にしのサラリーマン時代

にしがサラリーマンで幸福のときを書いている。当時の知り合いや、子や孫たちに読んでもらいたい。

奈良公園浄瑠璃寺:撮影会に参加

2011-02-12 12:49:39 | サラリーマン4年生
 2月12日、 奈良公園で写真撮影会があった。その半月前、参加の募集があったのを申し込んでいたのだ。1967(S42)年2月12日(日)のこと。

 本部の写真クラブが主催する。それなら、新米のぼくらに先輩が、いろいろと教えてくれるだろうと期待した。

 一応カメラは一眼レフ(PENTAX-SV、55mm、F1.7)。だが標準レンズを1本しか持っていない。だからレンズ交換は出来ない。

 洲本の山際写真館で買い換えるとき、陳列棚で一番安いの選んでいたので恥ずかしさがあった。だが、被写体にプロのモデルさんが立ってくれると、そんなことを忘れて、シャッターをバシバシ切っていた。

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 ↑ 奈良公園のシカはモデルさんが好きそう。

 撮影会の参加はこの1回限り。撮り方なんぞ、誰も教えてくれなかった。だからこれ以降は参加しなかった。だから未だに写真の良し悪るしが解らない。

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先輩を乗せての衝突事故

2011-02-01 23:33:42 | サラリーマン4年生
 2月1日、ボクが運転するスクーターに石i先輩を後部に乗せて出かけたときだった。交差点の右から進入してくる乗用車に横突した。生れてはじめての交通事故だった。1967(S42).2.1のこと。

 その日までいろんなバイクに乗ったことはあるが、このラビット・スクーターには初めてだ。思いのほか馬力がある。後部に人を乗せているのにすごい加速力だ。交差点に入りかけたとき、左から乗用車が進入してくるのが目に留まった。だが、「この馬力なら乗用車の前を走り抜け出来るだろう」と加速を強めた。その途端ガァーン。乗用車の横腹へ衝突してしまった。ボクは乗用車のボンネット上に転がり飛んでいるわ、後部座席にまたがって乗っていた先輩は、乗用車の天井へ飛ばされ、一回転して転がり落ちていた。初めのうちは何が起こったのか判らなかった。数秒経って我に返り、えらいことしてしまったと頭が真っ白になってしまった。

 相手のおっさんが運転席からでてきて、えらい剣幕で叱るわ、ぼくらこれからどうなるのかと慌てふためいた。幸い、近くに交番があったので飛び込んだ。

 お巡りさんの薦めで示談が成立した。ボクら二人は顔面を負傷していたので、近くで病院を探した。

 傷の手当てをしてもらった二人は、動かぬスクーターを手で押しながら勤務店へ帰った。帰ったときはすでに5時を回っていた。帰らぬぼくらを店長や上役は待っていてくれた。頭の包帯や顔面の絆創膏を見るやら、どうしたんや? 大声で笑うやら叱るやらで恥ずかしかった。生涯で一番の軽率な失敗だった。

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 ↑ 事故した同型のRabbit スクーター

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 ↑ 事故した相手の乗用車

 翌日、定期預金4万円余りを解約して、先方車両の修理代1万3千円と休車保障3万円を払った。これで、昨年暮れにもらったボーナスが全部吹っ飛んでしまった。くやしい!
 事故の示談や、保険請求の手続きなどを経験できたが、そのお代としては、高いものについた。店長からは自損車両の弁償を求められて、泣き面に蜂状態。
 それを救ってくださったのが保険代理店(産業)の上田のえーちゃんでした。車両保険で補てんしていただき、助かりました。有り難うございました。
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喫茶店でクリスマス

2010-12-24 22:51:32 | サラリーマン4年生
 支店の隣にいつも行く喫茶店がある。ある日、だれかが「クリスマス会をやろうよ」と言いだした。それを聞いていた茶店のマスターが、「うちでやってもらっていいよ」と応じてくれた。そして1966(S41)年12月24日の夕方を、貸切りで貸してくれた。

 その日は土曜日。14時まで仕事なので、15時から17時までを借りた。参加したのは若いひと等十数人。わたしは、裏方の音響担当を申し出て、寮からテープレコーダを持ち込んでいた。少し早めに会場に出向き、セッティング。音楽を鳴らしてガッカリした。部屋で聴くのと大違い。音量が全然足りない。ステレオのスピーカーでなら音量が少し上がった経験があったので、スピーカーの提供を提案した。 

 いそいで、支店の車で寮へ取りに帰る。同じ寮のマツやんの運転でブルーバードを飛ばした。おかげで、半時間後には、ステレオスピーカーが会場に据わる。スピーカーは1個だけだが、無いよりはマシだろう。早速、吹きこんであったテープを鳴らしてみる。期待したほどの出力は得られない。テープレコーダ自身のアンプではこの程度だろう。でも音楽が流れると、雰囲気がクリスマスらしくなってきた。

 みんなで揃って、”メリークリスマス!!” そしてワイワイ・ガヤガヤ やりだすと、いつの間にかテープエンドになっていた。オープンリールが空回りするとわたしの出番だ。別のテープに取り替えて続行する。いつしかテープの音楽なんかはほったらかしで、飲んで食べて楽しんでいた。

 終了時間になり解散した。帰りは、タクシーに機材を積み込み、マツやんと寮へ帰る。アルコールが入っているので、積み下ろしがしんどい。いまでも、そのしんどさを思い出すクリスマスだった。


 1972(昭和47)年の12月に支店は、1km西へ移転した。その数年後、喫茶店は火事に見舞われて無くなった。焼けた跡地は駐車場に変わったが、支店ビルの壁面には、黒く焦げた跡が長いこと残っていた。

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電気こたつを買った

2010-11-26 23:55:13 | サラリーマン4年生
 11月も中旬になり肌寒くなってきた。でも独身寮の個室には暖房が無い。このまま冬を迎えると、部屋には居れない。寮の規則では、火鉢や電熱ヒーターの持ち込みは禁止されている。ガスなんぞあるわけがない。許されるのは、ホームコタツだけというので、早速、電気屋へ駆け込んだ。1966(S41)年11月19日のこと。

 買ったのは、小ぶりのホームコタツ。電気屋さんの話によれば新婚向きだという。独身寮は狭いので、この新婚向きのコタツにした。

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 ↑ こんな形のコタツ。 ¥6,080だった。

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貸付係になった

2010-11-21 22:29:51 | サラリーマン4年生
 11月7日月曜日から貸付係になった。1966(S41)年11月のこと。

 仕掛かり業務の引き継ぎを受けていると、前任者から、「わしの後ばかり追っかけてくるのかい」と冗談気に言われた。というのは、半年前の6月に、同じ人から当座預金係を引き継いだばかりで、そういう言葉になった。わたしは追っかけて行くつもりはないのだが。

 週が明けて、新業務に着いた。とりあえず此処のこれを見ておけと、課長から説明を受ける。それはロッカーにぎっしり詰まった稟議書ファイルだ。一般稟議書は見たことあるが、貸出稟議書は見たことが無い。ファイルを開いて、まずは内容を読むことから初めた。いままで預金・総務を歩んできたので、貸付のことは何も知らない。それからのしばらくは、前や左右の先輩たちから、OJT(オンザ・ジョブ・トレーニング)で教わる毎日だった。

 役席が出かけるとき、目が合うとお供して得意先へごあいさつ。課長が誘ってくれるときは、街を歩いて、飛び込みで顧客を開拓する手ほどきをしてもらう。この地域は、中学の社会で習った阪神工業地帯。工場の煙突が乱立している。国道2号線沿いでも、プレスなど金属加工の音が聴こえてくる。文字通り、製造業の街で商売していることを実感した。

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秋の社員旅行は和歌山

2010-10-28 22:56:47 | サラリーマン4年生
 尼崎支店へ来て半年しか経っていないのに、早くも2回目の社員旅行に参加できた。1966(S41)年10月15~16日のこと。
15日は土曜日だが14時まで仕事をして、(当時は週休1日、土曜日は14時まで勤務があった)14時半に出発する行程が組まれていた。

 出発時間が迫ると、みんなはバタバタと仕事を片付け出した。わたしは、片付ける程の仕事をしていないので、いつでも出発OK。貸切バスはすでに支店の前にきて、みんなを待っていた。急いで持ち込みのお菓子やドリンク、酒類を積み込み、わたしの手伝いは終わった。宿直者は、頼んであったらしく野里支店から来てくれた。これで、全員がそろって出発できた。

 バスは、国道2号線から43号線、そして26号線で和歌山へと向かった。阪神高速の堺線はまだ工事中で利用できず。でも、その日の夕刻には和歌山のホテルに到着できた。翌日は、和歌山城からそのあたりを観光、帰る途中貝塚市の水間寺へ寄っていた。

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 ↑ 和歌山城大天守

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 ↑ 和歌山城 御台所

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 ↑ 貝塚 水間寺

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テレビが買えた

2010-09-26 23:49:21 | サラリーマン4年生
 尼崎へ転勤して、はや半年が過ぎた。親元を離れて住む独身寮は、3畳間の個室。実家から運び込んだステレオ以外は何もない。この夏、扇風機が欲しかったが辛抱して、テレビを買うことにした。1966(S41).9.6のこと。

 毎日朝夕、寮母さんの料理を食堂でいただく。休日の食後は、その横のリビングコーナーでテレビを楽しむ。チャンネルが気に入らなければ、テレビをもつ友達の部屋へ行って見せてもらう。寮生は、そのようにしてテレビを楽しんでいた。

 わたしも寮生活にだいぶ慣れた。生活(費)が落ち着き、先の見通しもたつようになった。テレビを買うとどうなるか。借金や分割払いにはしたくない。分割払いは月給の前借りとおなじ、金欠の生活になるに違いない。祖母の言葉に、「借金したら夜逃げをせにゃならん」がある。早速、預金通帳の残高を確かめていた。

 寮母さんに聞くと、会社と取引がある電気屋さんが近くにあるという。そこへ向かうと、寮生がよく来てくれるからと、定価の2割引きにしてくれた。
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 ↑ これが、そのテレビ(12インチ白黒)

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'66 若人の会、慶野でキャンプ

2010-08-07 16:03:39 | サラリーマン4年生
 7月にあった兵庫ブロックのキャンプ地「東条湖」は水泳が禁止されていた。その代わりということで、尼崎支店の若人の会全員は、淡路島の慶野松原でテントを張り、思いっきり泳いだ。1966(S41)年8月6~7日のこと。

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 ↑ 尼崎の若人の会の面々。

 尼崎に居たやまだくんもこの日、きていたが写っていない。この写真を撮ってもらったのだったのかな。

 この日、砂浜で音楽を聴こうと、ぼくはテープレコーダを持って行った。さっそく電源を探すが、近くにコンセントが無い。しかたなく電気屋へ延長コードを買いに行く。電源が入りオープンリールが回りだしたが、音量が少ない。昨日までせっせとテープに録音してきたのに徒労に終わった。
 買ってきた延長コードは50メートルあまり。100メートルの巻き取りリールのまま持ち帰り、必要の都度切って使った。転勤、引っ越しが幾度かあったが、処分を免れて44年後の今もまだ使っている。

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キャンプで生演奏

2010-07-19 22:40:02 | サラリーマン4年生
 7月16日(土)、紀北ブロックのキャンプに参加した。この日は、兵庫ブロックも東条湖でキャンプがあり、尼崎支店のみんなは、東条湖へ行くはず。でも私だけは、本部のバンドに属していたので、バンド仲間が行く紀北ブロックに参加した。1966(S41)年7月16日のこと。

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 ↑ 紀北ブロックのキャンプ場(紀ノ川)で、演奏するハワイアンバンド。
 昨年は、洲本の大浜に来てくれたバンドだったが、今年は、紀ノ川流域のキャンプ場に呼ばれていた。
そのバンドにおー君とわたし、図々しく入れてもらい、新米奏者として参加しました。初めての生演奏っだったが、なんとか弾けたので楽しかった。
 おー君は、本来はギターだが、弦バス(背丈ほどのベース)を受け持って堂々と演奏してくれた。半月前のことだが、宝塚研修所へ合宿して特訓を受けた。その成果をどうどうと発揮していた。私はギターを受け持ったが、二人居たので気楽に演奏できた。


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 人さまの演奏をYoutubeで探してみました。↓
1、ブルーハワイ
2、小さな竹の橋
3、南国の夜 カイマナヒラ 
4、マりヒニメレ 
5、メカナミアウカウポ 珊瑚礁の彼方に

 新曲「いつまでも いつまでも」(ザ・サベージ、1966.7.1発売)にもチャレンジした。

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ギターがエレキに変わった

2010-06-25 23:58:00 | サラリーマン4年生
 洲本のカミ先輩から、1年前に借りた全音のクラシックギターがつぶれたので返せない、との電話があった。現金で弁償するので購入額を教えてくれという。弁償なんてとんでもないと断ったら、2千円送ってきた。新しいのを買う足しにしてくれというので、遠慮なく受け取った。カミ先輩、ありがとうございました。1966(S41)年6月25日のこと。

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 ↑ 左が3年前に買って、貸していたギター、右が今回購入のテスコのエレキギター。

 先輩からの電話がきっかけで、またギターが欲しくなってきた。早速、神戸元町商店街の楽器店へ駈けこむ。バンドでは、ピックギターを持たせてもらっていたが、エレキサウンドには憧れていた。店員がうまい具合に、手持ち現金に収まるエレキギターを奥から持ってきた。アンプが無くてもピックの練習は十分できるとのアドバイスに、思い切ってエレキギターを買った。1万円札でお釣りが400円だった。

 先月(5月)も特別出費(机・イス・スタンドにウクレレで1万円)があったばかりなので、財布の薄さが気になる。早くボーナスが欲しい。夏のボーナスは7月だから、後半月の辛抱だと言い聞かせながらも、レコードショップへも立ち寄っていた。

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 ↑ 恋と涙の太陽(アメリアッチ)
歌:橋幸夫(1966(S41)年6月23日発売)を買って帰る。

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本部のバンドに入れてもらう

2010-05-27 23:56:32 | サラリーマン4年生
 洲本にいたとき、支店の音楽バンドに入れてもらってた。だが、人事異動でわたしはバンドを外れることになった。先輩・後輩らと結成した素人ばかりの音楽バンド。プロの先生に来てもらいお教えてもらっていた。それが、わたしだけが途中で外れることになった。もう少し転勤が遅かったらと思うと、非常に残念。

 赴任してしばらく経って、バンドの先生から手紙をもらった。先生の教え子が、今春高校を卒業して、同じ社の西宮支店へ入ったという。寮もわたしと同じはずだから、二人で教え合い、本部のバンドに入るなり、誘ってあげなさいとのアドバイス。早速、本部のバンドへアタックして、二人はハワイアンバンドに入部した。1966(S41).5のこと。

 洲本にいた時、I城先輩が、ベンチャーズを聴きに神戸へ行ってきたと言っていた。そのときの録音だろうか、ベンチャーズ演奏のレコードが出ていた。加山雄三の曲を買いにショップへ来たのだが、迷った末、ベンチャーズ盤(↓)を買って帰った。
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 ↑ 夜空の星(Yozora-No-Hoshi)
/ザ・ベンチャーズ(The Ventures)昭和41年3月5日発売

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海上自衛隊で集団訓練

2010-05-22 23:49:50 | サラリーマン4年生
 5月19日から22日まで、3泊4日で、海上自衛隊舞鶴教育隊の集団訓練を受けた。前年の新入社員教育で取り入れて、評判がよかったので、入社4年目になる我々までも、順番に招集されたのだ。1966(S41)年5月のこと。

 19日の朝、半分づつに分けられた同期生が大阪駅に集まった。そこから東舞鶴まで列車で3時間。団体切符で乗車するとみんなは遠足気分になった。車中で食べよと配られたお茶と弁当、窓の景色を眺めながら食べると修学旅行を思い出した。

 山陰本線を走って1時間半、連結車両の後部が分断されて、進行方向が二股に別れた。わたしたちが乗る後部車両はバックするよう動き出した。どうやら最後尾に蒸気機関車がつながったらしく、黒煙が窓から入り込んできた。あわてて窓を閉めたが懐かしい香りだ。高校図書館にあった石炭ストーブのにおいを思い出していた。

 やっと東舞鶴駅に着いた。車に乗り替えて自衛隊に着いたら昼が過ぎていた。まず案内されたのは宿舎となる営舎。鉄パイプ製の2段ベッドがあり、各人の名前が付されていた。早速、自分のベッドを見つけて、班長の指導により、毛布・毛布カバー・シーツなど、自分でベッドメイキングを行う。ベッドの床は固く、手の感触からすると藁(わら)のようだったのでびっくりした。

 宿泊準備を終えたあと、ロッカールームで白い制服に着替えてから訓練を見学、それから日課へ入った。

 食事も日課のひとつ、全員そろって食べる。夕食後は入浴、国旗降下、営舎の清掃をする。日課が終わるのは夜8時か9時ごろになる。あとは自由時間となり、10:00丁度に消灯・就寝となる。

 翌朝、6時5分前になると、「総員起こし5分前!」の号令がスピーカーから流れる。それに目を覚ますと次の号令を待ち、6:00丁度の号令で起床する。それからは、急いで枕・毛布を片付け、衣服を着用・靴を履いて、6:05までに表の広場へ駆け足で集まる。全員そろったところで体操して、1日がはじまった。


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 ↑ なまった身体を整える体操。
 はじめはラジオ体操程度のものだったのが徐々に厳しくなる。片腕で体重をささえる腕立て伏せは、かなりきつかった。

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 ↑ 身体を動かした後の食事はうまい。
 朝は、体操から掃除、それから食事の準備をみんなで分担する。
テーブルにご飯を運びおかずを運ぶ。味噌汁を配りお茶を入れ全員の用意ができたら、号令で一斉に食べ始める。
時計を見ながら、一所懸命食べた。
 食べるとき、子供のころの父の話を思い出した。父は、昭和15年ごろ(徴兵制の時代)軍隊にいた。みんなで食事するとき、「おいしいものから先に食べる」という。それは、いつ・なん時に「出動命令」が出て、食事が中断するかわからない。そうなっても後悔しないよう、好物から先に食べるのだと。

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 ↑ カッター(短艇)を漕ぐ訓練。
 16人乗ったボート、左右2列に別れてオールを漕ぐ。2メートル以上あるオールは、一人で1本持つ。グリップ部分は太くて、にぎりにくいし、コツをつかむまでオールが機能しない。掛け声どおりにオールが動くようになったとき、ボートが順調に前進する。達成感をみんなと共有できたとき、手には豆ができていた。

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 ↑ 営舎の清掃は日課のひとつ。
 朝・夕行う清掃は、早く・美しく・丁寧にをモットーに全員で行なう。いやいややっていると、班長の目がひかり、叱咤がとぶ。みんな、それなりに真剣になった。

 今回の訓練で、組織の基本である規律・連帯責任、団体の中での協調性や思いやりの重要性を十分認識させられた。身近な例として「5分前主義」がある。約束の時間丁度に集まるのではなく、5分前に集まる。これなどは、時間にルーズな私にはいい教訓だった。

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若人の会:箕面~五月山へ

2010-05-13 23:55:09 | サラリーマン4年生
 早いもので尼崎へ転勤して1ヶ月半が過ぎた。新入社員も入ってきたので、若人の会の先輩たちはピクニックを企画してくれた。1966(S41)年4月下旬のこと。

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 ↑ 箕面の滝
 「まぁー、若い者ばかりが大勢そろって、よく来たもんだなぁ」と、うしろの滝さんが言っているようだ。


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 ↑ 歩き疲れて臨時休憩。
 松の木のにおいがぷんぷんする山道で一息入れる。誰かが弁当を広げると、みんなは、餌に群がる昆虫のようにたかっていた。
それにしても、松の木は好いにおいがするなぁ。半年前、実家の里山から松の木を切り出したときもこんなにおいがしていた。

 このころ、寮で聴いていた曲は、転勤してきて直ぐに買った次のレコードだった。


クリックでYoutubeへ
 ↑ 哀愁の果てに
(橋幸夫 S41.3.15レコード発売)

 親元を離れて2か月も経つとホームシックになってくる。そんなとき、つぎの曲で故郷をしのんでいた。
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 ↑ わが胸に歌は消えず
(橋幸夫 S37.10.5レコード発売)

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'66 新入社員歓迎会

2010-04-10 16:06:30 | サラリーマン4年生
 4月10日日曜日、去年に続き今年も、新入社員の歓迎会に出席した。今年の歓迎会場はひらかたパーク。大菊人形で有名なところ。淡路島からだと船でだが西宮からは陸続き、電車だけで行ける。だが、わたしは、まだ行ったことがない。寮で生活をともにする先輩たちに、連れて行ってもらうことにした。1966(S41).4.10のこと。

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 ↑ 歓迎会会場のひらかたパーク。
 会場案内の立て看板には、”JEXPO'70 万国博がやってくる!!”と描かれていた。
このころは、JEXPO'70と呼んでいたらしい。(知らなかった。写真を拡大して判明ス)

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 ↑ 自由時間は、ボートに乗って歓迎。
 ボートには自信があったので、ここでも女の子を乗せて漕いでいた。
時おり吹く風で桜の花びらが飛び散る。水面には、花びらがいっぱい。そんな花びらに、かまうことなく艪(ろ)を入れて漕いでいた。
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 ↑ 歓迎会の解散後、同行先輩たちとパークをぶらり。
 大きな地球儀(?)をバックに、まっちゃんと、こんちゃん。
4年後に大阪へ万国博がやってくるということで、世界の人形がたくさん並んでいた。

 洲本を離れて1カ月。時折りやってくる寂しさは、両親から離れたせいなのか、それとも洲本の人なのか。



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タイヤのパンクで財布もパンク

2010-03-31 21:17:38 | サラリーマン4年生
 ステレオを運ぶために借りた超小型トラック「ミゼット」を、返すため、また淡路島を往復した。1966(S41).3.28~29のこと。

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 ↑ 赴任する前、残高はたったの26円。
 正月まで少しあった貯えが、ステレオ購入と親への返済ですっからかん。金欠状態が続いているところに、無情にも人事異動が発令。資金が乏しい中で赴任した。

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 ↑ 3月11日に赴任して半月、待ちに待った給料がやっと入った。
 田舎から離れたところへの転勤は、金のかかることばかり。寮での生活用品や、田舎往復の旅費など。そのうえ今回はパンク修理代がかさむ。もらって3日しか経っていない給料だが、全額引き出して払いに当てた。

 翌29日は火曜日。有給休暇をもらって、直した車を返すため淡路へ帰る。
息子の金欠を知ってか知らずか、母は交通費にと2,000円くれた。ありがたかった。
(40年後に発見した家計簿に、その記載を見つけた)
それでも財布は火の車。次の給料日(4月25日)が待ち遠しいサラリーマン4年生だった。

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