オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

平安があるように

2014-11-23 00:00:00 | 礼拝説教
2014年11月23日 伝道礼拝(ヨハネ福音書20:21)岡田邦夫


 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

 若い日に、神学校の寮生活をしていた時に、年配の方で金さんという人がおりました。挨拶するのに、日本では「こんにちは」であいまいだけれど、自分の国では「メシ食ったか」と言い、その国の事情をよく反映しているだとよく言っておりました。卒業後は東京の下町で伝道されていました。下町といえば、深川に江戸資料館というのが出来ていて、江戸庶民の暮らしぶりが見られます。特に長屋が再現されたのを見ると、テレビドラマに出てくるのとはずいぶん違います。畳があるのはまだ良い暮らしをしているのであり、貧しいとむしろを敷いて生活してたといいます。また、押し入れもなく、布団は部屋の隅にたたんで、ついたてを立てていたそうです。
 それで幸せだったのか、当時、日本に来た外国人の手記によると、人々は決して経済的にゆたかではないが、簡素で清潔で,全体として満ち足りた生活を営んでいる、というコメントがもっとも一般的です。おおらかで、笑顔が絶えず、好奇心が旺盛で、識字率が高く、笑顔が絶えず、機嫌良く暮らしているという印象を述べています。そこには「ご機嫌よう」という挨拶の言葉も生まれてくるわけです。これは侵略されることのなかった島国の文化的な現象でした。
 今日お話ししたいのは昔に帰れということではなく、神に帰れということです。ご機嫌というのは心が満たされた状態のことです。もし、人が地位や名誉や財産があっても、なくても、ご機嫌でいられれば、実に幸せです。この満たされた状態を聖書のヘブライ語ではシャロームといいます。平和とか平安と訳されますが、それが主な意味ですが、もっと幅広い意味で、健康だったり、繁栄だったり、それらを含んでおります。それで奴隷になったり、侵略されたり、補囚されたり、属国になったりという歴史をたどったイスラエル人(聖書に出てくる)にとってはあいさつが「シャローム」となるのです。社会が平和でありますように、心が平安でありますように(日本語で言ったら、ご機嫌よう)となるのです。
 私の福音書を見る限りでは、イエス・キリストが生前、「平安があなたがたにあるように」とあいさつされた記事はないようようです。復活されて、言われたシャロームのあいさつだけがあるのです。特別な意味合いがあると思います。生前、わたしの平安をあなたがたに残すといわれた「平安」です(ヨハネ14:27)。十字架の極限の苦しみにも耐ええた平安です。人類のすべて罪をきせられて、神に裁かれ、見捨てられた状態になっても、失われない神との平和、それを遺産として残すと約束されたのです。人生を達観したり、修行して悟った人の境地を超えた「シャローム」です。主イエス・キリストは復活されたからこそ、「平安があなたがたにあるように」、その言葉は単なる挨拶ではなく、実現する神の言葉なのです。キリストの平安が来るのです。

 私は若い頃、教会に行きました。西欧の文化として、初めはあこがれがありました。しかし、教会に行ってみると、自分の人生、これでいいのかと考えさせられ、隠れていた魂の虚しさが感じられるようになり、満たされるものを求めるようになりました。また、世の終わりが来た時に神の裁きに耐えられるだろうかという不安がよぎるのでした。ふだん、しょうにあった仕事をし、余暇は青春を楽しんではいたのですが。真の意味でご機嫌ではなかったのです。
 求めが切なるものとなっていた時に、教会で持たれた特別伝道会に出ました。そこで、冒険だがイエス・キリストを信じてみようと決心し、教会の人に導いていただきました。不思議と信じられたのですが、信じたとたんに、魂は平安となり、それこそご機嫌になったのです。何かがうまくいったわけでも、変わったわけでもないのですが、心は穏やかさに包まれたのです。
 自分の犯した数々の罪、内にある罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架の犠牲で、私のすべての罪が赦されて、最後の審判の時には裁かれることなく神の前に立てると確信できたからです。また、信じて神の子にされ、永遠の命が与えられたという喜びが与えられたからです。これを自分でまとめてみますと、過去の赦しと現在の立場と未来の約束がイエス・キリストの十字架と復活によって、与えられたということです。ですから、今は神に遣わされて生きているのです。

 今日、すべての救いの業を成し遂げられ、復活されたイエス・キリストは、十字架にかけられた時の傷跡を示し、これがあなたのすべてのをゆるしたしるし、あなたに永遠の命を与え神の子にしたというしるし、終わりの日に裁かれることなく、新天地に行けるしるしだとここに立っておられるのです。そして、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」とお声を掛けておられるのです。主よ、お受けします、信じますとお答えし、主にあるきげん良さをもって生きましょう。