陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

587.桂太郎陸軍大将(7)この怪物と闘い続けること数刻、壽熊は遂にこの怪物を討ち取った

2017年06月23日 | 桂太郎陸軍大将
 母はこれに答へて、誰も我が家に刀を遺れたる者なしと云ひたまひしかど、其刀は貴家に在るに相違なしと、使の云ひて已まざれば、母は、我が児の塾より帰りしとき、一口の刀を携へ帰りしが、誰が来り請ふとも、決して返したまふなと託し置きて、我が児は出で行きたり、其刀は今我手に在れド、そはもとより我が家に人の遺れたりしものにはあらずと答へられたり。

 然るに、やがて其家より再び使して云はしめて曰く、前に遺れたりと申しゝは、全く豚児の虚言なりき、実は途中にて甚だしき不都合の所為ありて、令息の為に刀を奪はれたるゆ由申し出でたるにより、厳に豚児を懲らし戒め候ひぬ、但し刀を奪われたりといふこと、世の聞こえも如何なれば、枉げて還したまはんことをひたすら請ひ申すなりと、懇ろに頼み聞えければ、母は、曩には、遺れたる刀など申さるればこそ、還すことを拒みたるなれ、世話にも武士は相見互いと云はずや、不都合を詫びて返付せよと求めらるゝ上は、還し申すべし、再びかゝることなきやう戒められよとて、其刀を返し与へ、我が帰るに及びて其顛末を告げたまへり。

 「近代政治家評伝―山縣有朋から東條英機まで」(阿部眞之助・文藝春秋・平成27年)によると、壽熊(桂太郎)は、隣家の農業、末松の倅、権六と終日泥まみれになって戯れるのを常としていた。末松は農事を手伝わないのを怒り、権六をひどく叱った。

 権六は父から叱られたのを怒り、壽熊と共に、自分の家の積藁(つみわら)に火をつけ、燃やそうとした。だが、ボヤの段階で、日は消し止められ、大事にはならなかった。

 父の末松は、権六と壽熊を捕らえ、罰を加えようとした。すると、壽熊は、たちまち謝ってしまった。詳細は不明だが、壽熊は、手をつき泣きながら許しを乞うたのであろうと言われている。

 当時、武士たるものの子が、百姓のおやじに、手をついて謝るとは、よくよくのことだった。この恥ずかしさは、桂太郎は終生忘れなかった。

 後に、桂太郎が出世して、郷里に帰省した際、当時まだ生きていた末松を招き、「あの時、お前が許してくれなかったら、俺も今の地位に進まなかったろう。今日あるは、お前のお陰だ。お互い長命でめでたい。まあ、一杯いこう」と言って盃をさしたと言われている。
 
このことが、彼の故郷では、故郷に錦を飾った成功美談として、伝えられている。だが、川島村には、もう一つ、次の様な桂太郎の美談伝説が語られている。

 村に山王の社があった。樹木がこんもり茂って、ものすごい環境だった。ある日、壽熊が村の子供たちと境内で遊んでいると、空が突然曇りだし、何が何だか分からないうちに暗くなった。

 たちまち、社殿が振動し、天地も傾くかと思っていると、一個の怪物が、拝殿の下に墜ちてきた。二尺(約六〇センチ)あまりの髪の毛を振り乱し、灰皿のような眼玉をいからし、牙をかみ、襲いかかってきた。

 恐れて、子供たちは散り散りになって逃げ去ってしまった。だが、壽熊だけは、逃げずに、その場に踏み止まり、腰の刀を抜き放った。

 この怪物と闘い続けること数刻、壽熊は遂にこの怪物を討ち取った。急を聞いて駆け付けた村人達が、恐る恐るこの怪物の死骸を調べてみたら、世にも珍しいアカシャグマという怪獣だった。

 それ以来、これを「桂の若様のアカシャグマ退治」といって、その地方に言い伝えられている。桂太郎は後にこの社地を買収、記念碑を建てた。

 記念碑の碑文は、桂太郎自らが次のように記しているのだが、アカシャグマ退治のことは全く記していない。

 「郷人社址ノ湮滅ヲ恐レ相議シテ其地ヲ挙ゲ之ヲ予ニ賜リ保存ノ事ヲ委セントス余実ニ川島ニ生レ家社址ニ近シ垂髫ノ時常ニ此ニ嬉遊セリ老蒼ノ樹清冽ノ淵祠宇ヲ囲繞スルノ光景今尚眼底二在リ」。

 慶応二年当時、長州藩の藩主は毛利敬親(もうり・たかちか・家督を相続し長州藩藩主となる・侍従・左近衛権少将・従四位上・左近衛権中将・参議・禁門の変で朝敵となる・敬親父子の蟄居の幕命・幕府と交渉決裂・第二次長州征伐=四境戦争・従四位上参議に復位復職・維新後従三位・左近衛権中将・従二位・権大納言・明治四年薨去・従一位・正一位)だった。

 また、藩主の世子(せいし)は毛利元徳(もうり・もとのり・徳山藩第八代藩主毛利広鎮の十男・毛利敬親の養子となる・禁門の変で兵を率い京に向かう・幕府により官位剥奪・維新後議定に就任・父敬親の隠居で跡を継ぐ・従三位・参議・版籍奉還で知藩事に就任・廃藩置県で免官・上京・第十五国立銀行頭取・貴族院議員・公爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・国葬)だった。

 慶応二年、桂太郎は世子・毛利元徳の御前詰となり、御小姓を命ぜられ、近侍としての任務にあたった。だが、桂は密かに有為の志を抱いていたので御小姓の務めに満足しなかった。
 
 藩主・毛利敬親、その子である元徳の桂に対する信は厚く、桂もよくその任務を果たした。小姓の勤めは、主君の食膳の給仕、髪結い、さかやき剃り、その他身の回りの一切の世話だった。