9月21日、早いもので、あれから半年過ぎた。半年前、清水の舞台から飛び降りる覚悟で月給の2カ月分を支払い、申し込んだ電子計算学院。受講料の元を取るには何としても、学んだことを活かすことだ。そんな思いから、昨年までお世話になった前尼崎支店長のT部さんに、相談しに大阪へ出向いた。1968(S43)年9月のこと。
土曜日の勤務を終えて、大阪へ着いたときは夕方だった。「なんじゃ、相談とは」 企画調査部へ赴任されて近寄りがたい存在になられたその方、私がアルコールが苦手なことをご存知だった。
新地の手前の喫茶店で、電子計算学院の修了見込みや、近い将来への希望を聞いてもらった。帰り際、「怖い(?)企画調査部長に、それとなく話してみるわ」と言っていただいた。
怖いと言えばこんなことがあった。支店に、名前を名乗らない電話が架かってきた。わたしが受話器を取るといきなり、「支店長に代われ」と告げられた。「どちら様ですか?」と尋ねると、「ええから代われ」と繰り返す。傍で聞いていた課長が機転を利かせて支店長に、「企画調査部長から電話です」と伝えていた。
後で聞くと、女の子でも電話口の声で判るのだと云う。わたしには判らなかった。恐持(こわも)ての企画調査部長は、俳優の「伊藤雄之助」に似た方で、わたしは入社したときから、気になっていた人だった。
土曜日の勤務を終えて、大阪へ着いたときは夕方だった。「なんじゃ、相談とは」 企画調査部へ赴任されて近寄りがたい存在になられたその方、私がアルコールが苦手なことをご存知だった。
新地の手前の喫茶店で、電子計算学院の修了見込みや、近い将来への希望を聞いてもらった。帰り際、「怖い(?)企画調査部長に、それとなく話してみるわ」と言っていただいた。
怖いと言えばこんなことがあった。支店に、名前を名乗らない電話が架かってきた。わたしが受話器を取るといきなり、「支店長に代われ」と告げられた。「どちら様ですか?」と尋ねると、「ええから代われ」と繰り返す。傍で聞いていた課長が機転を利かせて支店長に、「企画調査部長から電話です」と伝えていた。
後で聞くと、女の子でも電話口の声で判るのだと云う。わたしには判らなかった。恐持(こわも)ての企画調査部長は、俳優の「伊藤雄之助」に似た方で、わたしは入社したときから、気になっていた人だった。