いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
眼鏡のはずし方.6
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
********************************************
眼鏡をかけるに至った理由。
はじめは多分、勘違いから始まったんです。
自分が誰なのかも、ここがどこかなのかもわからないような、そんな、物心がつく前からあった勘違い。
それは、「自分」と「自分から切り離された自分以外」が存在するという勘違いです。
すでに僕の記憶にはありませんが、赤ん坊の時、僕はどこかでこう思ったはずです。
「僕がいて、母がいる」
「抱いている者と、抱かれている者がいる」
「自分と、自分を取り巻く環境がある」
本当は切り分けることが出来ない一つのものであるにも関わらず、その繋がりを見失った瞬間、僕の頭の中に「分離」が芽生えました。
その「分離」という勘違いが生まれると同時に「恐れ」という概念が生まれます。
「自」を「他」から守る必要が生まれたんです。
その不安が、その後の人生で沢山の眼鏡をかけていく原動力となるわけですが、その説明に入る前に…
まずは、この『本当は切り分けることができない一つのものなのに、それを複数に分離してしまう』という思考のクセを、「虹」を引き合いに出してお話してみます。
「虹は何色?」
そんな質問を投げかけると、おそらく多くの日本人の「思考」はこう答えると思います。
「7色です」と。
その象徴的なイラストがコチラ。
太陽の光が空気中の水滴によって屈折、反射されるときに、水滴がプリズムの役割をするため、光が分解されて7色の帯に見える、という「知識」に基づいて描かれた一枚です。
でもこれはね、現代人的な眼鏡を通して描かれたイラストなんです。
というのも、本物の虹は「7色」じゃないから。
ね。
パッと見、たとえば「3色」って言ってもいいじゃないですか。
「答えようがないよ!」って言う人もいます。
だって元々は分離できない「グラデーション」なんだもん。
《マメ知識》
日本では「7色」が定着してるけど、ドイツでは「5色」、スウェーデンでは「6色」が一般的なんだそうです。
その捉え方は地域や民族・時代によって大きく異なります。ここ日本でも、昔は「5色」が一般的だったそうですよ。
じゃあなんで日本では5色が7色に変わったのか。
それは、イギリスの物理学者・アイザック・ニュートンがスペクトルを発見した時につくった概念を輸入したからなんです。
ニュートンが、スペクトルの説明をベースに「虹の基本色は、赤・黄・緑・青・すみれ、橙、藍であり、その中間に無限の変化がある」と言う風に言ったのが「虹は7色」の始まり。
で、この「7」ってのも、実は視覚的なことじゃなくて「音階(ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ)」の数に合わせて決めたものなんですって。
…
そんなトリビアはさておき。
人間はこのように、真実に「思考(レッテル)」というモザイクをかけては「グラデーションの中間」を省き、事物を分離して捉えてしまうんです。
本来あるはずの繋がり(中間調)を見失ってしまうことによって、そこに「境界線」が生まれ、アレはアレ、コレはコレ、と言う風に全てがバラバラに分解されてしまいます。
見るもの全てにモザイク(思考・概念)が掛かっていますから、すべてが不明瞭です。
不明瞭だから、似て非なる物の見極めがつきません。
そのため不用意に傷つくことも多くなります。
そしてまた新たな不安に出会います。
同じ事で傷つくことがないようにと、過去を記憶し、未来をシミュレーションします。
そうしてまた思考の上塗りです。
僕が傷ついたのは、目の前がちゃんと見えないからだ。
鮮明な世界が見えるよう、眼鏡をかけなくちゃ…。
やれやれ。
そんなこんなで、アダム(僕)は、知恵の実を食べたことで(思考・概念を取り入れたことで)、エデンの園(ワンネス)から追放されてしまいました。
←見失うことがありませんように。
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眼鏡をかけるに至った理由。
はじめは多分、勘違いから始まったんです。
自分が誰なのかも、ここがどこかなのかもわからないような、そんな、物心がつく前からあった勘違い。
それは、「自分」と「自分から切り離された自分以外」が存在するという勘違いです。
すでに僕の記憶にはありませんが、赤ん坊の時、僕はどこかでこう思ったはずです。
「僕がいて、母がいる」
「抱いている者と、抱かれている者がいる」
「自分と、自分を取り巻く環境がある」
本当は切り分けることが出来ない一つのものであるにも関わらず、その繋がりを見失った瞬間、僕の頭の中に「分離」が芽生えました。
その「分離」という勘違いが生まれると同時に「恐れ」という概念が生まれます。
「自」を「他」から守る必要が生まれたんです。
その不安が、その後の人生で沢山の眼鏡をかけていく原動力となるわけですが、その説明に入る前に…
まずは、この『本当は切り分けることができない一つのものなのに、それを複数に分離してしまう』という思考のクセを、「虹」を引き合いに出してお話してみます。
「虹は何色?」
そんな質問を投げかけると、おそらく多くの日本人の「思考」はこう答えると思います。
「7色です」と。
その象徴的なイラストがコチラ。
太陽の光が空気中の水滴によって屈折、反射されるときに、水滴がプリズムの役割をするため、光が分解されて7色の帯に見える、という「知識」に基づいて描かれた一枚です。
でもこれはね、現代人的な眼鏡を通して描かれたイラストなんです。
というのも、本物の虹は「7色」じゃないから。
ね。
パッと見、たとえば「3色」って言ってもいいじゃないですか。
「答えようがないよ!」って言う人もいます。
だって元々は分離できない「グラデーション」なんだもん。
《マメ知識》
日本では「7色」が定着してるけど、ドイツでは「5色」、スウェーデンでは「6色」が一般的なんだそうです。
その捉え方は地域や民族・時代によって大きく異なります。ここ日本でも、昔は「5色」が一般的だったそうですよ。
じゃあなんで日本では5色が7色に変わったのか。
それは、イギリスの物理学者・アイザック・ニュートンがスペクトルを発見した時につくった概念を輸入したからなんです。
ニュートンが、スペクトルの説明をベースに「虹の基本色は、赤・黄・緑・青・すみれ、橙、藍であり、その中間に無限の変化がある」と言う風に言ったのが「虹は7色」の始まり。
で、この「7」ってのも、実は視覚的なことじゃなくて「音階(ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ)」の数に合わせて決めたものなんですって。
…
そんなトリビアはさておき。
人間はこのように、真実に「思考(レッテル)」というモザイクをかけては「グラデーションの中間」を省き、事物を分離して捉えてしまうんです。
本来あるはずの繋がり(中間調)を見失ってしまうことによって、そこに「境界線」が生まれ、アレはアレ、コレはコレ、と言う風に全てがバラバラに分解されてしまいます。
見るもの全てにモザイク(思考・概念)が掛かっていますから、すべてが不明瞭です。
不明瞭だから、似て非なる物の見極めがつきません。
そのため不用意に傷つくことも多くなります。
そしてまた新たな不安に出会います。
同じ事で傷つくことがないようにと、過去を記憶し、未来をシミュレーションします。
そうしてまた思考の上塗りです。
僕が傷ついたのは、目の前がちゃんと見えないからだ。
鮮明な世界が見えるよう、眼鏡をかけなくちゃ…。
やれやれ。
そんなこんなで、アダム(僕)は、知恵の実を食べたことで(思考・概念を取り入れたことで)、エデンの園(ワンネス)から追放されてしまいました。
←見失うことがありませんように。
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なぜそういえるのでしょう?
切り分けることのできない実質とは何でしょう?
私の体とあなたの体は別物です。
私が空腹の時にあなたが食事をしても私の空腹は充たされません。
切り離せないその正体が不明である限り、このような議論はほとんど意味がないように思えます。
先がとても楽しみです。
これから師走に入りますますお忙しいでしょうが、メガネシリーズ頑張ってくださいまし。
無理はなさらぬ程度に、でもちょっとだけ無理して頑張ってください!(祈)
今後の展開が楽しみです。
今「真我」の話を勉強中なんですが、この話もそこに行き着きそうでワクワクです。
人間3歳くらい?で自我が芽生え、それ以降がチンパンジーと大きく違ってくところであると何かの本で読んだ事があり、すごく納得でしました。
「守る」って何なのかな~って
傷付こうが傷つかまいが実は守られてるって思う
守られてるんだから自分で守る必要などないと
ちょっと逸れるけど
保身に走ってる時って、大抵、人はおかしな行動をとるよね
ご回答はいただけてませんが、過去記事とコメントを調べていたら、自己解決した気がしました。
エックハルト・トール氏の著書を読み、このブログを読んでいると、黒斎さんがどれほど親身になって(つまりは愛ですね)、様々な喩え話を提示されているかがよく分かります。
トール氏も黒斎さんも阿部さんも、古今東西、言いたいことはたった「ひとつ」なのに、言葉を尽くして伝えようとしていらっしゃる。
コメント欄に書かれる多くの読者さんの言葉も含め、ただただ感謝するのみです。
今日もわかりやすい話をありがトン!(⌒(oo)⌒)
私は、こんな風にも思います。
アダム(僕)は、知恵の実を食べたことで(生物として身体を手に入れたことで)、エデンの園(ワンネス)から追放されてしまいました。
私たちの身体は、理解すればする程とても素晴らしいシステムで、無意識に私たちの身体を生きている状態に維持してくれています。
他の生物に捕食される(えさにされる)心配がなくなったのだって、長い歴史から見れば最近の事です。
免疫系でウィルスからも守ってくれるし、とにかく私たちの身体を力強く守ってくれます。
無意識の行動も、本能由来が多いですし。
自分の思考で物事を選択したつもりでも、実は本能由来の無意識に振り回されていることだって沢山あります。
人間の場合、社会的生命というのも絡んでくるので、より複雑です。
私たちが生命を維持する為には不可欠な素晴らしくありがたい機能なのですが、「いまここ」「ワンネス」面から見ると、困った事になってしまう訳ですね。
頭(理屈)で理解しようとすると、とてつもなく奥深い世界なので、
やっぱり、黒斎さんや阿部さんお薦めの、感じる事が大事だと思います。
「発見」だと思っていたものが、「勘違い」だったって訳ですよね^^
でも、なぜ勘違いしちゃったんだろう?
肉体を持っているから・・・
でしょうか。
「自分」と「自分以外」とを分け隔てる分離、本来無いはずの境界線を持ち込むことが様々な問題を作りだしている。
確かにそのようです。
だからこそ
「自分」と「メガネ(自分以外)」とを分け隔てることが既に問題の一端であり、分離を作りだしています。
「メガネを外す」ことが新たなメガネをかけることであり、「本当の自分」というのもまたメガネです。
しかし
「”メガネを外そう”とすることこそがまさにメガネの働きだ」と気が付いた時、「全てはメガネだった」「メガネしかなかった」ということに同時に気が付きます。
そして
「メガネしかない」ということは、「メガネ」と「メガネをかける人」の分離はそもそも存在しなかった、という気付きを私たちにもたらします。
分離がない時、「外すべきメガネ」も「メガネをかける人」も消失します。
「分離がない」とは「差がない」ことであり「差取り」とも言うようです。
何事も邪魔にならなくなるようです。
何度もすみません…
どうしても小倉さんのゆっていることがよく分からないのです…
>「自分」と「メガネ(自分以外)」とを分け隔てることが既に問題の一端であり、分離を作りだしています。
とありますが、「メガネ」は「思い込み、思考、暗示、洗脳」とゆうことですよね。
そうすると自分=思い込み、暗示、洗脳とゆうことになるのでしょうか…?
>「”メガネを外そう”とすることこそがまさにメガネの働きだ」と気が付いた時、「全てはメガネだった」「メガネしかなかった」ということに同時に気が付きます。
ここがよく理解できません…
実際現実には「分離していると思い込んでいる」人がたくさんいると思うのです。
その人たちの存在じたいが「全てはメガネだった」とゆうことでしょうか?
なんとゆうか、小倉さんおおっしゃることは分かるんですが現実的ではないとゆうか…
黒斎さんの説明はとてもよく分かりますし、なるほどと納得できるのですが…
「現実的なところ」、思い込んでいる人に対して「どうするのか」がよくわからないのです。
「分離」とゆうこと、それはメガネですよ、外しましょうね、と言えば理解できます。
あぁもともと分離なんてなかったのに、思い込みのメガネをかけてしまって「分離した」と思い込んでいたんだな、と。
けれども「分離」が問題だけれども、「メガネを外す」ことが新たなメガネをかけることであり、「本当の自分」というのもまたメガネ。
結局全てメガネ。メガネしかない。自分もない?
ではどうすればいいのか?と思います。
そこで「全てメガネだから分離はないんだ」と気付くことすらできないと思います。
自分自身の存在すらメガネでは…
1回目に沸いたイメージをどなたかが先に言ってないかとコメントを検索でチェックして
「よし誰もネタにしてないなっ!!」と思って意気揚々と文章を考えてたのに
ここに来て"虹"と"プリズム"のネタを黒斎さんが用意していたとはっw
0次元のハエが頭の上でブンブン言ってたら邪魔臭いけど、目の前にいたら追いかけたくなりますよねぇ・・・。
(↑くやしいから「X=0」を代わりのネタにしてみた)
私の覚えている記憶の中を振り返ればですけど、生後6ヵ月の時には自分と他人の区別を感覚でつけていました(^^;)
生後3ヵ月位の頃はそういう感覚抜きで、周りを観察してました(*^^*)
あくまでも私の記憶なので、参考になれば(^_^;)
俺のイメージは0次元の"点"なんですけどねー。
これはとてもよく分かりますし、そう思います。
この結論は前から言われていることですし…
どこででも聞きます。
けれども「分離がないとき」と一言でゆってしまうのは簡単です…
現実問題、どうやって分離がないときになるのか
何をもって分離がないときとゆうのか
どうして分離していると思っているのか
「今」にいられない人たちはなぜ
「今」にいられないのか…
それをゆっているのだと思うのですが…
うまく説明できなくてすみません…
小倉氏の言うことはある意味現実そのものですよ
だとすれば、この「眼鏡の外し方」の記事じたい間違っていて、意味のないものになってしまうと思うのですが…
あなたの自我はそのままの現象です。
つまり現実です。
あなたにも喜怒哀楽があるでしょ?
やさしかったり怒ったりするでしょ?
つまり自我とは現象体であり、実在するものではないのです。
小倉氏が
>「メガネを外す」ことが新たなメガネをかけることであり、「本当の自分」というのもまたメガネです。
このようにいわれるのは、あなたの自我という現象であるところの現実から離れ、なにか架空なものを追いかけること自体が、幻想の上乗せだといいたいのではないですかね?
>だとすれば、この「眼鏡の外し方」の記事じたい間違っていて、意味のないものになってしまうと思うのですが…
物事はとりようです。
ただ俺は眼鏡をかけているんだと思うことも眼鏡でしょう。
自我という現象は現実の現象ですが、実在ではありません。
つまりそこには「本当の自分」も「偽者の自分」もないでしょう。
通訳不可能性がでるのも仕方ないことなんでしょうね~。
「0」と「1」の状態を同時に持つことができる量子コンピューターが誕生したら、ブログでの通訳不可能性を解消できるかもしれませんね!
ので。
私もLaLaさんに負けないように誠実に書いてみようと思います。
>黒斎さんの説明はとてもよく分かりますし、なるほどと納得できるのですが…
私たち、「分かりやすい説明」「納得しやすい説明」が大好きです。
でも。
「分かりやすい」というのは、「今までの自分の知識・経験」に照らし合わせて「分かりやすい」ってことです。
「今までの自分の知識・経験」ってLaLaさん言うところの「思い込み・思考・暗示・洗脳」つまり「メガネ」のことです。
要は私たち、自分のメガネにかなうものを「分かりやすい」「納得しやすい」と言っているのではないでしょうか。
結局「自分にとって分かりやすいものを好む」と言うのも「メガネの働き」です。
>「今」にいられない人たちはなぜ
>「今」にいられないのか…
「”今にいられない”という思いを抱いていること」が「その人の”今の様子”」です。
「今にいられない」という思いのままにきちんと「今」にいます。
誰も「今」から外れることなどできません。
潔く引っ込みましょう
ではメガネをかけているとゆうことがメガネなのでそれを外そうとしなくてもいい
とゆうかメガネの存在に気付くこともしなくていい、
どんな思い込みがあったとしても
その思い込みが思い込みで
マトリックスの住人もみんな
「今」にいるので
何も気付かなくてもいい、何もしなくてもいい、とゆうことなのでしょうか?
コメントの各行の前や、端々に、「思考の中では」や「思考の中に限っては」などの意味の文を追加しながら読むと、お二人が何をコメントされているかを理解しやすいかな。と思いました。(^^)
そういう意味(思考の中においては)ではおっしゃる通りな気がしますが。。。
例)
>つまりそこには「本当の自分」も「偽者の自分」もないでしょう。
↓↓↓↓↓
思考の中において、つまりそこには「本当の自分」も「偽者の自分」もないでしょう。
決して
>思考の中において、つまりそこには「本当の自分」も「偽者の自分」もないでしょう。
ではなく
現実に、「本当の自分」も「偽者の自分」もないでしょう。
と考えております。
あるのは条件によって変化している自分という現象です。嘘も本当もありません。
自分自身もこうなっていないかどうか、この真実の美しさをうたがっていないかどうか、自覚できるようになりたいって思いました。
「このblogの趣旨」で書いた通り、このblogは、(いまだ漂白仕切れていない)僕にとっての「勉強」なんです。
ですから、僕は、「先生」にはなれません。
何度も書いているとおり、このblogで僕は、「答え」を示せないのです。
でも、僕が勉強している「ノート」をお見せすることぐらいなら出来ます。
ただ、僕の勉強が、どの程度の物なのかは、自分でも分かっていません。
「ノート」に書かれていることが、真実に沿っているかも分かりません。
そのぐらいのスタンスで書いているblogです。
それでも、僕のクラスメイトでいてくれるのならば、一緒に勉強させてください。
そして、できることなら、皆さんのノートも、僕に見せて欲しいのです。
僕が、僕の魂を、さらに「漂白」出来るように。
これからも、どうぞよろしくお願い致します。
<(_ _ )>
>>早く答えを教えろゴラァ! とばかり言っていた
自分が恥ずかしいです。やっぱりダメ親父でした orz
真面目なコメントが多いのに
ふざけててすみませんすみません
>「自分」と「自分以外」とを分け隔てる分離、本来無いはずの境界線を持ち込むことが様々な問題を作りだしている。
つまり
「自分」と「メガネ(自分以外)」とを分け隔てることが既に問題の一端であり、分離を作りだしている。<
この自分で犯している矛盾に自分自身で気が付いてゆくこと。
そこからしか出発できないようです。
そして
私たち皆がこの場で試みていることは、「メガネを外すこと」もさることながら
「世界と仲直りすること」
「自分の人生と仲直りすること」
「自分自身と仲直りすること」
つまり
「今と仲直りすること」
その事に尽きると思うのです。
んー。LaLaさん、やっぱり。
>「自分」と「自分以外」とを分け隔てる分離、本来無いはずの境界線を持ち込むことが様々な問題を作りだしている。
つまり
「自分」と「メガネ(自分以外)」とを分け隔てることが既に問題の一端であり、分離を作りだしている。<
この自分で犯している矛盾に自分自身で気が付いてゆくこと。
そこからしか出発できないようです。
そして
私たち皆がこの場で試みていることは、「メガネを外すこと」もさることながら
「世界と仲直りすること」
「自分の人生と仲直りすること」
「自分自身と仲直りすること」
つまり
「今と仲直りすること」
その事に尽きると思うのです。
何度投稿しても尻切れトンボになって、うまく全文投稿できないようです?
LaLaさんすみません。
私たち皆が、ここで試みていることは、「メガネを外すこと」もさることながら
「世界と仲直りすること」
「自分の人生と仲直りすること」
「自分自身と仲直りすること」
つまり
「今と仲直りすること」
このことに尽きると思うのです。
そのためにも
「自分」と「自分以外」を隔てる境界線が元々存在しないことを自分自身で見破ってゆくこと、このことがとても大切になります。
黒斎さんの 虹の見え方のたとえも、
小倉太郎さんのコメントも、
自分なりに感じてみました。
漠然としていたものが すこしずつ実感を伴ってきたように感じています。
ありがとうございました(^^)
空は青くて葉は緑
よくよく考えると境界線をつくっているのは人だけでは無いですね
動物も植物も物体も無意識的に境界線をつくってるように思います
>Unknownさん
>つまり自我とは現象体であり、実在するものではないのです。
>現実に、「本当の自分」も「偽者の自分」もないでしょう。
この文章を見た時に言葉では言い表せない事を感じました、これがアハ体験ってやつか……
身体も食べたものも、水も空気も有機物も無機物も目に見えないものも全部ぜーんぶバランバランに分解してったら、この世はただの原子がいっぱいあるだけみたいになりゃせんだろか?
そのつぶつぶがいっぱいあって、時と場合で集まったら何か(生き物とか)になっとるように思とるけど、実は全部つぶつぶやもんねー。。。
>「自分」と「メガネ(自分以外)」とを分け隔てることが既に問題の一端であり、分離を作りだしている。
これも理解できます。
ですが実際、私は今も分離を感じていますし
境界線があるように感じています。
どんなに「一つだ」とゆわれようと
その実感がわきません。
それが「問題だ」とゆうのも分かっています。
ですが私が知りたいのは、「ではどうすればよいのか?」とゆうところです。
>「今と仲直りすること」
とゆうことは、結局黒斎さんと同じことをゆっているのですね。
小倉さんは
>自分」と「メガネ(自分以外)」とを分け隔てることが既に問題の一端であり分離を作り出している。
…
「メガネをかけている私」も「メガネ」も「本当の自分」もない(全てメガネだ)、
分離はなく「今」しかないんだとおっしゃっていましたが、
ここで「仲直り」とゆう言葉を使っています。
仲直りするには「仲直りする相手」が必要です。
「私」と「今」が仲直りをするとゆうことですね?
では結論としてはやはり、「私」は「今」にいられていないので、
「私」と「今」が「分離している」(とゆうメガネをかけている)ことを認めることになりますが…
>「自分」と「自分以外」を隔てる境界線が元々存在しないことを自分自身で見破ってゆくこと、このことがとても大切になります。
私が知りたいのはその「見破りかた」なのです。
今何も知らないで苦しんでいるひと(これは私のことです)に
「君は分離していないんだよ。境界線が存在しないことを見破りなさい」
とゆっても分からないですよね。
たとえその人が「じゃあそれを見破ってみよう」と努力したところで
ああ、この机と自分の境界線なんてなかったんだ、なんて、すぐに見破ることはできません。
(私もできませんでした)
だって最初からそのような「考え方」になってないからです。
「今と仲直りをすることです」と結論を言われても、戸惑うだけなのです。
私が知りたいのはその「あいだ」なのです。
なぜ分離したと思ってしまったのか
「今」にいられないのはなぜなのか。
小倉さんは「「今にいられない」という思いのままにきちんと「今」にいます。
誰も「今」から外れることなどできません」
とおっしゃっていましたので、やはり「今と仲直りする」必要なんてないとゆうことですよね?
小倉さんのおっしゃっていることはそれらしいけれども、肝心なところで「納得ができない」「腑に落ちない」のです。
結論だけなら、誰でも言えます。
私でも言えます。
本当は分離なんてしていない。
みんな一つの存在だ。
境界線なんてないんだ。
過去も未来もなく「今」しかないんだ。
ですが納得はできません。
私が知りたいのはなぜ自分は分離を感じているのか
今しかないと思えないのか、なのです。
それを「メガネ」シリーズで例えられてはじめてなるほど、と納得できました。
アハ!となったんです。考え方を変えるにはこのアハ!が必要です。
そのおかげで少し霧が晴れた感じがするのです。
ですが、小倉さんはすべて「メガネ」、「分かりやすい」と感じたのもメガネとおっしゃったので
大変混乱しました。
おっしゃりたいことはよく分かります。
結局は黒斎さんと同じことなんだと思います。
理解力と表現力と文章力の問題なのかもしれません。
小倉さんを攻撃しているわけでも揚げ足をとっているわけでもありません。
そう感じられたら申し訳ありません。
ただどうしても自分が納得できない部分がありましたので、書かせていただきました。
ありがとうございました。
メガネをかけているとゆうことがメガネなのでそれを外そうとしなくてもいい、何も気付かなくてもいい、何もしなくてもいい、
という意見について。
多分、すごい覚者なら何もしなくてもある時一気に「全ては今ここなんだ!」と全ての眼鏡を外せるのでしょうが、凡人には一つずつくらいしか外していけないのかもしれない、と私は最近思います。
覚醒は徐々に進むものではない、という話もありましたが、それは、真の覚醒に関してで、それまでは、
あっこんな眼鏡をかけてたよ、と何か目が覚めたような気がする、けどまた眠り込む、また次の気付きが来る、段々自分の間違いどころやそれを解消する勘所がつかめてくる、・・・とある時、「個々の問題は別々ではない、全ては今ここだったんだ!」と見えてくる・・・んじゃないかな、と。
つまり、我々がかけている眼鏡は大きな目で見れば一つなのかもしれないけど、「今」と離れている人間レベルで言えばいくつも眼鏡をかけているように思えてて、その段階をすっ飛ばして大きな視点レベルに到達しよう、というのは大抵の人間にとっては難しい、だから日常レベルで捉えられる、いくつもあるように見える眼鏡を一つ一つ外すことから始めようよ、ということで内観とか瞑想が薦められているんじゃないかな、と思うのです。
やっぱり、気付かないものを外すことはできませんしね!
まあとにかく、小倉太郎さんがおっしゃる通り、「今と仲直りすること」このことに尽きる、その通りですね!
言葉でどうこう言おうと、自分が自分の人生に、世界に、許されていない、受け入れられてないと感じるなら、やっぱり何かした方が良いのではないかと愚考します。
オラさんの書かれてたこと、私も時々思います。
何か食べたから太っただの、痩せただの言ったって、全部原子なんだよなー、原子の塊の中を原子の塊を通過しただけで、なんで太っただのなんだの、ってことになるんだろう、と不思議な気持ちがします。
でもまた日常レベルの意識に戻ってしまうんですけどね。
もっと大きな視点で生きられるようになりたいです。
私のコメントはオラさんの投稿までのコメントに関しての感想なので、最新のLaLaさんの投稿には合ってなかったかもしれません。
でも一応投稿しちゃったんで、何かの参考になれば幸いです。
ただ「観念等のアリ地獄」状態と
なってはいけません・・。
今回の虹の例え話、
すごくわかりやすかったです♪
また次の記事も楽しみですが、
あまり無理のない範囲で
更新していってくださいね。
小倉さんもすみませんでした。
分かりにくいコメントを書いてしまったきがします。
私の伝え方が悪いために
言いたいことが伝わってないきもします。
もうちょっと考えてみます。
みなさまありがとうございました。
黒斎さんですか?
それともHN (黒斎さんへ)さんですか?
黒斎さんだとすれば、コメントのすべて、
黒斎さんへさんだとしても、最後の二行以外は、
黒斎さんのお言葉(の引用)ということですよね。・・
ごめんなさい!変な質問で・・。汗。
探してみたけれど、その文章が見つからなくて、
自分で、どこからの引用か、確認できなかったものですから・・・。
上の質問にたいした意味はなくて、
その文章が黒斎さんのお言葉だとすると、改めて、
「そうなんだぁーーーー(^o^)」と気づきましたので・・。
ああ、なにをくどくど書いているんだか・・・私・・汗汗
すみません!
・・・
メール欄があればうれしいかな。
Unknowさんのコメントを読んでると、
自分の顔以外は海に浸かってる、という
状況が浮かびました。
つまり、自分が顔だけ出してアレコレ考えてるけど、
実はそれ以外の全身は、ちゃんと今に浸かってるんだよ
という感じかなぁ・・・。
『自我は波という現象に過ぎず
大海が真我(本体?)』
っていう例えが元にありますが。
黒斎さんの日記と関係なくてすみません。
引用元の文章はこの辺。
↓
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/02959b71737a010af8152f0b82d17646
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/d0c98aaf2e6af956dccedbaeba234962
黒斎さんは積極的にメガネを外すことで課題に近づけるといい、
小倉太郎さんは課題を見失わなければ自然にメガネも外れるのだと言っている。
…のかな?
黒斎さんはメガネを「初めは勘違いからつけた」と表現しています。でもそれはあくまで便宜上そう表現しているだけだと思いました。
ほぼ100%の人が赤ちゃんの時メガネをかけてしまうなら、それは勘違いではなく、もはや「必要条件」なのではないでしょうか?この世で生きていくため、自分を漂白するために、必要な条件。
まずメガネかけてなきゃ、メガネの外し方(=漂白)なんて勉強できないもの。
ネオが目覚めたのだって(今更マトリックス?!)初めは仮想現実にいたからです。仮想現実にいることが、目覚めの最低条件です。のっけから真の現実世界にいたら、わざわざ目覚める必要はないですもんね。
メガネ、とはこの世を修行の場にするためのアイテムなのではないでしょうか。マトリックス的にいえば、この世を仮想現実化させるための、アイテム。
だからこそ、確認すら容易にできないんだろうな、と私は思っています。
うまく文章にできていませんが、現在の私にはこの程度にしか表現できませんでした………。
伝えきれずに、もどかしいです。
大海が真我(本体?)』
自我はその都度の現象なので現実そのものです。
思考の中にこそ「本当の自分」「偽者の自分」を観念することが可能です。
現実そのものなので、偽も本当もありません。
仮に本体なるものがあるとしても(私は否定的ですし、本体の意味が不明)それが固定された実体ならば、私達はそれと関係を持つことは不可能でしょう。
私達の自我という現実とは無関係に存在するものということになります。
本体が変化する現象ならば、本体と自我を分ける意味がありません。
どのみち本体なるものを想定することは無意味です。
「私は目覚めた」という記憶を持つ自我があったり、「私は迷っている」と考える自我があるだけでしょう。
我々が改善できるのは自我のみであり、固定された実体としての本体には何をどうやっても指一本触れることができないはずです。
仮にそのようなものがあればの話ですが。
>「私」と「今」が仲直りをするとゆうことですね?
ちゃう!!
「今」が「今」と仲直りするんです。
実際のところ、「今」が「私」という形で「今」自身を表現しているんです。
「なぁんだ、”今”と”今”なら仲直りする必要なんてないじゃん」と気付くこと
「仲直りするまでもなかった」と気付くことが
ここで言う「仲直り」です。
>ですが私が知りたいのは、「ではどうすればよいのか?」とゆうところです。
>私が知りたいのはその「あいだ」なのです。
んー。
どんなに探しても「あいだ」は見つかりません。
私たちはいつだって「結論」、つまり「今」にいます。
いつだって「結論」の中にいます。
「結論」が出ているのですから「ではどうすればよいのか?」には、もう出る幕がありません。
もう既に「今」にいるのに、これから「今」に辿り着くことなんて誰にも出来ません。
もう既に「今」にいるのなら、「今」に辿り着くまでの「あいだ」も、ありません。
>ですが納得はできません。
この「納得できない」という気持ち、とても大切だと思います。
「納得できた振り」をしないこと。
「納得できない」この気持ちを誤魔化さないこと。
それだけが、指針です。
>私が知りたいのはなぜ自分は分離を感じているのか
>今しかないと思えないのか、なのです。
>もうちょっと考えてみます。
どうせ考えるなら。
思いっきり「今」を探してみる。というのもお勧めです。
全身全霊を込めて「今」を探すんです。
「一体、”今”って何なんだ!!」って。
必ず、必ず!!思わぬ形で見つかります。
なぜなら「今」が「今」を探しているのですから。見つからないはずがありません。
そして
「今」が「今」に落ちついた時、境界はありません。
それは
「メガネ」が「メガネ」に落ちついた時でもあります。
時にはメモをとってみたりして
これからもお邪魔させていただきます
こくさいさんペースでぜひ続けて行って下さい
早速行ってみました。
過去ログは、以前、最初から読んだはずなのですが、
新鮮というか、
「うわ~、私が質問したこと、ここにかいてあるやん~」と。。汗。
これまでなにを読んでいたんだか。。>自分
また、ゆっくり読み返してみたいと思います。
本当にありがとうございました!
私たちに「好き・嫌い」をもたらしているものが「メガネ」でした。
しかし
「メガネは自分にとって都合の悪いものだから外そう」というのでは
結局、
「メガネ」を「好き・嫌い」しているということになります。
つまり
「メガネ」に対し「好き・嫌い」を言っている「もう一つのメガネ」がそこに生まれた、ということになります。
なので
「好き・嫌い」を解決するために「好き・嫌い」を用いるというのでは、問題の解決は先送りされるばかりです。
つい。私たちは「自分にとって都合の悪いものを外そう、遠ざけよう」としてしまいがちですが、本来私たちには「自分にとって都合の良いものも、悪いものも、等しく受けとめてゆける智慧」が備わっています。
その智慧に気付いてゆくことは、「自分にとって都合の悪いもの(例えばメガネ)を外そう、遠ざけよう」とすることとは全く別種のことです。
そして
その智慧に気付いてゆくこととは、結局、「今」に気付いてゆくこと、になるようです。
直接お返事できなかった方々、お付き合いいただきありがとうございました。
大海が真我(本体?)』
(本体?)というのはこれの前に書いた
海の中に浸かってる顔以外の部分、
というイメージが残っていて
書き足してしまいました。
意味不明になってしまって、ごめんなさい。
でも、丁寧にコメントつけて頂きまして、
どうもありがとうございました。
こくさいはんはみえるんですか?
ご提示いただいた2つのブログは非常に重要ですね!
しかもこのブログの初っ端の
>※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblog
の趣旨」からお読みください。
をきちんと見たら、全部載ってるじゃあ~りません
か。。。あらら、私、今までさらっと流してました
・・・猛省!<(_ _)> <(_ _)> <(_ _)> <(_ _)>
なるほど、ここは確かに先生がいない教室ですね。
黒斎さんは、僕たちと“この世”と呼ばれる世界のし
くみを一緒に勉強するクラスメートですか。
ただこのスペースは、あくまでも黒斎さんが提供する
場所ゆえ、初っ端のポイント(つまりごくごくゆるい
ですけどルールみたいなもの?)を見過ごしていた
私、クラスメートとは言うものの、そのあたりのマナ
ーに欠如しておりました。。。
ふじこーさんにご提示いただいた2つ目のブログに、
>「理解していないものは、伝えられない」
との文がありますが、ほんとハッとさせられます。
「月を指し示す指」に囚われると、しまいに自分自身
で何言ってるのかわからんようになるんです私・・・
今後とも気をつけたい、と思うんですが、実生活では
とてもとても・・・
ps.もちろん黒斎さんにもありがとさん!
それにしても2年前の黒斎さん、なんとまあ、
真摯で初々しですなぁ~(笑)
いまここって。
仏像のようなイメージというか。
今までそういうもの(仏像)がある理由が全くわからなかったのですが;
仏像っていまここなのでしょうかね・・。
(ふじこーさんが書かれていた過去記事に飛んでみて、そこから色々とコメントも含めて読ませて頂いた結果、少しだけいまここが何かに気付きました。
後は検索機能を初めて使ってみました。
過去記事って面白いですね。
無理に検索をしないでもいいのかも知れませんが…
「被害者」と「加害者」についての記事があったような気がしたので、被害者だと思う時加害者が生まれるような記事が。
そして私も被害者だと思う事により加害者にもなれると。
被害者である事が加害者でもある事のような。
まだその記事まで至っておりません途中なのですが
今引っかかっている(いた)事が被害者の事だったので。
自分が被害に遭っているような思い込みがあったのです。
ちなみにコメント欄とかでの話ではなくて、日常での話の事です)
書いている時はその事を書きたい一心で、その事(この記事の事と全く関係のない事を書いている事)に全く気付いて書いておりませんでした。
失礼しました。
上の発言も眼鏡の発言だったかも知れません。
ブレが生じてしまうと、自分のやった事や発言に自信が持てなくなると言うか。
徐々にぶれない方向へ向かって行っていると、自分を信じればいいのかな?
で、「いまここが仏像」ってどういうことですか?
何を悟られたんでしょうか。
私は「いまここ」とかが分からなくてもがいてます。
是非、参考にしたいので、もし良ければ貴方が思われたことを教えて下さい。お願いします。
ゼヒここを読んでみてください~!
「いまここ」http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/b85d84df1ed37dd1213146b6821021f9
お邪魔しました~!
まかろんさんへ
>私は「今ここ」に関する話なら誰が何書いても良いと思いますよ~。
ありがとうございます。
えっと後私の思った事ですか
そんな事を聞かれたのは初めてですので、ちょっとどぎまぎしてしまっております。
仏像というよりは、大仏さまの方が何となく思い浮かんだイメージだったのですが。
ただ大仏さまがそこに座っているような感じです。
私たち個人個人は、大仏さま全体の一つというか
う~ん、大仏さまはたまに中が空洞になっていてその中に入れる事がありますよね。
多分その空洞の中に在る?ような存在なんじゃないかな~と。
空洞で無くても別に外(外側か外身)でもいいんだと思いますが。
だからいまここというのは、大仏さまだと思ったのです。
私は私であって私で無い、大元がいる。
だから別にブレる必要はないような気がして。
多分大元はずっと座っているんだと思ったので。
安定していて、ブレずいまここにある。
そして、幸せとか不幸せとかもどっちかを認識(こうだと(これが幸せだ、これが不幸せだ等と))したとたんにどっちかも生まれたんだと思いました。
死も生もそんな感じで、どっちかを意識したらどっちかも生まれたのではないかな~と。
正しいも間違いも、これ(何か一つが)が正しいと思い込んだ時間違いが生まれ、争いも自分が正しいと思ったからこそ敵が生まれて。
そんな感じ何じゃないかと何となく思いました。
大元の存在を意識した時、あ…苦しまないでもいいのかもと感じました。
大仏さま(のようなイメージ)を感じていると、落ち着きます。
安定を感じる事が出来ます。
でもこれは私の何となく思っただけに過ぎないイメージですので。
何となくな事ですが、何かのヒントか何かになって下さったら幸いです。
まかろんさんへ、ありがとうございました。
「在る」というフレーズが思い浮かびました。
横槍失礼しましたー。
と言われますが、それは現代の日本だからなのではないでしょうか。
他人との比較
自己防衛
人間の度量をお金や地位で決める
法律と言う名のルールでがんじがらめ
ね!
たくさん眼鏡をかけてそうですよね。
以前
「未開の地の野蛮人が1番野蛮ではない」
と聞きました。
俺は「心に素直に動いたら、ある日突然『みんな(人も物も)一緒に感じられた』んです」
(伊勢神宮でした)
比較と言う名の眼鏡は太いフレームと厚いレンズになってますよ~。
あかげさんが「「在る」というフレーズが思い浮かびました」とおっしゃっておられましたが、さわらさんが教えてくれた黒斎さんの過去記事も正に「存在」というキーワードで捉えよ、というものでした。
まだ感覚的にピンときていないのですが、何度か読み直してみます。
ありがとうございました
子は親に依存している間は幸せなのではないかと。子が自分で自立を選び独り立ちするよりも早く親が子を離し自立させようとした時、見捨てられたような分離感が起こるのではと思ったのです。
ここで言われる分離とはまた違う分離感のように思いますが、いつか黒斎さんの言葉で依存について書いて頂けたら嬉しく思います。
何かに依存する形で得られる安心ではなく、もっと自分を信じられる安心が欲しいですね。
いつも有難うございます。
眼鏡のはずし方シリーズ、続きも楽しみにしております。(これも依存?)
頑張ってね♪
雲黒斎さん!
応援しています!
これからもウンコクサイ ワールドを
期待していますよ♪
1.目の前にあるあらゆるモノの存在をありありと感じること。
2.分離意識を持たない=何も区別(定義、境界線を儲ける)をせずに目の前のものを見ること
テレビの映像を見ているような感じで捉えてみると逆に分かりやすくなる気がしました。
テレビ画面上で映し出された2次元の平面の画像。
画像は色んな情報が溢れています。様々な色、形。
でもそれはスクリーン上の粒子がただ色を変えているだけ。
全てスクリーンという一体のもの。
この3次元世界は超リアルな五感付き360°スクリーンで、自分が今観ているものをありありとただ感じること。
「自分」というのもそのスクリーンに映し出された一つのことであり・・・全てが自分・・・
そういうこと・・・なのかしら!?
この全てにおいての‘存在’という感覚が全て自分ということ!?
自分も‘その他’の一つ!!
そういうことー!?
なのでしょうか・・・?
未熟ながら思っていることをつらつらと。
喜怒哀楽
状況に応じて言葉や表情や所作に現すものは変わりますよね。
「自分」は「自分」です
その意識を持つことは決して禁忌ではないと思っています。
でも「自分」と言う存在は
固定的なイメージで「自分」として存在し続けることが不可能なのだとも思います。
「自分」という存在をイメージしたとき
大概の人は鏡に映っている自分の姿を思い浮かべるのではないでしょうか。
でも、鏡に映っている「今」の自分は
「あの時」の「自分」を形作ってくれていた細胞達ではないのです。
そして喜怒哀楽があるように
肉体的な変化だけではなく精神的な変化も都度訪れるのです。
それは元々持っていたからこそ湧き上がるものかもしれないし
新しく湧き上がってきたものかもしれない。
何かしらのエネルギーが入ってきたからこそ訪れた変化である事は間違いないと思います。
だから俺は
俺は俺で在り俺では無いと思います。
矛盾的であり根本的には一緒なのかなと思うんですよね。
未熟ゆえまだ纏まっていませんが・・・w
カンドー、いつもいつもわかりやすく
お話してくれてありがとうございます。
めがね モザイク ばらばら・・・。
納得です。
ありがとうございます。
これでやっと黒斎さんのブログを読んだ気がしますよ。
(↑どうゆうこっちゃ)
私は不幸な人生と思うんですが、不幸の色眼鏡付けて遊んでいる
だけみたいな。。
自分でかけといてアワアワ言っているだけなので
自業自得というかw
メガネ外す方法は瞑想だけですかね?
2001年宇宙の旅という映画があって。
コンピューターという道具が暴走して主人公ピンチになる
映画ですが。
コンピューターが思考。主人公が本当の本人みたいな・・?
また、その色眼鏡のレンズはプロジェクターのレンズでもあるで
OKですかね!?
タイトルや氏名の欄に
「Unknwn」という単語をあちこちのブログコメント欄で目にします。
特にここのコメント欄は多いです。
どのような意味なのでしょうか?
また、これを使われおられるかたはどのような意図でお使いなのでしょうか?
そういうことでしたか~。
失礼しました!
「メガネ」には様々な種類があります。
それは・・・
「無知」メガネ。
「知恵」メガネ。
「幸せ」メガネ。
「不幸せ」メガネ。
「慾メガネ」「色メガネ」etc。
しかし・・・
最も「大事なメガネ」とは?
具体的ですみません。
この集団って眼鏡をボンドでくっつけられていて
そう簡単には外せないようです。
眼鏡をかけてしまっている私。
その眼鏡をかけてると、自分にとって「当たり前」とか
「当然」とか思うことには何の感謝も感動も生まれません。
ちょっと気づくとモザイクからアナログぐらいに景色は
見えますけど、鮮度はやっぱりいまいち。
更に気づくとハイビジョンぐらい鮮明さはありますけど
どんなに眼鏡越しにテレビの中の景色を見ても
実際の感動には遠く及びません。
眼鏡をはずして見えた景色ってどれほどの感動が
あるんでしょうね(笑)
あっ、すみません。
虹の写真を見て、その場所に立って本物を見たかった
と思ったもので・・・ただの呟きです(汗)