2010年11月28日 第一アドベント主日礼拝(ルカ福音書1:5~25・57~80)岡田邦夫
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」ルカ福音書1:45
今、NHK大河ドラマ・龍馬伝は「龍馬、暗殺まで、あと何日」と予告しながら、毎回話が進み、いよいよ最終回を迎えようとしています。教会ではそれ以上の「クリスマス」という大河ドラマが今日から始まります。キリスト降誕まで、あと何日というのがアドベント(待降節)です。2000年前の降誕の歴史に目を向けることによって、今の私たちの人生・生活に結びつけようとするものです。
◇不幸の中の幸福
クリスマス劇場の幕が開くと最初に登場するのが、ザカリヤという祭司とその妻エリサベツ(英語だとエリザベス)です。彼らは古い時代の終わりを告げ、新しい時代がもたらされるという、大きな歴史の転換の、その瞬間に関わった人たちです。と言っても、彼らは特別な人たちであったわけではありません。ザカリヤはユダヤによくいる祭司であり、まじめに生き、聖書によれば正しい人だったと評される人でした。しかし、この夫婦は幸福とは言えませんでした。子供が与えられず、周囲からは何か呪われているのではないかと言われることもあったでしょうし、年を重ね、寂しい思いの中で暮らしていたことでしょう。祭司の家系に生まれたことは幸運だったでしょうが、子供が与えられないという不運もありました。幸福の中に不幸があり、不幸の中に幸福があるという、もしかしたら、私たちとそう遠くはない人生を送っていたのでしょう。
人生には思いがけないことがやってくるものです。祭司の勤めは当番制、この日は自分の所属するアビア組です。その中で神殿に入って香をたく勤めはくじで決めます。祭司の数も多いので、くじに当たって、その勤めが出来るかどうかは一生に一度あるかないかの確率です。ところが、彼は偶然くじに当たり、神殿での香たきの勤めをすることになったのです。祭司としては幸運でした。彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていたのです(1:10)。ユダヤ共同体の重要な働きをさせてもらい、祭司冥利につきると感じていたことでしょう。
◇幸福の中の幸福
しかし、この時、いきなり天の使いが彼の人生に介入してきたのです。主の使いが彼に現われて、香壇の右に立ったのです。これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われました。御使いは神からのメッセージを伝えます。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます」。実に嬉しい御告げです。妻は不妊症、しかも、高齢で出産はほとんど不可能ですが、あなたの願いは聞かれたというのですから、嬉しい話。私、岡田邦夫は母45才(父55才)の高齢出産でしたが、それまでに4人生まれていて、5人目ですから、ありえる話です。しかし、このザカリヤへのみ告げがその通りになれば奇跡です。
私たちがクリスチャンになるとか、祈りに答えられるとかいう経験は、私の人生に神が介入してくださっているということなのです。全能の神が、聖なる神が、無力の汚れた者の歴史に介入され、救いに導かれるのですから、それがほんとうの奇跡なのです。神の跡、「神跡」といえるかも知れません。ザカリヤが祭司の家系に生まれたことも、子供が出来なかったことも、神殿において香をたく勤めのくじに当たったことも、すべては運命でも偶然でもなく、神の摂理でした。そして、神のみ告げを受けたのは、合理的には説明できない「神の選び」があったのです。私の場合も、高校に通学していた時に、錦糸町の駅前で都電に乗り換えるのですが、そこで配られている、江東楽天地の営業のチラシは絶対取りませんでした。しかし、ある日、ブルーのチケットのようなチラシを差し出された時、感じがいいので受け取って、都電に乗りました。キリスト教の音楽と講演という案内で、あんなにたくさん配っていたのにクラスでは私と私の親友だけがそれを手にしていました。興味本位でそれに行ったのですが、それがきっかけで2人ともクリスチャンになりました。自分が選んだように見えますが、後から思うと神に選ばれて、救われたとしか、言いようがないのです。
ザカリヤですが、その生まれてくる子はエリヤのような偉大な預言者となり、救い主の現れの前ぶれをし、人々を神に立ち戻らせ、整えられた民とするという使命をもっているというのです(1:15-17)。神は遠大なご計画の中で、古い契約の時代を終わらせ、新しい契約の時代をもたらそうとしておられるのです。救いの仕組みを変えるという神による維新です。律法による救い、イスラエルを通しての世界の救いという仕組みから、福音による救い、神の御子=イエス・キリストを通しての世界の救いという大きな歴史の転換をなさろうとしていました。その前ぶれの役割を担うのがこの夫妻から生まれてくる預言者ヨハネなのです。ザカリヤとエリサベツはその神の歴史の担い手として選ばれたのです。
聖書でいう救いというのは、この私の追い切れない罪の重荷や苦難の重荷をイエス・キリストが担ってくださって救われるというものですが、また、神が世界の人々を救おうとされている救いの歴史に、この私が参与し、救いの担い手となることなのです。真の救いというものは安心立命だけでなく、使命達成まで含まれるのです。「使命」という字は命の使い道だとある方が言いましたが、なるほどそうなのです。
◇幸福を越えた幸福
聞いた話は素晴らしいことなのですが、ザカリヤはそれをそのまま受けとめられたのでしょうか。この先行きを見てみましょう。ザカリヤ:「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」。御使い:「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します」((1:18ー20)。
そのことば通りになります。彼は口がきけなくなります。しかし、エリサベツは身ごもり、男子を産みます。八日目の割礼の時に命名をしますが、その時、御使いに告げられた「ヨハネ」という名をザカリヤが板に書くと、彼の口が解けました。後に、彼はその子について預言します。「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。」と(1:76-77)。その通り、ヨハネは救い主イエス・キリストの御前に先だって、道備えをしていきます。
一時、話が出来なくなったのはザカリヤに限ったことかも知れませんが、信じる事の大切さを教えられます。何を信じるのか、神のことばです。神のことばは時が来れば実現すると信じるのです。多くの人は自己実現を幸福だとしているかも知れません。しかし、ほんとうの幸いは神の救いのことばが私の人生の中に実現していくことです。神の救いのことばが私の人生を通して実現していくことです。エリサベツがマリヤに言ったことばがそれを良く伝えています。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」(1:45)。「信じた」と訳すところを新改訳聖書はわざわざ「信じきった」と訳しています。私は恩師から「岡田さん、信じるか、信じないか、信仰というのは紙一重なのよ。その一歩を踏み出すだけなのよ。」と言われたことがあります。その紙一重のところに折り紙付きの幸い、祝福があるのです。もう一度言います。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」。
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」ルカ福音書1:45
今、NHK大河ドラマ・龍馬伝は「龍馬、暗殺まで、あと何日」と予告しながら、毎回話が進み、いよいよ最終回を迎えようとしています。教会ではそれ以上の「クリスマス」という大河ドラマが今日から始まります。キリスト降誕まで、あと何日というのがアドベント(待降節)です。2000年前の降誕の歴史に目を向けることによって、今の私たちの人生・生活に結びつけようとするものです。
◇不幸の中の幸福
クリスマス劇場の幕が開くと最初に登場するのが、ザカリヤという祭司とその妻エリサベツ(英語だとエリザベス)です。彼らは古い時代の終わりを告げ、新しい時代がもたらされるという、大きな歴史の転換の、その瞬間に関わった人たちです。と言っても、彼らは特別な人たちであったわけではありません。ザカリヤはユダヤによくいる祭司であり、まじめに生き、聖書によれば正しい人だったと評される人でした。しかし、この夫婦は幸福とは言えませんでした。子供が与えられず、周囲からは何か呪われているのではないかと言われることもあったでしょうし、年を重ね、寂しい思いの中で暮らしていたことでしょう。祭司の家系に生まれたことは幸運だったでしょうが、子供が与えられないという不運もありました。幸福の中に不幸があり、不幸の中に幸福があるという、もしかしたら、私たちとそう遠くはない人生を送っていたのでしょう。
人生には思いがけないことがやってくるものです。祭司の勤めは当番制、この日は自分の所属するアビア組です。その中で神殿に入って香をたく勤めはくじで決めます。祭司の数も多いので、くじに当たって、その勤めが出来るかどうかは一生に一度あるかないかの確率です。ところが、彼は偶然くじに当たり、神殿での香たきの勤めをすることになったのです。祭司としては幸運でした。彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていたのです(1:10)。ユダヤ共同体の重要な働きをさせてもらい、祭司冥利につきると感じていたことでしょう。
◇幸福の中の幸福
しかし、この時、いきなり天の使いが彼の人生に介入してきたのです。主の使いが彼に現われて、香壇の右に立ったのです。これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われました。御使いは神からのメッセージを伝えます。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます」。実に嬉しい御告げです。妻は不妊症、しかも、高齢で出産はほとんど不可能ですが、あなたの願いは聞かれたというのですから、嬉しい話。私、岡田邦夫は母45才(父55才)の高齢出産でしたが、それまでに4人生まれていて、5人目ですから、ありえる話です。しかし、このザカリヤへのみ告げがその通りになれば奇跡です。
私たちがクリスチャンになるとか、祈りに答えられるとかいう経験は、私の人生に神が介入してくださっているということなのです。全能の神が、聖なる神が、無力の汚れた者の歴史に介入され、救いに導かれるのですから、それがほんとうの奇跡なのです。神の跡、「神跡」といえるかも知れません。ザカリヤが祭司の家系に生まれたことも、子供が出来なかったことも、神殿において香をたく勤めのくじに当たったことも、すべては運命でも偶然でもなく、神の摂理でした。そして、神のみ告げを受けたのは、合理的には説明できない「神の選び」があったのです。私の場合も、高校に通学していた時に、錦糸町の駅前で都電に乗り換えるのですが、そこで配られている、江東楽天地の営業のチラシは絶対取りませんでした。しかし、ある日、ブルーのチケットのようなチラシを差し出された時、感じがいいので受け取って、都電に乗りました。キリスト教の音楽と講演という案内で、あんなにたくさん配っていたのにクラスでは私と私の親友だけがそれを手にしていました。興味本位でそれに行ったのですが、それがきっかけで2人ともクリスチャンになりました。自分が選んだように見えますが、後から思うと神に選ばれて、救われたとしか、言いようがないのです。
ザカリヤですが、その生まれてくる子はエリヤのような偉大な預言者となり、救い主の現れの前ぶれをし、人々を神に立ち戻らせ、整えられた民とするという使命をもっているというのです(1:15-17)。神は遠大なご計画の中で、古い契約の時代を終わらせ、新しい契約の時代をもたらそうとしておられるのです。救いの仕組みを変えるという神による維新です。律法による救い、イスラエルを通しての世界の救いという仕組みから、福音による救い、神の御子=イエス・キリストを通しての世界の救いという大きな歴史の転換をなさろうとしていました。その前ぶれの役割を担うのがこの夫妻から生まれてくる預言者ヨハネなのです。ザカリヤとエリサベツはその神の歴史の担い手として選ばれたのです。
聖書でいう救いというのは、この私の追い切れない罪の重荷や苦難の重荷をイエス・キリストが担ってくださって救われるというものですが、また、神が世界の人々を救おうとされている救いの歴史に、この私が参与し、救いの担い手となることなのです。真の救いというものは安心立命だけでなく、使命達成まで含まれるのです。「使命」という字は命の使い道だとある方が言いましたが、なるほどそうなのです。
◇幸福を越えた幸福
聞いた話は素晴らしいことなのですが、ザカリヤはそれをそのまま受けとめられたのでしょうか。この先行きを見てみましょう。ザカリヤ:「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」。御使い:「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します」((1:18ー20)。
そのことば通りになります。彼は口がきけなくなります。しかし、エリサベツは身ごもり、男子を産みます。八日目の割礼の時に命名をしますが、その時、御使いに告げられた「ヨハネ」という名をザカリヤが板に書くと、彼の口が解けました。後に、彼はその子について預言します。「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。」と(1:76-77)。その通り、ヨハネは救い主イエス・キリストの御前に先だって、道備えをしていきます。
一時、話が出来なくなったのはザカリヤに限ったことかも知れませんが、信じる事の大切さを教えられます。何を信じるのか、神のことばです。神のことばは時が来れば実現すると信じるのです。多くの人は自己実現を幸福だとしているかも知れません。しかし、ほんとうの幸いは神の救いのことばが私の人生の中に実現していくことです。神の救いのことばが私の人生を通して実現していくことです。エリサベツがマリヤに言ったことばがそれを良く伝えています。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」(1:45)。「信じた」と訳すところを新改訳聖書はわざわざ「信じきった」と訳しています。私は恩師から「岡田さん、信じるか、信じないか、信仰というのは紙一重なのよ。その一歩を踏み出すだけなのよ。」と言われたことがあります。その紙一重のところに折り紙付きの幸い、祝福があるのです。もう一度言います。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」。