陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

569.源田実海軍大佐(29)当時、機動部隊を源田艦隊と評した者さえあった

2017年02月17日 | 源田実海軍大佐
 草鹿少将は無刀流剣道を修業していたが、その流儀にある金翅鳥(きんしちょう)王剣を特に好んだ。金翅鳥が羽根を天空一面に広げたような心で、太刀を上段にとって敵を追い詰め、ただ一撃で打ち落とし、そのまま上段に返る戦法という。

 宇垣少将はそれに相当の不安を感じて、次の様に述べた。

 「移動性が多く、広い海面に作戦する海上兵力に対して、事前に十分な調査を行い、索敵を完全にするなどは容易ではない。状況の変化に即応する手段こそが肝要なのだ」

 「山口多聞(宇垣と海軍兵学校同期)は、一航艦の思想にあきたらず、作戦実施中もしばしば一航艦司令部に意見具申をしたが、同司令部が計画以外に妙機をつかんで戦果の拡大を計ったり、状況の変化に即応する処置を講じたりすることは絶無だったと、俺に三回も語っていた」

 「俺も山口と同じ考えだ。『一航艦司令部は誰が握っているのか』と尋ねると、山口は『長官はひと言も言わぬ。参謀長(草鹿)、先任参謀(大石)など、どちらがどちらか知らんが、億劫(面倒で気が進まない)屋ぞろいだ』と答えた。今後、千変万化の海洋作戦において、果たしてその任に堪えられるかどうか」。

 さらに、宇垣少将は、草鹿少将に次のように質問をした。

 「艦隊戦闘において敵に先制空襲を受ける場合、あるいは陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をつかれた場合はどうするか」。

 これに対して、草鹿少将は「かかることのないように処置する」と、あっさり答えた。

 さらに追及すると、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐(広島・海兵五二・十七番・海大三五次席)が代わって次の様に答えた。

 「艦攻に増槽(追加の燃料タンク)をつけ、四五〇カイリ(約八三三キロ)先まで飛べる偵察機を各母艦に二、三機ずつ配当できるので、これと巡洋艦の零式水偵を使用して、側面哨戒に当たらせる。敵に先んぜられた場合は、現に上空にある戦闘機によって対処する以外に策はない」。

 宇垣少将は、これを悲観的自白と受け取った(以上宇垣纒著「戦藻録」参照)。ところが、源田中佐は、機動部隊の航空戦にかけては、過剰と言えるほど、自信満々だった。

 源田中佐は、空母を集団使用すれば、防空戦闘機を多数配備できるので、敵飛行機隊を撃退できると確信していた。

 軍令部第一部作戦課航空主務部員・三代辰吉(みよ・たつきち)中佐(茨城・海兵五一・海大三三・空母「加賀」飛行隊長・第四航空戦隊参謀・第二艦隊参謀・中佐・軍令部第一部作戦課航空主務部員・第一一航空艦隊参謀・第七三二海軍航空隊司令・大佐・横須賀航空隊副長兼教頭)は次のように語っている。

 「昭和十七年四月二十日頃、軍令部がミッドウェー作戦において、我が空母に損害が出るのではないかと不安を抱いていたとき、源田参謀は、空母を集団使用し、上空警戒機(防空戦闘機)を多数集中すれば、敵の航空攻撃は阻止できると断言し、軍令部を安心させた」。

 当時、源田実航空甲参謀は、「艦爆と雷撃機の大兵力を集中すれば、一挙に敵を撃滅できるし、上空警戒機を多数集中すれば、敵の航空攻撃は阻止できる」という用兵思想に徹していた。

 また、「戦史叢書・ミッドウェー海戦」には、次の様に記されている。

 「南雲長官は、少なくとも航空作戦の計画や指導などには、ほとんどイニシアチィーブをとることはなく、幕僚の意見を『うんよかろう』と決裁していたようである」

 「草鹿参謀長もまた、ほとんど口を出さなかったようである。その上大石首席(先任)参謀は航海専攻の人で、航空に関する経験が少なかった」

 「勢い航空作戦の計画も指導も、源田航空参謀の意見がほとんど全部通っていた。……当時、機動部隊を源田艦隊と評した者さえあった」
 
 「従って一航艦司令部の航空作戦指導は、源田参謀の用兵思想に影響されるところが絶大であったといえよう」。

 昭和十七年五月半ばの頃だった。海軍省人事局別室に、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐が入って来て、航空機整備員を担当する猪原武雄少佐に次のように談判を始めた。

 「今度は実に大事な作戦だ。いい整備員が多くいる。整備員の学校から、教官でも教員でも、うんといいのを、できるだけよこしてくれ」。