六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

中共の謀略

2008年05月05日 | 心や命のこと
 関東ではこの番組はTVでは見られませんが、ネットでさがせば見れるようにしてくれた方がいます。いい時代になったものです。

     

 日々暮らしている中で、些末なことから人生を左右することまで、いろいろな苦難や悲しみ、理不尽、不公平が襲ってくる。不正が横行し、義はないがしろにされる。「何で私だけ・・」みたいな悲しみは、世の中にあふれかえっている。
 そんな現実を、どう解釈するか。その中に生きる自分の生を、どうとらえるか。

 エハラー(笑)な私には、スピリチュアルな観点からの解釈がとてもしっくりくるもののひとつだ。
 つまり、魂にとって、今生を含む現世は簡単に言えば「修行の場」であるということ。あるいは「学校である」とも言って良い。

 人は一生をかけて、現世という修行の場で魂を磨く。・・もちろん、磨かなくても良い(笑)どんな人生を選ぶかはその人次第だから。ただ「今生ではこの課題をこなしなさい」みたいな感じで、逃れようの無い運命(たとえば、生れ落ちる国とか、先天性の病気とか、天災とか、ヘンな両親とか、犯罪に巻き込まれるとか)を各人が与えられている。それを引き受けて、魂は修行に励む(あるいは自暴自棄になってヘタレ人生を歩む選択をする人もいる)。そして時がきたら皆「死」という形で学校を卒業する。
 どんな「卒業生」になるかによって、次の転生が決まる。ヘタレ人生の魂は「単位が足りん!もう一回!」って同じような境遇を与えられるかもしれない。まぁとにかく、そうやって「人生というのは一生をかけて、より高い人格を目指して頑張るものだ」・・というスタンスが、私は好きだ、という話。

 チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマは、観音菩薩の生まれ変わりとされる。
 菩薩とは、本来ならばもう現世という修行の場に戻らなくてもよい徳の高い魂が、まだ修行中の魂たちを導くためにわざわざ肉体(ボディ)に宿って現世に戻ってきた存在であるとされる。
 未熟でアホっぽくて不具合と未完成と試行錯誤に満ちたこんな世の中に、好き好んで戻ってきて下さる魂。なかなか学ばない、成長しない我々の存在を、愛しく思って導くために。
 その「愛の深さ」を思うと、生きる勇気が湧きます。よし、今の自分の境遇、自分の生を、自分の守備範囲だけは何としても頑張ろう、と思える。多分このあたりの感覚は、キリスト教徒が十字架にかかったイエスに寄せる思いに似てるんじゃないかな。

 今回のラサ暴動から聖火リレーの混乱に関して、ダライ・ラマ14世猊下が「これ以上暴力が続くなら退位する」と語ったと聞いた時、私は冷水をかけられたような思いがした。

 ダライ・ラマは生まれ変わりである。存在そのものが生き仏である。

 その人の「退位」など、あり得ない。

 そんなことがあるとしたら、それは「今生からの撤退」を意味するのではないか(暴力の応酬を止めるためにハンガーストライキをしたマハトマ・ガンディが脳裡に浮かんだ)。

 後日、どうもあの「退位」発言は、亡命政府の代表をおりる的ニュアンスであると知ってホッとしたのだけれど。

 でも、中国政府はもう将来に向けた布石を打っている。
 噴飯モノなのだが、宗教とは相容れないはずの共産党政権が、この「転生」に関して法律を作った(上記の番組でも語られているけど)。
 そして、当時6歳だったパンチェン・ラマの生まれ変わりの少年を、両親ともども拉致監禁し、別の少年をパンチェン・ラマの生まれ変わりとしてその座にすえている。
 ダライ・ラマ14世猊下が亡くなった後、次の15世選びに関して大きな力をもつパンチェン・ラマを、中国政府は実質「押さえて」しまっているわけ。宗教に土足で踏み込むようなことをして平気でいられる面の皮の厚さは、驚くばかりだ。

 当時6歳だったニマ少年。生きていれば先日19歳になったはず。中共の謀略のために、この長い年月をどこでどう過ごしているのか。

 こんなめちゃくちゃなことをして、でも絶対に自らの非を認めない国。
 その困ったお隣さんと、どうつき合っていけば良いのか、本当に頭が痛くなる・・


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