陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

463.東郷平八郎元帥海軍大将(3)東郷見習士官は、ダートマスの王立海軍兵学校に入学できなかった

2015年02月06日 | 東郷平八郎元帥
 風呂場は暗かったので、四郎兵衛は、気づかずにその水をガブリと飲んだ。その瞬間、四郎兵衛は、その辛さに、含んだ水を吐き出し、そのはずみに茶碗を落として、割ってしまった。四郎兵衛の怒号を後に、仲五郎はその場を逃げ出した。

 そのあと、仲五郎は父にひどく叱られた。四郎兵衛が父に告げ口をしたのだ。仲五郎は兄のやり方が心外だった。何も父に言わなくても、俺を叩けばいいじゃないか。卑怯だと思った。

 父の前に正座させられた仲五郎は、兄に詫びるように命ぜられた。だが、仲五郎は頑として謝罪はしなかった。「父の命がきけぬか」。父の吉左衛門も怒った。自分の命令にも逆らうとは。

 父が再三命じても、仲五郎は従わなかった。とうとう父は、見せしめのために仲五郎を下役の家に預けた。十日後に、開放されたが、それでも、仲五郎は父にも兄にも詫びようとはしなかった。

 万延元年(一八六〇年)、東郷仲五郎は、元服して名を平八郎と改め、薩摩藩出仕、書役となって、東郷平八郎と名乗った。

 慶応四年(一八六八年)、東郷平八郎は、薩摩藩の軍艦(木製外輪船)「春日丸」(赤塚源六艦長・一〇一五トン・乗組員七二名)の三等砲術士官になった。二十歳だった。

 「元帥 東郷平八郎」(伊東仁太郎・郁文社)によると、「春日丸」は四十斤施條砲を六門搭載していたが、東郷平八郎は左舷の四十斤施條砲の担当士官になった。

 慶応四年一月三日、「春日丸」、「平運丸」、「翔鳳丸」は、兵庫港を出港して、鹿児島へ引き揚げることになった。

 一月四日早朝、明石海峡に向かった「平運丸」と別れ、「春日丸」は護衛する「翔鳳丸」とともに紀淡海峡に向かっっていた。

 ところが、突然、幕府海軍の軍艦(木造シップ型帆船)「開陽丸」(指揮官・榎本武揚・二五九〇トン・乗組員二九四名)が、現れ、かなりのスピードで、「春日丸」の方へ向かって来た。

 「開陽丸」は停船命令として、空砲を撃った。だが、「春日丸」と「翔鳳丸」がこれを無視したため、砲戦となった。打ち合わせ通り、「翔鳳丸」を全速で離脱させ、「春日丸」が「開陽丸」に立ち向かった。

 激しい砲戦となったが、「春日丸」の目的は、「翔鳳丸」を護衛して鹿児島に帰ることだったので、「春日丸」は、発砲しながら、全速で、できるだけ沖合へ舵をとった。

 「開陽丸」は、それを追撃しながら、大砲を撃った。「春日丸」も応戦した。その結果、「開陽丸」は二十五発、「春日丸」は十八発の砲弾を撃ったが、どちらも数発が命中したが大きな損害にはならなかった。

 速力十七ノットの「春日丸」は、十二ノットの「開陽丸」を引き離し、無事鹿児島に帰ったが、「翔鳳丸」は途中で機関が故障したので、海岸に乗り上げ、拿捕されることを恐れて、自ら船を焼き払った。

 この戦いで、東郷平八郎は、受け持ちの四十斤施條砲を離れず、「開陽丸」が、追いすがって来ても、すぐには撃たなかった。そのうちに、「開陽丸」がとうとう一二〇〇メートルの距離に近づいて来た時、初めて、発射した。

 その四十斤砲弾は、「開陽丸」の前に落ちて跳ね上がり、桁の一部を損傷させた。「命中ッ」。「春日丸」の甲板上では、乗組員が喜んで、大騒ぎをした。東郷平八郎は、その後も次々に砲弾を命中させた。

 これが、阿波沖海戦で、蒸気機関を装備した近代軍艦による、日本史上初の海戦だった。また、東郷平八郎にとっても、海軍の将となるべき第一歩の海戦となった。

 明治四年二月、東郷平八郎見習士官は、同僚十一名とともに、兵部省より英国官費留学を命ぜられた。ケンブリッジで英語を学んだ後、明治五年一月、ポーツマスの、ポリネー学校で英国海軍の基礎を学んだ。

 その後、東郷見習士官は、ダートマスの王立海軍兵学校入学を希望した。だが、東郷見習士官は、ダートマスの王立海軍兵学校に入学できなかった。ダートマスの海軍兵学校は超エリート校で、生徒は貴族が多かったので、英国政府が後進国の留学生は排除したのだ。

 「東郷平八郎」(真木洋三・文藝春秋)によると、海軍兵学校に入学を拒否された悔しさで悲嘆に暮れていた東郷平八郎は、商船学校に入ることを、ポリネー学校のポリネー校長から薦められた。

 ロンドンのテームズ川につながれているウースターという練習船があり、その練習船の教官は、ヘンダーソン・スミスという海軍大佐だった。