オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

わたしはよみがえりです

2014-11-02 00:00:00 | 礼拝説教
2014年11月2日 主日礼拝(ヨハネ福音書11:38-44)岡田邦夫

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」ヨハネ福音書11:25-26

 テレビ・ザ!世界仰天ニュースで「元日本兵・横井庄一のグアムでの28年間」が放送されました。第二次世界大戦のこと、日本軍が占領していたグアム島にアメリカ軍が1944年、これを奪還すべく、激しい攻撃を加え、グアムの日本軍は敗戦。そして1945年に終戦。しかし、それを知らずに横井庄一さん等はグアム島のジャングルで援軍の来るのを待ち続け、生き延びました。仲間は死にましたが、1972年、地元の親子と遭遇し、横井庄一さんはようやく発見され、日本に帰国し、日本中がこのニュースに驚きました。28年の間、ジャングルで一人生きていこうとする精神と知恵と技術は並々なるものがあり、今日では考えられない、仰天ニュースでした。

◇二つのアメイジング
 それと比べることではないのでしょうが、ヨハネ福音書には38年病気だった人がいやされた話がでてきます。ベテスダの池に天使が水をかき回すと最初に飛び込んだ人がいやされるという民間宗教がありました。彼もそこにおりましたが、自分を入れてくれる人がいなかったのです。そこにイエス・キリストが「なおりたいのか」とたずね、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命じます。すると、38年の病はすぐ治って、床を取り上げて歩き出したのです。それこそ、仰天ニュースでした。
 しかし、この日が安息日だったので、この医療行為は律法違反だとし、ユダヤ人はイエスを迫害します(5:16)。主イエスは再び彼と出会って、救いの言葉を投げかけます(5:14)。そして、メッセージが続きます。「これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」(5:20-21)。「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます」(5:28)。
 これと同じような展開が生まれつきの盲人の人のいやし、開眼です。弟子がこの人の盲目は誰のせいかとイエスにたずねると、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」と実に素晴らしいお答えをします。そして、盲人にの目に泥を塗り、シロアムの池に行って洗いなさいと命じます。その通りにするとしっかりと見えるようになりました。これも安息日でしたから、イエスは律法違反者だと追求されます。目を開けてもらったその人はみごとな証言をします。「だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです」(9:31ー33)。これは神のなせる仰天ニュースだと言うのです。そのあと、主イエスはこの人に再び出会い、彼を救い主を信じる信仰に導かれます。

◇究極のアメイジング
 これに重ねるように続いて、究極の奇跡(しるし)がていねいに語られていきます。主イエスはヨルダンを渡って、ヨハネがバプテスマを授けていた所に滞在しておりました。そこにラザロが病であるとの知らせが入りました。主イエスは予告します。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(11:4)。なお二日滞在し、また、こう言われます。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです」。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう」(11:11、14-15)。しかし、ベタニヤに到着した時にはラザロは墓に葬られ、四日もたっていました。
 主イエスを出迎えたラザロの姉妹マルタは嘆いて言います。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります」(11:21-22)。人は経験した想定でものを計ります。病気なら、いやせるけれど、死人は生き返らすことなど出来ないだろう、たとえ、イエスでも…。遠い終わりの時なら、復活はあるだろうけれども…。ここで、イエス・キリストはかつて誰も言ったことのないことを言われます。
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(11:25-26)。
 それでもマルタは、今ラザロによみがえりが起ころうとしていることを想定できません。信じられません。なお、出迎えた姉のマリヤも同じでした。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。そして、墓に行きます。そこに集まったユダヤ人は同じことを言います。「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」。主イエスの感情が爆発し、あふれ出ます。霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ、涙を流されました。人の死の現実への憤りでしょう。ラザロという一人の人をこよなく愛する愛の涙なのでした。
 そして、ふたにしてあった大きな墓石を転がさせます。四日目から死体は腐っていきます。マルタには「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と言いきせます。父なる神には「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです」と祈ります(11:40-42)。
 主イエスの霊の力は全開。大声で「ラザロよ。出て来なさい」と叫びます(11:43)。ラザロは生き返ります。腐りかけた死人が元気なからだによみがえったのです。全くの想定外の出来事でした。それこそ仰天ニュースでした。多くの人がイエス・キリストを信じますが、祭司長等は自分たちが困るので、イエスを殺害しようと企てます(11:53)。
 これは前代未聞の出来事です。エリヤとエリシャは奇跡をなし、死人を生き返らせた行動預言者でした。ですから、イエス・キリストはその意味で、神の国を到来を述べる口述預言者であると同時に多くの奇跡(しるし)をなされた行動預言者でもありました。

◇アメジング・グレイス
 しかし、それ以上のことです。英語で、「驚く」の類語が三つあります。ビーサプライズド「思いがけないことで驚く」、アストミッシュド「非常に驚く、びっくり仰天する」、そして、一番驚きの度合いの強いのがアメイズドです。「あり得ないと思ったことが起こって、驚きのあまり、当惑する」です。アメジング・グレイスがそれです。終わり日によみがえり、地上のすべてがいやされ、天国への目が開かれるのですが、イエス・キリストを信じることで新しい命が与えられ、すでに心も目が開かれ、霊がいやされ、新しい命が与えられている、その先に、終わりの日のことがつながっている。それが永遠の命なのです。
 この書の目的がそれなのです。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(20:30)。中心聖句もそうです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3:16)。御子イエスによって罪からきよめられ永遠の命をいただいている。これは「あり得ないと思ったことが起こって、驚きのあまり、当惑する」アメジング・グレイスなのです。
 「ラザロよ。出て来なさい」。今の世において、罪と死と滅びの世界から、永遠の命の世界に出て来なさい。悩みと苦しみのジャングルから、キリストの平安の広い地に出て来なさい。後の世において、死人の中から、栄光の体へと出て来なさい。死人の中から栄光の体によみがえられたご自身が、今の世においても、後の世においても、連続して、あなたの名を呼んでおられるのです。「出て来なさい」、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」からと。