いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
不還向・不還果
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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先ほどこのブログを読み返してみたところ…
なんとまぁ、ちゃんとした記事らしい記事を書いていたのは、もう1カ月も前のことだったのね…
大変長らくお待たせしました。
いよいよ「悟りの階梯」のお話に戻りましょう。
これまでの話を振り返りますと、「四向四果」の説明から入りまして、それから「預流向・預流果」、「一来向」、「一来果」までご紹介しました。
で、この後の流れとしては、「一来果」以降の「不還向・不還果」、「阿羅漢向・阿羅漢果」をご説明するのが筋だとは思うのですが、実は、僕はこれらのことについては、簡単にご紹介するぐらいしかできません。
その理由は大きく2つ。
ひとつめ。
「一来果」レベルまでの経験があれば、「存在の仕組み」を理解できているはずなので、すでに「苦しみ」などからは自分の意思で離れる事ができているんです。
後は、自分の成すべき事(思考に基づく行為ではなく、あり方に基づく行為)を行っていくだけと言うことが理解できているので(その姿勢その物が修行であることを理解出来ているので)新たな情報や指針は、あまり必要がないはずです。
ふたつめ。
僕自身が経験出来ていないレベルの話だから。
経験していないんだから、「こういうものです」なんて語れるはずがありません。
実体験が伴っているなら、その経験に沿って、色々な比喩や表現法を考えることができますが、経験していないものを表現することは不可能です。
できるのは、先人の残してくれた情報を、「今現在の僕の解釈」でご紹介することだけです。
~「今現在の僕の解釈」でご紹介する~
これが大きな問題なんです。
レベルの低い者が、自分より高いレベルの世界を語る。
それは、例えるなら小学生が「大学生とは如何なるものか」を語るようなモノ。
どうにもこうにも無理があります。明確に語れるはずがないんです。
どう頑張っても、小学生(僕)が「大学生のお兄ちゃんが、こう言ってました。」的なお話しかできません。
それだって、どこまで正確なものかなんて、わかったもんじゃありません。
本当は、「阿羅漢果」の話を説明できるのは、「阿羅漢」だけなんです。まぁ、当たり前の話なんだけど。
そういうわけで、この先は、以上の事を予めご了承のうえ、ご覧下さい。
【不還向(ふげんこう)・不還果(ふげんか)】
ここでご紹介する「不還果」が、以前「お釈迦様シリーズ」でご紹介したアーラーラ・カーラーマ先生、ウッダカ・ラーマ・プッタ先生のレベルです。
つまり、お釈迦様登場以前、「最高地点」と考えられていた境地の段階。
この「不還果」に入るためには、最低限もう一度「無我」を体験しないといけないそうです。
そこに達する為には、それまでの「一瞬の無我体験」をさらに上回る「圧倒的な禅定体験」が鍵になるのだそう。
と、いうことは、このレベルに達するには、瞑想を習熟して、自らの意志で自由に「禅定」に入るだけの、心の落ち着きが必要になるということです。
一来果以降、日々の生活の中で、いかに自分の煩悩に気付き、それを滅することができているかということが、如実に表れてしまいます。
我々が日々生活している俗世間(六道の世界)と、禅定を通して経験できる梵天界とでは、相当なレベルの違い、大きな壁があるそうです。
さて、この「禅定(五感に頼らず・思考に流されず・意識が研ぎ澄まされ心が純粋にはたらく状態/三昧・寂静の境地)」に入って天界を遙かに超えた梵天界(色界・無色界)に達するとどうなるのでしょうか。
煩悩的には、「預流果」で消えた「有身見」、「疑」、「戒禁取」に加え、「激しい欲」と「激しい怒り」が消えるのだそうです。
っていうか、なんですの。「激しい欲」と「激しい怒り」って。。。
このレベルを持ってしても、やはり「チョットした欲」とか「軽い怒り」はあるってことなのね…
_| ̄|○ 煩悩、おそるべし…
これじゃぁやっぱり「一来果」とそんなに変わらないじゃない…って思っていたら、
ありましたよ奥さん。「一来果」と「不還果」の決定的な違いが!
…
すんません。本日時間切れです…
つづきは後日。
←これって、激しい欲? チョットした欲?
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先ほどこのブログを読み返してみたところ…
なんとまぁ、ちゃんとした記事らしい記事を書いていたのは、もう1カ月も前のことだったのね…
大変長らくお待たせしました。
いよいよ「悟りの階梯」のお話に戻りましょう。
これまでの話を振り返りますと、「四向四果」の説明から入りまして、それから「預流向・預流果」、「一来向」、「一来果」までご紹介しました。
で、この後の流れとしては、「一来果」以降の「不還向・不還果」、「阿羅漢向・阿羅漢果」をご説明するのが筋だとは思うのですが、実は、僕はこれらのことについては、簡単にご紹介するぐらいしかできません。
その理由は大きく2つ。
ひとつめ。
「一来果」レベルまでの経験があれば、「存在の仕組み」を理解できているはずなので、すでに「苦しみ」などからは自分の意思で離れる事ができているんです。
後は、自分の成すべき事(思考に基づく行為ではなく、あり方に基づく行為)を行っていくだけと言うことが理解できているので(その姿勢その物が修行であることを理解出来ているので)新たな情報や指針は、あまり必要がないはずです。
ふたつめ。
僕自身が経験出来ていないレベルの話だから。
経験していないんだから、「こういうものです」なんて語れるはずがありません。
実体験が伴っているなら、その経験に沿って、色々な比喩や表現法を考えることができますが、経験していないものを表現することは不可能です。
できるのは、先人の残してくれた情報を、「今現在の僕の解釈」でご紹介することだけです。
~「今現在の僕の解釈」でご紹介する~
これが大きな問題なんです。
レベルの低い者が、自分より高いレベルの世界を語る。
それは、例えるなら小学生が「大学生とは如何なるものか」を語るようなモノ。
どうにもこうにも無理があります。明確に語れるはずがないんです。
どう頑張っても、小学生(僕)が「大学生のお兄ちゃんが、こう言ってました。」的なお話しかできません。
それだって、どこまで正確なものかなんて、わかったもんじゃありません。
本当は、「阿羅漢果」の話を説明できるのは、「阿羅漢」だけなんです。まぁ、当たり前の話なんだけど。
そういうわけで、この先は、以上の事を予めご了承のうえ、ご覧下さい。
【不還向(ふげんこう)・不還果(ふげんか)】
ここでご紹介する「不還果」が、以前「お釈迦様シリーズ」でご紹介したアーラーラ・カーラーマ先生、ウッダカ・ラーマ・プッタ先生のレベルです。
つまり、お釈迦様登場以前、「最高地点」と考えられていた境地の段階。
この「不還果」に入るためには、最低限もう一度「無我」を体験しないといけないそうです。
そこに達する為には、それまでの「一瞬の無我体験」をさらに上回る「圧倒的な禅定体験」が鍵になるのだそう。
と、いうことは、このレベルに達するには、瞑想を習熟して、自らの意志で自由に「禅定」に入るだけの、心の落ち着きが必要になるということです。
一来果以降、日々の生活の中で、いかに自分の煩悩に気付き、それを滅することができているかということが、如実に表れてしまいます。
我々が日々生活している俗世間(六道の世界)と、禅定を通して経験できる梵天界とでは、相当なレベルの違い、大きな壁があるそうです。
さて、この「禅定(五感に頼らず・思考に流されず・意識が研ぎ澄まされ心が純粋にはたらく状態/三昧・寂静の境地)」に入って天界を遙かに超えた梵天界(色界・無色界)に達するとどうなるのでしょうか。
煩悩的には、「預流果」で消えた「有身見」、「疑」、「戒禁取」に加え、「激しい欲」と「激しい怒り」が消えるのだそうです。
っていうか、なんですの。「激しい欲」と「激しい怒り」って。。。
このレベルを持ってしても、やはり「チョットした欲」とか「軽い怒り」はあるってことなのね…
_| ̄|○ 煩悩、おそるべし…
これじゃぁやっぱり「一来果」とそんなに変わらないじゃない…って思っていたら、
ありましたよ奥さん。「一来果」と「不還果」の決定的な違いが!
…
すんません。本日時間切れです…
つづきは後日。
←これって、激しい欲? チョットした欲?
コメント ( 12 ) | Trackback ( )
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思考だけがグルグル巡っております。
答えなど見つかるはずもないのに・・・(+ω+ll)
般若顔で子供を叱ってるうちは、天竺ほどに
遠い世界ですね~(T-T)
食べてしまった後
何も残らない、あん入りドーナツ
食べてしまった後
穴だった所の空間が残る
穴ありドーナツ。
黒斎さんの記事と
どう関係するのか
私自身にも解んないけど、
こんなのが浮かびました。
いくら考えても解らないけど
なんとなく無駄にしたくないので
投稿しちゃいます。
終わりかいっ!って突っ込んでしまいました。^^;
楽しみ度に効果的面です♪
それにしても憎い終わらせ方だw
先日広辞苑で知りました。
「心の絶対自由」と「身体の絶対自由」
という疑問と答が今朝起きた瞬間に
沸き起こってきました。
心の絶対自由は生まれたときから
持ってますよね。でも、「そんなモン無いんだよ」
っていう教育を受けて「無いと思い込まされてる」
そこに気付けば解決。
さて、身体の絶対自由は?
簡単ですね。ここのブログのタイトル
そう、あの世に行けば万人平等に解決。
遠くない将来必ず自動的に解決する問題を
問題だと思い込むのが「問題」だと
気付けば「問題は半分以上解決」かなって。
生きてることの
最大の「得るべき所」?(笑)
激しい欲が減ったあとのセックスと
激しい欲があるときのセックスと
どちらがセックスとして正しいあり方なんでしょうか。
セックス自体したいという欲求がなくなるんですかね?
だったら、みんなが悟っちゃったら人類滅亡ですね。
激しい欲が減ったあとのセックスって、より純粋な行為になるんじゃないかなぁ~
純粋な愛だけの、純粋なセックス。
セックスしたいって欲求が、なくなるって事はない気がするなぁ。
そいで、これも勝手な想像。
その内セックス以外で子供が出来るようになったりして。(子供産むって、ホント痛いらしいですから…)
痛くない方がいいデス…
先日は、ありがとうございました☆
この間、阿部さんが、おっしゃっていた
「三昧」のお話。
津留晃一さんも おっしゃっていました。
『 あなたが自分を使わなくなった時、
神があなたに変わって本来の仕事をし始めます。
あなたという神のシナリオが働き始めます。 』
津留晃一さんの「メッセージ集」より
自分の中の闘いが無になり
自分の中の和睦に向かって
生かせて頂いています。
安部さんとの「お話」
心から楽しみに致しております。
感謝
セックスってお互いに純粋な愛を与え合う、神聖な行為になるのか!
「生命」を授かるって言う意味でも。
喜びそのもの、になるんだぁ。
…あ、記事に関係ないコメントでごめんなちゃい…(反省)
煩悩的には、「激しい欲」と「激しい怒り」が消えるのだそうです。
やはり「チョットした欲」とか「軽い怒り」はあるってことなのね…
この部分の話をさせて下さい。
自分の体験の話なので
それは不還果じゃないと言われたらそうかもしれません。
自分の中では確信してますが、勘違いかもしれないので。
分離意識の“自分”がいる間に書こうと思います。
圧倒的な禅定体験を経験した前と後とでは
“怒りや欲”に対する感覚が全然違います。
禅定体験をする前のちょっとした怒りが
禅定体験をした後では激しい怒りに感じられました。
仏教では絶対的に明確に書いてある事が多いですが、この記述は誤解を与えるような気がします。
激しい怒り、欲には変わりないのですが
不還果前後の状態での相対的な違いでしかない気がします。
なので、ちょっとした欲や軽い怒りという煩悩はないと思います。
つまり、欲や怒りという煩悩が消えるという意味ではないでしょうか?
お釈迦さまが文書化をしなかった理由がわかるような気がします。