私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 



ヴォルフガンク・シュミーダー編纂の「バッハ作品目録(BWV)」に掲載されているフルート(フラウト・トラベルソ)を独奏楽器とする室内楽作品には次のようなものがある:
無伴奏の作品: 無伴奏フルートのためのパルティータ イ短調(BWV 1013)
独奏フルートと通奏低音のための作品: ハ長調(BWV 1033), ハ短調(BWV 1034), ホ長調(BWV 1035)
独奏フルートとオブリガート・チェンバロのための作品: ロ短調(BWV 1030), 変ホ長調(BWV 1031), イ長調(BWV 1032), ト短調(BWV 1020、ヴァイオリンのための作品に分類されている)
その他のトリオソナタ編成の作品: 二本のフルートと通奏低音ト長調(BWV 1039)、 フルートとヴァイオリン、通奏低音ト長調(BWV 1038)およびハ短調(音楽の捧げ物、 BWV 1079III)

  まず、これらの作品がどのような状態で今日まで伝えられているかを見よう。バッハの作品は、様々な形の楽譜で伝えられているが、その作製者や伝えられてきた状況によって、その信頼性に違いがある。それを信頼度の高い順にあげると次のようになる。その場合、作者名が明記されていることが前提となる:
I: バッハの自筆譜および自ら監修した出版譜。自筆譜の場合、自筆で作者名が記されていれば、確実にその作者の作品であると考えられる。
II: バッハの直系家族や弟子、あるいはバッハとの直接的交流が証明されている人物による写譜。一般的に言って、この種の写譜の信頼度は高い。特にバッハの二番目の妻、アンナ・マグダレーナ・バッハによる筆写譜は、自筆譜同等の信頼度があると考えられている。
III: バッハとの関係が希薄であるか直接的関係が証明されていない同時代の人物による写譜。この場合は、その写譜を作製した人物とバッハを結ぶ人的関係、写譜の元になった楽譜の出所などによって、その信頼度が異なる。
IV: バッハの死後作製された写譜。バッハの場合、彼の死の直後、1750年代に作製されたものから、19世紀に入って作製されたものなど、様々な状態の写譜が存在し、しかもそれが作品を伝えている唯一のものである例も少なくない。このような写譜の信頼度は、その写譜の元となった手稿の出所、写譜者のバッハやその親族、弟子達との関係の有無によって大きく異なる。一見信頼度が低いように思われるが、現在真作と見なされている作品の中には、この種の原典によって伝えられているものが少なくない。

 フルートとオブリガート・チェンバロのためのソナタロ短調(BWV 1030)には、1736年から1737年に作製されたと思われる自筆の、作者名の明記された総譜が存在する。フルートとオブリガート・チェンバロのためのソナタイ長調(BWV 1032)は、2台のチェンバロと弦楽合奏のための協奏曲ハ短調(BWV 1062)の自筆総譜の下の空いた五線譜を利用して書き込まれた自筆総譜が存在する。この自筆総譜も、1736年から1737年にかけて作製されたものである。そして、「音楽の捧げ物」に含まれるフルート、ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタハ短調(BWV 1079III)は1747年の作者自身による出版譜が存在する。したがって、これら3作品は、バッハの真作であることに疑いを差し挟む余地はない。

注)図版はソナタイ長調の自筆譜の冒頭部。上には協奏曲が記譜されている。Johann Sebastian Bach: Konzert c-Moll für zwei Cembali und Streichorchester, BWV 1062; Sonate A-Dur für Flöte und Cembalo, BWV 1032, Faksimile der autographen Partitur, Herausgegeben von Hans-Joachim Schulze, Dokumenta Musicologica, Zweite Reihe: Handschriften-Faksimiles X, Bärenreiter Kassel, Basel, Tours, London, 1980 より引用。

 そのほかの作品については、様々な理由で、真作であるという確証に欠けている。しかし、それにもかかわらず、新バッハ全集の第6部門第3巻に含まれた曲と除外された曲があった。
 まず フルートとオブリガート・チェンバロのためのソナタ変ホ長調(BWV 1031)の総譜の一つ(以後Aとする)は、バッハの最晩年に直接指示を受けて写譜をしていた、元トーマス学校合唱隊の生徒指揮者で、ライプツィヒ大学の学生であったヨハン・ナタナエル・バムラーによる筆写譜で、その譜面の冒頭には"Sonata di J. S. Bach" と記されており、しかもこの写譜が収められている覆いには、フィリップ・エマーヌエル・バッハの手になる標題 "Es d[ur] Trio Fuers obligate Clavier u. die Floete Von J. S. Bach. "が付けられている。この筆写譜は、小林義武によって、1748年8月以降、1749年10月までの間に作製されたと解明されていたが、現在では1750年前半まで範囲は広がっている*。もう一つの筆写譜(以後Bとする)は、クリスティアン・フリートリヒ・ペンツェル(1737 – 1801)が元の所有者で、この写譜の後半を自ら筆写している。ペンツェルは、多くのバッハの作品の写譜を行った人物で、現在およそ80のバッハの作品の筆写譜が知られている。このBは、Aからの写譜ではなく、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの所有していたと思われる原本、特にそれがパート譜ではなく総譜であることから、おそらくはバッハの自筆譜からの写譜ではないかと考えられる。この筆写譜は、ペンツェルの筆跡から、1755年頃に作製されたと推定されている。ペンツェルによる標題は"Sonata a Flauto Travers. ed Cembalo obligato di I. S. Bach Poss. Penzel" と記されている。このように、それぞれ独立して作製された、しかもバッハの次男の標題を持つ写譜(上記信頼度のII)と、出所の明らかな原本から多くのバッハの作品の筆写譜を作製しているペンツェルの写本(上記信頼度のIVだが、信頼度は高い)が存在していることは、バッハの真作であることがは確実であるように思われる。
 フルートと通奏低音のためのソナタハ長調(BWV 1033)は、フィリップ・エマーヌエル・バッハの手になるパート譜が存在し、彼の筆跡および用紙の透かしから、おそらく1731年終わり頃に作製されたと思われる。そして、フィリップ・エマーヌエル・バッハの手になる "SONATA a Traversa e Continuo di Joh. Seb. Bach" という標題が記されている。1731年といえば、フィリップ・エマーヌエル・バッハは17才で、まだ両親の家に住んでいた時期である。このような環境のもとで作製された写譜に、父親のバッハの名前を記入していると言う事実(上記信頼度のII)は、この作品が真作であることを疑いなくしているように思われる。
 フルート、ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタト長調(BWV 1038)の原典としては、バッハ自筆のパート譜が存在する。使われている紙の透かしから、1732年から1734年頃に作製されたものと考えられている。しかしこの自筆譜には、作者名が記されていない(作者名が記されていないので、厳密には上記信頼度のIには該当しない)。一方、この作品の通奏低音は、ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタへ長調(BWV 1022)とヴァイオリンと通奏低音のためのソナタト長調(BWV 1021)と同じである。特にBWV 1022は、BWV 1038のフルートのパートをチェンバロの右手に割り振ったもので、ヴァイオリンパートはト長調で記譜されており、全音低く調弦するよう指定されている。この曲は、1900年前後に作製され、フリートリヒ・コンラート・グリーペンケルルによる標題を持つ写譜によって伝えられている。一方、BWV 1021は、アンナ・マグダレーナ・バッハの筆写譜が存在し、"Sonata per il Violino e Cembalo di J. S. Bach"と作者名が記されている。この写譜に使われている用紙は、BWV 1038と同じで、更にアンナ・マグダレーナ・バッハの筆跡の変遷の研究から、1730年から1733/34年の間に作製されたものと考えられている。これら3曲に共通する通奏低音の由来は明らかにされていない。アンナ・マグダレーナ・バッハの筆写譜は、バッハの自筆譜と同等の信頼性があり、作者名の記されているBWV 1021の真作であるとの判断は、揺らいだことがない(上記信頼度のII)。一方、BWV 1038とその編曲版であるBWV 1022は、その様式分析から、真作ではないという判断が支配的である。しかしながら、BWV 1038の場合、作者名が記されていないとはいえ、自筆譜が存在しており、更に使用されている用紙がBWV 1021と同じで、したがって同じ時期に作製されていることも考えると、一概に真作ではないと断定して良いのだろうかという疑問が残る。(この項続く)

注)この項を執筆するに当たっては、新バッハ全集の校訂報告書や、バッハ年刊の種々の寄稿をはじめ、バッハ研究の論文集、学会の報告書に掲載された論文を参考にしたが、一部を除いてその出典は省略した。それは、読む際の煩雑さを避けるためで、決して参考にした研究結果を無断で引用しようとするものではない。もしこの項目の内容をさらに詳しく知りたい方は、筆者のウェブサイト「湘南のバッハ研究室」の「バッハ関連エッセイ集」の「ヨハン・ゼバスティアン・バッハのフルートのための室内楽作品―その真性(Echtheit)と成立事情(Entstehungsgeschichte)を探る―」を参照して下さい。

* Yoshitake Kobayashi, “Zur Chronology der Spätwerke Johann Sebastian Bachs: Kompositions- und Aufführungstätigkeit von 1736 bis 1750”, Bach-Jahrbuch 74. Jahrgang 1988, p. 7 - 72, Peter Wollny, “Neue Bach-Funde”, Bach-Jahrbuch 1997, p. 36 - 50

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