荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

『ライフライン』 渡辺裕子

2011-05-31 01:06:41 | 映画
 東京・渋谷宇田川町のUPLINK Xのレイトショーでおこなわれている、新作短編『ライフライン』をふくむ、渡辺裕子の監督作品上映を見に行ってきた。今夜のプログラムは他に、昨年の《桃まつり》参加作『愚か者は誰だ』(2010)、2008年に起きた元厚生労働省幹部殺人事件に着想を得た中編『UBIQUITOUS(ユビキタス)』(2010)の計3本。
 新作『ライフライン』は、人のゾンビ化が進んでライフラインのストップした社会情勢のなか、独居老人(石橋蓮司)とホームヘルパー(安藤サクラ)とのあいだで交わされる間の抜けたやり取りを楽しむ19分間の映画。絶望が通りすぎた後の、幾分やぶれかぶれな、緊迫感の事切れた緩慢さは、どこか現在の(被災地をのぞく)日本と重なる。もうひとつ初見の『UBIQUITOUS』は、主人公(杉山彦々)の妻を演じた神農幸の儚げな美しさ、そして女の図々しさが光る一編だった。

 彼女の映画は、おいしくできた食事や酒を楽しむような享楽的な映画であって、こむずかしく考えるものでない。まさに前作のタイトルが『愚か者は誰だ』だったが、実際には「誰が」ではなく、登場人物のことごとくは愚か者なのだ(私たちの世界と同じように)。だから事態は、たいてい好転しない。そんなものだし、仕方がないのよというように、薄情に画面が終わってしまう。
 上映開始前に、渡辺監督と少し言葉を交わした。次はぜひ長編に挑戦したいとのこと。「上映の実現までもっていく大変さ、むずかしさは、短編も長編も同じ。ならば長編をやってみるのもいい」と言っていた。商業作品であれ自主製作であれ、彼女の長編作品が遠からぬ日に見られることを、楽しみにしたい。


『ライフライン』+渡辺裕子過去監督作同時上映@UPLINK X
https://sites.google.com/site/lifelinetokusetsu/

別次元

2011-05-29 05:55:28 | サッカー
 今シーズンのプレミアをちらちら見ていて、いまマンチェスター・ユナイテッドが心身共に、世界で一番充実したチームだと思っていました。しかし、それをいなしていなしてボールの見せどころを晒しながら、一方的な展開に持ちこんだバルサは、別次元でしたね。
 とくに3点目のビジャの、きょうで引退するファン・デル・サールの死角へと変則的に巻いていくあの弾道、鳥肌ものでしたね! そして、2点目のメッシのフィニッシュにいたる瞬間、まるで魅せられたかのように、マンUのバックラインが一斉にフリーズしていたのは何だったのでしょうか?

『英国王のスピーチ』 トム・フーパー

2011-05-29 04:46:23 | 映画
 先の大震災に際して、今上天皇による異例のビデオスピーチが発表されたことは、記憶に新しい。父の昭和天皇にも、あの玉音放送があった。アレクサンドル・ソクーロフの『太陽』(2005)は、玉音放送の収録を担当した録音技師が自害したことを、侍従長から聞かされた昭和天皇が、ショックを受ける場面で終わっていた。
 またスティーヴン・フリアーズの『クィーン』(2006)では、ダイアナに対して冷淡な態度を崩さない女王が、息子の元妻の非業の死を悼むスピーチを引き受けるか否かが、物語の焦点となっていた。このように、国家元首とそのスピーチの如何は、映画作家に少なからぬ霊感を与えてきたわけだけれども、『英国王のスピーチ』はまさに、スピーチそのものが主題となっている。

 この『英国王のスピーチ』については、見る以前に友人Hから感想コメントをe-mailでもらっていた。ラスト近くのシーンで、対独宣戦布告を国民に告げるラジオ演説を終えたばかりのジョージ6世(コリン・ファース)が、紅潮した顔でバッキンガム宮殿のバルコニーに出て、市民の歓呼に応える後ろ姿を、セラピスト(ジェフリー・ラッシュ)が、複雑な表情を浮かべながら見つめるカットがあって、その点について「吃音症の治療が最終的に、戦争への参加を鼓舞する愛国演説を呼んだということへの皮肉か?」と、Hは問題提起をしてくれていた。
 しかし私としては、監督のトム・フーパーがそこまで考慮して演出したかどうか、どうも疑わしく思える。せいぜい、教え子の成長ぶりに目を細める恩師の、身分の違いを改めて意識したことによる距離の測定、とかそんなところではないだろうか。
 それと、ジェフリー・ラッシュ演じるこのセラピストが、どうにも芝居がかった、狭量で思わせぶりな余裕とでもいうのか、見ていてあまり愉快になる登場人物ではない。このような人物と生涯の友情を結んだ、などとエンドクレジットで記載されてしまったジョージ6世の方が、気の毒に思える。アカデミー賞受賞作というのは、わずかな例外をのぞいて、どうしてこうも。


TOHOシネマズシャンテなど全国にて続映
http://kingsspeech.gaga.ne.jp/

蒙輩不得暇徒泳 少年易老學難成

2011-05-25 02:10:10 | 身辺雑記
詠倣朱熹
(朱熹の名句に倣って、即席で作ったきょうの二言三言)


蒙輩不得暇徒泳
少年易老學難成



(超意訳)
蒙昧たる輩であるこのわたくしは
いたずらに右往左往するばかりで
満ち足りた余暇をつくるすべを知らぬ野蛮人だ

少年は老いやすく
知を蓄えたり世事に長けることは
むずかしいと昔から言うが
それはどうやら真のことのようだ

『孫文の義士団』 陳徳林

2011-05-22 10:27:22 | 映画
 陳徳林(テディ・チャン)の新作『孫文の義士団』の上映時間139分に途絶えることなくみなぎる図式の推進力が、これを見る私たちをこころよく撃ち続ける。日本亡命中の孫文が、香港に1時間だけ上陸し、革命の実行手順の極秘説明会を開くらしい。このわずか1時間、清の朝廷が送りこんだ暗殺団の注意をそらすための陽動作戦。
 この危険な時間かせぎを渋々ながら引き受け、優秀な囮のリクルートに奔走することになるのが、リーという大商家のあるじなのだが、このリー商人を演じた王学圻(ワン・シュエチー)がいい。穏健派の立場を保ちきれなくなった彼がついに意を決し、作戦実行の仲間を引き入れていくあたりは、なかなか魅せる。

 これは中国史でいうところの《食客》という概念だろう。亭主は、客の才能と将来性を初対面で評価し、部屋を与え、飯を食わせる。客は、援助を受けつつもへりくだることなく亭主の器量、度量を推し量る。これが、紀元前からつづく《食客》だ。リーは、かつての士大夫階級が、天下国家の将来をになう若く貧しい《食客》を厚遇したのと同じように、囮として役立つ決死部隊を結成していく。この作品においては、孫文はあくまで《賓客》にすぎず、決死部隊こそが《食客》という図式である。日本映画でこれに近い存在は《侠客》だろうか? 《侠客》もまた、「一宿一飯」の恩義にみずからを縛る存在のことだ。
 あつめた囮たちのために、手ずから中華鍋を握り、油と食材を放り込むリー。若者たちは、食事にありつく。調理を終えて汗びっしょりのリーが、食事中の彼らを放心状態で眺める。私は、こういう画面を見ながら震えを禁じ得ない類の観客だ。まるでプドフキン映画でヴェラ・バラノフスカヤ演じる母のような神々しさではないか。
 リーの可愛がる若い車夫(ニコラス・ツェー)が見そめた、写真館の美しい看板娘(チョウ・ユン)に対して、リーが親代わりとなって写真館のあるじに求婚し、婚約がまとまる。だいたい車夫ごときが写真館の娘と一緒になるなんて、身分違いも甚だしい不自然なストーリーだと訝りながら見ていたのだが(かつて写真館というものは、有産階級や貴人たちが余技として営んだ業種だった)、娘の立ち姿を初めて見ると、彼女の足は不自由なのだった。それでもしあわせそうな車夫の笑顔と、リーの曇った顔と。娘からすれば、車夫が毎日、自分に笑顔を向けてくれながら、人力車を引いて颯爽と駆け抜けていく姿を、写真館の窓からまぶしく見つめ続けてきたに相違ない。

 当初から分かっていたことだが、若い囮部隊は作戦中にほぼ全員死ぬ。そしてこの死は、作戦の成功なのである。彼らの誰かが死ぬたびに、ひとりひとり死体を写したカットがあてがわれ、本名/生没年/本貫(戸籍の所在地のこと)が字幕で顕彰される。
 香港アクションの上で実現した、プドフキンとホークスの幸福な結婚だ。「オデッサ階段」を滑り落ちる人力車は、ちょっと微妙だったけれど。


新宿ミラノ、MOVIX京都、なんばパークスシネマにて続映
http://sonbun.gaga.ne.jp/