私はあんたたちを絶対に忘れないし、赦さない」と、トラウマになるような激白を4人の少女に投げつける。こうして物語はおずおずと始まり、15年後の本題へと入っていく。

 周知のごとく、黒沢清の作品において物語はたいていその冒頭で、決定的な何かがあっけなく起こってしまっている。本来は主人公になるべきだった人物の失踪、誘拐、自殺、入獄などによって、物語がいったんガクっと始まり損ねた後に、その骨を拾う人間なり、指令じみた遺言やら符牒やらに誘われて前任者の宿命や使命を代行しようとする人間が現れ、この人間が無知から知に転じていくにしたがって、画面内の現実が激しく歪曲していく。そして、あたかもそれは、ファッショの原始的発生を体現するかのようでもある。

 黒沢清にとって初の連続ドラマとなった『贖罪』でも、決定的な事柄(女児殺害)は、まず最初に起こってしまう。そして、犠牲者(今回の場合はエミリ)を見殺しにする恰好となった4人の少女の償い、過去の落とし前を、ひとつひとつ検証していく。
 まだ物語は半分を過ぎたに過ぎないから、今後の放送でどうなるかは見当もつかない。だが連続ドラマという特性ゆえ、これまでの黒沢作品のように、選ばれし代行者によって世界が変質していくというような状況に掘り下げていくという構成をとらず、禍々しい精神性の伝染を水平に平らげていくのが興味深い。つまり、「世界の秩序を回復せよ」といった直裁的な指令を孤独に受信する役所広司やオダギリジョー、洞口依子といった別格的な代行者が現れるのではなく、「この彼女の場合は」「そしてあの彼女の場合は」というふうに、横へ横へと広がっていく。その広がりを受け止めるエミリの母は、15年間喪服のような黒い衣装を着続け、被害者としての特権的地位を振りかざす『黒衣の花嫁』であると同時に、フリッツ・ラングの『死滅の谷』(1923)で闇の中、ロウソクの炎を1本1本消していく “疲れ果てた死神” でもある。
 今後の『贖罪』は見逃せない。


WOWOWで毎週日曜よる10:00から放送
http://www.wowow.co.jp/dramaw/shokuzai/
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『がめつい奴』 千葉泰樹

2012-01-24 13:02:12 | 映画
 大阪・釜ヶ崎でドヤをいとなむ強欲な婆さん(三益愛子)を中心に、吹きだまりの人間模様を、千葉泰樹がドロドロと油っこく撮った『がめつい奴』(1960)。その後は同名のテレビドラマも放送されたから、子どもの頃からこのタイトルだけは知っていて、訳もわからず大阪という街にあこがれを持っていた思い出について、以前にも拙ブログには書いたことがあったけれども、さすがにここまで辛気くさいドラマとなると、子どもに興味を持てというのは無理である。
 そして今回、ついに現物を見る機会を得たのだが、これがすこぶる面白い。「がめつい」という、現在でもよく使われる形容詞は、本作の原作戯曲を書いた東宝取締役の菊田一夫の造語で、それ以前には関西にもなかった形容詞だというから、社会的影響を大いにもたらした作品ではある。それにしても、関東の地でぬくぬくと暮らす輩が、かえってこんなのを好んで見る傾向があるのは、昔から変わらなかろうという自覚くらいは私にもある。

 原作戯曲が菊田一夫指揮下の芸術座(東京・日比谷 現在のシアタークリエ)で初演され、ロングランしたのは1959年から。名手・千葉泰樹が舞台版と同じ三益愛子を使った映画化は翌1960年であるから、松竹ヌーベルバーグ版『がめつい奴』とも言うべき大島渚の『太陽の墓場』と同時期の作品ということになる。
 ちょっと検索してみると、『太陽の墓場』が8月9日に松竹系で公開、『がめつい奴』がこれに遅れることわずか1ヶ月、9月18日東宝系で公開とある。こういうタイミングは、偶然ではないのだろう。当時の観客はこういうドヤ街を扱った作品を、現代人がホーンテッドマンションに入場するのと同じような怖いもの見たさで、そのどぎつく不衛生な人間模様を、おやつを食べながら楽しんだのにちがいない。

 森雅之の演技が楽しい。かつて釜ヶ崎一帯を所有した一族の元令嬢で今はホルモン焼の屋台引きに身をやつした女(草笛光子)の体を奪った上に、言葉たくみに女から土地の権利書まで巻き上げる強欲なポンコツ屋を、嬉々として演じていた。田中眞澄ほか編『映畫読本 森雅之』(フィルムアート社)に1枚も本作のスチールが載っていないのが残念である。なお、本書の年譜にしたがえば、この年の森雅之は、成瀬巳喜男2本『女が階段を上る時』『娘・妻・母』の後にこの『がめつい奴』、それから黒澤明『悪い奴ほどよく眠る』、市川崑『おとうと』と続く。スタジオ・システム最後の輝きが、森雅之の華奢な肉体を透過して浮かび上がるかのようだ。


神保町シアター(東京・神田神保町)の特集《川口家の人々》で上映
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/
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『テトロ 過去を殺した男』 フランシス・F・コッポラ

2012-01-22 12:16:17 | 映画
 前作の『胡蝶の夢』(2007)といい、今回の『テトロ』といい、コッポラがどこかすごい領域に行ってしまったらしいことは、多くの人の感嘆するところで、私もそれに大いに賛同する。愛娘ソフィアの監督としての成功によって生じた刺激が、ワイナリー経営に転向しつつあった父の時ならぬ何度目かのピークを──いや、ひょっとするとこれは、彼にとって最高の時代ではないのか──呼び寄せたのであろうか? そして今のコッポラならば、たとえばオリヴェイラやペドロ・コスタと対抗することもじゅうぶんに可能ではないだろうか。
 『テトロ』でいぶし出されるモノクロームの陰影は、デジ撮影ながら目を細めてしまうほど鮮烈である。物語は、父と息子の相克、兄と弟の相克、アメリカとラテンアメリカの相克など、矛盾が幾重にも折り重なり、現代という時代があたかも50'sアメリカ映画に相応しい時代であるかのように、作家は仕向けていくのだが、その手さばきがあざやか過ぎる(またそうした相克は、『ゴッドファーザー』から『ランブルフィッシュ』にいたるコッポラ自身のフィルモグラフィを彩ってもいた)。
 舞台となるのはアルゼンチンの首都ブエノスアイレスだが、そうした認識だけでは、この映画の根底を理解するためには不十分であろう。ここはブエノスアイレスの中でも、ラ・プラタ川の河口に面した港湾地区「ラ・ボカ」である。王家衛『ブエノスアイレス』(1997)の舞台ともなったこの地区は、国内大多数のスペイン系というよりもむしろ、イタリア系の移民が歴史を精魂こめて作りあげ、19世紀の雰囲気を今に伝えている。「南米で最もヨーロッパ的」と評される大都会ブエノスアイレスきっての下町であり、タンゴの中心地でもある。
 マラドーナがなぜボカで活躍したのか? Maradonaという苗字の響きを聞けば分かるように、メッシやサネッティ、マスケラーノと同じようにそれがイタリア系であることを示しているのである。ちょうど本作のタイトル “テトロ” の元となった主人公たちの一族の苗字 “テトロチーニ” が、明らかにイタリア系であろうことと符合するかのように。オーケストラ指揮者を頂点とするイタリア系のテトロチーニ一族は、同じくイタリアを父祖にもつコッポラ一族の鏡像であり、コルレオーネ一族の分身でもある。


シネマート六本木、シネマート心斎橋で公開中
http://www.cinemart.co.jp/
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《北京故宮博物院200選》@東博

2012-01-18 02:35:19 | アート
 東京国立博物館でおこなわれている《北京故宮博物院200選》の常軌を逸した大混雑は、いったいどういう理由でこうなるのか、私には見当もつかない。日本国内のトレンドはどちらかというと嫌韓、嫌中といった排外主義に達した観があるが、それとあべこべのことも、たまにあることはある。同展のホームページには、会場に入るまでに「40分待ち」、“神品” と喧伝される張択端の『清明上河図』を見るための列は「210分待ち」などと、気の遠くなるような情報が掲載され、リアルタイムで待ち時間情報が更新されている。
 私としてもあまり作品そのものに集中できぬまま、あっという間に閉館時間となってしまい、時間がまったく足りない。それでも最高度のものがかなり来ていて、『清明上河図』以外にも、米友仁『雲山墨戯図巻』、李迪『楓鷹雉鶏図軸』、夏珪『遙岑煙靄図冊』、そして趙孟頫『水村図巻』といった有名画家による絵画をはじめ、玉器、青銅器、漆器、陶磁器、文房具、書、仏教美術など、一生に一度は見ておくべき美の基準がそこにはあった。
 真の優品の過半数が北京故宮(紫禁城)にではなく、台北故宮(蒋介石の邸宅の近隣地区)に所蔵されていることは、近代史の語る歴然たる事実であり、またそれは美術ファンの常識でもあるのだが、今回は改めて、北京故宮の所蔵品のすばらしさも再認識した次第だ(私は北京に行ったことがない)。中国政府は今後、GDPで日本を抜き去った圧倒的な経済力を盾に、台湾政府に対して「台北-北京 両故宮の統合」を強引に提案、推進してくるかもしれない、と私は予想している。

 ひとつイチャモンをつけておくならば、今回の展示はあまりにも時代が清に偏りすぎている。清の芸術は、以前に〈存在した〉美の模倣であり、オマージュとしての性格を濃厚に有する。技術的な進歩、材料の進歩ゆえ見た目には美しいが、精神性に凄みはない。徳が以前ほどではないのである。
 これはようするに清が、ツングース系の女真族による征服王朝であることと深い関連がある。一握りの少数民族が何百倍もの人口を有する漢民族を相手に専制支配を続けるためには、あらゆる面で朝廷の正統性を掲げなければならない。これはアートにおいても同様なのである。こうした政治的理由により、清の芸術は、日本のようにオルタナティヴな前衛性をまとうこともなく、見た目の正統性をパラノイア的なまでに追究し、中華思想への恭順、既存の美の守護を推進している、とそう思えるのだ。建前と本音が一緒くたになった世界である。


《北京故宮博物院200選》は東博(東京・上野公園)で2月19日(日)まで開催中(※張択端の『清明上河図』は1/24までの期間限定だそうです)
http://www.kokyu200.jp/
  
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ソフィ・カル写真集『APPOINTMENT with Sigmund Freud』

2012-01-15 09:34:38 | 
 TOHOシネマズ六本木にて、トム・クルーズが大いに張りきったワンマンショーのごとき『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』を堪能し尽くし、体が温まったところで青山ブックセンターへ。ここで立ち読みしているうちに欲しくなって買い求めたのは、フランスの女性写真家ソフィ・カルが2005年にイギリスで出した写真集『APPOINTMENT with Sigmund Freud』(Thames & Hudson刊)。とくに目新しい品ではないが、素晴らしいものなので、書き留めておきたい。
 彼女の写真集は以前たしか2冊ほど仏「カイエ・デュ・シネマ」社から出ていたし、日本でも原美術館(東京・北品川)の《限局性激痛》展をはじめとして、それなりに紹介されてきた。

 本作は1999年の4月、ロンドンのメアーズフィールド・ガーデンズ20番地のフロイト・ミュージアム(旧宅)でおこなわれた展覧会が元になっている。モチーフは “ジークムント・フロイトとのアポ” ということで、彼女がフロイト博士の旧宅に忍びこみ、博士愛用の小物、古美術、文具、家具、寝具、衣服などをいろいろと吟味、撮影する設定のたいへん素敵な企画である。王家衛(ウォン・カーウァイ)監督『恋する惑星』(1994)の王菲の行動からいただいたアイディアであろうか。
 フロイト邸での彼女の品定め的ひとり遊び以外にも、なぜか彼女自身の過去の画像へと遡行していく点がおもしろいと思った。失敗に終わった結婚のウェディング・ドレスがまだ彼女の手元に残されていて、それがなぜかフロイト家のソファにだらりと横たえられたり、彼女がパリのピガールでストリッパーをやっていた時代のステージ上のヌード写真、そしてなんと彼女が同僚のストリッパーを怒らせてしまい、殴られて床の上で失神している生々しい現場写真など、プレーとリアルの境目がきわどく縫い閉じられていくのである。
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『永遠の僕たち』 ガス・ヴァン・サント

2012-01-11 03:03:40 | 映画
 『永遠の僕たち』はなんとも愛らしい作品で、作品としてはじつに甘ったれたものであるから、私はその流儀に従って、だらしなく極私的感想を述べていきたいと思う。
 難病ものであり、初体験ものであり、というふうに並べていくとひどく俗悪なものを想像しがちだが、儚げで美しい限定的な時間の感覚を、口の中で転がしてゆっくりと遊んでいるような映画である。そんな模糊とした比喩で形容されても、読まれる方は釈然としないだろうが、そんな映画なのだからしかたがない。主人公カップルは、美少年と美少女の組み合わせである。少女(ミア・ワシコウスカ)の髪はセシール・カットだし、原題の『Restless』は『勝手にしやがれ』の英題『Breathless』の捩りだろう。そして、少年と少女が墓参りだの葬式だのを隠れ蓑にして、秘密の儀式を執り行っているのは、詩的レアリスムの代表作『禁じられた遊び』の捩りだろう。

 ポール・マッカートニー&ウィングスがむかし1976年に歌った歌詞は、こんな出だしだった。「誰かがドアをノックしてるよ。誰かがベルを鳴らしてる。もしよかったら、ドアを開けて彼らを入れてあげようよ。」 そしてそのあと、実在の人名の羅列となりつつ韻を踏んでいる。シスター・スージー、ブラザー・ジョン、マーティン・ルーサー、フィル&ドン、ブラザー・マイケル、アンティ・ジン、Open the door, and let'em in.
 Brother Johnというのはもちろんレノンのことだ。ようするに、幽霊を召喚しようよ、とマッカートニーは唱えているのである、ブラザー・ジョンが射殺される5年も前に。
 アメリカ郊外一軒家の地下ガレージにしばらく放置しておいたような、くすんで色褪せた『永遠の僕たち』の画質は、セバドーとかシルバー・ジューズ、ジップ・コード・レビューとかそういう、パリ留学を前に彦江智弘がまとめて私に託していった1990年代前半ローファイ音楽の7インチシングルの裏ジャケにも似た黴臭さがある。あの時の7インチシングルの束はまだ、私の実家にあるはずだ。

 意地の悪いことを少し言うと、若手がデビュー作か2作目でこれを撮ったなら諸手を上げて絶讃するところだが、今年ついに還暦をむかえてしまう大ベテランがこんなものを作っているというのは、ダメだとまでは言わないにせよ、少しばかり減点である。たいへん愛らしく、ベストテンの上位に忍びこませたくなる逸品だが、製作姿勢としては前作『ミルク』から退行している。


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)およびシネマライズ(東京・渋谷スペイン坂上)にて公開中
http://www.eien-bokutachi.jp/
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『源氏物語 千年の謎』 鶴橋康夫

2012-01-08 20:09:38 | 映画
 能書家の藤原行成が書き残した日記『権記』(991-1011)の現代語訳が講談社から文庫で刊行されはじめ、その上巻をちょうど読み始めたばかりで気分が盛り上がっていたため、角川映画の『源氏物語 千年の謎』もついつい見てしまった。絢爛たる王朝絵巻をもってカンヌで天下を取った衣笠貞之助が生きていたらどれほど激怒したか、というこけおどしだが、それもまた良しかと許せてしまう珍品だ。
 光源氏(生田斗真)、藤壺(真木よう子)らを中心とする『源氏物語』本編をホラー的に味つけした世界と、その物語をせっせと書きまくる紫式部(中谷美紀)、物語の続きを楽しみにしている藤原道長(東山紀之)、“陰陽師” 安倍晴明(窪塚洋介)、藤原行成(甲本雅裕)らを中心とする取り澄ました現(うつつ)の世界が、なかなか大胆に編集されている。

 そして、本作を見た人なら誰でもそう感じるだろうが、六条御息所を演じた田中麗奈という女優の、こう形容したら怒られるかもしれないけれども、異形性がやっと取りあげられた。これまで彼女を起用したどの監督も、彼女のすこしエキゾチックというかアバター的というかそういう個性に目をつぶってきたのだけれども、今回の作者はそれをやった。これは立派なことだと思う。
 監督の鶴橋康夫はドラマ演出界では巨匠で、私も、池端俊策と加藤正人が共同でシナリオを書いた『天国への階段』(2002 日テレ系)は、かなり真剣に見た記憶がある。古尾谷雅人が旧友の佐藤浩市に刺殺される瞬間の「圭ちゃん…」と呟く呟き方なんて、いまでも物真似ができるし、破滅寸前の佐藤浩市からもらった煙草を加藤雅也がじつに旨そうに吸う同性愛的なカットは「また見たいなあ」とも思う。
 その鶴橋が「これだ」と思ったのだろう、田中麗奈の顔貌をこれでもかとクロースアップで撮りまくり、サディスティックな連続性で繋ぐ。やがて生き霊となって、光源氏の女たちを怨み殺していく六条御息所というホラー的人物の発生過程に取り憑かれたのか。実際にはこういう視点は目新しくもないらしいが、映画でやったことに意義がある。

 基本、この『源氏物語 千年の謎』を誰に薦める気も私にはない、というよりたんに腰の引けた人間がひとりいるというだけのことなのだが、こういう、製作委員会の人たちは真剣にお金儲けをしようとして作っているのに、どう見てもビザールな変態映画が各地のシネコンでポンとかかって、正月の着物姿のご婦人グループが開始30分もしないうちにそそくさと退散する、という光景を横目で見やりつつ、田中麗奈がなすすべもなく崩れていくのを眺める小さなスリルは、それなりに悪くない。『源氏物語』があたかも『陰獣』の延長線上にあるかのように錯覚させてしまう困った作品。


TOHOシネマズ日劇ほか全国で公開中
http://www.genji-nazo.jp/
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山本嘉次郎 著『たべあるき東京 横浜 鎌倉地図』

2012-01-06 02:59:04 | 
 以前にも『洋食考』(すまいの研究社)を取りあげたことのある、銀座生まれのグルメ派映画監督・山本嘉次郎の『たべあるき東京 横浜 鎌倉地図』(昭文社)という64ページのアトラスを手に入れた。1972年の発行だからそれほど古くはないが、現在では意外と出回っていない珍しい古書だと思う。表紙の題字は、手書き明朝体の名人だった伊丹十三が書いている。

 古い食べもの屋地図なんぞ眺めてなにが楽しいのか、と問われれば元も子もない。地図の片隅に囲みで掲載された山本監督のコラムがじつに洒落て気が利いているとか、いろいろと効能は言える。でもそれだけではない。
 嗚呼こんな店が昔はこんなところにあったのか!とか、現在はあそこで営業しているあの店は当時はここにあったのか!とか、現在ではすっかり高級店として名を馳せたあの店も当時は「安くて旨いものを喰わせる」なんて褒められ方をしているなぁとか、そんな些末なことがらで、私は無類の楽しさを体感することができる。
 たとえば《銀座西》の章。いまは六丁目・交詢社ビルディングのはす向かいでやっているとんかつの「梅林」が、当時は四丁目・和光裏に店を構えているのである。そして、おでんの二大看板「お多幸本店」と「やす幸」が、じつはソニービル裏で軒を並べて競い合っていたのである。さらに、現在は元赤坂に構える京懐石の超の付く名門「辻留」は銀座七丁目外堀通り沿い、ドライケーキの「ウエスト」の隣あたりでやっていたのである。ははあ。日比谷公園内の「松本楼」は「火災のため休業」ですって。へえ。
 山本嘉次郎という人は、何でも喰ってやろうというオープンマインドの人で、フレンチ、イタリアン、あるいはお得意の “東京洋食” はもちろん、ドイツ料理、チェコスロバキア料理、ロシア料理、南米料理などへの通いこみも熱心である。日航ホテル屋上のジンギスカンの羊肉が「東京第一なり」とは、その目利き(舌利き?)には恐れ入る。ジョージ・ジェンセンの銀器、サントノレの香水、ダンヒル、デュポンと舶来ものへのさりげない言及も、生前の人柄が偲ばれる。

 北大路魯山人が生前、国会議事堂前(溜池)で「星ヶ岡茶寮」という料亭を運営していたことは、ご存じの方も多いと思うけれど、その流れを汲む「銀茶寮」という割烹が銀座並木通りにあったことを、皆様はご存じだっただろうか。嗚呼、タイムスリップしてこの「銀茶寮」に入店し、いろいろとつまんできたいものである。
 というわけで、斯くのごとく元気だった山本嘉次郎も、この地図本の2年後に逝っている。
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『狂気の行方』 ヴェルナー・ヘルツォーク

2012-01-02 21:12:41 | 映画
 昨年夏、東京・渋谷のシアター・イメージフォーラム《ヘルツォーク傑作選2011》内で上映された『My Son, My Son, What Have Ye Done』(2009)が、一般公開をへずに『狂気の行方』という新しい邦題でDVD化された。

 サンディエゴの閑静な住宅街で起きた実母殺害事件という実話をもとに、デヴィッド・リンチが製作総指揮を担当し、ヴェルナー・ヘルツォークが監督しているわけだけれども、この豪華な組み合わせであるにかかわらず、というより、この組み合わせだからこそなのだろうが、こうした刑事映画で語られる物語としてはおそろしく弛緩しきっている。またそれは、彼ら自身の意図でもあるだろう。
 過保護で口うるさい母を殺したばかりの息子(マイケル・シャノン)が、人質をとって自宅に立てこもる。彼の婚約者(クロエ・セヴィニー)と、彼の所属する劇団の演出家(ウド・キアー)が、犯人の投降を説得するために現場に駆けつける。刑事(ウィレム・デフォー)はこの2人の近親者をそばに呼び寄せ、いかに犯人が狂気に陥っていったかの事情を、南カリフォルニアのよく晴れた青空のもとで聴取しはじめる。
 事情聴取が熱を帯びるのに、それほど時間はかからない。婚約者と演出家の回想が、犯人の立てこもりの緊迫感以上に熱を帯びているように思えるのは、気のせいか。「そういえば、こんなこともあった…」という出だしとともに、何度も何度もフラッシュバックがくり返される。彼らの話をウィレム・デフォーとともに聞いていると、犯人が狂ったのは、こういう話し好きの連中のせいで焚きつけられてしまったからではないかとさえ思えてくる。

 ヘルツォークは現在、再びアメリカで死刑囚をテーマに、新作を制作中である。
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