オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

完了した

2014-11-16 00:00:00 | 礼拝説教
2014年11月16日 主日礼拝(ヨハネ福音書19:23-30)岡田邦夫

 「イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く。』と言われた。…イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」
ヨハネ福音書19:28、30

 先週の心のごはんにこのような話が載っていました。ニューヨーク・フィルハーモニーが「第9交響曲」を演奏していました。演奏が終えたとき、オ-ケストラのメンバ-は指揮者のトスカニ-ニに立ち上がって拍手を送りました。それほど上手な指揮者に感動したのでしょう。ところが、トスカニーニは大きく手を振って、必死になって拍手をやめさせようとしました。やっと拍手がやむと、指揮者は大きな声でいいました。「私をほめてはいけません。すばらしいのは、この曲を作ったベ-ト-ベンです」と。人々は指揮者の謙遜な態度に感動しました。作者に栄光を帰したことです。

◇完了した…輝き度
 ヨハネ福音書は御子イエス・キリストが一貫して、父なる神に栄光を帰しておられることが面々と記しております。御子は父から遣わされ、天から下り受肉され、すべて父から聞いたことを語り、すべて父から与えられたみ業を行い、そして、父の所に帰って行かれたのです。また、御父が御子を愛されたように私たちを愛されたのです。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です」と言われるように、御子は徹底しておられたのです(8:54)。
 主は伝道の生涯で栄光を現したのですが、最後の晩餐で目を天に向けて、こう祈るのです。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。…今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」(17:1-2、5)。
 世の罪を取り除く神の小羊としての御子がゴルゴダの丘の祭壇に献げられるという「神の祭儀」こそ、最高最大の栄光なのです(1:29)。世界が存在する前に、御父と御子がいっしょにおられて持っていた栄光が、十字架の祭壇に輝いたのです。ソロモン王が神殿を建て上げ、王と民は牛二万二千頭と羊十二万頭のいけにえを奉献したのですが、その時、「火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くした。そして、主の栄光がこの宮に満ち」ました(2歴代誌7:1)。実に輝いた光景でした。しかし、人の目には無残と見えた十字架の苦難の光景ですが、御父にとっては天の聖所に御子の犠牲が献げられた神自らの祭儀なのです。ですから、ソロモンの時に勝って、はるかに栄光に輝いていたのです。イエス・キリストは世の罪を取り除く犠牲の祭儀が滞りなく行われたので、「完了した」と宣言されたのです(19:30)。輝かせてくださいという御子の祈りは十字架において聞かれ、無限の輝き、永遠の輝きとなったのです。

◇完了した…完成度
 十字架についてですが、「世の罪を取り除く神の小羊」の他にいくつかのたとえで、御子の犠牲の意味を身近なものにし、豊かにし、深めてくれます。
 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(3:14-15)。
 「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。…わたしが自分からいのちを捨てるのです。…わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」(10:11,15,17)。
 「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(12:23-24)。
 そのようにして行われた十字架の贖いの業が「完了した」のですが、その完成度は完璧なものでした。
 浮世絵の版画の芸術性や技術の高さは世界的に評価されています。彫られた版木で和紙に刷る時にばれんを使います。後藤英彦さんという方がその「本ばれん」作りの職人です。彼はわらび粉と柿渋で作った天然の糊で、木型に和紙をていねいかつ慎重に接着させ、乾燥させてはそれをまた一枚と合計で50枚貼り重ねていきます。そして絹布を張り、耐久性を出す漆(うるし)を塗り、当皮(あてがわ)という部品が完成します。さらに竹の皮で作った綱を巻き、当皮(あてがわ)にはめ込むことで本ばれんが完成します。完成までに半年を要し、一般的なばれんとは一線を画します。これを使うと浮世絵の細い線などがきれいに刷れるのです。より優れた浮世絵を刷るにはより優れた道具が必要なのです。ばれん一つとっても仕事の完成度は極めて高いことを知らされます。
 まして、十字架における贖いのみ業の完成度は完全、完璧なのです。預言されていたことは完全に成し遂げられました。罪人を救うという父なる神のみこころは完璧になされたのです。贖いの祭儀は「完了した」のです。ですから、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめるのです(1ヨハネ1:7)。御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるのです(ヨハネ3:16)。
 そこから、「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」や、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」のお言葉に私たちは従っていくのです(13:34、20:21)。