羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

連日、いろいろなこと……

2009年07月30日 13時44分00秒 | Weblog
 しばらくブログに書き込みができなかった。
 というのも五・六年来の懸案事項が一つ解決し、他にも解決したわけではないが問題に向かい合っているからだった。こちらは我が家だけで解決できるものではないだけに、厄介である。

 そのほか蔵の中の整理をする前に、一時的にピアノが置いてある部屋の模様替えや住みはじめてから満四年がたった家の手入れを毎日少しずつやっていることもある。

 そのほか満六十歳を期に、区の健康診断を受けてみることにして今週月曜日にかかりつけの医院を訪ねた。
 体重を身長で二回割って肥満度を計測、腹囲を測る、血圧、心電図、胸のレントゲン、血液検査、検便。
 まずは入り口検査だと思っている。

 もう少し落着いたら、読み上げた『1Q84』と『骸骨ビルの庭』、二つの小説を考えてみようと思っている。
 新しく『鷺と雪』も読み始めているが、前述の二作品のようにスラスラと読みすすめない。文体や物語性が合わないのかもしれない。

 もうしばらく雑事(日常的には大切なこと)や所用(社会人としてやっておかなければならないこと。エトセトラ)に時間を割くことになりそうだ。
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おひさしぶり……宮本輝作品の‘魂魄’に出会う

2009年07月24日 19時01分20秒 | Weblog
 宮本輝作『骸骨ビルの庭』を昨日から読み始めた。
 今日は、下巻を三分の一ほど読み進んだ。
 縁浅からぬ人にすすめられて『泥の河』『錦繍』を読み感動に涙したのは、かれこれ三十年ほど前のことだった。
 その後宮本氏ライフワークである『流転の海』を最後に、このところは作品から遠ざかっていた。

 作家は出世作を超えるのはなかなかに難しい、と思ってきた。
 創作活動を続けられれば、円熟させることは出来る。
 この『骸骨ビルの庭』は、これまでの作品に比べて、さすがに円熟期の代表作になるのではないかと思える出来栄えである、とここまで読んできて思っている。

 昭和二十年の終戦後の混乱期から三十年代、そして平成時代に大人になった孤児たちのきめ細かな思いを、自立の象徴としての太陽と土と堆肥と植物といった野菜づくりを縦軸、現代に失われつつある‘情’を横軸として、個々の人間の生き様を読ませてもらっている。

 半端だがこれ以上は今日は書かないでおきたい。
 ブログに時間がさけなかったのは、この本が一因している。
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暮らしのなかに雑用はない

2009年07月21日 07時39分01秒 | Weblog
 昨日は、北側の細い空間を中心に、土や落ち葉や草を整理した。
 今朝は東京都の収集袋が二つ、基準に合わせた長さと幅にまとめた木の枝と壊れた簾をまとめたもの等々を早朝にゴミ集積場に出しにいった。

 まだ、やらなければならないことが残っているが、これはもう一日あれば片付きそうだ。
 家の周りをきれいにすることも大事な作業なのだ。
 野口先生は町を歩いていて、植木鉢の土が乾燥したまま干からびた植物がほったらかしにされているのを見ると、悲しみと怒りに震えておられた。
「許せない!」

 育てるのならちゃんと水だけはやって欲しい。
 枯れてしまったら、ちゃんと片付けて欲しい。
「それが命への礼儀だ」

 夕方になって半野良猫が水を飲みにきた。
 呑み終わって裏にまわっていく後を追ってみると、朝のうちに硬くなった土をほぐしたり枯葉を取り除いてきれいになったところを、その猫は前足で掘り返していた。たしかに猫は清潔好きで、きれいなところでしか糞をしないという。
 まさに、糞をするためだった。
 実は、土の上にしていくのはかまわない、と思っている。なぜなら土をかぶせておけば匂わないし蝿もこないから。
 困るのは砂利の上に残していくこと。
 こればかりはたまらない匂いと蝿に悩まされる。
 
 さてさて、夏休みには、次々片付けるところがある。
 それらは雑用ではないのだ。
 暮らしのなかに雑用はない、と思いたい。
 野口の考えによれば‘雑’がつくものやことは、実は至極大切なものやこと。

雑詠、雑役、雑音、雑貨、雑家、雑歌(ぞうか)、雑学、雑楽、雑株、雑感、雑記、雑器(神の供物を盛るのに用いる小さな木皿)、雑技、雑居、雑業、雑菌、雑軍、雑芸、雑件、雑考、雑交、雑婚、雑言、雑載、雑纂、雑誌、雑紙、雑事、雑色、雑修、雑種、雑酒、雑揉、雑書、雑抄、雑掌、雑餉、雑所得、雑税、雑節、雑然、雑説、雑草、雑則、雑卒、雑損、雑多、雑体、雑題、雑談、雑著、雑踏、雑稲、雑納、雑嚢、雑俳、雑駁、雑費、雑筆、雑品、雑物、雑文、雑粉、雑編、雑報、雑木、雑務、雑用、雑録、雑話……広辞苑より

 逆引き広辞苑は次回に。
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迷惑千万……隣家から塀を越えて伸びすぎた枝

2009年07月19日 09時04分25秒 | Weblog
 早朝、日の出に時刻に家の周りをきれいにしている。
 作業をする時間は30分から1時間程度で、お日様も照り付けていないにもかかわらず、汗でびっしょりになる。
 手袋をして、靴下を履いて、蚊に刺されないためにできるだけ肌を出さないようにしていることもある。

 北側は隣家の庭に面している。その庭は手入れせずにほったらかし状態のように推察できる。とりわけ塀の際に植えられている名前のわからない木の枯葉が、塀を越えて落ちてくる。
 その木は10メートルを超えた高さにまで伸びていることもあって、二階の樋にすれすれの高さに覆いかかりそうな状態だった。
 それだけは先日切ってくれたが、隣家の樹木ほど厄介なものはない。

 自宅の木々ならば、枯葉が落ちても掃除することに鬱陶しさは感じないのに、よそ様のだと穏やかな気分で片づけが出来ない。
 毎年、伸びた枝を切ってください、とお願いにいくのにも気をつかいながら‘おずおず’とチャイムを鳴らすのにもかなり辟易している。
 あるときは思い切って何とか手が届く‘からたち’の枝を、切り落としたことがある。
 トゲの痛いことといったらない。
 どうにもならないので、しばらくの間、我が家の内側に切り落としたまま乾燥させて、更に細かく切ってゴミ収集袋に詰めて、上から‘トゲに注意’と書いてから、可燃ごみ収集日に出すことだって一苦労だった。
 
 泥棒除けに塀の脇には‘からたち’はいいかもしれないが、自分の家のものでないだけに、心にまでトゲがささってくる。
 自発的に庭木の枝は切って欲しい、とことに伸び盛りの時期には思うことしきりの昨今である。
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1Q84……換骨奪胎、そして、文学に宿る音楽

2009年07月18日 09時32分54秒 | Weblog
「1Q84」を読み終わって思うことあれこれ。
 
 全体を通して、たくさん音楽を聞いた。
 ジャズの名曲、バッハ、そして私の身体の底から聞こえるシューベルトの歌曲。
 突発性難聴を患って以来失いかけていた音の世界を、村上ブンガクによって再発見(再発聴)させてもらえたことにひたすら感謝である。

 そして言葉の表現の巧みさや物語構成の職人技とはこうしたもの、とたくさんのことを教えられた。
 息つくひまなくグイグイと物語に引っ張られた。
 そして神話的に語られた‘純愛’を楽しませてもらった。
‘愛こそ命! 愛こそ希望!’
 現代における愛の復権を気持ちよく堪能させてもらった。
 そしてその裏側には、ドストエフスキーの悪の論理も読ませてもらえた。

 にもかかわらず……
 しかし、しかし、……、正直申し上げて、今ひとつの感動が得られなかった。
 もしかする物語が面白すぎたからかもしれない、独断にすぎないが。

 ただし、次の言葉を知ったことはもの凄い収穫だった。
「換骨奪胎」
 BOOK1の49ページ三行目、‘かんこくだったい’とルビがふってある四文字熟語に、目が貼り付けられた。手元にあったiPhoneから『大辞林』を取り出す。そして‘かんこつだったい’と打ち込んだ。
 それから広辞苑も引いた。
 ここには広辞苑によるところを抜粋しておきたい。

《冷斎夜話一、骨を取り換え、胎を取って使う意。漢文をつくる際に、古人作品の趣意は変えず語句だけを換え、または古人の作品の趣意に沿いながら新しいものを加えて表現すること。俗に「焼き直し」の意にも誤用》
 胎(タイ、はらご=肉体のできはじめ。転じてものごとのもととなるものだそうだ。
 ナルホド!
 今は秘密だが、私もやってみたいことがある。

 ご免。
 感動はない、と乱暴に言ってしまったが、非常に上出来なブンガクを読ませてもらっただけでなく、楽しませてもらった。
 好きな作品の一つであることには間違いない。
 そして読みやすさの内側に隠された深淵を捉まえるためには、再読が必要かもしれない、と今朝は思っている。
 音楽を文学を通してこれほど聞かせてもらえたのは初めての経験かもしれない。
 それはもの凄く大切なこと。
 古の『源氏物語』も当時の宮廷人が読めば、今では失われた音楽が聞こえてきたはず。
 シルクロードを遠路はるばる運ばれ、中国で花開き、朝鮮半島を経由して日本に齎され‘わが国化された音楽の至宝’を聞いていたはずなのだ。
 日本人の感性にとっては、文学と音楽は不可分のものだったはず。
 その世界が現代の「村上神話文学」によって再開花したのだ、と思っている。
 それがなければこれだけの長編を飽きさせずに読ませることは、間違いなくできなかっただろう。
 新作を願う。
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盆の週……1Q84・BOOK2

2009年07月16日 21時10分51秒 | Weblog
 今週、13日月曜日、玄関から二階まで電灯をつけ、行燈に光を入れて、‘お迎え火’を焚き、亡き人々を家に迎えた。

 連日、花を活けなおし、お供物を捧げ、お茶にお水、素麺やご飯を供えて、盆の行事を行っていた。
 本日‘送り火’を焚いた。
 ご近所では一軒も盆を行っている気配はない。

 それにしても七月の盆は、なんとなく気が乗らない雰囲気は否めない。
 東京の盆はなぜ七月なのだろう、と以前にもブログに書いた。
 不思議だ。

 そして合間をぬって『1Q84』BOOK2を読み終えた。
 私も知っている町の様子は、どこまでがフィクションかわからないが、思い当たる場所があった。
 実にありえそうな設定を読みながら、遠い昔、暗闇の路上でつい許してしまったファーストキスシーンを思い出した。
 二人で見上げた冬の月はたった一つだったが、身体の奥底まで透明に映し出すかのようにどこまでも冴えた光を投げかけていたっけ。
 その感覚の甦りは、BOOK2を閉じて、しばらく手の中に納めていたときだった。
《他者のぬくもりは冬に限る》と思ったような朧げな身体記憶は、夢だったか現だったかかわからない中途半端な境界をさまよった。
 そう、きっとあの場所から見た月に違いない。

 バッハの平均律クラヴィーア曲集は、二巻しかない。
 この物語もBOOK1とBOOK2で、閉じるのだろう。
 
 そして私は、物語の続きを自分で紡ぎ出そうと思う。
 自分の身体記憶の中に再現する作業から始める。
 私が鳴らす音楽は、すでに決まっている。
 相性のいいバロックとジャズから、ショパンがバッハに因んで作曲した「24の前奏曲」になるだろう、と。
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採点作業、そして「1Q84」二つの月とシューベルト音楽

2009年07月15日 15時36分15秒 | Weblog
 昨日で大学の前期授業が終わった。
 一人ずつ行う実技テスト(上体のぶらさげは課題。他は自由に選ぶ)とリポート提出と言う段取り。
 全部で四クラス、合計すると学生数は八十数名である。
 
 午前中は、昨日提出してもらったリポートを読んで、これまでに用意してあった他のクラスの記録をリポートと照らし合わせて、最終チェックを行う。
 慎重に採点表に書き込みをいれた。
 午後の早い時間に、すべてをまとめて郵便局にもっていく。
 
 その後は、『1Q84』のBOOK1を読了。
 BOOK2を開きたくなったが、グッと抑えた。
 明日からにしたい。
 それにしても読みやすい。村上さんてこんなにサービス精神旺盛な作家だったのか?
 繰り返すがあまりにもスラスラと読めてしまうので、気をつけないと大事なところを読み落としそうな危うさを感じる。
 ただ、読みやすさの一つの条件を挙げさせてもらえば、活字の向こう側から、物語の通奏低音のように音楽が鳴ってくるからだ。
 とりわけ‘二つの月’は、シューベルトの歌曲集「冬の旅」の‘幻(二つ)の太陽’の陰画のようなイメージが浮かび上がってくる。
 やっぱり、一日一章はもう無理というもの!
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1Q84……とうとう……同い年の作者

2009年07月14日 18時21分20秒 | Weblog
 一日一章が、今日崩れた。
 第四章あたりまで、「この調子でエンターテイメント小説なの?」と少々不満に思いつつ、読み進んでいた。
 イスラエルの演説が、きっかけで読む気持ちになったのに、なんだかなぁ~。
 とうとう、何章かまとめて読むようになった。
 するとようやく伏線だったスジに、姿形が現われ始めた。

 平易な文章に、これから絡まる糸が面白くなるのかしら?
 なってほしいんだけどね。
 このままで済まさないでね、って感じだ。

 1960年代以降、とりわけ80年代の記憶は、私の中でも鮮明な時代かもしれない。
 明日からもきっと一日一章ではすまない予感がする。
 因みに村上春樹氏は、二ヶ月と少しお兄さんだった。
 同い年といっても、学年は一年上のようだ。
 そこからくる読み易さかもしれない。
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1Q84……BACH

2009年07月11日 09時36分32秒 | Weblog
 なぜ、もっとはやく思い立たなかったのだろう。
 僅かな焦りと残念さが交じり合った心もちで今朝は目覚めた。
 そしてピアノを弾く時間、8時が待ち遠しかった。
 
《J.S.BACH Das Wohltemperierte Klavier TEILⅠ》
 和名:平均律クラヴィーア曲集 第一巻
 楽譜棚から取り出した。
 この曲集は、一巻と二巻からなる鍵盤楽器用曲集。
 二十四の調性(長調と短調)で作曲されている。

 なんでも村上春樹さんの『1Q48』は、この曲集のつくりに因んでいるとどこかで読んだ。
「そうだ、久しぶりに弾いてみよう」
 一日一章読書に呼応するように、一日一曲の音を出してみよう。
 ところが小説の方は、今朝で四章まで読み終わっている。
 曲を四番まで一気に弾く時間はない。
 それに弾いたことのない番号の方が多い。
「まっ、いいか」
 第二番まで弾いてみた。

 弾きながら思い出したことがある。
 チェロのパブロ・カザルスは、毎日、チェロの練習に加えて、この曲集を一曲ずつ練習するという日課は、亡くなるぎりぎりまで続けたそうだ。

 日本人作家のなかで村上さんて、英訳される本数が抜群だと聞いたような記憶があるが、この小説のスタイルをバッハに源を求めるとは、もしかして狙ってません? なんて思ってしまう。

 兎にも角にも、小説を読む行為と、バッハを一番ずつ弾きあわせる行為が、なんともしっくりいくことに気づかされた。
 弾きながら、今までは聞こえなかったバッハの音が聞こえてくるから不思議だ!
 
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1Q84

2009年07月10日 14時13分42秒 | Weblog
「先生、1Q84 お読みになりました」
「積読状態だわ」
「そうですか、読み始めたらやめられなくなって、一気にって感じでした」
「ほーっ」
 授業がはじまる前、日本文学専攻の男子学生に話かけられた。

 すでに三週間ほど前に近くの本屋で見つけて、村上春樹の『1Q48』BOOK1とBOOK2、それに宮本輝の『骸骨ビルの庭』上下巻をあわせて買い求めてきた。
 読み始めなかった理由ははっきりしない。
 しかし、本を開くことに微かな躊躇いを感じていた。

 男子学生の言葉が意識下に作用していたのだろう。今週になって、本を手にとり目次を読んでみた。
「ふ~ん」
 一章分はそれほど長くなさそうだ。
「えっ、青豆って何?」
‘天吾’は男性の名前らしいと見当がつくが‘青豆’って何だ?
「すでに作者の策略にのせられたのかな」
 不思議な好奇心が呼び覚まされて、第一章の頁に指が触れてしまった。
「なるほど。彼が言ったことがわかる」
 つまり、読み始めたら他のことが手につかなくなりそうだ。
 
 そこで毎日一章ずつ読むことに決めた。
「このまま、もっと、もっと、読みたい」
 その思いを抑えて、一章分だけでやめておく。
 しかし、突き進みたい衝動が交じり合った身体的な疼きを静止する強い意志が必要とされるようだ。
「そんなことにエネルギーを費やすなら、一気に読んでおしまいよ!」
 悪魔がささやく。
 そこを、ぐっと堪えて、今のところは実行できている。
 一日に一章だけ。
 
 実はこの作者の著書を読むのは、これが最初である。
「こんなに読み易くていいの」
 かすかな疑問が生じる。
 きっと、そのうちに堰を切ったように一気に頁をめくってしまうかも、なぁ~。
 その手に乗るものか! と、今は思っているが、自信はない。
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町は変わる

2009年07月06日 07時04分56秒 | Weblog
 昭和の建物が、一つ消えた。
 わが町のことである。
 商店街の集会場が、地下一階地上三階建てのコンクリートの無個性な建物につくりかえられた。
 ここの座敷を借りて、野口先生の存命のときから、ときどき‘石の会’をひらいたり、没後も‘独楽の会’等々も加えて使わせてもらってきた。

 今度の会館内部はどのようなつくりなのかはわからない。
 しかし、畳の部屋はなさそうな気がする。
 最後に使ったのは、一昨々年ごろだったろうか。
 立替計画がほぼ決まっていたので、室内も外壁もボロボロ状態だった。
 それでも昭和の趣が残っていて、落着くのだった。
 来月初旬に、建物のお披露目とパーティーがあるそうだ。
 一応、参加希望の返信をだしておいた。

 我が家の周辺も建替えが行われると、必ずと言っていいくらいに集合住宅で、貸間がついている。
 駅から3分という立地では、住宅だけの住まいは少ない。
 そして大手の建設会社に頼むらしく、どこも似たり寄ったりの建物が建っていく。
 町の工務店は、年毎に苦しい経営に追い込まれるのがわかる。
 我が家は4年前に建替えたが、頼んだ工務店としては日本の在来工法最後の家づくりとなった。
 当時、その工務店に勤めている七十歳の大工の棟梁にとっても最後の家づくりとなったらしい。その後、その棟梁は内装やリフォームの仕事しかなく、本来の大工仕事はなくなった。
 最近は‘エコ住宅’が新たに脚光を浴びている。
 その工務店は、新しく技術革新を行えるほどの規模でも財力もないので、大手の建設会社に押しやられていくようだ。

 町からガラス屋がなくなったのは随分と前のこと。そのころから大工さんたちはぼちぼち廃業して工務店につとめるようになった。
 さてさて、その後、自前の豆腐屋がなくなり、畳屋なくなり、煙草屋がなくなり、お茶屋もなくなる。
 携帯電話屋は、何十軒とありそうだ。
 ミスドでは、時間帯によって行列ができている。
 ラーメン屋や蕎麦屋が減ってイタリアンになった。
 こうして、町は変わる。
 仕事の質も変わる。
 とりわけここ数年の変化は大きい。
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『動的平衡』福岡伸一と‘ミミズの体操’

2009年07月03日 19時51分25秒 | Weblog
 ようやく授業も大山を越えて、残すところ僅かな回数となった。
 今度は学生がアウトプットする番だ。

 ずっと読みたいと思っていた『動的平衡』福岡伸一著 木楽舎 を手に入れて読み始めた。
 いやいや、藝大の三木先生を思い出した。
 そして野口体操が‘ミミズの体操’であることの真の意味をこの本で読み取ることが出来た。

『私たちは、たとえ進化の歴史が何億年経過しようとも、中空の管でしかないのだから』
 第二章のなかでー人間は考える管であるー小見出しはそう記されている。

 帯には「読んだら世界がちがってみえる」とあるが、野口体操で生きてきた私には、ちがうどころか野口体操の裏づけをしてもらっている、と思える。
 だいたい書名『動的平衡』と言う言葉自体、野口が好んで使っていた言葉である。

 野口体操が、存命中に広く一般に理解されなくても不思議はない。
 ようやく時代が追いついてきた、といえないだろうか? 
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‘立ち葵咲く夏’に……

2009年07月01日 13時57分23秒 | Weblog
「じゃ、またね!」
 四階のエレベーター前で、彼女と別れた。
「身体サミット」を行った4月4日以来、別れの儀式を何度となく繰り返してきた。
 それ以上の言葉は、二人の間には要らなかった。

 野口体操と野口三千三と羽鳥を三十年間、朝日カルチャーセンターで見続けてくれた。
 よい距離感で、関係を持ち続けてくれた。
 なのに住友ビルを出るときも、午後の授業を終えて帰宅してからも、特別な思いは浮かばなかった。

 ところが今朝になって、心のうちに動くものを感じた。
 正体を探ってみる。
 ひとつの区切りが、私のなかでもついた安堵感に違いない。
 とりわけ没後十年、そばに彼女がいてくれたことで、どれほど支えられていたのかが、今日からの不在が教えてくれた。
 これまでだって、幾度となくそう思っていた。
 しかし、現実感をもって‘そう思える’のは、七月朔日、今日のこの日だ!

 昨日、帰宅したときテーブルの上に置かれていた彼女からの手紙を読みかえした。
 
《 春秋三十五年 歩々清風 》
 
 退職挨拶状の最後に記されたこのことばに、立ち葵の姿を重ねてみた。
 この先も凛として歩かれるのだろう。
 
 衷心より感謝を申し上げたい。
 そして、今日が、新たに自由なお付き合いが始まる記念日。
 もう一度記す。
 
 七月朔日 夏
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