2014年10月26日 みのお泉/三田泉教会合同礼拝(イザヤ書41:10)岡田邦夫
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」イザヤ書41:10
昨日、お隣の畑の人に黒豆のことで聞きにいったら、柿の木の下を見てみろというので見に行くと、日本穴熊が捕獲されていました。それで思い出したことがあります。中学の国語の時間、なぜか、私が指名されて、黒板に「たいど」を漢字で書くように言われた。気が小さいものだから緊張のあまり、「能」の下に「心」を書こうとしたのに、一瞬ためらっていると、先生が次にA君と指名。彼は能の下に点々を書いて「熊度」としてしまった。先生が「それはくまどだよ」。するとクラスは笑いに包まれ、楽しい授業になった。なぜ、そのようなことを覚えているかというと、それが私には悔しかったからです。脳というのは辛かったとか、楽しかったとかの感情のくくりの中で、データを物語りの形で保存しているものだそうです。その時、正解が書けていたはずなのに、ためらってしまったのが悔しいけれど失敗だった。自分はためらいがちだ。大事な決断をするときには決してためらわないようにしようと思わされた出来事の一つでした。
◇あなたを助ける
今日のテーマは「たじろぐな」です。預言者イザヤは言います。ユダの民は強大なバビロン帝国に敗北し、バビロンに捕らえられていく。それは神の前に不信仰で堕落したことへ裁きである。しかし、メド・ペルシャがバビロンを倒し、そのクロス王がユダの民を解放し、エルサレムに帰され、救われると希望の預言を告げます。その先の終末、救い主・メシヤの贖いも大きなスケールで預言をします。ですから、こう告げるのです。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。…あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける。』と言っているのだから」(41:10、13)。
神のしもべ、モーセは絶大な権力を誇るエジプトのパロ王の前、十度立ちますが、決してたじろぎませんでした。ですから、神の奇跡により、イスラエルは奴隷から解放されたのです。エジプト軍に追われ、紅海を前にした時も、モーセはたじろぎませんでした。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。…主があなたがたのために戦われる」と大胆に民に告げました(出エジプト14:13-14)。そのとおり、海がわかれ、民は救われました。聖書には信仰によってたじろなかった人が多く出てきます。ヨシュア、ギデオン、サムソン、サムエル、ダビデ、エリヤとエリシャ、シャデラク、メシャク、アベデネゴ、ダニエル、エステル、新約ではペテロ、ステパノ、パウロ…。
剣道で重要なのは構えですね。クリスチャンは信仰の構えをしっかりもちましょう。敵を意識することです。傲慢にさせたり、落胆させたりするサタンという神からひきはなす敵です。サタンは惑わすものです。同時に味方を意識することです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」。信仰によって、傲慢は謙虚に、落胆は確信に変えられます。
もちろん、自分で「たじろがないぞ」と構えても、疲れるか、負けてしまいます。私たちの勝利は「たじろぐな」のみ声を聞くことです。み声を聞く構えが最も必要です。受難の道、十字架の道に進んでも、少しもたじろがなかった主イエスが言われます。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33口語訳)。勝っているから、たじろぐなと愛をもって励まされます。
◇あなたを変える
「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」のみ声を聞いて、私は牧師となるべく献身しました。東京聖書学院に入学する前に母がクリスチャンだったので、赤飯を炊いて祝ってくれました。その時、意見などあまり言わない兄ですが、私にこう言いました。「お前は説得力がないから、牧師になるのはやめておいた方が良い」。しかし、召命の言葉をいただいているので、たじろぎませんでした。しかし、学院に入ってみると、兄の言ってくれたことが私の現実でした。特に英語、ギリシャ語、ヘブル語ときたら、悩みの種でした。そうした苦闘の中で、「荒野の泉」というカウマン夫人の日課を読んでいた時に、このイザヤ41:14-15のみ言葉が心に入り込んできました。「虫にひとしいヤコブよ…みよ、わたしはあなたを鋭い歯のある新しい打穀機とする」(口語)。日課の文章は省略しますが、説教者として立てるのだという、静かな確信と勇気をいただきました。自分はほんとうに虫にひとしいヤコブ、虫けらのヤコブである。でも、聖霊によって、鋭い歯のある新しい打穀機としてくださるのだと主イエスは言ってくださるのです。
このみ言葉は皆さんに告げているのです。少年ダビデが巨人ゴリアテが向き合った時に、ゴリアテはダビデを虫けらのようにバカにしました。「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」。しかし、「この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」と言い切って、ダビデはたじろぎませんでした。石なげではなった一発だけでゴリアテを砕いたのです。主が戦われたからこそ、勝ち得て余りあるものでした。
たじろぐなと恐れるなは同義語。こう言い換えても良いのではないでしょうか。「たじろぐな。虫けらのヤコブ、…見よ、わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする」(新改訳)。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」イザヤ書41:10
昨日、お隣の畑の人に黒豆のことで聞きにいったら、柿の木の下を見てみろというので見に行くと、日本穴熊が捕獲されていました。それで思い出したことがあります。中学の国語の時間、なぜか、私が指名されて、黒板に「たいど」を漢字で書くように言われた。気が小さいものだから緊張のあまり、「能」の下に「心」を書こうとしたのに、一瞬ためらっていると、先生が次にA君と指名。彼は能の下に点々を書いて「熊度」としてしまった。先生が「それはくまどだよ」。するとクラスは笑いに包まれ、楽しい授業になった。なぜ、そのようなことを覚えているかというと、それが私には悔しかったからです。脳というのは辛かったとか、楽しかったとかの感情のくくりの中で、データを物語りの形で保存しているものだそうです。その時、正解が書けていたはずなのに、ためらってしまったのが悔しいけれど失敗だった。自分はためらいがちだ。大事な決断をするときには決してためらわないようにしようと思わされた出来事の一つでした。
◇あなたを助ける
今日のテーマは「たじろぐな」です。預言者イザヤは言います。ユダの民は強大なバビロン帝国に敗北し、バビロンに捕らえられていく。それは神の前に不信仰で堕落したことへ裁きである。しかし、メド・ペルシャがバビロンを倒し、そのクロス王がユダの民を解放し、エルサレムに帰され、救われると希望の預言を告げます。その先の終末、救い主・メシヤの贖いも大きなスケールで預言をします。ですから、こう告げるのです。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。…あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける。』と言っているのだから」(41:10、13)。
神のしもべ、モーセは絶大な権力を誇るエジプトのパロ王の前、十度立ちますが、決してたじろぎませんでした。ですから、神の奇跡により、イスラエルは奴隷から解放されたのです。エジプト軍に追われ、紅海を前にした時も、モーセはたじろぎませんでした。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。…主があなたがたのために戦われる」と大胆に民に告げました(出エジプト14:13-14)。そのとおり、海がわかれ、民は救われました。聖書には信仰によってたじろなかった人が多く出てきます。ヨシュア、ギデオン、サムソン、サムエル、ダビデ、エリヤとエリシャ、シャデラク、メシャク、アベデネゴ、ダニエル、エステル、新約ではペテロ、ステパノ、パウロ…。
剣道で重要なのは構えですね。クリスチャンは信仰の構えをしっかりもちましょう。敵を意識することです。傲慢にさせたり、落胆させたりするサタンという神からひきはなす敵です。サタンは惑わすものです。同時に味方を意識することです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」。信仰によって、傲慢は謙虚に、落胆は確信に変えられます。
もちろん、自分で「たじろがないぞ」と構えても、疲れるか、負けてしまいます。私たちの勝利は「たじろぐな」のみ声を聞くことです。み声を聞く構えが最も必要です。受難の道、十字架の道に進んでも、少しもたじろがなかった主イエスが言われます。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33口語訳)。勝っているから、たじろぐなと愛をもって励まされます。
◇あなたを変える
「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」のみ声を聞いて、私は牧師となるべく献身しました。東京聖書学院に入学する前に母がクリスチャンだったので、赤飯を炊いて祝ってくれました。その時、意見などあまり言わない兄ですが、私にこう言いました。「お前は説得力がないから、牧師になるのはやめておいた方が良い」。しかし、召命の言葉をいただいているので、たじろぎませんでした。しかし、学院に入ってみると、兄の言ってくれたことが私の現実でした。特に英語、ギリシャ語、ヘブル語ときたら、悩みの種でした。そうした苦闘の中で、「荒野の泉」というカウマン夫人の日課を読んでいた時に、このイザヤ41:14-15のみ言葉が心に入り込んできました。「虫にひとしいヤコブよ…みよ、わたしはあなたを鋭い歯のある新しい打穀機とする」(口語)。日課の文章は省略しますが、説教者として立てるのだという、静かな確信と勇気をいただきました。自分はほんとうに虫にひとしいヤコブ、虫けらのヤコブである。でも、聖霊によって、鋭い歯のある新しい打穀機としてくださるのだと主イエスは言ってくださるのです。
このみ言葉は皆さんに告げているのです。少年ダビデが巨人ゴリアテが向き合った時に、ゴリアテはダビデを虫けらのようにバカにしました。「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」。しかし、「この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」と言い切って、ダビデはたじろぎませんでした。石なげではなった一発だけでゴリアテを砕いたのです。主が戦われたからこそ、勝ち得て余りあるものでした。
たじろぐなと恐れるなは同義語。こう言い換えても良いのではないでしょうか。「たじろぐな。虫けらのヤコブ、…見よ、わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする」(新改訳)。