2011年8月28日 伝道礼拝(ヨハネ福音書3:1-16)岡田邦夫
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:17)
「日はまた昇る」というタイトルの小説や歌など、いろいろありますが、私たちの感覚では、今の状況は暗い夜だが、きっと明るい明日がくるだろうという感じだと思います。しかし、ヘミングウェイの小説「日はまた昇る」はそれとは反対の意味合いです。第一次大戦後のパリで、戦争によって本質的に傷ついた人たちが集まり、虚無と歓楽の昏(こん)迷(めい)した生活を送っているというもので、題字に旧約聖書の伝道者の書1:4~7が引用されており、復活をかけるという意味ではなく、むしろ何も変わらない生活に対するやるせなさを表しているのです。
「一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる」。
伝道者の書は神なき人生は「空の空、すべては空」、虚しいもの、来る日も来る日も何も変わらぬ日々だ、やるせないと書き出すのですが、途中のマッセージを省略して、結論を申しますとこうです。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。…12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(伝道12:1-13)。神のある人生を楽しめといものです。
さらに、新約聖書では冒頭の句のように、人生が変われるという福音のメッセージがあるのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(2コリント5:17)。
イエスが伝道されていた時、ニコデモという人が尋ねてきました。彼はユダヤの指導者なのですが、イエスに指導してもらおうと、夜こっそりやって来たのです。ユダヤには70人で構成される議会があり、その議会は大祭司を議長とする、政治と宗教の両方の最高議会であり、最高法廷で、ニコデモはその議員の一人でした。しかも、モーセの掟をしっかり守って生き、人々を導こうとするパリサイ派という派に属する宗教的指導者でした。それなのに、イエスに会って「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」と言ったのでしょうか。
ニコデモは神を求めていました。神の国を求めていました。聖書を調べ、永遠の命を求めていました。神の掟、律法を守って生きれば、神に義人と認められ、永遠のいのちが得られ、神の国に入れると思っていました。しかし、現実に「神がともにおられる」という実感のようなもの、手応えのようなものがないのです。今風に言えば、宗教をやっているが、リアリティが感じられないのです。先ほどの伝道者のメッセージのように、創造者を覚え、神を恐れ、神の命令を守って生きているはずなのに、現実は「空の空、すべては空」という虚無感がただよっているのです。いったい、この晴れ渡らないものはなんなのか、この悶(もん)々(もん)としたものはなんなのか、誰か教えてほしいと思っていました。
ニコデモは指導的な立場にあるから、民衆に評判のナザレ村出身のイエスに白昼、会うわけにはいかないので、夜やって来たわけですが、気持ちの上でも夜の時がよかったのです。人はしばしば夜の帳(とばり)が下りると宗教的になるものです。夜、一人になると、昼、神の律法を人々に教え、厳格に律法の規定に従って生きる様を人々に見せ、それなりの満足を得ていたパリサイ人という服が脱がされるのです。そこに現れた心には虚しさがどんよりとただよっているのです。神の国とか、永遠の命とか、はたして、自分の手の中にあるのだろうか、自分の中にあるどす黒いが罪がはたして、神の前に義とされているのだろうか、あいまいな気持ちになってきます。何かにしがみつきたいけれど、魂は奈落の底に落ちていくようでたまりません。きっと、そのような切実な思いで、夜、イエスを尋ねたのだと思います。
そこで、その様に求めてきたニコデモに、イエスは余計な説明的な教説はいっさいせず、ずばり、こう答えました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3:3)。ただ、生まれ変われば良いという答ですが、今まで努力し、積み上げてきた自分の人生はどうなってしまうのか、無駄だったのか、無意味だったのか、すぐ、「はい」とは言えません。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」と言うしかありません(3:4)。そこで、主イエスはていねいにメッセージを進めてくださいます。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水(生まれ変わりの儀式)と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」(3:5)。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって(新しく)生まれる者もみな、そのとおりです」(3:8)。
天にのぼって永遠の命を得た人はいません。しかし、天から下ってきた人の子=救い主が信じる者に永遠の命を与えられるのです。むかし、イスラエルが神の背き、滅ぼされそうになった時、モーセが神に命じられたように青銅の蛇を作り、旗ざおの上につけたのを人々が仰ぎ見ると助かったという事例があります(民数記21:9)。そのように、「人の子もまた(十字架に)上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(3:15)。
ニコデモはこの時だったか、後になってか分かりませんが、風は思いのままに吹くという御霊の理屈を越えた働きにより、人の子・イエス・キリストを信じて生まれ変わったことと思います。律法を守れば神に義とされるのだという自分の偽善が砕かれて、神の御子が犠牲となって、その罪を贖い、赦してくださったと確信を得たのです。その御子を犠牲にしてまで、人類を救おうとされた神を思い、信じた時、心は永遠の命を持っているという霊的実感が起こり、奈落の底に落ち込んでいた魂が天も上る思いに変えられたのです。この手で何かを獲得したという感じではなく、何かとてつもないものが上から与えられたという感じでした。神が共におられるということがいきがらなくても感じられ、魂は何ともいてない平安を与えられました。
イエスの弟子・ヨハネはこれを一句に濃縮しましたのがヨハネ3お章16節です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。ルターはもし、他の聖書が失われたとしても人はこの句さえあれば、救われる、全福音だと言いました。ニコデモが求めていたものを私たちも求めていると思います。ニコデモが得た永遠なるものを私たちも得られるのです。同じ、パリサイ派だったパウロも復活のキリストに出会って、同じ経験をしました。彼もこうメッセージを伝えています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(2コリント5:17)。
今日、「信じてバプテスマを受ける者は救われる」の御言葉にもとづいて洗礼式がありました。御霊が働き、罪につける私が死んで、水と霊によって新しく生まれたのです。愛の神が導かれる神の国の門を入られ、神と共なる生活が始まったのです。教会は永遠の命の共同体です。ヨハネ3:16で結ばれて、共に祈り、賛美し、礼拝し、伝道し、奉仕をしてまいりましょう。新生した者たちには神と兄弟姉妹が共にいるという意味の「日はまた昇る」の生活があるから幸いです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:17)
「日はまた昇る」というタイトルの小説や歌など、いろいろありますが、私たちの感覚では、今の状況は暗い夜だが、きっと明るい明日がくるだろうという感じだと思います。しかし、ヘミングウェイの小説「日はまた昇る」はそれとは反対の意味合いです。第一次大戦後のパリで、戦争によって本質的に傷ついた人たちが集まり、虚無と歓楽の昏(こん)迷(めい)した生活を送っているというもので、題字に旧約聖書の伝道者の書1:4~7が引用されており、復活をかけるという意味ではなく、むしろ何も変わらない生活に対するやるせなさを表しているのです。
「一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる」。
伝道者の書は神なき人生は「空の空、すべては空」、虚しいもの、来る日も来る日も何も変わらぬ日々だ、やるせないと書き出すのですが、途中のマッセージを省略して、結論を申しますとこうです。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。…12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(伝道12:1-13)。神のある人生を楽しめといものです。
さらに、新約聖書では冒頭の句のように、人生が変われるという福音のメッセージがあるのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(2コリント5:17)。
イエスが伝道されていた時、ニコデモという人が尋ねてきました。彼はユダヤの指導者なのですが、イエスに指導してもらおうと、夜こっそりやって来たのです。ユダヤには70人で構成される議会があり、その議会は大祭司を議長とする、政治と宗教の両方の最高議会であり、最高法廷で、ニコデモはその議員の一人でした。しかも、モーセの掟をしっかり守って生き、人々を導こうとするパリサイ派という派に属する宗教的指導者でした。それなのに、イエスに会って「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」と言ったのでしょうか。
ニコデモは神を求めていました。神の国を求めていました。聖書を調べ、永遠の命を求めていました。神の掟、律法を守って生きれば、神に義人と認められ、永遠のいのちが得られ、神の国に入れると思っていました。しかし、現実に「神がともにおられる」という実感のようなもの、手応えのようなものがないのです。今風に言えば、宗教をやっているが、リアリティが感じられないのです。先ほどの伝道者のメッセージのように、創造者を覚え、神を恐れ、神の命令を守って生きているはずなのに、現実は「空の空、すべては空」という虚無感がただよっているのです。いったい、この晴れ渡らないものはなんなのか、この悶(もん)々(もん)としたものはなんなのか、誰か教えてほしいと思っていました。
ニコデモは指導的な立場にあるから、民衆に評判のナザレ村出身のイエスに白昼、会うわけにはいかないので、夜やって来たわけですが、気持ちの上でも夜の時がよかったのです。人はしばしば夜の帳(とばり)が下りると宗教的になるものです。夜、一人になると、昼、神の律法を人々に教え、厳格に律法の規定に従って生きる様を人々に見せ、それなりの満足を得ていたパリサイ人という服が脱がされるのです。そこに現れた心には虚しさがどんよりとただよっているのです。神の国とか、永遠の命とか、はたして、自分の手の中にあるのだろうか、自分の中にあるどす黒いが罪がはたして、神の前に義とされているのだろうか、あいまいな気持ちになってきます。何かにしがみつきたいけれど、魂は奈落の底に落ちていくようでたまりません。きっと、そのような切実な思いで、夜、イエスを尋ねたのだと思います。
そこで、その様に求めてきたニコデモに、イエスは余計な説明的な教説はいっさいせず、ずばり、こう答えました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3:3)。ただ、生まれ変われば良いという答ですが、今まで努力し、積み上げてきた自分の人生はどうなってしまうのか、無駄だったのか、無意味だったのか、すぐ、「はい」とは言えません。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」と言うしかありません(3:4)。そこで、主イエスはていねいにメッセージを進めてくださいます。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水(生まれ変わりの儀式)と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」(3:5)。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって(新しく)生まれる者もみな、そのとおりです」(3:8)。
天にのぼって永遠の命を得た人はいません。しかし、天から下ってきた人の子=救い主が信じる者に永遠の命を与えられるのです。むかし、イスラエルが神の背き、滅ぼされそうになった時、モーセが神に命じられたように青銅の蛇を作り、旗ざおの上につけたのを人々が仰ぎ見ると助かったという事例があります(民数記21:9)。そのように、「人の子もまた(十字架に)上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(3:15)。
ニコデモはこの時だったか、後になってか分かりませんが、風は思いのままに吹くという御霊の理屈を越えた働きにより、人の子・イエス・キリストを信じて生まれ変わったことと思います。律法を守れば神に義とされるのだという自分の偽善が砕かれて、神の御子が犠牲となって、その罪を贖い、赦してくださったと確信を得たのです。その御子を犠牲にしてまで、人類を救おうとされた神を思い、信じた時、心は永遠の命を持っているという霊的実感が起こり、奈落の底に落ち込んでいた魂が天も上る思いに変えられたのです。この手で何かを獲得したという感じではなく、何かとてつもないものが上から与えられたという感じでした。神が共におられるということがいきがらなくても感じられ、魂は何ともいてない平安を与えられました。
イエスの弟子・ヨハネはこれを一句に濃縮しましたのがヨハネ3お章16節です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。ルターはもし、他の聖書が失われたとしても人はこの句さえあれば、救われる、全福音だと言いました。ニコデモが求めていたものを私たちも求めていると思います。ニコデモが得た永遠なるものを私たちも得られるのです。同じ、パリサイ派だったパウロも復活のキリストに出会って、同じ経験をしました。彼もこうメッセージを伝えています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(2コリント5:17)。
今日、「信じてバプテスマを受ける者は救われる」の御言葉にもとづいて洗礼式がありました。御霊が働き、罪につける私が死んで、水と霊によって新しく生まれたのです。愛の神が導かれる神の国の門を入られ、神と共なる生活が始まったのです。教会は永遠の命の共同体です。ヨハネ3:16で結ばれて、共に祈り、賛美し、礼拝し、伝道し、奉仕をしてまいりましょう。新生した者たちには神と兄弟姉妹が共にいるという意味の「日はまた昇る」の生活があるから幸いです。