明治二十五年、六歳の今村均は甲府に近い鰍沢町に住んでいた。「責任ラバウルの将軍今村均」(角田房子・新潮社)によると、夏祭りには富士川の岸近くの空き地に掛け小屋が建ち、軽業が行われた。
六歳の均は女中のまつにせがんで何度も軽業を見に行った。一座の中に均と同じ位に見える子供がおり、均は彼に心をひかれ、いつかその子供と遊びたいと思うほどの親しさを感じていた。
ある日、その子供が角兵衛獅子三人の組に加わり、太鼓の音に合わせて宙返りや逆立ちを演じているうち、頭に載せている赤い獅子頭を落としてしまった。
傍らの大人にひどく怒鳴りつけられ泣き顔で芸を続けるその子供を見て、均は泣きそうになった。芸が終わり小屋の外に出ると、さっき叱られた子供が絵看板の下にしゃがんで泣きじゃくっていた。
均が女中のまつに「まっちゃん、どうして泣いているのか聞いてきて」と言った。だが、まつは振り向きもせず、足を早めた。「早く帰って、夕ご飯の支度をしなければ…」。
均は彼女に追いすがり、また同じことを頼んだ。まつは「軽業の子はみんな捨て子なのよ。捨て子なんかどうでもいいじゃないの」と言った。
均が「捨て子って何?」と言うと、「いらないから捨てられた子よ。それを軽業の一座が拾って芸を仕込むの」。
いよいよ足を早めるまつに、均はいきなり飛びかかり、彼女の頬を二度、三度と殴りつけた。「ま、坊ちゃん、何をするの!」。「捨て子だなんて…ひどいよ。かわいそうじゃないか」。怒ったまつは、均を置き去りにして帰ってしまった。
均は、母に手の甲をつねられ厳しく叱られた。均がすぐにカット腹を立て、手を出すのはいつものことだったが、この日は軽業の子を慰めてやるすべのない悲しさが、彼を特に強情にしていたのだ。母親に叱られても、ついに均はまつに謝らなかった。
<今村均(いまむら・ひとし)陸軍大将プロフィル>
明治十九年六月二十八日宮城県仙台市生まれ。父の裁判官・今村虎尾と母・清見の七番目の子。均の下にさらに三人の弟妹がいる。
明治三十七年(十八歳)三月新発田中学を首席で卒業。東京に出て第一高等学校から東京帝国大学または東京商高(後の一橋大学)を目指して受験勉強に励む。五月父の死により、第一高等学校を断念、陸軍士官学校を受験、合格。
明治三十八年(十九歳)七月陸軍士官候補生。
明治四十年(二十一歳)五月三十一日陸軍士官学校卒業(一九期)。六月仙台の第二師団歩兵第四連隊見習士官。十二月二十六日陸軍歩兵少尉・第四連隊第十二中隊附。第四連隊旗手。
明治四十三年(二十四歳)四月第二師団朝鮮羅南に移駐。十一月陸軍歩兵中尉・第十二中隊附。
大正元年十二月陸軍大学校入校。
大正四年(二十九歳)十二月十一日陸軍大学校(二七期)を首席で卒業、大正天皇の御前講演。第四師団歩兵第四連隊第十中隊長。
大正五年(三十歳)八月陸軍省軍務局歩兵課。
大正六年(三十一歳)五月陸軍歩兵大尉。金沢の名士、千田登文の三女、銀子と結婚。
大正七年(三十二歳)四月英国駐在(歩兵第三十三連隊附)、十月英国大使館附武官補佐官。
大正九年(三十四歳)六月英国駐在。
大正十年(三十五歳)八月参謀本部員。
大正十一年(三十六歳)八月陸軍歩兵少佐。
大正十二年(三十七歳)四月元帥陸軍大将・上原勇作附副官(兼任)。
大正十五年(四十歳)八月陸軍歩兵中佐、歩兵第七十四連隊附。
昭和二年(四十一歳)四月九日インド公使館附武官。十一月十五日軍務局課員。
昭和五年(四十四歳)八月一日陸軍歩兵大佐、軍務局徴募課長。
昭和六年(四十五歳)八月一日参謀本部作戦課長。
昭和七年(四十六歳)四月十一日歩兵第五十七連隊長。
昭和八年(四十七歳)八月一日陸軍習志野学校幹事。
昭和十年(四十九歳)三月十五日陸軍少将、歩兵第四十旅団長。
昭和十一年(五十歳)三月二十三日関東軍参謀副長、駐満州国大使館附武官(兼任)
昭和十二年(五十一歳)八月二日陸軍歩兵学校幹事。
昭和十三年(五十二歳)一月二十七日陸軍省兵務局長。三月一日陸軍中将、十一月二十一日第五師団長。
昭和十五年(五十四歳)三月九日教育総監部本部長。
昭和十六年(五十五歳)六月二十八日第二十三軍司令官。十一月六日第十六軍司令官。
昭和十七年(五十六歳)十一月九日第八方面軍司令官。
昭和十八年(五十七歳)五月一日陸軍大将。
昭和二十一年(六十歳)四月ラバウル戦犯者収容所に入所。
昭和二十二年(六十一歳)五月オーストラリア軍による軍事裁判判決(禁錮十年)。
昭和二十三年(六十二歳)五月インドネシアのジャワ島移送。
昭和二十四年(六十三歳)十二月オランダ・インド軍による軍事裁判判決(無罪)。
昭和二十五年(六十四歳)一月インドネシアより帰国。二月ニューギニアのマヌス島で服役することを自ら申し出る。三月マヌス島で服役開始。
昭和二十八年(六十七歳)八月マヌス島刑務所閉鎖により、日本の巣鴨拘置所に移送。
昭和二十九年(六十八歳)十一月刑期を終え、巣鴨拘置所を出所。
昭和三十二年(七十一歳)偕行社(旧陸軍正規将校同窓会に相当)の理事長に就任。
昭和四十年(七十九歳)偕行社の理事長辞任。
昭和四十三年十月四日、心筋梗塞で死去。享年八十二歳。
陸軍大尉の娘である今村均の母は、彼の欲しがる錦絵を何枚でも買い与えた。その中の一枚に、片手に赤ん坊を抱き、片手に日本刀を振りかざした将校の姿があった。
均がそれを学校に持っていくと、先生が、「これは支那の避難民が捨てた赤ん坊を救い、それを抱いて優先奮闘した松崎大尉だ。国と国とは闘っていても、相手国の軍人でない人々をいたわるのが、日本人の本当の心だよ」と言った。そして、オルガンを弾き、「松崎大尉の歌」を教えてくれた。
均は、すっかりこの歌が好きになり、一人で教壇に立ち、顔を真っ赤にして声を張り上げて歌った。唱歌は得意の科目だった。
後年、今村均は、バタビアの獄舎で、「……吾は大和のまずらおぞ左手(ゆんで)に敵のみなしご抱(いだ)き右手に振わん日本刀」と歌って、子供の頃を懐かしんだ。
明治三十七年二月、日露戦争勃発。三月今村均は、新発田中学を首席で卒業した。数日後、均は高熱で寝込んでいる裁判官の父、虎尾に進学の相談をした。
均は「一高から東京帝大へ進んで法律を学ぶか、または東京高商で経済を学びたい」と述べた。「それをいけないとはいわないが…」と父は答えた。「わしは以前から、仙台の二高の文科がいいと思っていたが…」。父は、自分の意見を押し付ける人ではなかった。
四月上旬、均は東京に出て、父の異母弟の家に身を寄せ、第一高等学校(現在の東大の前身)を志望して勉強に励んでいた。
五月二十八日、「父危篤、すぐ帰れ」の電報が届いた。均は急いで家に帰り着いたが、父の虎尾は死去していた。均は、人の世にはこんなに悲しいことがあったのか、と涙に暮れた。
均の他に七人のこどもがおり、一番下はまだ四歳だった。そこで母の清見は均に学費のいらない陸軍士官学校への入学を強く勧めた。
「将軍の十字架」(秋永芳郎・光人社)によると、越後の富豪、五十嵐甚造が今村均に大学までの学費を給与してくれるという申し出があった。
だが、母の清見から、「他人のお情けで学問を続けることは、よくない。今日本はロシアと戦争をしている。あなたの祖父は父方も母方もどちらも軍人だった。現役を志願するなり、士官学校に入るなりして、戦場で働きなさい」と言う趣旨の手紙が来た。
さらに陸軍士官学校の入学願書はすでに出しておいたとも言ってきた。均は軍人になるなど思いもよらなかったし、自分の性格が軍人に向いているとも思わなかったので、悩みに悩んだ。
六歳の均は女中のまつにせがんで何度も軽業を見に行った。一座の中に均と同じ位に見える子供がおり、均は彼に心をひかれ、いつかその子供と遊びたいと思うほどの親しさを感じていた。
ある日、その子供が角兵衛獅子三人の組に加わり、太鼓の音に合わせて宙返りや逆立ちを演じているうち、頭に載せている赤い獅子頭を落としてしまった。
傍らの大人にひどく怒鳴りつけられ泣き顔で芸を続けるその子供を見て、均は泣きそうになった。芸が終わり小屋の外に出ると、さっき叱られた子供が絵看板の下にしゃがんで泣きじゃくっていた。
均が女中のまつに「まっちゃん、どうして泣いているのか聞いてきて」と言った。だが、まつは振り向きもせず、足を早めた。「早く帰って、夕ご飯の支度をしなければ…」。
均は彼女に追いすがり、また同じことを頼んだ。まつは「軽業の子はみんな捨て子なのよ。捨て子なんかどうでもいいじゃないの」と言った。
均が「捨て子って何?」と言うと、「いらないから捨てられた子よ。それを軽業の一座が拾って芸を仕込むの」。
いよいよ足を早めるまつに、均はいきなり飛びかかり、彼女の頬を二度、三度と殴りつけた。「ま、坊ちゃん、何をするの!」。「捨て子だなんて…ひどいよ。かわいそうじゃないか」。怒ったまつは、均を置き去りにして帰ってしまった。
均は、母に手の甲をつねられ厳しく叱られた。均がすぐにカット腹を立て、手を出すのはいつものことだったが、この日は軽業の子を慰めてやるすべのない悲しさが、彼を特に強情にしていたのだ。母親に叱られても、ついに均はまつに謝らなかった。
<今村均(いまむら・ひとし)陸軍大将プロフィル>
明治十九年六月二十八日宮城県仙台市生まれ。父の裁判官・今村虎尾と母・清見の七番目の子。均の下にさらに三人の弟妹がいる。
明治三十七年(十八歳)三月新発田中学を首席で卒業。東京に出て第一高等学校から東京帝国大学または東京商高(後の一橋大学)を目指して受験勉強に励む。五月父の死により、第一高等学校を断念、陸軍士官学校を受験、合格。
明治三十八年(十九歳)七月陸軍士官候補生。
明治四十年(二十一歳)五月三十一日陸軍士官学校卒業(一九期)。六月仙台の第二師団歩兵第四連隊見習士官。十二月二十六日陸軍歩兵少尉・第四連隊第十二中隊附。第四連隊旗手。
明治四十三年(二十四歳)四月第二師団朝鮮羅南に移駐。十一月陸軍歩兵中尉・第十二中隊附。
大正元年十二月陸軍大学校入校。
大正四年(二十九歳)十二月十一日陸軍大学校(二七期)を首席で卒業、大正天皇の御前講演。第四師団歩兵第四連隊第十中隊長。
大正五年(三十歳)八月陸軍省軍務局歩兵課。
大正六年(三十一歳)五月陸軍歩兵大尉。金沢の名士、千田登文の三女、銀子と結婚。
大正七年(三十二歳)四月英国駐在(歩兵第三十三連隊附)、十月英国大使館附武官補佐官。
大正九年(三十四歳)六月英国駐在。
大正十年(三十五歳)八月参謀本部員。
大正十一年(三十六歳)八月陸軍歩兵少佐。
大正十二年(三十七歳)四月元帥陸軍大将・上原勇作附副官(兼任)。
大正十五年(四十歳)八月陸軍歩兵中佐、歩兵第七十四連隊附。
昭和二年(四十一歳)四月九日インド公使館附武官。十一月十五日軍務局課員。
昭和五年(四十四歳)八月一日陸軍歩兵大佐、軍務局徴募課長。
昭和六年(四十五歳)八月一日参謀本部作戦課長。
昭和七年(四十六歳)四月十一日歩兵第五十七連隊長。
昭和八年(四十七歳)八月一日陸軍習志野学校幹事。
昭和十年(四十九歳)三月十五日陸軍少将、歩兵第四十旅団長。
昭和十一年(五十歳)三月二十三日関東軍参謀副長、駐満州国大使館附武官(兼任)
昭和十二年(五十一歳)八月二日陸軍歩兵学校幹事。
昭和十三年(五十二歳)一月二十七日陸軍省兵務局長。三月一日陸軍中将、十一月二十一日第五師団長。
昭和十五年(五十四歳)三月九日教育総監部本部長。
昭和十六年(五十五歳)六月二十八日第二十三軍司令官。十一月六日第十六軍司令官。
昭和十七年(五十六歳)十一月九日第八方面軍司令官。
昭和十八年(五十七歳)五月一日陸軍大将。
昭和二十一年(六十歳)四月ラバウル戦犯者収容所に入所。
昭和二十二年(六十一歳)五月オーストラリア軍による軍事裁判判決(禁錮十年)。
昭和二十三年(六十二歳)五月インドネシアのジャワ島移送。
昭和二十四年(六十三歳)十二月オランダ・インド軍による軍事裁判判決(無罪)。
昭和二十五年(六十四歳)一月インドネシアより帰国。二月ニューギニアのマヌス島で服役することを自ら申し出る。三月マヌス島で服役開始。
昭和二十八年(六十七歳)八月マヌス島刑務所閉鎖により、日本の巣鴨拘置所に移送。
昭和二十九年(六十八歳)十一月刑期を終え、巣鴨拘置所を出所。
昭和三十二年(七十一歳)偕行社(旧陸軍正規将校同窓会に相当)の理事長に就任。
昭和四十年(七十九歳)偕行社の理事長辞任。
昭和四十三年十月四日、心筋梗塞で死去。享年八十二歳。
陸軍大尉の娘である今村均の母は、彼の欲しがる錦絵を何枚でも買い与えた。その中の一枚に、片手に赤ん坊を抱き、片手に日本刀を振りかざした将校の姿があった。
均がそれを学校に持っていくと、先生が、「これは支那の避難民が捨てた赤ん坊を救い、それを抱いて優先奮闘した松崎大尉だ。国と国とは闘っていても、相手国の軍人でない人々をいたわるのが、日本人の本当の心だよ」と言った。そして、オルガンを弾き、「松崎大尉の歌」を教えてくれた。
均は、すっかりこの歌が好きになり、一人で教壇に立ち、顔を真っ赤にして声を張り上げて歌った。唱歌は得意の科目だった。
後年、今村均は、バタビアの獄舎で、「……吾は大和のまずらおぞ左手(ゆんで)に敵のみなしご抱(いだ)き右手に振わん日本刀」と歌って、子供の頃を懐かしんだ。
明治三十七年二月、日露戦争勃発。三月今村均は、新発田中学を首席で卒業した。数日後、均は高熱で寝込んでいる裁判官の父、虎尾に進学の相談をした。
均は「一高から東京帝大へ進んで法律を学ぶか、または東京高商で経済を学びたい」と述べた。「それをいけないとはいわないが…」と父は答えた。「わしは以前から、仙台の二高の文科がいいと思っていたが…」。父は、自分の意見を押し付ける人ではなかった。
四月上旬、均は東京に出て、父の異母弟の家に身を寄せ、第一高等学校(現在の東大の前身)を志望して勉強に励んでいた。
五月二十八日、「父危篤、すぐ帰れ」の電報が届いた。均は急いで家に帰り着いたが、父の虎尾は死去していた。均は、人の世にはこんなに悲しいことがあったのか、と涙に暮れた。
均の他に七人のこどもがおり、一番下はまだ四歳だった。そこで母の清見は均に学費のいらない陸軍士官学校への入学を強く勧めた。
「将軍の十字架」(秋永芳郎・光人社)によると、越後の富豪、五十嵐甚造が今村均に大学までの学費を給与してくれるという申し出があった。
だが、母の清見から、「他人のお情けで学問を続けることは、よくない。今日本はロシアと戦争をしている。あなたの祖父は父方も母方もどちらも軍人だった。現役を志願するなり、士官学校に入るなりして、戦場で働きなさい」と言う趣旨の手紙が来た。
さらに陸軍士官学校の入学願書はすでに出しておいたとも言ってきた。均は軍人になるなど思いもよらなかったし、自分の性格が軍人に向いているとも思わなかったので、悩みに悩んだ。