小本海岸・熊の鼻展望台...すべてを一瞬のうちに飲み尽くし、残滓だけを吐き出し、なおかつ何事もなかったかのような穏やかな海。
ここに暮らす人々の持ちうる有形無形のあらゆるものを根こそぎ奪い破壊した海。
海という漢字をよく見てみよう。母という字があるではないか。
海よ、母なる海よ。あなたはあまりにも無情だ。
私どものような無関係者が今、興味本位で東日本大地震の被災地に足を踏み入れるのは遠慮しなければならないことだと考えていた。
どんなに真摯な心と態度で彼の地に佇んだとしても、被災者の本当の悲しみに寄り添うことなど出来はしない。
ましてや無神経にカメラを向けることなど......
しかし被災地山田町出身の、自らも親戚や友人たちを失い途方に暮れている職場のF嬢から
「被災地の実情を見て欲しい。いや、岩手県人として絶対に見るべきです。
あの無惨な光景を目に焼き付けて、そしていつまでも胸に刻み語り継いでください。」
と言われ真剣に悩んでいた夫。
その夫を見て私の気持ちもやっと決心がついた。
あのむごたらしい光景を正視することなど出来ないと思っていたが、被災地の一番近くに住む者として何かをしなければならないとしたら、それは先ず現実を直視することだった。
私の考えついた画期的な裏技(不正ではない)でガソリンを満タンにし、一路三陸海岸に向けてひた走った。
行きは岩泉街道を通り、小本海岸、田老町、宮古市、山田町まで行き、帰りは宮古街道を走るコース。
(裏技が気になる人もいるだろうが、それはまたの機会に...というか、自分の頭を使って考えてみよう!)
田老(たろう)町壊滅。残っている家は一軒もない。
以前ここから30分奥に入った山あいの地に4年間住んでいた。
初めて赴任先に向かう時、夫に「たろうのそばだ!」と言われ、その地名が気に入り「太郎の蕎麦」かと喜んでいた私。
田老には、私たち親子をよく招待してくださった気のいいK夫妻が住んでいた。
奥様が津波で命をおとされた。合掌。
津波の歴史と戦ってきた田老町は、町を守るため高さ10m、長さ2,433mの「田老万里の長城」と呼ばれる大防潮堤を完成させた。
民家の屋根より高い防潮堤は町民にとって安心して過ごすことのできる施設となっていたのだが、今回の大地震では安心感が仇になった。
(宮古市商店街) (山田町)
我が家の息子は宮古の産院で産声をあげた。
当時私ども親子は、毎週末宮古の商店街で買い物をしたり「ドラえもん」の映画を見たりして楽しく過ごした。
それら馴染みの深い通りが一変して瓦礫の街並みと化していた。
陸上で難破する船を見るのも痛ましい。
山田町も壊滅。津波と火災に見舞われ焦土と化していた。
小本海岸から山田湾までの被災地を巡ってみて、毎日テレビで見ている被害地の点と線がつながった。
テレビで見ていると青森、岩手、宮城、福島と、それぞれの県の個別の市町村や個別の海岸の出来事のような感じがしてならなかった。
しかしこれらの無惨な光景が、同じように延々と500キロも連なっているという事実。
過去に類例のない大災害、被害の甚大さを痛感する。
築き上げてきたものはいともたやすく失われた。
誰にもどこにも怒りをぶつけることは出来ない。
自然現象の前では人間はどうしようもなく無力な存在だ。
みんなで助け合わないと絶対に元の町には戻らない!元の日本には戻らない!
日本人の力が試されていると思います。
引き続き応援のほどどうかよろしくお願いいたします。
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