オリジナル「107ソングブック」  Original  natarsher seven

全く、個人的趣味の音楽の一つ。高石ともやとナターシャセブン。
「107ソングブック」の曲をオリジナルの歌詞で

演歌という不思議なジャンル  5

2024-05-03 | 歌謡曲

 その演歌を分析してみましょう

 大きく分けて三味線とか和楽器が入ったものがあります

 対してエレキギターで二拍子や四拍子の音楽もあります

 ラテンのリズムのものもあります

 何度も書いてきたように「演歌以外のジャンルにならない歌謡曲」が演歌なのですから様々な音楽になっても良いのです

 これらはそのジャンルを始めた人の出自にちなんでいるのです

 まず春日八郎

 この人の音楽は演歌というより(演歌以外の)歌謡曲でしょう。和楽器の入った音楽ではありませんよね

 そういう意味では「演歌風」の「物語」を歌うジャンルなのでしょう

 例えば代表曲のお富さんはもともと岡晴夫が歌う予定だった曲です

 憧れのハワイ航路は演歌でしょうか?

 その流れの中でできたお富さんは本来演歌なのではないのです

 では何でしょう?

 手拍子が入るから宴会芸ということもできます。つまり宴歌なのかもしれませんね

 逆説的ですがそれ以外のジャンルに当てはまらないという意味でそれは確かに演歌なのです

 次に三橋美智也です

 もともとが民謡歌手であったことから民謡的な歌唱法、音楽性を演歌の世界に持ち込みます

 演歌の代表的な音階であるヨナ抜きは本来民謡の音階です

 そしてしゃくるという歌唱法が民謡にはあります

 これらは明治時代には存在していたのですがそもそもアメリカの音楽を取り入れて始まった壮士演歌には当然ありませんでした。

 物語演歌になって日本人のオリジナルを作る段階で歌の中に取り入れられてきているのですが、古来の声明をルーツにもつ民謡の音階が使われていきます

 それがはっきりするのは民謡をバックにした歌手が出てきてからです

 次に村田英雄

 浪曲出身であったことから物語演歌ということになります

 特に男歌を得意とした物語を歌ってきました

 浪曲の特徴がうなりです。これを抑えるとこぶしということになります

 そして同じく浪曲出身の三波春夫

 彼は劇場型歌謡浪曲というジャンルになりますので浪曲のうなりというものを取り入れて独自の世界を創り上げます

 彼はまたそれ以外のルパン三世の音楽といったジャンルにも挑戦するのですが、こぶしの利いた三波節でこなしているのが特徴的でしょう

 また和楽器を上手く使った人が三浦布美子で江戸時代からの邦楽の雰囲気を持ち込みました

 こういう人たちが作り上げたのが演歌であることから、邦楽的な要素がある音楽も民謡的な音楽、浪曲風の歌い方、ラテンのリズムの音楽もその中に縫合されてくるのです

 本来であれば邦楽、民謡、ラテンというジャンルに入るのでしょうがそういう曲を複合的に同じ歌手が歌っていることから歌謡曲=演歌というジャンルにならざるを得ないのでしょう

 今ではムード歌謡のフランク永井も演歌のジャンルに含まれているのですから、そういう意味では先に述べたように 歌謡曲の中で演歌以外のジャンルを排除して残ったものが演歌 という定義しかないように思います。

 

 けっして演歌は日本の心なのではないのです

 そして他からパクってきた言葉でたかだか半世紀ほどの歴史を持たないジャンルなのです

 

 もし演歌が明治時代から綿々と続く日本の心だというのであえれば

 アメリカの民謡や軍歌がそのルーツになってしまうのですよ

 

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演歌という不思議なジャンル  4

2024-05-03 | 歌謡曲

 さて歌謡曲の側としては当初関西のわけのわからない歌を歌っている奴らはこれまでの経験上カントリーやGSのようにあだ花のままで短期間で消えていくか尻尾を振って歌謡曲にすり寄ってくるかのどちらかだろうと高をくくっていました

しかしそのうち消えてなくなるという認識だったところにフォークのプリンスが現れます

1969年にアルバム「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」でデビューした吉田拓郎です

彼はプロテストソングではない身近なことをテーマにした歌を歌うことでフォークの旗手として出現し若者に絶対的な支持を得ました

 この流れがニューミュージックというものを生み出していきます

 彼はテレビに頼らず深夜放送のラジオとコンサートを主戦場としていきます

その流れをそのあとの人たちも続いたのです

テレビを主戦場とする歌謡曲に入る必要性がなかったのです

 これを見て歌謡曲のジャンルに組み込まれていた人たちも声をあげます

 フォークの奴らが歌謡曲に入らず独自のジャンルを引っ提げて商売になっているのだから自分たちも!ということになりました

 まずロック系の人たちがテレビに出るメリットを感じないことから歌謡曲のジャンルから離れていきます。

 この動きがのちのJPOPというジャンルへの布石になっていきます

 次に「アイドル」というジャンルです。

 アイドルというジャンルはそれまでも存在しました。しかしそれは〇〇のアイドル、もしくはアイドル歌手と呼ばれていました

 これが1971年の天地真理、南沙織、小柳ルミ子の三人の出現により「アイドル」という言葉だけで表現されることになりました

 そういう風に歌謡曲というジャンルから様々なジャンルが離れていくことになりました

 それが1960年代のことです

 そしてついに歌謡曲というジャンルのほうが少数派になってしまったのです

 そこに救世主が現れます

1969年にデビューした藤圭子です

彼女は本来なら「演歌」の人ではなくポップス系の人であったのですが事務所、レコード会社の方針で演歌風の歌謡曲で活躍することになります

彼女の歌うビートルズだとかロカビリーの歌声は娘の宇多田ヒカルとそん色がありません

しかし事務所の方針で歌謡曲を歌わされていた彼女の声を聴いた作家の五木寛之が1970年に「怨歌の誕生」というエッセイ集で「藤圭子の歌声には怨みがある。彼女は怨歌」だと表現しました

 これを読んだレコード会社の宣伝部員が「怨歌か、これではジャンルとしては陰気臭いなぁ」「そういえばフォークの奴らが壮士演歌を歌っていたよなぁ」と気がつきます

 高石友也やなぎら健壱が古い明治大正昭和初期の演説歌をギターで歌っていたのです

 「演歌なら明治時だから歌われていたのだから伝統的な日本の歌、演歌は日本人の心だと売り出せる」と中身には全く関連のない「演歌」という言葉だけをパクってしまいます

つまり今の演歌は壮士演歌とは全く関連のないジャンルなのです

 そういう意味で、もし演歌の定義をするとしたら

 

 今の日本の音楽のすべての世界ジャンルから演歌以外のジャンルを取り除いてのこった歌謡曲

 

ということになります

だから、さざまな音があってもほかのジャンルに入れなければそれはすべて演歌なのです

  これが今の演歌という不思議なジャンルの実質なのです

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演歌という不思議なジャンル  3

2024-05-03 | 歌謡曲

すべての日本の歌曲を歌謡曲というジャンルで一括していたのは便利だったからです

歌謡曲という言葉で日本の歌曲ということが判りますから

 このジャンルにすべて含まれるということは今の感覚でいえば演歌からアイドルから和製ロックまでが含まれていたということです

 この歌謡曲というジャンルに入ることでテレビに出ることができたといって過言ではありません

 なぜならばNHKをはじめとする歌番組には「歌謡」というタイトルだらけだったのです

つまり歌謡曲という巨大なジャンル側が世を謳歌していたのです

 新しいジャンルの音楽が生まれても日本人の歌曲であれば歌謡曲に取り込んでいくことができたのです

 この中で小さな動きがありました

 春日八郎という人が1958年に出した「赤いランプの終列車」という曲です

 これは「ひさしぶりに“演歌風”歌謡曲が発売された」と評価されます

 ここでは演歌風の歌謡曲なのです。決して演歌ではありません

つまり歌謡曲の牙城には揺るぎがなかったのです

 しかし、あまりにも巨大になりすぎたジャンルにも落日の日が来てしまいました

そして歌謡曲において大地殻変動が起きてしまいます

 フォークソングの輸入です、発生といったほうが良いかもしれません

 1962年に朝日新聞が紹介したのが日本のフォークの始まりだといわれています

 アメリカ公民権運動前夜にウディガスリー、民謡研究家ピートシーガーらによって生み出されたアメリカ古民謡の再評価運動です

 特にウディガスリーの提唱した替歌によって政府批判が公民権運動の中で瞬く間に広まっていきました

 替歌というのはどういうことか

 素人がメロディーを作るのは難しいが言いたいことを詩にすることは出来る

 だから既存の曲に自作の歌詞を載せればいい

 そうウディガスリーは提唱し実践したのです

 彼の代表的な「我が祖国」という歌も同じメロディーの民謡があります

そうして社会批判を歌っていったのです

 一方で民謡をリバイバルして歌う勢力も存在したのです。彼らの歌には政権批判はありません

 それらはコーラスグループ的にきれいに歌うことを目的としました

 代表的なグループがキングストントリオやブラザースフォア、ピーター・ポール&マリー、ニュークリスティミンストレルズなどなどです

 このアメリカのフォークソングの二つの流れがそのまま日本に伝わりましたが、当面彼らは外国の曲を歌っている外国人ですからポピュラーのジャンルに組み入れられ紹介されます

 後者の流れは関東の慶応、城西、成城といったお金持ちのお坊ちゃんお嬢ちゃんによってスマートに演奏する「カレッジフォーク」というジャンルになっていきます。そして歌謡曲の一ジャンルになるのです

 なぜ金持ちの子女なのかというとまず輸入レコードは高かった!

 さらにギター、バンジョー、ウッドベースなどの楽器も高かった

 1ドル360円の時代です庶民には手の出ない価格です

 だから金持ちでなければ聞くこともやることもできなかったのです

 そして社会批判という部分がない歌である以上歌謡曲側は喜んで受け入れていきます

 さて前者のフォークソングは関西のあまり裕福でもない学生たちによって始まります

 もっと極端な話をすれば大阪のドヤ街から発生します

 大阪のドヤ街に住んでいた高石ともやが1966年にピートシーガーなどの曲を和訳したものやオリジナルの曲を引っ提げてフォークキャンプに登場します

 彼に続いたのが東京のドヤ街にいた岡林信康です

 彼らの心情は「言いたいことを自分の言葉で自分の声で」歌えばそれがフォークソングだ、というものでした

 そして反戦や社会批判の曲を歌っていきます。これらは「メッセージフォーク」(便宜上関西フォークとします)と呼ばれました

 この動きが全国的に大学生や高校生などの若い人たちに受け入れて広まっていきました

 そして爆発したのがフォーククルセダーズの1967年の「帰ってきたヨッパライ」です

これは史上初のダブルミリオンセラーを記録しました

 これ(フォークソング)は商売になると踏んだ各レコード会社は次々にフォークソングを発売していきます

 そして・・・歌謡曲側も

 それまでたかが関西のわけのわからない歌を歌っている奴ら、という評価を一変させて「君たちも我々歌謡曲の人間だよね!」とすり寄ってきます

 まずフォーク系の若い歌手を歌謡曲歌手としてデビューさせることに成功しました

 関東の森山良子を「禁じられた恋」関西の高田恭子を「みんな夢の中」で歌謡曲歌手としてデビューさせたのです

 歌謡曲のジャンルに入ることは「テレビに出ることができる」ということでした

 ロカビリーもGSもカレッジフォークもすべて歌謡曲のジャンルに入っていたのですから関西フォークも当然にしっぽを振って歌謡曲の中に入るものだと思っていたのかもしれません。なにしろ森山良子などの前例があるのですから

 しかし関西フォークの人間はすでに若者たちに支持されていた「深夜放送」や「コンサート」で十分な人気を持っていたので歌謡曲の中に入ることはしませんでした

 「自分たちはフォークというジャンルだから」ということになったのです

 そしてそれを社会が認めてしまったのです

 テレビ以外で活躍できる音楽のジャンルがあることを認知してしまったのです

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演歌という不思議なジャンル 2

2024-05-03 | 歌謡曲

 前回、日本人の中にある演歌への誤解を批判してきました

 レコード発売によって壊滅状態になり、ラジオ放送によって演歌は消滅しました

 演歌は日本から消えてしまったのです

 それがなぜこんにち「演歌」が存在しているのでしょう

 前回

  「政権批判の歌」こそ演歌なのです

  それを広めたのが「演歌士」です

  プロの演歌士は何で飯を食っていたかというと街頭で一番だけとかさわりだけを歌い、

  全編は歌詞カードを販売して収入を得ていました。

 と述べました

 お客さんに歌詞カードを買ってもらわないと商売にならないのです

 世の中が落ち着いてくると政治批判一辺倒では見向きもされなくなります

ではどうしたか

 河内音頭や木曽節の「新聞詠み」にあるように事件や事故、過去の「物語」を歌ったのです

 そしてそれが受け入れられていくにつれ、また政治批判の弾圧が激しくなっていくにつれその「物語」を歌う演歌士が増えていきます

 演歌は物語を歌うのが主流になっていくのです

 代表的なのが1923年の「船頭小唄」です

 そしてそのメロディーに大きな影響を与えていくのが「説教節」に代表される声明でした。わかりやすく言えばお経です

 さて演歌はいったん絶えたわけですが、代わって出現したのが「歌謡曲」です

 例えば1926年の「君恋し」1928年に佐藤千夜子が出した「波浮の港」をはじめとして「月光値千金」「アラビアの歌」などのジャズソングとかです

 これらは一括して歌謡曲というジャンルになりました

 「君恋し」は1961(昭和36)年にフランク永井によってリバイバルヒットしていますがこれを当時は「演歌」とは言いませんでした。「ムード歌謡」と呼ばれています

 つまり歌謡曲なのです

 この「歌謡曲」というジャンルは日本では大変重要なジャンルでした

 かつて日本には歌謡曲とポピュラーの二つのジャンルしか存在しませんでした

 外国の曲はすべてポピュラー、日本の曲はすべて歌謡曲です

 ですから1945年のWW2終戦に伴いアメリカから入ってきた音楽はすべてポピュラーなのです。ラテンもシャンソン、カンツオーネもハンクウイリアムスのカントリーもエルビスプレスリーもすべてポピュラーなのです

 だからエルビスプレスリーなどのロカビリー曲に日本語の歌詞を載せたものを「和製ポップス」とよんで歌謡曲の中に含んだのです

 ちなみにあの1958年に始まった「日劇ウエスタンカーニバル」

 ウエスタンとついているのはなぜか?

 当時カントリー&ウエスタンが非常に人気があったのです

 そこに和製ポップスのロカビリーが含まれていたのです。大トリはジミー時田というカントリー歌手でした

 さて対する日本の歌謡曲は

 次回に

 

 

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「演歌」という不思議なジャンル  1

2024-05-02 | 歌謡曲

最近「演歌」というジャンルについていろいろ考えることがあったので、私なりの整理をしてみたいと思います

 

そもそも「演歌」というのは明治大正昭和初期に存在した!「演説歌」を語源としている

あえて語源としたのはこれから記す内容からです。さらにこれまで流布していたことに対する個人的な意見を述べていきたいと思います

 

1 演説歌は自由民権運動の中で発生した

 という説は実は正しくない。

 自由民権運動は明治6年に板垣退助が「国会開設の請願」を行ったことから始まります

 そしてまず明治10年の西南戦争でいったん収束する

 運動自体はそのあとも続き「帝国憲法発布」「帝国議会開設」明治23(1890)年の第一回総選挙の実施で終了するのです

 ここで自由民権運動は終わるのです!

 では演歌(演説歌)は・・・

 1891年に川上音二郎により発表された「オッペケペー節」が始まりとされています。つまり自由民権運動が終わった後に演説歌ができているのです

 さらにこの歌は1900年にレコード化されて世間に流布していきます

 ということは直接的には演説歌と自由民権運動とはつながりがないのです

 むしろ帝国議会が開設された中での政権批判がその誕生のきっかけなのです

2 演歌は日本の伝統的歌曲である

 という説も正しくはない

 演説歌は街頭での!「政権批判の演説」を明治13年の「集会条例」という法律で禁止されたことから演説ではなく「単なる歌謡曲の発表」という形でおこなったものです

ちなみに演説という言葉は福沢諭吉が発明したものです

 ですから「政権批判の歌」こそ演歌なのです

 それを広めたのが「演歌士」です

 プロの演歌士は何で飯を食っていたかというと街頭で一番だけとかさわりだけを歌い、全編は歌詞カードを販売して収入を得ていました。

 だから今の感覚でいえば路上ライブでオリジナル曲を歌い歌詞カードを売っているようなものです。

さてこの方式は、大きな転換期を迎えます

1903年にレコード録音が日本で行われ、1910年に日本で市販されます

これで路上ライブの演歌士の多くが仕事を失います

実演を聞きにいかなくても日本中で同じ音が聞けるからです

さらに1925年にラジオ放送が開始されたことでレコードを買わなくてもラジオから音楽が流れてきます

これが演歌士を根絶させたのです

ラジオ放送をきっかけとして日本の演歌は絶えたのです

3 演歌は日本人の心だ

 という言葉も良く聞きますがこれもいささか・・・

 演説歌の代表的な歌に添田唖禅坊、添田さつきの「東京節」というのがあります

 いわゆる「パイノパイノパイ」です

 この曲は1918年に発表されたのですが、このメロディーはアメリカの「ジョージア行進曲」という曲です

 ということは日本の心である演歌はアメリカの歌曲であるということになりますね

 

 

 

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