オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

降誕:過去から

2014-11-30 00:00:00 | 礼拝説教
2014年11月30日 アドベント第1主日礼拝
(マタイ1:1、17)岡田邦夫


 「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」。…「それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる」。マタイ福音書1:1、17

 星野富弘さんの作品の多くは花ですが、木を描いた『木を一本』というのがあります。詩文を読みましょう。
  大ホールはいりません
  そのかわり大きな木を一本
  残しておいて下さい
  春には小鳥の歌声
  夏は蝉の大合唱
  秋には枯れ葉の金の踊り
  冬は空高く木枯らしの笛
 この詩歌から思いをはせれば、人生の木とも見えてきます。華やかな大ホールにように賞賛を浴びるようなものはいらない。神の与えられた人生の春夏秋冬、人生の四季を時にかなって祝福してくださる神の御手の中で生きる大きな木のようでありたいと思います。
 さらに私はこの「大きな木」は旧約聖書における神の民の歴史を連想します。旧約聖書では「系図」も「歴史」も同じ言葉です(トールドート)。新約聖書の最初に出てくるこの系図は旧約全体を表す一本の木のようなものです。巨大な大聖堂(カテドラル)はいりません。この系図という木の一本で良いのです。
 イスラエルにとって「春」はアブラハムから始まる。後にエジプトで奴隷になったものの、立てられたモーセによってエジプトを脱出する。荒野にて乳と密の流れるカナン入国のため準備する。次は花咲く「夏」の時代を迎える。カナン入国をはたし、やがて王国時代へ続いていくが、栄枯盛衰の歴史を繰り広げる。花は枯れていくが、実りのある「秋」を迎える。分裂した北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、南王国もバビロン帝国に補囚される。しかし、奇跡的に祖国に帰還し、再建に生き延びるのである。その中で優れた預言者が排出される。しかし、沈黙に包まれる冬の時代がきます。預言者マラキの後は四百年、預言者が興らなかったのである(言い換えれば、旧約と新約の間にあるブランクである)。そして、新たな春の時代を迎えたということです。それが新約の時代です。

◇これこそ
 その中で最も重要な歴史の筋道を新約聖書の冒頭に述べられているのです。「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」。名もない人物のように、イエスはナザレの田舎から出てきます。しかし、正当なアブラハムの子孫、ダビデの子孫であることを系図で述べます。そして、時々の状況から展開して、流れ着いたというのではなく、まず、神の約束があって、その実現に向かう歴史だったことを述べています。
 アブラハムへの約束(創世記12:2-3):「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。
 ダビデへの約束(2サムエル7:12-16):「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
 この約束にもとづき、神は預言者たちに救い主、メシヤはダビデの子孫から生まれると預言させていました。メシヤはヘブル語、意味は油注がれた者、ギリシャ語に訳すとキリストです。17節の「14代」という数字は7×2=完全、キリストの誕生は神の約束の完全な実現というメッセージです。約千年前のダビデ契約、約二千年前のアブラハム契約がイエス・キリストにおいて実現したのです。読んでいると「が生まれ」「が生まれ」と続き、カタカナばかりで眠くなってきますが、実は旧約と新約を結びつける、遠大で見事なメッセージなのです。

◇にもかかわらず
 そして、この系図の特記すべきことは、4人の女性の名が出てくることです。タマルはしゅうととの姦淫によってパレスとザラを産み(創38)、ラハブは遊女だったが、斥候をを助け、ボアズを産む(ヨシ2)、ルツはモアブ人(異邦人)だったがボアズに贖われ、オベデを産む(ルツ)。バテ・シェバはウリヤの妻だったが、ダビデに奪われ、ソロモンを産む(2サム11-12)。純血さ、正当さを強調しようとしたら、この系図の汚点になることです。しかし、あえて記しているのです。
 すべての人は御前に罪を犯している。その歴史なのだ。ダビデさえも容赦なく、それをさらけ出しているのです。そのような罪深い者にもかかわらず、神の恵みでおおわれ、赦されてきたのだ。その恵みは異邦人にもおよぶのだという、神の恵みの系譜なのです。神の恵みの約束、契約は純血ではなく、どんなに汚点があったとしても、どんなに罪深かったとしても、「それにもかかわらず」果たされていき、貫かれたのです。これが神の真実です。愛です。
 私たちにとってはここから始まるのです。こうして、千年、二千年の時をかけ、罪の歴史にふるわれながら、恵みに恵みを加え、神の真実が貫かれながら、神の人類への愛が熟成され、最も最高の状態で、神の御子、ダビデの子、救い主イエス・キリストが世に遣わされ、誕生されたのです。それがクリスマスです。キリストは遙か彼方の過去からやってきたのです。そして、未来を切り開くのです。神の国の恵みをもたらし、人類を贖い、新世界を切り開くのです。
 あなたがたがどんなに罪深かったとしても、それにもかかわらず、罪を贖い、キリストの家族にされたのです。人の血筋によらず、御子の血によって贖われ、神の子として恵みの相続人とされたのです。神の国の恵みの系図に載せられたのです。「にもかかわらず」なのです。一本の真のぶどうの木の枝とされたのです。幹はイエス・キリスト、私たちはその枝、実を結ぶように、祝福の実を結ぶようにつないでいただいたのです。過去、現在、未来の千千万万の聖徒たちと共に、大きな大きな一本のぶどうの木に私もつながっているのです。神の愛において永遠の命でつながっているのです。命の系図の中にいるのです。今年のクリスマスも、この祝福を誰かにお伝えしたいと思います。祈っていきましょう。

平安があるように

2014-11-23 00:00:00 | 礼拝説教
2014年11月23日 伝道礼拝(ヨハネ福音書20:21)岡田邦夫


 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

 若い日に、神学校の寮生活をしていた時に、年配の方で金さんという人がおりました。挨拶するのに、日本では「こんにちは」であいまいだけれど、自分の国では「メシ食ったか」と言い、その国の事情をよく反映しているだとよく言っておりました。卒業後は東京の下町で伝道されていました。下町といえば、深川に江戸資料館というのが出来ていて、江戸庶民の暮らしぶりが見られます。特に長屋が再現されたのを見ると、テレビドラマに出てくるのとはずいぶん違います。畳があるのはまだ良い暮らしをしているのであり、貧しいとむしろを敷いて生活してたといいます。また、押し入れもなく、布団は部屋の隅にたたんで、ついたてを立てていたそうです。
 それで幸せだったのか、当時、日本に来た外国人の手記によると、人々は決して経済的にゆたかではないが、簡素で清潔で,全体として満ち足りた生活を営んでいる、というコメントがもっとも一般的です。おおらかで、笑顔が絶えず、好奇心が旺盛で、識字率が高く、笑顔が絶えず、機嫌良く暮らしているという印象を述べています。そこには「ご機嫌よう」という挨拶の言葉も生まれてくるわけです。これは侵略されることのなかった島国の文化的な現象でした。
 今日お話ししたいのは昔に帰れということではなく、神に帰れということです。ご機嫌というのは心が満たされた状態のことです。もし、人が地位や名誉や財産があっても、なくても、ご機嫌でいられれば、実に幸せです。この満たされた状態を聖書のヘブライ語ではシャロームといいます。平和とか平安と訳されますが、それが主な意味ですが、もっと幅広い意味で、健康だったり、繁栄だったり、それらを含んでおります。それで奴隷になったり、侵略されたり、補囚されたり、属国になったりという歴史をたどったイスラエル人(聖書に出てくる)にとってはあいさつが「シャローム」となるのです。社会が平和でありますように、心が平安でありますように(日本語で言ったら、ご機嫌よう)となるのです。
 私の福音書を見る限りでは、イエス・キリストが生前、「平安があなたがたにあるように」とあいさつされた記事はないようようです。復活されて、言われたシャロームのあいさつだけがあるのです。特別な意味合いがあると思います。生前、わたしの平安をあなたがたに残すといわれた「平安」です(ヨハネ14:27)。十字架の極限の苦しみにも耐ええた平安です。人類のすべて罪をきせられて、神に裁かれ、見捨てられた状態になっても、失われない神との平和、それを遺産として残すと約束されたのです。人生を達観したり、修行して悟った人の境地を超えた「シャローム」です。主イエス・キリストは復活されたからこそ、「平安があなたがたにあるように」、その言葉は単なる挨拶ではなく、実現する神の言葉なのです。キリストの平安が来るのです。

 私は若い頃、教会に行きました。西欧の文化として、初めはあこがれがありました。しかし、教会に行ってみると、自分の人生、これでいいのかと考えさせられ、隠れていた魂の虚しさが感じられるようになり、満たされるものを求めるようになりました。また、世の終わりが来た時に神の裁きに耐えられるだろうかという不安がよぎるのでした。ふだん、しょうにあった仕事をし、余暇は青春を楽しんではいたのですが。真の意味でご機嫌ではなかったのです。
 求めが切なるものとなっていた時に、教会で持たれた特別伝道会に出ました。そこで、冒険だがイエス・キリストを信じてみようと決心し、教会の人に導いていただきました。不思議と信じられたのですが、信じたとたんに、魂は平安となり、それこそご機嫌になったのです。何かがうまくいったわけでも、変わったわけでもないのですが、心は穏やかさに包まれたのです。
 自分の犯した数々の罪、内にある罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架の犠牲で、私のすべての罪が赦されて、最後の審判の時には裁かれることなく神の前に立てると確信できたからです。また、信じて神の子にされ、永遠の命が与えられたという喜びが与えられたからです。これを自分でまとめてみますと、過去の赦しと現在の立場と未来の約束がイエス・キリストの十字架と復活によって、与えられたということです。ですから、今は神に遣わされて生きているのです。

 今日、すべての救いの業を成し遂げられ、復活されたイエス・キリストは、十字架にかけられた時の傷跡を示し、これがあなたのすべてのをゆるしたしるし、あなたに永遠の命を与え神の子にしたというしるし、終わりの日に裁かれることなく、新天地に行けるしるしだとここに立っておられるのです。そして、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」とお声を掛けておられるのです。主よ、お受けします、信じますとお答えし、主にあるきげん良さをもって生きましょう。

完了した

2014-11-16 00:00:00 | 礼拝説教
2014年11月16日 主日礼拝(ヨハネ福音書19:23-30)岡田邦夫

 「イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く。』と言われた。…イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」
ヨハネ福音書19:28、30

 先週の心のごはんにこのような話が載っていました。ニューヨーク・フィルハーモニーが「第9交響曲」を演奏していました。演奏が終えたとき、オ-ケストラのメンバ-は指揮者のトスカニ-ニに立ち上がって拍手を送りました。それほど上手な指揮者に感動したのでしょう。ところが、トスカニーニは大きく手を振って、必死になって拍手をやめさせようとしました。やっと拍手がやむと、指揮者は大きな声でいいました。「私をほめてはいけません。すばらしいのは、この曲を作ったベ-ト-ベンです」と。人々は指揮者の謙遜な態度に感動しました。作者に栄光を帰したことです。

◇完了した…輝き度
 ヨハネ福音書は御子イエス・キリストが一貫して、父なる神に栄光を帰しておられることが面々と記しております。御子は父から遣わされ、天から下り受肉され、すべて父から聞いたことを語り、すべて父から与えられたみ業を行い、そして、父の所に帰って行かれたのです。また、御父が御子を愛されたように私たちを愛されたのです。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です」と言われるように、御子は徹底しておられたのです(8:54)。
 主は伝道の生涯で栄光を現したのですが、最後の晩餐で目を天に向けて、こう祈るのです。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。…今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」(17:1-2、5)。
 世の罪を取り除く神の小羊としての御子がゴルゴダの丘の祭壇に献げられるという「神の祭儀」こそ、最高最大の栄光なのです(1:29)。世界が存在する前に、御父と御子がいっしょにおられて持っていた栄光が、十字架の祭壇に輝いたのです。ソロモン王が神殿を建て上げ、王と民は牛二万二千頭と羊十二万頭のいけにえを奉献したのですが、その時、「火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くした。そして、主の栄光がこの宮に満ち」ました(2歴代誌7:1)。実に輝いた光景でした。しかし、人の目には無残と見えた十字架の苦難の光景ですが、御父にとっては天の聖所に御子の犠牲が献げられた神自らの祭儀なのです。ですから、ソロモンの時に勝って、はるかに栄光に輝いていたのです。イエス・キリストは世の罪を取り除く犠牲の祭儀が滞りなく行われたので、「完了した」と宣言されたのです(19:30)。輝かせてくださいという御子の祈りは十字架において聞かれ、無限の輝き、永遠の輝きとなったのです。

◇完了した…完成度
 十字架についてですが、「世の罪を取り除く神の小羊」の他にいくつかのたとえで、御子の犠牲の意味を身近なものにし、豊かにし、深めてくれます。
 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(3:14-15)。
 「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。…わたしが自分からいのちを捨てるのです。…わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」(10:11,15,17)。
 「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(12:23-24)。
 そのようにして行われた十字架の贖いの業が「完了した」のですが、その完成度は完璧なものでした。
 浮世絵の版画の芸術性や技術の高さは世界的に評価されています。彫られた版木で和紙に刷る時にばれんを使います。後藤英彦さんという方がその「本ばれん」作りの職人です。彼はわらび粉と柿渋で作った天然の糊で、木型に和紙をていねいかつ慎重に接着させ、乾燥させてはそれをまた一枚と合計で50枚貼り重ねていきます。そして絹布を張り、耐久性を出す漆(うるし)を塗り、当皮(あてがわ)という部品が完成します。さらに竹の皮で作った綱を巻き、当皮(あてがわ)にはめ込むことで本ばれんが完成します。完成までに半年を要し、一般的なばれんとは一線を画します。これを使うと浮世絵の細い線などがきれいに刷れるのです。より優れた浮世絵を刷るにはより優れた道具が必要なのです。ばれん一つとっても仕事の完成度は極めて高いことを知らされます。
 まして、十字架における贖いのみ業の完成度は完全、完璧なのです。預言されていたことは完全に成し遂げられました。罪人を救うという父なる神のみこころは完璧になされたのです。贖いの祭儀は「完了した」のです。ですから、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめるのです(1ヨハネ1:7)。御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるのです(ヨハネ3:16)。
 そこから、「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」や、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」のお言葉に私たちは従っていくのです(13:34、20:21)。

助け主・真理の御霊

2014-11-09 00:00:00 | 礼拝説教
2014年11月9日 主日礼拝(ヨハネ福音書16:5-15)岡田邦夫


 「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」ヨハネ福音書16:13

 子ども向けの伝記には必ず出てくるヘレン・ケラー。1歳9ヵ月、原因不明の高熱におそわれ重体となり、そのため、耳と目をおかされて、光と音の世界から完全に遮断されてしまいました。ヘレンが7歳の時、両親がアンニー・サリヴァンを家庭教師に迎えると、彼女はしつけと指文字を教えます。しかし、ものには名前があること、言葉があるということがわかりません。家の中がぎくしゃくしていたある日のこと、ヘレンが冷たい井戸水にふてれた時、これがwaterという名前であることに気づいたのです。それから、言葉をどんどん覚えていき、やがて、大学まで行き、世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くしたのです。言葉の世界が開けた奇跡の時のことをヘレンはこう言っています。「言葉の存在を最初に悟った日の夜。私は嬉しくて嬉しくて、ベッドの中で、この時初めて“早く明日になればいい”と思いました」(ヘレン)。

◇知らせたい…調べで
 ヨハネという人はイエス・キリストに出会い、新しい言葉の世界が開かれた、その感動を、音楽を奏でるように福音書を書き記したのです。ヨハネ福音曲とでも言いましょうか。手紙の方にはその目的が最初に記されています。私たちに現された永遠の命のことばを伝えたのは父、御子との交わりを持ち、その喜びが満ちあふれるためだと(1ヨハネ1:1-4要約)。
 ヨハネ福音書には「知る」とい言葉が重要なのでしょう。くり返しくり返し出て来ます。二つのギリシャ語でオイーダが85回、ギノスコーが56回、計141回、両語同じような意味で使われ、わかる、悟る、認めるとも訳されています。…イエス・キリストは御子として、父(なる神)を知っている。そして、父から聞いたことを証ししている。その最も知らせたいのが御子の犠牲である。それが世にはわからない。しかし、あなたがた(弟子)はわかるようになっていった…。そのような調べをくり返し響かせながら、よみがえりのクライマックスまで進んでいきます。

◇知らせたい…大声で
 御子の中では魂が躍動しておられ、大声をあげておられます。祭りの大いなる日にだれでも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい、生ける水があふれますと大声で言われました。その水とは聖霊のことです(7:37-39)。墓に葬られた死者に大声で叫ばれました。「ラザロよ。出て来なさい」。かれは生き返りました(11:43)。復活のいのちへの招きのメッセージです(11:25)。エルサレム入城後に、大声で「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです」と言い始め、最後にこう言います。「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています(オイーダ)。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです」(12:50)。大声で言われたのです。聖霊のこと、復活のこと、永遠の命のこと、どれも自然にはわからないことです。イエス・キリストによって、信仰によってわかることです。
 このあとすぐに最後の晩餐に移ります。「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」(13:1)。この知るは時を知ることです。イエスは低い奴隷の仕事である足を洗うということを弟子に致しますが、ペテロは何のことか解らない。イエスはこう言います。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」。御子が父のみこころに従って十字架上で犠牲になって、さらに聖霊が臨んだ時にわかるというのでしょう。このしもべの姿が模範なのです。

◇知らせたい…聖霊で
 そして、父のもとに行くことを告げ、聖霊の授与の約束をされます。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」(14:16-17)。14:25-26にも、15:26にもくり返し聖霊の約束を述べます。
 そして、今日の聖書箇所、16:5-15に詳しく述べられます。聖霊は罪につき、さばきにつき、認めさせます。それは真理の御霊だからです。しかし、御子が罪をきよめ、信じる者を裁かれないようにしてくださるのだと聖霊が弁護し、助けてくださるというのです(助け主=弁護士)。「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです」(16:13ー15)。

◇知らせたい…犠牲で
 真理とは神を知ることです。神を知らしめるために御子イエス・キリストが犠牲の業、仕える業をなさいました。それを信じさせ、私たちに完全に届けてくださるのが聖霊です。その最後の晩餐で言われたイエス・キリストの素晴らしい響き渡るお言葉があります。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(17:3)。この知るというのは、知識として知ってなるほどと思ったり、生活や人生の知恵として知って役に立つというもの以上のことです。日本語で表現するなら「知り合い」になるということです。唯一のまことの神であるお方と知り合いになった、遣わされたイエス・キリストと知り合いになったのだと聖霊様が弁護してくれるのです。遠い知り合いではなく、ごく近い、家族以上に近い、しかも、永遠の知り合いになったのです。もし、私があと一週間しか命はないと医師に宣告されたとしたら、私はこう思うでしょう。ここにおられる皆さんと知り合えたことに無情の感謝があふれてくるだろうなあと想像するのです。
 「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」。このような人格的な真理に聖霊が導かれるのです。大丈夫、あなたは父、子、聖霊の神と永遠の命の知り合いなのですよ。愛をあますところなく示されたイエス・キリスト、すなわち、御子の犠牲の血によるつながりですよ。しもべイエスの生き方を模範とする仕え合い、愛し合う家族なのですよ。この生きた真理が自由を得させるのですよ。復活されたキリストが言われたお声を今、聞きましょう。「聖霊を受けなさい」(20:22)。

わたしはよみがえりです

2014-11-02 00:00:00 | 礼拝説教
2014年11月2日 主日礼拝(ヨハネ福音書11:38-44)岡田邦夫

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」ヨハネ福音書11:25-26

 テレビ・ザ!世界仰天ニュースで「元日本兵・横井庄一のグアムでの28年間」が放送されました。第二次世界大戦のこと、日本軍が占領していたグアム島にアメリカ軍が1944年、これを奪還すべく、激しい攻撃を加え、グアムの日本軍は敗戦。そして1945年に終戦。しかし、それを知らずに横井庄一さん等はグアム島のジャングルで援軍の来るのを待ち続け、生き延びました。仲間は死にましたが、1972年、地元の親子と遭遇し、横井庄一さんはようやく発見され、日本に帰国し、日本中がこのニュースに驚きました。28年の間、ジャングルで一人生きていこうとする精神と知恵と技術は並々なるものがあり、今日では考えられない、仰天ニュースでした。

◇二つのアメイジング
 それと比べることではないのでしょうが、ヨハネ福音書には38年病気だった人がいやされた話がでてきます。ベテスダの池に天使が水をかき回すと最初に飛び込んだ人がいやされるという民間宗教がありました。彼もそこにおりましたが、自分を入れてくれる人がいなかったのです。そこにイエス・キリストが「なおりたいのか」とたずね、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命じます。すると、38年の病はすぐ治って、床を取り上げて歩き出したのです。それこそ、仰天ニュースでした。
 しかし、この日が安息日だったので、この医療行為は律法違反だとし、ユダヤ人はイエスを迫害します(5:16)。主イエスは再び彼と出会って、救いの言葉を投げかけます(5:14)。そして、メッセージが続きます。「これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」(5:20-21)。「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます」(5:28)。
 これと同じような展開が生まれつきの盲人の人のいやし、開眼です。弟子がこの人の盲目は誰のせいかとイエスにたずねると、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」と実に素晴らしいお答えをします。そして、盲人にの目に泥を塗り、シロアムの池に行って洗いなさいと命じます。その通りにするとしっかりと見えるようになりました。これも安息日でしたから、イエスは律法違反者だと追求されます。目を開けてもらったその人はみごとな証言をします。「だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです」(9:31ー33)。これは神のなせる仰天ニュースだと言うのです。そのあと、主イエスはこの人に再び出会い、彼を救い主を信じる信仰に導かれます。

◇究極のアメイジング
 これに重ねるように続いて、究極の奇跡(しるし)がていねいに語られていきます。主イエスはヨルダンを渡って、ヨハネがバプテスマを授けていた所に滞在しておりました。そこにラザロが病であるとの知らせが入りました。主イエスは予告します。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(11:4)。なお二日滞在し、また、こう言われます。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです」。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう」(11:11、14-15)。しかし、ベタニヤに到着した時にはラザロは墓に葬られ、四日もたっていました。
 主イエスを出迎えたラザロの姉妹マルタは嘆いて言います。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります」(11:21-22)。人は経験した想定でものを計ります。病気なら、いやせるけれど、死人は生き返らすことなど出来ないだろう、たとえ、イエスでも…。遠い終わりの時なら、復活はあるだろうけれども…。ここで、イエス・キリストはかつて誰も言ったことのないことを言われます。
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(11:25-26)。
 それでもマルタは、今ラザロによみがえりが起ころうとしていることを想定できません。信じられません。なお、出迎えた姉のマリヤも同じでした。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。そして、墓に行きます。そこに集まったユダヤ人は同じことを言います。「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」。主イエスの感情が爆発し、あふれ出ます。霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ、涙を流されました。人の死の現実への憤りでしょう。ラザロという一人の人をこよなく愛する愛の涙なのでした。
 そして、ふたにしてあった大きな墓石を転がさせます。四日目から死体は腐っていきます。マルタには「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と言いきせます。父なる神には「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです」と祈ります(11:40-42)。
 主イエスの霊の力は全開。大声で「ラザロよ。出て来なさい」と叫びます(11:43)。ラザロは生き返ります。腐りかけた死人が元気なからだによみがえったのです。全くの想定外の出来事でした。それこそ仰天ニュースでした。多くの人がイエス・キリストを信じますが、祭司長等は自分たちが困るので、イエスを殺害しようと企てます(11:53)。
 これは前代未聞の出来事です。エリヤとエリシャは奇跡をなし、死人を生き返らせた行動預言者でした。ですから、イエス・キリストはその意味で、神の国を到来を述べる口述預言者であると同時に多くの奇跡(しるし)をなされた行動預言者でもありました。

◇アメジング・グレイス
 しかし、それ以上のことです。英語で、「驚く」の類語が三つあります。ビーサプライズド「思いがけないことで驚く」、アストミッシュド「非常に驚く、びっくり仰天する」、そして、一番驚きの度合いの強いのがアメイズドです。「あり得ないと思ったことが起こって、驚きのあまり、当惑する」です。アメジング・グレイスがそれです。終わり日によみがえり、地上のすべてがいやされ、天国への目が開かれるのですが、イエス・キリストを信じることで新しい命が与えられ、すでに心も目が開かれ、霊がいやされ、新しい命が与えられている、その先に、終わりの日のことがつながっている。それが永遠の命なのです。
 この書の目的がそれなのです。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(20:30)。中心聖句もそうです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3:16)。御子イエスによって罪からきよめられ永遠の命をいただいている。これは「あり得ないと思ったことが起こって、驚きのあまり、当惑する」アメジング・グレイスなのです。
 「ラザロよ。出て来なさい」。今の世において、罪と死と滅びの世界から、永遠の命の世界に出て来なさい。悩みと苦しみのジャングルから、キリストの平安の広い地に出て来なさい。後の世において、死人の中から、栄光の体へと出て来なさい。死人の中から栄光の体によみがえられたご自身が、今の世においても、後の世においても、連続して、あなたの名を呼んでおられるのです。「出て来なさい」、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」からと。