【嵐の室津港】


10月24日(日曜日)



岩国から車で1時間ほどかけて上関町まで行く。
沿岸を走って行くにつれて海の色が青く透き通ってくる。
安芸灘を越えて、柳井市を抜け、対岸の屋代島と平行する瀬戸内らしい穏やかな海に沿ってさらに半島の先へ。

天気は曇天、時々雨。
現地へ着いて車を降りると、もはや小嵐の態をなす風雨の中、集った1000人近い人々が車やテントの下に避難して様子を伺っていた。

いたって淡々と、予定の広場の向いにある公民館を臨時の会場として、集会は始まって居た。


7月に上関町の先端の離島である祝島を訪れてから、この島の人々の暮らしに、それまで考えていた人類の在るべき暮らし方と大きく符号する波長を感じ、それを慈しむ想いすら生じて来てからというもの、劇的に加速した「環境意識」と「学習意欲」。そしてブチ当たるたくさんの壁、または日常的に連鎖する自分の暮らし方の矛盾。それらを踏まえてまた、理想主義的見地に空いた穴からざらざらと雑念をこぼしながら現実を注視し、たくさんの考えとフィーリングを、或いは価値観に、触れて勉強してきた。「勉強した」という意識すら希薄で、ただ切迫した「知りたい」という欲求と直感的な「知らなければ」という危機感だけが在った。知れば、知るほどに、日本という国家が今まさに抱えているひとつの大きな問題に行き着き、それらはまた「基地問題」「ダム問題」「教育問題」「日中問題」などへと分散されていった。


自分んちの海の3キロ沖合に原発が作られるー。
この切迫感と平行して、おおらかで穏やかなる自然との共生の日常を営みながら、反対派の人々は日本人の一般的庶民の誰よりもエネルギー問題を勉強してきた。勉強したという意識は、やはり、希薄であっただろう。ただ、真実が知りたくて、暮らしと誇りを護りたくて、知識の海へと振り返りもせずに漕ぎ出して行った気持ちだろうと思う。




雨のため、定員200人程度の公民館は、廊下や玄関まで、入りきれない人々で埋まっていた。


テレビカメラや新聞社の記者っぽい者も結構居て、地元ではニュースになるのだろう。
全国で何処までニュースになるかは、分からない。
二日前のCOP10本会議での議長発言は、国内マスメディアには黙殺された。






【飯田哲也氏のはなし】

雨に濡れた身体を気遣い合いながら、人々は公民館の床にひしめいていた。
いくつかの支援団体の挨拶があってから、
NPO法人 環境エネルギー政策研究所(ISEP)の所長である飯田哲也(いいだ・てつなり)さんが、講演を始めた。
飯田哲也 メッセージ

映画『ミツバチの羽音と地球の回転』や、いくつかのU-TUBE動画で拝見して、非常に明晰に、そして「元はあっちの側に居た者」と自認して、脱原発政策を唱える飯田氏がどんな話を上関でするのかに興味があった。

以下、メモ書きー

・一人当たりの電力消費/産業部門は欧米以上
CO2電力政策の失敗/20世紀型の重工業重視の経済構造が要因
だが、家庭単位の責任に落とし込むプロパガンダが横行している

・太陽光発電 30-50
フィンランド、六ヶ所など出来上がらない(稼働しない)施設、技術
コストがかかり続ける/1兆円越える
200コスト高くなる(全てが、電気料金に跳ね返るシステムになっている)

=原発は決して、「経済的」ではない

欧米先進国では、金融機関が原発事業にお金を出さなくなっている=出来ない
事故の責任などを明確にする法制度が進んでいる

=原発の抱えるリスクを社会が理解し始め、そのリスクに応じた社会システムが構築されてきた。(日本では、まだ社会が原発のリスクを実感していない)


世界的には、自然エネルギーが増加傾向

「エネルギー革命」

循環型再生エネルギーをめぐる新しい産業、金融
「第三の産業革命」の可能性




【僕が思うに】

世界のトレンドとしては、原発は明確に旧時代のものとみなされつつある。
石炭に戻ったほうがマシだというくらい、その抱えるリスクが大き過ぎる。
原発のリスクだけは、人智の範囲を超えている。
ましてや、危険すぎるプルサーマル計画を進行しようとしているのは今や、日本のみとなった。

化石燃料に頼る時代からの脱却を迫られた我々が、向かうべきなのは「省エネルギー」と「自然エネルギー」。

ただ国内では、フェアな報道がなされて居らず、世界的に「原発常識論」が優勢とされているかのような空気が漂っている。いや、その議題に関する雰囲気すら、漂っていないのかもしれない。

現状優勢なものを「黙認」することで「中立」を纏(まと)い、実質的には「消極的な推進派」と成る生き方を選択する人が圧倒的に多い。

当然、お金の流れも重要なファクターとなり、自然エネルギーではなく、原発のような「儲かる」エネルギー開発に金が大量に流れた。結果的に、それに依って生計を立てる膨大な数の人々の暮らしも抱える問題となっている。

税金も湯水のように注がれるこうした事業につきものの刹那的な増収に、獰猛な目を輝かせた衆も少なくないだろうが、より「信条」的に「原子力」を信じて人生を注いで来た技術者たちが居たとして、彼らの心情も現実も考える必要がある。

だから、「反 原発」と叫ぶことから、必ず生じる「信条の闘い」によって、民衆同士がボロボロに疲弊していくことを如何にして避けて運動して行くかということを、全体で考える方向へとシフトする時期が来ていると思った。



【賛成と反対で対立させられることこそ、経済的支配層の思うつぼ】

沖縄の基地問題に関してキナ昌吉氏と語った時、彼も再三繰り返していた。
「賛成、反対という二項対立に煽られたら、必ず問題が本質から逸れてしまう。」

COP10の環境活動家たちの会議でも「闘うことをやめよう」、「これまで闘って来た行政や開発、建設業界」と共に共通の目的を目指したダイアログを作って行く方向へとシフトしていく気運が強まっていた。

「闘うことをやめよう」

これは、凄惨な現場に何十年も当事者として居合わせた人々が、共通して抱く答えとなりつつある。

民衆同士が、小競り合いを繰り返している間にも、システムは着々と一握りの者たちに地球規模の富を吸い上げていく。

僕らが向き合わなくてはならない問題は、時空的に大きな視点でないと捉えられないものであり、それでいて「噂」のようにとりとめの無い姿をしている。その本質には気づきにくい。なぜなら、それは我々の暮らし方そのものが作り出す巨大な「構造」であり、我々全員がその「主観的な当事者」であるからだ。

自分のことは、己が一番よく知っていて、そして誰よりも分かって居ないものである。

気づいた人から積極的に探求し、発信し、顔を合わせ、ネットワークを作ることによって現状は瞬く間に変わって行く。何か、避けられない大どんでん返しの逆転劇の雰囲気に充ち満ちた野球場のような、確固たる時節の到来を僕は感じる。

例えば、自然を再生する事業こそが公共事業となる社会を求める声をあげて達成されれば、「ちぇっ」というような、掠めとられたような思いで納税をせずに済む。むしろ「頑張れよ」と信じて株を購入した企業や、賭けた馬を応援する気持ちで税金を払える。




(つづく)


その2


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