めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

本当の幸せを求めて

2017-07-18 14:21:53 | 日本人

ほんの数十年前、私達日本人は、アメリカとの戦争に負け、
日本中の街を焼き払われ、多くの尊い命を失ったのですが、
それから、高度成長期を迎え、終戦当時には想像もしなかった
近代国家に生まれ変わりました。
何もかもが豊かになり、世界中から、様々な食料や物資が輸入され
それこそ、飽食日本と言われる程の豊かな国と成りました。
年々、人々の生活は経済成長と共に豊かと成り、着る物食べる物も
事欠いた戦後の時代からすると、まるで、夢の様な国となったと言えます。

世界中からは、先進国として認められ、今や日本は、世界をリードする程の
経済大国として成長してきました。
発展途上国の中には、日本の援助により、国内成長を助けられた国も多く
日本をお手本にして、国内経済を高めている国も少なくありません。
これ程にも、国内外における成長は、私たち日本人を、どれ程豊かにし
幸せにしたかと言えるのですが、現実の日本国民の多くは、海外の方が
思っている程幸せであると思っている人は少ないのです。

現実の日本人は、いつも周囲の目を気にして、未来を不安視し
心の中は、いつも怯えて、殆どの方が自信が無い人生を送っています。
いや、諸外国に比べても、豊かな生活を送っているから、そんなはずがなく、
自分達の生き方に、自信を持っている人が多いのではと思いがちですが、
例え、富裕層と言われる方々も、本心からすると、決して心安らかな
生活をしているとは言えないのです。

何でも好きな物を手に入れられる豊かな生活をしていて、何が一体不満か
と言えば、心が満たされていない事が不安なのです。
欲しいものが簡単に手に入る経済力が有れば、幸せに違いないと思う方は、
経済力を身に付ければ、幸せになると思っている方であり、自分と富裕層の方と
心の在り方は差ほど違いは無いのです。

幸せになるには、豊かな生活が出来ればと思って頑張ったものの、いざ現実は
何でも手に入っても、それ程の感動が無いのが現実なのです。
その為、人から羨む生活を手に入れても、それに満足出来ず、より、沢山の物を
手に入れる事にまい進しなければならないのです。
つまり、手に入れても手に入れても、止む事のない欲求不満が続くのであり、
幸せになると言うより、更なる経済力を手に入れる事で生活が回って行き、
自分の幸せを感じる事が出来なくなっているのです。


この事は、日本人全体に言える事であり、所得差では決まらない大問題なのです。
特に、経済的に豊かになる事で幸せになると信じて来た方にとって、
どんなに頑張っても、自分の求める幸せは得られず、苦しみ続ける事も多いのです。
一体何を持って幸せと感じるのか、多くの方が、幸せと思える人たちを基準として
自分の価値観を定めている事に、この問題の根っこが有るのです。
つまり、経済的な幸せは、他人との比較であり、持ち物の比較でしかないのです。

しかし、世の中はあらゆるメディアを使って、より魅力的な商品を提供し、人々に
より購買力を求めます。
豊かで幸せな生活を映像などを使って示す事で、幸せになる方法を定義します。
画面に映る魅力的な人たちの幸せな表情に、多くの方が、自分の幸せはここに有ると
錯覚をしてしまうのです。これこそ、商売上のテクニックであり、消費経済の根本と
考えられるものであり、国民は、経済的に豊かになり、多くの商品を求める事が
幸せになる道と信じてしまうのです。

所が、この形態は、日本が高度成長期にあった時と全く同じ政策であり、その事で
日本人が本当に幸せになったかと言うと、実際は、一部の人達が裕福になったもの
殆どの国民が、どんな生活レベルであっても、いつも追い立てられる様な、
作られた幸せ像に向かって走り続けなければならない、自分自身を考える事すら
出来ない様な慌ただしい毎日を送る羽目となったのです。

しかも、問題は、其々の欲求ばかりを追求した為、家族や友、学友、仕事仲間と言った
横の繋がりに疎くなり、他人の気持ちを考えられない、自己中心的な考えの持ち主が
極めて多くなってしまったのです。
特に、人を押しのけ、踏み台にしてのし上がった人たちは、その傾向が極めて強く
財政的な数字やお金の損得にしか関心が在りません。
その為、自分の周囲の他人や家族に対して、相手の気持ちを把握する事も察する事も
できず、その事に依って多くのトラブルを生じても、何故、トラブルになったのかすら
解らないのが問題です。

こんな人たちが、日本社会を支えていれば、当然、国民は幸せになる事は出来ません。
常識的に見ても、社会的地位の有る人が行う事とは言えない事であっても、
例えメディアや司法からの追求が有っても、何だ悪びれず、言い訳しか言えないのは、
明らかに、国民とは、幸せの価値観がずれていて、人の気持ちを察する能力も無い事から
指摘されても平気でいられるのです。
そして、弁解できなければ、記憶が無くなり、更には、想定外と言って逃げるのが常道です。


私達は、彼らをいくら責めても、何の特にもならないのです。
国民と同じ常識が少しでもあれば、反省をする可能性もあるのですが、そもそも、生きて行く
価値観が全く違っているのです。怒るならば、自分達がその様な人を選んでしまったことを悔い
自らを戒めるしかないのです。
とは言っても、そんな人しか代表として出てこない日本は、本当に、幸せな国とは言えないのです。
そんな国に居ながら、見た目の美味しそうな餌に操られている私達が、本当は猛省しなければ
ならないと言えるのです。

日本には、災害に遭った人たちだけでなく、ニュースに取り上げられない多くの人々が
日夜苦しんでいるのです。
様々な環境で、自分の苦しみが理解されず、ただ、その苦しみから解放されるには、
経済的に豊かになれば良いとする、余りにも単純な政策しか生み出せないリーダー達が
国民を幸せに出来るわけがないのです。
国民から選ばれたはずの人達が、私達の方に目も耳も向けず、地位を確保した途端、
踵を返し、美味しい話の方に笑顔を見せている様では、正に危急存亡と言えるのです。

日本は、決して、豊かな国ではないのです。
心が病んで、幸せを見つけられない人たちが溢れている国と言えるのです。
与えられた様々な環境で、幸せを感じられる社会が必要なのです。
誰もが右に倣え、の社会では、誰もが幸せになれないのです。
人は、一人として同じでなく、其々が其々の価値観を持って、幸せになる事を願っています。
国民の一人一人の幸せが感じられる政策が、人々の心に安らぎと未来を与えるのです。


猛暑の中に揺らめく高層建築を見て、豊かな国になったと思う人はいないのです。
様々な設備を作って、街を近代化しても、人々の心が癒されなければ、
その施設は、無用の長物の様に感じてしまうのです。
確かに、一部の人達にとっては、そんな巨大施設は必要かもしれません。
しかし、殆どの人には関係なく、街が近代的に巨大化しても、幸せには通じないのです。
日本人が、長い歴史の中で培ってきた、日本人としての幸せは、一体なんであったのか。
見た目の世界に振り回されないで、もう一度、しかりと振り返る事が、全ての国民にとって
とても大切な事と思えます。