《ZARD『揺れる想い』から30年》 「体じゅう」と坂井泉水が 「ひらがな表記」にこだわった理由

2023-06-05 00:00:38 | ZARD
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《ZARD『揺れる想い』から30年》
「体じゅう」と坂井泉水が
「ひらがな表記」にこだわった理由

2023.5.31

 大塚製薬のスポーツドリンク・ポカリスエットのCMは、10代のキャストを起用して青春を前面に押し出した内容が定番となっている。

 その原点はおそらく1993年にさかのぼる。この年のCMは、前年よりイメージキャラクターを務めていた一色紗英(当時16歳)が、ポカリスエットを携えて自転車に乗り、試合終了後の野球場にひとり残った彼氏に届けるというストーリー仕立ての内容で、鮮烈な印象を与えた。また別のバージョンでは、彼氏と二人きりで砂浜でじゃれ合ったり、岩場から海へ飛び込んだりと、これまた青春を感じさせる様子が描かれた。

   

「揺れる想い」から30年

 これらのCMでイメージソングとして使われたのが、ZARDの「揺れる想い」である。同曲はZARDの8枚目のシングルとしてこの年の5月19日にリリースされた。それからきょうでちょうど30年が経つ。これに合わせて、ZARDの公式YouTubeチャンネルでは同曲のミュージックビデオ(MV)のフルバージョンが今夜8時よりプレミア公開される。

「揺れる想い」は当初よりポカリスエットのCMのためつくられた。ZARDでボーカルと作詞を担当する坂井泉水はそれを意識して、製品のパッケージカラーである「青」を歌詞に入れようと提案し、ここから「青く澄んだあの空のような」というフレーズが生まれた。

   

 ZARDはデビュー3年目のこの年、1月27日にリリースした6thシングル「負けないで」が165万枚を売り上げ、自己最大のヒットとなった。「揺れる想い」はそれに次ぐ140万枚のセールスを記録する。

 この2曲を収録したアルバム『揺れる想い』(同年7月10日発売)も現在までに300万枚超を売り上げ、ZARDのアルバムではやはり最大のヒットとなる。ZARDにとって1993年は、これらあいつぐメガヒットにより一気にブレイクを果たした飛躍の年となった。

謎めいた「ZARD」の素顔

 ただ、ZARDが表舞台に出てくることはほとんどなかった。テレビの音楽番組にはデビュー以来たびたび出演してきたが、それもこの年2月に『ミュージックステーション』で「負けないで」を披露したのが結果的に最後となる。ライブもこの6年後、1999年の豪華客船上でのライブまで一切行われなかった。

 それに加えて、この時点では坂井の年齢を含め、アーティストについての情報もほとんど伏せられた。おかげで、「ZARDというバンドは存在せず、歌っているのも写真とは別人」などという噂まで流れたほどである。

 しかし、ZARD――坂井泉水というアーティストはたしかに存在した。そのことは、彼女がいかに楽曲制作に心血を注いでいるかがあきらかになるにつれ証明されていった。「揺れる想い」についても、のちに彼女自身が《何度も何度も練り直して完成した曲。苦労してレコーディングした分、自分でも思い出深い一曲です》と、ベストアルバム『Golden Best 〜15th Anniversary〜』(2006年)付属のブックレットでコメントしている。

 同曲は、レコーディングで7回テイクを重ねてようやくOKとなったという。テイクごとに坂井は歌詞やメロディなどを変えて歌い、満足が行くまで試行錯誤を繰り返した。歌詞でも「揺れる想い体じゅう感じて」と、「体中」ではなくひらがなでの表記にこだわった。ZARDを担当した音楽ディレクターの寺尾広によれば、彼女はそうすることで体の中も外も感じているということを伝えたかったという(NHK BSプレミアム『ZARDよ永遠なれ 坂井泉水の歌はこう生まれた』2019年4月20日放送)。

歌手になる前の意外なキャリア

 ZARD誕生の発端は、そのデビューの1年前、1990年に行われたB.B.クイーンズ(この年、「おどるポンポコリン」が大ヒットした)のコーラスメンバーを選ぶオーディションであった。坂井泉水は当時23歳で、すでに本名の蒲池幸子名義でレースクイーンやグラビアモデルなどの活動をしていた。だが、歌手になりたいという子供のころからの夢を捨てきれず、オーディションに参加したのだった。

 オーディションを主催した音楽制作会社ビーイングの創業者で、プロデューサーの長戸大幸は、坂井の歌声が気に入った。コーラスメンバー入りは、諸事情から実現しなかったものの、すぐにチャンスがめぐってくる。長戸が、フジテレビのプロデューサーだった亀山千広(のち社長)から今度始まるドラマのテーマ曲を歌うシンガーを探していると相談を受け、坂井のことを思い出したのだ。

 長戸はすぐに彼女に連絡をとると、ZARDというプロジェクトをつくって歌わせると決める。こうして1991年2月、坂井はZARDのボーカルとしてドラマ『結婚の理想と現実』の主題歌となった「Good-bye My Loneliness」でデビューを果たした。

 坂井は先のオーディションで何をやりたいかと訊かれ、ロックをやりたいと答えていた。長戸はこれを受け、紅一点の女性ボーカルによるハードロックバンドを構想する。

バンド名に込められた意味

 ZARDというバンド名は、もともと長戸がベンツ車のランプに書かれた「HAZARD」の文字から思いついて温めていたものだった。さらに「ZARD」とつく言葉には、Hazard(危険)のほかにもWizard(魔法使い)やBlizzard(吹雪)など、どちらかというと敬遠されがちなものが多いと気づき、《ロックの持つ退廃的かつ反体制的なイメージともリンクすると思って、これを可愛い女の子の名前にしたら面白いし、ウケるのではないかと考え》、命名したという(『ZARD/坂井泉水 ~forever you~』ミュージックフリークマガジン、2020年)。

 こうしたコンセプトから、ZARDはボーカルの坂井を中心とするバンドとしてデビューしたものの、まもなくして彼女のソロプロジェクトという形態へ移行していく。それでもその楽曲の基本は一貫してバンドサウンドにあった。

 ZARDデビューにあたって彼女に坂井泉水と新たな名前をつけたのも長戸である。それというのも、当時はグラビアモデルという仕事にはまだエロスのイメージが色濃くあり、そのキャリアがアーティストとしてデビューする彼女にとってはネガティブな要素になるとの懸念があったからだ。

「過去の仕事」をめぐり涙したことも

 しかし、当の坂井からすれば、それまでの仕事も納得して引き受けたものであり、かつての所属事務所のスタッフには、自分のために汗を流して仕事を取ってきてくれたと感謝していたほどだった。ZARDとして人気が出始めると、マスコミから過去の仕事についてさんざん詮索され、ときには事実無根の中傷記事が出て、人目を忍んで泣いたこともあったという(ZARD『永遠 君と僕との間に』幻冬舎、2019年)。

 それでも過去に対する思いに変わりはなかった。そこであるとき、長戸が「かつての自分を後悔していないなら、そういう歌詞を書いて歌ってくれ」と提案する。こうして生まれたのが、1995年の6thアルバムの表題曲となった「Forever you」であった。その曲中で坂井は「過去(むかし)に後悔なんてしてない/またとない 二度と来ない 私の青春だから」ときっぱり歌い上げたのである。

 作詞も「アーティストが自分自身をより輝かせて歌うためには、自らの言葉で書いて歌ったほうがいい」という長戸の助言によりデビュー時から始めたものだった。思いつくがままに言葉を書き留めた手帳はまたたく間に冊数が増え、やがて旅行用のキャリーバッグで持ち歩かなくてはいけない量に達したという(『永遠』)。坂井はそうやって書き留めた膨大な言葉から選り抜き、ジグソーパズルのように歌詞に当てはめていくというスタイルを確立する。

詞を書くときの流儀

 2001年のインタビューでは、《フッと思いついた言葉は、日頃からお気に入りの手帳に書き留めるようにしています。(中略)詞を書く時は、メロディを初めて聴いた時のイメージやインスピレーションを大切にしています。あとは“私を選んで~”と言葉が訴えかけるので、その訴えかけてくる言葉を選ぶようにしているんです》と語っていた(『SAY』2001年5月号)。ZARDの翌年に同じくビーイングからデビューした大黒摩季も、坂井が「曲を何度も聴いていると、メロディが言葉をくれる」とよく言っていたと証言している(『ZARDよ永遠なれ』)。

 大黒は駆け出し時代、ZARDの楽曲でコーラスを務めることも多かった。彼女たちのほかにも、ビーイングからはB'zやT-BOLANなど多くのアーティストが輩出され、90年代にヒットチャートを席巻した。ZARDは「負けないで」「揺れる想い」を発表した1993年、同じくビーイングのバンドであるZYYG、REV、WANDSとシングル「果てしない夢を」を共作したが、そこでゲストボーカルとしてプロ野球の読売ジャイアンツの監督だった長嶋茂雄を迎えたことからも、このころのビーイングの勢いがうかがえる。

長嶋茂雄とのレコーディング

「果てしない夢を」のレコーディングではこんなエピソードが残る。このとき、プロデューサーの長戸が「長嶋さんはヘッドフォンをして歌ったことなどないはずだから、カラオケみたいにスピーカーから音を流してハンドマイクで歌ってもらおう」と突然言い出したので、レコーディングエンジニアの市川孝之は慌てた。当時はそのような状況でも録音できる高音質のマイクなどなかったからだ。

 だが、戸惑う市川を見て、すかさず坂井が《それだといい声で録れないし、後で編集もできないだろうから、私がブースの中に長嶋さんと一緒に入って、横でアシストするので普通に録りましょう。ヘッドフォンの使い方も私が教えます!》と助け船を出してくれたおかげで、レコーディングは滞りなく進んだという(『ZARD/坂井泉水 ~forever you~』)。

 この話からもうかがえるように、普段の坂井はジャケット写真でのはかなげな表情から想像されるイメージとは違い、さっぱりとした性格で、スタッフたちにとっては姉御肌の頼れる存在だったようだ。

ついていけなかった「時代の変化」

 そんな彼女も、体調不良のため2001年2月より約1年間、活動を休止する。そこには音楽シーンの変化も影響していたという。90年代後半になると、安室奈美恵や浜崎あゆみなどのアップテンポのナンバーがヒットチャートをにぎわした。そのなかにあって、それまで8ビートのロックで魅力を発揮してきた坂井は、16ビートになかなかついていけなかったというのだ。

 前出の2001年のインタビューで彼女は、《私はPioneerであり続けたいと思っています。何においても少しずつ新しいことに挑戦していきたいんです》と語っていたが、それも時代の流れについていこうというあがきの表れだったのだろうか。

 それでも坂井は2002年5月に復帰すると、2004年には初のライブツアーを敢行、当初3公演の予定が11公演に増え、体調もけっして万全とはいえなかったものの、見事やり遂げた。その後も新境地を拓いていく。2005年公開の劇場版アニメ『名探偵コナン 水平線上の陰謀(ストラテジー)』の主題歌「夏を待つセイル(帆)のように」の制作時には、童謡「森のくまさん」みたいなアレンジにしてほしいと提案するなど、子供が楽しめる曲になるよう心がけた。

40歳の若さで急逝

 2006年5月には42thシングル「ハートに火をつけて」をリリースするが、残念ながらこれが生前に彼女が発表した最後のシングルとなる。同曲のMVを撮影した日の深夜、彼女は子宮頸がんのため入院。闘病中も歌詞を書き続けていたが、翌2007年5月27日、入院先の病院内での不慮の事故により、40歳の若さで急逝する。

 あれからまもなく16年が経とうとしている。この間にも災害やパンデミックが起こるたび、坂井の歌う「負けないで」が人々を勇気づけてきた。「揺れる想い」もまた、2019年に再びポカリスエットのCMで、母娘に扮した吉田羊と鈴木梨央によるカバーという形で使われるなど、ZARDのもうひとつの代表曲という地位に揺るぎはない。

 ZARDのMVは、あらかじめテーマを設けたりはせず、坂井の自然な姿を長時間撮ったうえ、そこからベストシーンを選び、合間を海や青空の映像でつなぎながら構成された。撮影現場でスタッフは作品性を一切意識しなかったが、そのなかで唯一共有していたのが「坂井さんのカラーは青」ということであったという(『永遠』)。ポカリスエットの色から「青」を「揺れる想い」の歌詞に入れた坂井だが、彼女自身のイメージカラーが青だったのだ。そのせいか、青く澄んだ夏空のもとではいまなお、坂井の歌声がより私たちの心に染みわたる。

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