街の老若男女を直撃!「あなたは、バンド組んだことありますか?」

2017-07-18 00:00:43 | ZARD
https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12199-0kPeyrJBwg/

街の老若男女を直撃!「あなたは、バンド組んだことありますか?」
2017年07月07日 17時00分

東京の声とシンクロするTOKYO FMの番組「シンクロのシティ」。ボイス収集隊が東京の街に繰り出し、様々な人々に声をかけ、1つのテーマについてその人の意見や思いを聞き出します。その声を聴き、リスナーと共に考えるのはパーソナリティの堀内貴之。7月3日のテーマは「バンド組んだことありますか?」でした。

間もなくやってくる本格的な夏。夏といえばフェス、フェスといえばロック、ロックといえばバンド! 今はスマホの普及により、YouTubeや、Twitterなどで、多くのバンドが口コミで広がりやすい時代。そんなこともあってか、中高生を中心にバンドブームが再燃しています。ということで今回は東京の街の老若男女に「バンド、組んだことありますか?」という質問をぶつけてみました。

バンド、組んだことありますか?

(中略)

◆渋谷で出会った39歳の女性
以前やってました! 今は活動休止中なんですが。

(ジャンルはどういう音楽をされていたんですか?)
ZARD のコピーオンリーです! ZARD の曲だけをやってました。

(バンド名教えてもらってもいいですか?)
「ZANA(ザーナ)」です。ZARD からもらいまして、ボーカルがななちゃんっていうので、ZANA と名付けました。ボーカルの子とは、今でも仲良しです。

(中略)

◆大田区で出会った4人組の男女
はい、やってます! 4人組バンドで組んで 10 年ぐらいです。2007 年に20代で組みました。バンド名は SEKAI NO OWARI です!

Fukase「ということで、堀内さん、いつも聴いています! 移動するときにいつもかかってるんです。特にDJ LOVE が番組が大好きで」

DJ LOVE「ほんとに好きすぎて! ボイス収集隊どこにいるんだろうって思ってます(笑)」

Fukase「バンドを組んだのは、僕たちは、まず手作りで工場の跡地にライブハウスを作って、アンダーグラウンドで始めました」

Saori「そこから地上に這い上がって」

Fukase「なんとか、頑張ってやっています!」

というわけでまさかのSEKAI NO OWARIが登場! これには堀内もビックリ。番組の大ファンだと公言してくれているセカオワの皆さん。自分たちで作り上げたライブハウスからスタートし、今は誰もが知る人気バンドになりました。

【夢を追っていた人も、夢を追っている人も。やっぱりバンドは楽しい!】
番組には「バンドは生き物。いつ解散するかもわからないし、今この瞬間のこのライブは二度とないものだから見ておかなければ!という気持ちになります。バンドやっている人はキラキラしていて熱くてかっこよくてすごい!」というメールも。また、「バンドやっていましたが、今となっては恥ずかしい黒歴史です!」という方もいました。

堀内貴之は「バンドを組んでいたことを黒歴史と感じる人もいるみたいですけど、心に強く残っていることなんて、大体黒歴史じゃないですか。それが歳とった時に最高の思い出になりますから!」とコメント。押入れの奥の楽器を取りだして久しぶりに弾いてみたくなる、そんなオンエアとなりました。

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聴取期限 2017年7月11日 AM 4:59 まで
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※放送エリア外の方は、プレミアム会員の登録でご利用頂けます。
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<番組概要>
番組名:「シンクロのシティ」
放送日時 :毎週月~木曜15:00~16:50
パーソナリティ:堀内貴之、MIO
番組Webサイト:http://www.tfm.co.jp/city/
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タウンニュース 秦野版 夕暮短歌

2017-07-17 01:41:44 | ZARD
http://www.townnews.co.jp/0610/2017/07/07/389384.html

夕暮短歌
田中さんの作品頂点に
応募数は452首
2017年7月7日号


 秦野出身の歌人前田夕暮の功績を称え、広く短歌作品を募集した第30回夕暮祭短歌大会の表彰式が6月24日、市立図書館で行われ秦野市在住の田中恵美子さんが秦野市長賞を受賞した。今大会には、国内外から452首が寄せられた。

 田中さんの作品は「丹沢の山ふところを飛びいでて大磯めざす若き青鳩」。選者による講評では「ご当地のことをじっくりと歌の中に詠みこんでいる」と全体を褒め称えた。中でも「丹沢の〜で始まる出だしが良い。若き青鳩は、希望や未来を表す言葉としてうまく取り込みとても良い」と評価した。

 田中さんは今回が初めての応募でいきなり市長賞に輝いた。「まさかという感じ。外の鳩が、最初は青鳩とは知らなかった。新入学、新たな旅立ちの季節でもあることからこの句が生まれた。これからは色々挑戦していきたい」と話した。

 そのほか、秦野市からは5人が佳作に入賞、作品は次の通り。▽「入線を知らせるZARDの『負けないで』よしと構えて治療に向かう」(栁川維さん)、「震災後六年を経たるいまだにも復興を見ずふるさとふくしま」(杉山賴子さん)、「蒼穹の光りが峰を狙い撃ち二ノ塔辺り綿雲二つ」(宮田新さん)、「夕暮れの施設の窓に浮かびくる父の眼窩は翳を濃くせり」(福島健太郎さん)、「受話器よりこぼるる高き笑い声卒寿の長姉の『元気』着信」(内田禧子さん)。

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人生銀行に言葉を貯金 共有できる格言を収集-厚真厚南中3年

2017-07-06 02:47:30 | ZARD
https://www.tomamin.co.jp/news/area2/11660/

人生銀行に言葉を貯金 共有できる格言を収集-厚真厚南中3年
2017/7/5

 厚真厚南中学校(細野輝彦校長)で3日、3年生の道徳授業「人生銀行に貯金~これからの学校生活で必要な言葉を共有しよう~」が開かれた。今後、高校受検といった中学校生活の節目に向かう生徒たちに、みんなで共有できる格言などを集めてもらい、最終的にたくさんの熱い言葉がつづられている松岡修造氏の日めくりカレンダー風にまとめていこうという企画。同日は細野校長らが大切にしている言葉などを生徒に紹介したほか、生徒たちが図書室やパソコン教室で、先人らが残したさまざまな名言を探した。

 先人の言葉や身近にいる教員らが大切にしてきた格言などを、生徒たちの課題解決やこれからの生き方につなげてもらおうという取り組み。3年生14人が友人たちと共有できて、これからの学校生活に必要な「人生銀行に貯金する言葉」を考えていく。

 この日の授業は細野校長が中心となって進行。冒頭、担任教諭ら3人の先生が勉強や受験などに臨んだ際、心の支えとなった人生の応援ソングとして聴いていたKANの「愛は勝つ」、ZARDの「負けないで」、槇原敬之の「どんなときも。」の歌詞などをエピソードも交えて披露した。この後、哲学者スピノザ、漫画スラムダンクの安西先生、作曲家ベートーベン、野球選手イチローらの言葉を紹介。合わせて細野校長が自分の人生銀行に貯金している言葉として「成長したいと思ったら 言い訳をしないこと」「天才は有限 努力は無限」「不可能の反対語は可能ではない 挑戦だ」などを生徒たちに伝えた。

 これを踏まえて生徒たちは図書室やパソコン室で1人が五つ程度、先人の言葉などを収集。次回の授業以降に集めた言葉を31点まで厳選して、学級のみんなが共有できる厚南中3年生版の日めくりカレンダー風に仕上げていく意向だ。
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永遠の歌姫 ZARDの真実 第7回[大黒摩季が語るZARD・坂井泉水の「小悪魔のささやき」]

2017-06-21 02:07:04 | ZARD
https://dot.asahi.com/dot/2017060800126.html

大黒摩季が語るZARD・坂井泉水の「小悪魔のささやき」
永遠の歌姫 ZARDの真実 第7回
2017/6/11 07:00

「Good-bye My Loneliness」「揺れる想い」などデビュー当時からZARDのヴォーカルとしてミリオンセラーを連発した坂井泉水さんだが、交友関係など私生活はほとんど明らかになっていない。しかし、デビュー前から親しい仲間がいた。2歳年下でバックコーラスとしてレコーディングに参加した同じビーイング所属のアーティストの大黒摩季さんだ。

「ねえ、摩季ちゃん~」

 坂井泉水さんがいたずらっぽい笑みで近づいてくると、大黒摩季さんはいつもビクッと緊張する。

<何かいけないことをしようとしているに違いない!>

 大黒さんの心の中で危険信号が点滅する。

「泉水ちゃん……、な……、なに?」
「私、ちょっと、行ってみたいレストランがあるんだけど」

 坂井さんは微笑みのままだ。

「えっ……、今、行くの……?」
「摩季ちゃんも一緒に、ね!」

 大黒さんと坂井さんは、マネージメントオフィスも所属レコード会社も同じビーイング。坂井さんは大黒さんより2歳年上だった。

「私も?」
「うん。ちょっと、スタジオ、抜け出してさあ」

“悪魔のささやき”だ。

 坂井さんに誘われるのは、ほとんどの場合、大黒さんがクルマを運転してスタジオに来ているときだった。坂井さんはペーパードライバーで、普段は電車で通っていた。

「大ヒットしてからの泉水ちゃんは、相当厳しいスケジュール下にあったので、プライベートは皆無だったと思います。それで、スタジオ作業のすきを見つけて、小悪魔顔で私を誘ってきました。スタッフの目を盗んで、2人で食事に行ったり、カフェに行ったり。後で会社の人に怒鳴られるのは私でしたけど(笑)。それでも、泉水ちゃんの誘いは断れなかった。あのキュートで悪い目は、憎めませんでした。楽しかったなあー」

 2人の出会いは、ZARDのデビュー曲「Good-bye My Loneliness」のレコーディング。大黒さんはコーラスで参加した。CDジャケットになった黒の革ジャン姿の坂井さんがソファに座るその元の写真には、デビュー前の10代だった大黒さんも写っている。

「この曲のデモテープの仮歌を私が歌うことになりました。その後仮コーラスをレコーディングしたころかな。長戸大幸プロデューサーに連れられて、泉水ちゃんがスタジオに現れました」

 大黒さんはコーラスとして、すでに数々のレコーディングに参加していた。

「厳しく、荒々しいミュージシャンの中でもまれていた私の目には、とても瑞々しく映りました。泉水ちゃんは礼儀正しく挨拶をして、丁寧に言葉を選びながら話してくれました。品の良さを感じたことを覚えています。眩しかった」

 以来、大黒さんにとって「Good-bye My Loneliness」は特別な曲になった。その後、「愛は暗闇の中で」「IN MY ARMS TONIGHT」「汗の中でCRY」「負けないで」「君がいない」(シングルバージョンのみ。アルバムバージョンは坂井泉水)「揺れる想い」など多くのZARDの曲に大黒さんはコーラスで参加している。

「ZARDのナンバーの中で、泉水ちゃんとの出会いの曲である『Good-bye My Loneliness』は私がもっとも好きな曲の1つになりました。それと、『揺れる想い』も私にとって大切な曲です。泉水ちゃんが指名してくれて、スタジオでコーラスラインを考えるときには2人で一緒に歌いました。この曲を聴くと、今も涙が溢れます」

 そんな大黒さんが思う、シンガーとしての坂井さんの魅力とは――。

「“心に届く歌”を歌ってきたこと、そして、“ナチュラルに言葉を伝えられる”力です。シンガーというのは、キャリアを重ね、レベルアップすると、どうしてももっとうまく歌いたいと思ってしまいます。すると、知らず知らずのうちに、言葉や想いを伝えることが後回しになってしまう。でも、泉水ちゃんは違う。シンガーにとって何が大切かを常に意識して、大切にして歌っていました。だからこそ、泉水ちゃんの歌は、年月を経てもファンの皆さんの心に寄り添い続けているのだと思います」

 一方、作詞家としての坂井さんの魅力は――。

「素直さ、かな。泉水ちゃんの歌詞からは、華美なデコレーション、自尊心、虚栄心をいっさい感じません。彼女の心の語るままに紡がれた純度の高い言葉がつづられています。作品を装飾しがちなエンタテインメントの世界で、貴重な存在です。世の中には、エヴァーグリーンとして聴き継がれる曲、歌い継がれる音楽があります。大ヒットしても、一時の流行で懐メロ化する音楽もあります。どんな音楽がエヴァーグリーンになり得るのか――。それは、歌詞にも、メロディにも、サウンドにも無駄がない作品だと、私は思っています。それを考えると、泉水ちゃんは、時代が変わろうとも揺るがない、そのままリスナーのハートに寄り添ってくれる絶対的、普遍的な存在でした。等身大でぶれることのない泉水ちゃんが今生きていたら、どんな言葉を作り、歌っているのか。願いがかなうならば聴いてみたい」

 坂井さんが音楽と向き合う姿勢は、デビューから最後までまったく変わらなかった。

「ふだんは柔軟性のある女性です。でも、自分の音楽には完璧主義者でした。常に理想を追い求め、絶対に妥協しない。周囲がなんと言おうと、核がぶれることはない。芯の強い性質です。クリエイティヴなことにいっさい手を抜かないところは、僭越ながら私にも似たようなところがあり、共感を覚えました」

 大黒さんは、d-projectにゲスト・ヴォーカルとして参加した。d-projectとは、長戸プロデューサーが大阪を拠点に活動するビーイング・グループのGIZA studioの作家や若手ミュージシャンを集めたプロジェクトで、その第1弾として、2016年に『d-project with ZARD』をリリースした。このアルバムは、ZARDの曲を坂井さんのヴォーカルを生かしてリアレンジし、レコーディングしている。

 その全14曲中11曲で大黒さんがゲスト・ヴォーカルとして歌う。

「いつか坂井と大黒を並べて歌わせたい」

 長戸氏のこの思いがCDで実現した。

「私にとっても大切な曲、『揺れる想い』も歌いました。ヴォーカル・ブースの中で泉水ちゃんの声が響き、一緒に歌えた時は、胸が震えた。傍らに彼女がいて、私に微笑みかけてくれているように感じました」

(文/神舘和典)
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『揺れる想い』に遺るZARDが時代を超えて愛される理由

2017-06-20 23:30:45 | ZARD
https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0524/okm_170524_1253085189.html

『揺れる想い』に遺るZARDが時代を超えて愛される理由
5月24日(水)18時0分


5月27日はZARD、坂井泉水(Vo)の10回目の命日である。さまざまな芸能活動を経て、「ロックがやりたい」と音楽シーンに挑んだ彼女。1位を獲得したシングルが12作、アルバムの1位獲得数は11作、しかも、そのうちミリオンを達成したアルバムは実に9作品と、音楽シーンに燦然と輝く実績を残したわけだが、そうした記録に留まらず、記憶にも深く刻まれているアーティストでもある。彼女の楽曲群は多くのリスナーに寄り添ってきたし、今も寄り添い続けている。ZARDの代表作『揺れる想い』から、そんな彼女の特徴を探る。

スタンダードナンバーになり得た要因

ZARDの「負けないで」のリリースは1993年。発売からそろそろ四半世紀だから、期間だけで考えたら十分に懐メロの域だろう。物心が付いた時にはすでに定番曲になっていた、なんて人も少なくないと思う。ただ一方で、この間、毎年『24時間テレビ「愛は地球を救う」』のチャリティーマラソンが最も有名だが、CMソングやキャンペーンソング等で頻繁に使われていたりもするから、極端に古い印象はないのではなかろうか。そう感じるのは筆者だけかもしれないが、もうそんなに経ったのかとの思いと、まだそんなしか経ってないのかと思い、その両方が交錯する「負けないで」である。これはこの楽曲が単なる流行歌に止まらず、真に邦楽のスタンダードナンバーになったからではないかと思う。坂本九の「上を向いて歩こう」や美空ひばりの「川の流れのように」がそうであるように、「負けないで」が日本芸能史にその名を残す名曲となっていることに異論のある人は少ないはずだ。

「負けないで」のヒットの要因、その作品としての特徴、ひいてはZARDの音楽性については後述するが、この楽曲がスタンダードになり得たことには、ZARD自体のミステリアスさも少なからず関係しているのではないかと、これまた私見ながら感じるところである。ZARDのテレビ出演はわずか数回。1993年以降はほとんどなかったという。ライヴも1999年に行なったベストアルバム購入者を対象とした船上ライヴと、2004年の全国ツアー『What a beautiful moment Tour』程度と、露出そのものが極端に少なかった。それゆえに…だろう。メンバーのキャラクターが語られることはほとんどなかった。坂井泉水(Vo)が過去にモデル活動をやっていたとか、企業のキャンペーンガールやレースクィーンを務めていたこともある、といった経歴は明らかにされているが、例えば誰とくっ付いたとか別れたといった芸能的な話題はおろか、お喋りであるとか無口であるとか、彼女がどんな人であるかということは(コアなファンはご存知なのかもしれないが)おそらく一般リスナーは知らないと思う。百歩譲って、仮にZARDが「負けないで」のみのヒットで終わった所謂“一発屋”であったならそれも止む無しかもしれないが、90年代に女性ヴォーカルとしてもっとも多くのCD売上げ枚数を記録したアーティストとしては不自然なくらいに、彼女自身のことは知られていない。話を戻すと、だからこそ、「負けないで」はスタンダードになったのではないだろうか。つまり、変なバイアスがかからず、純粋に楽曲の本質だけが伝播したのではないかということだ。

年代、時代を感じさせない、誰もがハマる歌

また、「負けないで」の歌詞は時代性を感じさせないばかりか、性差も、年代も特定されない。これは、この時代の女性ヴォーカリストとしてはわりと珍しい。

《何が起きたってヘッチャラな顔して/どうにかなるサとおどけてみせるの/今宵は私と一緒に踊りましょ/今もそんなあなたが好きよ/忘れないで》。

まぁ、上記のような言い回しは女性ならではのものと言えるだろうし、語尾の“の”や“よ”や“わ”は女性目線の歌詞ではあろうから、性差が特定されないというのは言いすぎではあろうが、この翌年の1994年のヒット曲広瀬香美の「ロマンスの神様」や、ZARDとはレーベルメイトであった大黒摩季の「あなただけ見つめてる」や「夏が来る」(ともに1994年)が、これでもかとばかりに“女性”を強調しているのとは対照的であることは間違いない。物語中の年代はもちろんのこと、直接的な意味での時代性は皆無と言っていい。端的に言えば、何時、誰が聴いてもいい──それが00年代でも10年代でも、ティーンが聴いても高齢者が聴いても“ハマる歌”なのである。これもまた「負けないで」がスタンダードナンバーになった要因だと思う。

また、今回、「負けないで」が収録されている4thアルバム『揺れる想い』を聴いてみて、この時代と年代とを不特定としているところは、実はZARDの特徴ではないかと感じたところでもある。ZARDの全てのアルバムを聴いたわけではないので、もしかすると『揺れる想い』にはその色が濃く出ているだけかもしれないが、その推測はそう的外れではないように思う。

《夏が忍び足で 近づくよ/きらめく波が 砂浜 潤して/こだわってた周囲を すべて捨てて/今 あなたに決めたの/こんな自分に合う人はもう/いないと半分あきらめてた》(M1「揺れる想い」)。

《ポプラの並木をくすぐる/風は春色 きらめいているね/あの日と同じ道行く制服達/ふと懐かしく胸に藍い時間》《記念のアルバム 今でも/時々は開いて見るけど/薄れゆく君への憧れに/青春の意味を知らされた》(M2 Season)。

《よく行った 海岸沿いの店を/通るたび 少し胸が痛い/逃げてゆく幸せに気づいた時/人は“もう戻れない”と思うの/やりきれない週末のメニューは 思い出を整理たり 映画を見たり》(M3「君がいない」)。

指摘させてもらったような世界観がオープニングから畳みかけるように続く。忍び足で近付く夏。ポプラの並木にそよぐ春の風。よく行った海岸沿いの店も週末に見る映画も、具体的な描写はない。

《軽いブレックファースト 流し込んで/地下鉄まで hurry up/イヤになっちゃう満員電車は Biggest Zoo》(M7「Listen to me」)。

《イヴの夜は たぶん彼女と過ごすのね/もう出来ないわ 演じられない/届かない想いはただ粉雪が舞う街に消えてく/崩れ始めたハーモニー》(M8「You and me(and…)」)。

上記2曲からはやや時代性や具体性を垣間見ることができなくもないが、イヴの夜に彼女と過ごすのは決してバブル期とかある時期だけのセレモニーだったわけではないし、M7「Listen to me」にしても、《軽いブレックファースト》辺りにある種の気恥ずかしさを感じさせるが、満員電車は高度成長期から変わることはない日本の風景であろう(もっともこの歌詞の舞台が東京であるかどうかは定かではないしね)。

雄には分からない!? 女性ならではの機微

さて、“「負けないで」がこれでもかとばかりに“女性”を強調しているのとは対照的である”と前述したが、M4「In my arms tonight」以降、女性ならでは、ではあるが、肉食的ではない、独特の機微が綴られていく。これもまたZARDの特徴のひとつであると思う(表現に語弊があるかもしれないが、他意はないので変に誤解のないようにお願いする)。

《たまには束縛して my love》《ねえ 少年のように甘えてほしい》《ひとり占めしたいの わかってほしい》(M4「In my arms tonight」)。

《あなたを好きだけど…時々つらいの/その若さ眩しすぎるから/あなたが好きだけど…悲しくなるの/たまには甘えさせて》《もしも年上の男性が現れたら/揺れてしまいそうやさしさに》(M5「あなたを好きだけど」)。

《偶然に見かけたの バス停で/結婚すると噂で聞いたけど/スーツ姿のあなたは/やけに大人に見えた》《別離ても しばらくは悲しくて/あなたの電話 ずっと待っていたの/今はもうそれぞれに/違うパートナー見つけ/別の道歩き出した もう戻らないわ》(M10「二人の夏」)。

これを簡単に“女性らしさ”や“母性”と括ると怒られるかもしれないが、少なくとも男…いや、雄はなかなか共感し得ない気持ちではあろう。ZARDには女性ファンが多かったとも聞く。それはこうした歌詞にある機微が世代を超えて多くの女性の賛同を得たから、と考えるのはそう穿った見方ではないのではないか。

アクを抑えたハードロックサウンド

おしまいにZARDのサウンドについて記そう。端的に言えばハードロックである。M9「I want you」がもっとも分かりやすいが、M1「揺れる想い」にしても、M4「In my arms tonight」にしても、そのギターサウンドはハードロックからの影響を感じさせる。バラードナンバーであるM10「二人の夏」の間奏のギターソロも、あの鳴き方はハードロック的であろう。かと言って、もちろんLed ZeppelinやDeep Purpleとも違うし、The Beatlesの「Helter Skelter」的でもない。これまた語弊があることを承知で言うが、ZARDサウンドはハードロックのローカライズであると思う。例としては、やはりM6「負けないで」を挙げよう。「負けないで」と言えば、キャッチーなサビメロとドンタコの軽快なビートが特徴的なので、そこに耳が集中するところがあるだろうが、ギターサウンドは随分と歪んでいるし、チョーキングも多用されている。鍵盤の重ね方、音色もまさにハードロック的だ。よくよく聴けば、ドラムスも決して軽快なだけでなく、結構バキバキしている。ところが、歌が入るとそのサウンドは鳴りを潜める。正確に言えば、鳴ってはいるものの、歌を邪魔しないのである。ギターはストロークに転じて、ドラムスはスネアが減る。それぞれ軽く自己主張はあるが、歌に重ならない。アレンジとミキシングとが巧みなのであろう。楽器のアプローチはハードだが、アクの強すぎないサウンドに仕上げている(M4「In my arms tonight」やM5「あなたを好きだけど」のサウンドメイキングはAORっぽいとは思うが、ギターの圧しはハードロックに近いと思う)。所謂“イカ天”“ホコ天”のバンドブームを経てきた90年代の邦楽シーン。その後、小室ファミリー、ビジュアル系、AIR JAM世代と多様化していく中において、泥臭くも汗臭くもないギター中心のハードロックサウンドが支持される下地は、時代的にも充分にあった。ZARDはこれ以上ない形でそこに乗ったと言える。

OKMusic
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未だに謎も……没後10年を迎えたZARD・坂井泉水

2017-06-20 01:58:15 | ZARD
http://www.excite.co.jp/News/90s/20170619/E1485411238356.html

未だに謎も……没後10年を迎えたZARD・坂井泉水
2017年6月19日 09時00分

今年の5月27日で10回目の命日を迎えたZARDのボーカル・坂井泉水さん。

亡くなってから10年が経つが、いまだに彼女の歌声は多くの人の心に残っている。
また、その死はあまりに突然だったこともあったこともあり、様々な憶測を呼んだ。

■ ヒット曲を連発したZARD

坂井さんはZARDとして、1991年にデビュー。その後、ヒット曲を連発し、『負けないで』『揺れる想い』『マイ フレンド』など9作でミリオンヒットを記録している。
また、テレビなどのメディアに出演することがほとんどなく、そのミステリアスさも注目を集めた。

一見すると順調な音楽生活であったが、2000年以降、子宮筋腫、卵巣のう腫、子宮内膜症と次々に病気を患っていた。
2000年に自身の曲「Get U're Dream」がNHKのシドニーオリンピック放送時のテーマ曲になったため、「NHK紅白歌合戦に出場か?」と取り沙汰された際も、「体調がすぐれないため」と辞退している。

■ 衝撃的だった坂井泉水の死

そして2006年6月、子宮頸ガンが発覚し、手術を受けて全摘出していた。その後回復に向かったが、翌07年の4月に肺に転移していることが見つかったことから、入退院を繰り返していたようだ。

そして悲劇は入院中に起きてしまう。
2007年5月26日、入院していた東京・信濃町の慶応大学病院の非常階段付近で大量の血を流して倒れているのが見つかった。発見後、すぐに院内の救急病棟に運ばれたが、翌日の午後に脳挫傷のために死亡した。

スロープ状になっている高さ約3メートルの地点から転落。後頭部を強打したことによる脳挫傷が直接の死因となった。

■ ネットなどでは憶測も

当時、警察は事故と自殺の両面で捜査していた。ネット上でも、「事故だったのか? それとも自殺だったのか?」との議論が起きている。

しかし、生前の坂井さんに近かった音楽関係者などは不慮の事故による死であったのでは、と語る。
というのも、亡くなった07年年の秋には、アルバムの発売とライブツアーの実施計画があった。そのため、彼女自身も新曲用の詞を病床で書き留めるなど、復帰後に向けて意欲的な姿勢で過ごしていたという。

また、入院中に発行されたファンクラブの会報に載った坂井さんのメッセージには「体調は思わしくないが、頑張っている」という言葉とともに、前向きな姿勢が表わされていた。遺書ももちろん見つかっていない。

坂井さんが所属していた事務所・ビーイングは彼女の死後、“坂井泉水が数々のヒット曲とともに、いつまでも皆様の心の中に生き続けることを願ってやまない”とのコメントを発表した。
そのコメント通り、今もなお彼女の歌声は多くの人の心に残っている。
(せんじゅかける)
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「のど自慢」森昌子が「せんせい」、河合郁人と湖月わたるが「越冬つばめ」披露

2017-06-17 01:55:32 | ZARD
http://natalie.mu/stage/news/237037

「のど自慢」森昌子が「せんせい」、河合郁人と湖月わたるが「越冬つばめ」披露
2017年6月16日 13:51


6月から8月にかけて東京・兵庫・愛知にて上演される「音楽喜劇『のど自慢』~上を向いて歩こう~」の、歌唱予定曲が一部公開された。

発表されたのは、赤城麗子役の森昌子が、役になりきって歌う、自身の楽曲「せんせい」「越冬つばめ」。「越冬つばめ」は赤城のマネージャー・須谷保役の河合郁人と、赤木の妹・しずか役の湖月わたるによる歌唱も披露される。このほかラインナップには、ZARD「永遠」、ザ・タイマーズ「デイドリーム・ビリーバー」、坂本九「涙くんさよなら」も含まれる。

「音楽喜劇『のど自慢』~上を向いて歩こう~」は井筒和幸監督の映画「のど自慢」を原作とした作品。脚本・演出をモトイキシゲキが手がけ、テレビの人気番組「のど自慢」に出場しようと奮闘する人々の姿が描かれる。なお現在、公式サイトでは、出演者たちの「十八番」エピソードを順次公開中だ。
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永遠の歌姫 ZARDの真実 第6回 [体調を崩したZARD・坂井泉水がウエディングドレスを着たがった理由]

2017-06-06 00:41:49 | ZARD
https://dot.asahi.com/dot/2017060300033.html

体調を崩したZARD・坂井泉水がウエディングドレスを着たがった理由
永遠の歌姫 ZARDの真実 第6回
2017/6/ 4 07:00

 10年前、不慮の事故で若くして亡くなったZARDのヴォーカル・坂井泉水さん。その魅力はファンの間でいまも色あせることはない。ほとんどの映像の制作に携わったビーイング映像部の伊藤孝宏さんが語る、その美しさの秘密とは?

*  *  *
「ドレス、着てみたいな」

 この坂井泉水さんのリクエストで、2006年、ZARDの42枚目になるシングル曲「ハートに火をつけて」のプロモーション映像の準備がされた。この曲はタイアップのドラマに合わせたウエディングソングだったこともあり、ドレスは真っ白なウエディングドレス、撮影は結婚式場で行われた。場所は恵比寿のロビンズクラブ。チャペルを併設したレストランだ(現在はウエディングを取り扱っていない)。

「坂井さんからの希望がスタッフに伝えられるのは珍しいことでした。みんな張り切って、朝7時から夜の11時近くまで、たっぷりと撮影しました」

 ふり返るのは、ZARDが所属したレコード会社、ビーイング映像部の伊藤氏。ZARDのほとんどの映像の制作に携わり、自身でカメラを回すこともあったZARDの映像担当者だ。

「あとで知ったことですが、この頃すでに坂井さんは体調を崩されていました。長時間撮影を行ったことには、今も責任を感じています。ただ、坂井さんのコンディションは、僕を含めて、スタッフは誰も気づいていなかったはずです。今記憶を手繰り寄せても、元気にふるまう姿しか思い出せませんから。彼女はけっして自分の弱いところを見せない女性でした。撮影の合間の坂井さんはキャストとして参加していた子どもたちと戯れていました。子ども用カードゲームのムシキングの話で盛り上がっていた。彼女はいつも甥っ子さんと遊んでいたそうで、子どもに人気のゲームやアニメに詳しくて。あの撮影が、僕が見た最後の坂井さんです」

 その後すぐ、坂井さんは子宮頸(けい)がんで入院している。

「病気のことは、会社で知らされました。でも、僕たちは復帰すると思っていました。時々上司からロケを組む話が来ていたので。その都度準備をしては、坂井さんの体調がよくならずにバラす。そんな1年でした」

 ロケがかなりリアルになったこともある。

「水族館で撮影をしたい」

 坂井さんのリクエストがスタッフに伝えられ、伊藤氏たち映像チームと、スチール写真のチームはさっそくロケハンを行った。

「しながわ水族館で、いよいよ撮影だ! という雰囲気になったけれど、直前に中止の連絡が来た。坂井さんの体調がよくないということでした」

 2007年5月26日、坂井さんは病院のスロープから落下して脳挫傷となり、27日にこの世を去った。

「日曜日でした。上司から電話で知らされました。翌日は、カメラをもって病院へ行きました」

 しかし、伊藤氏は撮影できなかった。

「撮る気持ちになどなれません。ショックで、頭の中が真っ白な状態でした。病院に着くとすでに会社の人が集まっていて、でも、誰もひと言も発しなかったことを覚えています」

 葬儀も、伊藤氏は会社の指示で、喪服でカメラを持って参列した。

「平常心ではいられずに、でも役割なので、カメラは回しました。自分でも何を撮っているかわからずに。つらかったこと以外、あの時の自分のことはほとんど覚えていません。撮影した葬儀の映像は、後日チェックしました。どこを撮っているのかわからないような画でした。この仕事に就いてから、あんな経験はほかにはありません」

 伊藤氏が坂井さんと出会ったのは1993年。ZARDがデビューした2年後だった。

「私がテレビの制作会社からビーイングに移って間もないころのことです。ほかのアーティストの映像チェックで、長戸大幸プロデューサーの部屋に呼ばれました。その時に坂井さんもいらっしゃった。『負けないで』リリース直後のことです。坂井さんと長戸プロデューサー2人を前に、私は緊張しがちがち固まっていて。何を話したか、どんな動きをしたか覚えていません。坂井さんについては、きれいな女性、大きなオーラを感じました。彼女は、あの日の私の緊張したカクカク動く動作がよほど印象的だったらしく、時々まねされました(笑)」

 坂井さんとの初仕事は「揺れる想い」のプロモーション映像だった。

「ZARDの映像はほかのアーティストとはまったく違う発想で作りました。通常はテーマありきで撮影を行います。コンテを作って、スタート! アクション! の合図で始める。映像企画の枠にはめるためです。一方、坂井さんの場合は、自然な姿を長時間撮影して、長戸プロデューサーが全ての素材に目を通し、ZARDのイメージに合った部分のベストカットを選び、その映像を軸に全体を構成していきます。スタート! アクション! はなし。坂井さん自身の映像が決まったら、その間を海や青空でつないでいきます。CGを使うことも基本的にありません。映像には意味を持たせないんです。曲とともに本人のイメージがリスナーの意識に残ることが最重要でした」

 これは「揺れる想い」のころから定着していった手法だ。

「初期は岩井俊二さんをはじめ、映像やスチールも著名な方々が撮っていましたが、坂井さんは緊張して、本来の自然な姿にならないのです。それで、社内スタッフが担当するようになった。私が参加した頃はすでに、自然体の坂井さんを撮影するという共通認識がスタッフ内にありました。カメラマンやディレクターは作品性を意識しない。主観を入れない。そこでなにかしらの自己実現を試みない。徹底していました。坂井さんのカラーは青ということも共通認識だったと思います。自然に全員が感じていたのでしょう」

 後年に1度だけ、実験的な試みを行っている。

「真夏のニューヨークで、当時最先端のメーク、ファッション、映像のスタッフを現地で集めて大掛かりに撮影しました。米国スタッフに坂井さんの音楽だけ聴いてもらって、あとは任せました。私はロケに参加していませんが、編集はおこなっています。坂井さんはかなり濃いメークをし、撮影に臨みましたが、その映像と写真はZARDのイメージとかけはなれていてボツになり、当時はほとんど使われませんでした。ただ、坂井さんも楽しそうに撮影していたのでその様子をファンの方に見ていただこうということで、坂井さんが亡くなってから長戸プロデューサーの意向で未発表動画として公開するようになりました。でも本当に坂井さんは素で十分にきれいです。メークに凝ると、アーティストというよりも、モデルさんのようになってしまいます」

 自然体の坂井さんを撮影するために、伊藤氏ら映像チームは、スチールチームと協力して、あらゆる場所をロケハンしてまわった。

「ZARDのイメージに合う場所を常に探し回りました。ZARDの映像の企画性は不要なわけですから、いいイメージを1カット撮れればOKです」

 特に印象的なのは湘南での撮影だ。

「三浦半島をぐるりと一周ロケハンして。秋谷や葉山で撮影しました。秋谷の映像は1999年のシングル『MIND GAMES』で使っています。撮影の日は曇天で空がのっぺりした雲に覆われていたので背景はあきらめて、ビーチで風と戯れる坂井さんをありのまま撮影しました。海を臨むDONというイタリアンレストランでランチをとりました」

 シングル「愛が見えない」のロケの葉山では、ちょっとしたアクシデントがあった。

「ラ・マーレ・ド・チャヤの撮影で、ウエイトレスさんが緊張してコーヒーをこぼしたんですよ。坂井さんの白い衣装がコーヒー色に染まってしまった」

 スタッフは慌てた。

「今日の撮影は中止かな……」

 伊藤氏もあきらめかけた。

 しかし、坂井さんは何事もなかったようにふるまった。

「大丈夫です。すぐに着替えてくるから、続けましょう」

 ウエイトレスさんを気遣い、そのまま撮影を継続した。

「コーヒーがかかる一瞬前の映像はどこかにまだあるはずです。その後は、僕も動揺してカメラを置いてしまったので。音声だけしか残っていません」

 葉山の西隣の逗子でも撮影を行った。

「逗子海岸の南側、国道134号線沿いの小さな岬の上に、2階建てロンドンバスを改造した黄色いホットドッグ屋さんがありました。サブマリンドッグという有名な店です。あそこでも撮りました。スチールは『サヨナラは今もこの胸に居ます』のジャケットになっているので、ファンの皆さんはご存じだと思います」

 1990年代は撮影も活発だった。

「2000年代に入ると、坂井さんの体調のこともあり、撮影の機会は少なくなっていきました。ただ1度行われた2004年のツアーも、オフショット映像などはほとんど撮っていません」

 レンズを通して坂井さんを見続けてきた伊藤氏の思う「坂井さんらしさ」とはいったいどういう姿なのだろう。切なげなのか。はかなげなのか。

「何かを想像させる映像やスチールではないでしょうか。何を考えているんだろう、何を望んでいるのだろう、と見る側が思いを膨らませて行く。そんな画です。ZARDの曲は坂井さんが歌詞を書き、坂井さんが歌っています。でも、リスナーは自分の物語として聴くこともあるんじゃないでしょうか。ZARDの映像も同じで、強い1カットの映像が、皆さんの心にいつまでも焼き付いて残って行くような気がします」

(文/神舘和典)
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永遠の歌姫 ZARDの真実 第5回 [ZARD・坂井泉水がただ一度だけ見せた悲しみの涙]

2017-06-02 01:20:32 | ZARD
https://dot.asahi.com/dot/2017060100060.html

ZARD・坂井泉水がただ一度だけ見せた悲しみの涙
永遠の歌姫 ZARDの真実 第5回
2017/6/ 1 14:31

 ZARDのヴォーカル・坂井泉水さんがヒット曲を連発した全盛期を陰で支えたスタッフのひとりが、ZARDの宣伝販促の担当であり、撮影や海外ロケに同行するなど、マネージャー的な役割も果たしていたA&Rの小林さゆ里さんだ。担当となった当時は新人で音楽業界のことを右も左もわからないど素人だったが、坂井さんは快く受け入れてくれた。そんな小林さんが目撃した坂井さんの涙とは――。

*  *  *
「どうして、あの時、もっときちんと話をしなかったのだろう」
「どうして、あの時、すぐにその場を去ってしまったのだろう」

 1990年代に坂井泉水さんのA&Rを務めた小林さゆ里さんは、今も悔やんでいる。

「2006年のことです。会社のエントランスでぼうっと歩いていたら、正面から来た女性とぶつかりそうになりました」

 あわてて謝った。

「すみません!」

 頭を下げ、顔を上げたら、坂井さんだった。

「お疲れ様です!」

 大声で挨拶して、驚きのあまりあわててその場を去った。

「担当でなくなって何年も経っていましたけれど、坂井さんは私にとって永遠にリスペクトの対象です。驚き過ぎてお話が出来なかった。まさかそれが最後になるなんて思っていませんでした」

 坂井さんは2007年5月27日に、入院中の転落事故で他界し、それと直接的な関係はないが、その後小林さんは音楽業界を離れて生活をしている。

 小林さんが坂井さんの担当になったのは1993年4月。「負けないで」が大ヒットした直後だ。その年の1月にZARDが所属するレコード会社兼プロダクション、ビーイングに入社し、3カ月目に内示を受けた。

「明日から君はZARDの担当だ。今、坂井さんがスタジオに来ているから、挨拶してきて」

 上司に言われるまま挨拶に行った。

「若かったし、音楽業界は初めてだったので、ZARDの宣伝担当になることに何も疑問を持たず、さしたる不安も覚えず、スタジオに向かいました」

 写真で見ていた坂井さんに対する小林さんの印象はもの静かな女性。伏し目がちの、どちらかというと沈んだ表情のカットしか目にしたことがなかったからだ。

 しかし、スタジオには、白いセーター姿の輝くような坂井泉水がいた。

「CDジャケットよりもはるかに美しくて、驚きました。ZARDの初期は特にロック色の強い曲も多かったけれど、坂井さんの容姿からはさほどは感じませんでした。」

 小林さんの年齢は坂井さんよりも1つ下。同世代だったせいもあり、とても気さくに話しかけてくれた。

「ブレーク直後の大切な所属アーティストの担当にド新人を付けた会社の判断にもびっくりですけれど、音楽業界について右も左もわからないド素人同然の私を快く受け入れてくれた坂井さんの度量の大きさにも驚きました。とても丁寧な言葉で、優しい話し方で、すごくうれしい気持ちになったことを覚えています。ちなみにその日、坂井さんが着ていたセーターは、後に『揺れる想い』の映像でも見ることができます。同性から見てもどきどきするほどのかわいらしさでした」

 そんな坂井さんが悲しみの涙を流す姿を小林さんは一度だけ目撃した。週刊誌やスポーツ紙で坂井さんがデビュー前、レースクイーンやモデルをしていたことが取り沙汰されることもあったのだが、ある時事実と異なる記事が掲載された。

「坂井さんはZARD以前の自分の活動については、それも自分のキャリアの一部だとそのまま受け入れていました。ただ、事実ではない中傷記事がスポーツ紙に大きな見出しになったときは、涙がこらえきれなかったようです。私たちに泣き顔を見せたくなかったのでしょう、しばらく化粧室から出てきませんでした。それが、私がただ一度だけ見た、坂井さんの悲しみの涙です」

■女性アーティストではあり得ない行動で驚かす

 大ヒットを続けるZARDであったが、本人稼働によるプロモーションはほとんどなかった。

「ZARDのスケジュールは制作主導です。坂井さんは歌詞を書き、時には翌日にレコーディングし、数日後にはジャケットやプロモーション用の撮影を行います。過密スケジュールなので、プロモーション稼働の時間はとれません。本人稼働なしで、タイアップでオンエアされるTVサイズの短いZARDの音源をもって、販促や営業を行っていました。テレビや新聞や雑誌などでメディアのインタビューに対応するのは最小限です。当然、プロモーション担当や営業担当はとても苦労します。本人稼働がないとプロモーション展開は厳しいなどと本当によく言われていて、アーティスト担当の私と現場をまわるスタッフたちは日々せめぎ合っていました。ただ、今になって思うのは、ZARDとしての制作主導のあり方がこんなに多くの素晴らしい作品を世の中に残してくれた。それは間違っていなかったんです」

 音楽業界に入るや即、小林さんは大ヒットを連発しているアーティストの担当になり、1998年春に異動になるまで、坂井さんとともに怒涛の日々を送った。

「レコーディングの時は“無”になるんです」

 坂井さんはいつも、小林さんに話した。

「“無”になるのはレコーディングだけでなく、撮影や海外ロケの時にも感じました。レコーディングで言えば、坂井さんは歌に集中するために心をニュートラルにするように努めていました。そして、坂井さんが“無”になれるように、スタッフも環境を整えていました。レコーディングエンジニアの島田勝弘さんは早い時間にスタジオに入り、坂井さんの好きなグッズや喉を傷めないための加湿器を用意しました。撮影の時の楽屋もレコーディングスタジオ同様にリラックスできる空間作りを心掛けていて、ふだん夜型の暮らしをしている坂井さんがくつろげるように、ソファや女性ファッション誌などを用意しました。坂井さんの苦手な乾燥を避けるために楽屋でも本人が入るかなり前から加湿器をつけておくのですが、壁が水滴だらけになっていたこともありました(笑)」

 また、プロモーション映像のシューティングや海外ロケの時にはこんなことも。

「楽屋からなかなか出ないこともありました。撮影の準備が整っても、心の準備がまだだったのでしょう」

 楽屋の中は坂井さんと小林さんの2人だけ。そんなとき、小林さんは坂井さんの肩をほぐすためにマッサージをした。すると、やがて、

「行きます!」

 坂井さんは自分に喝を入れるように声を上げ、撮影現場に向かっていく。

「緊張というよりも“無”という状態を作っていたのかなと。だからこそこの時間は重要だったのかと思います」

 そしてこんなこともあった。

「1度、メークの濃さが気になった撮影がありました。自然体の坂井さんのイメージとは少し違っていたのです」

 総合プロデューサーの長戸大幸氏が指摘すると、坂井さんは女性アーティストでは、ふつうはありあえない行動をとった。

「その場でパシャパシャと洗顔して、すっぴんになったのです」

 担当になりたてだった小林さんはあっけにとられた。しかし、坂井さんは、なにもなかったかのように撮影を続けた。

「即すっぴんになった坂井さんの覚悟にも驚きましたけれど、すっぴんでカメラの照明やレフ板に輝く坂井さんの美しさにも驚かされました」

 普段の坂井さんもすっぴんかナチュラルメークだった。

「事務所もスタジオも六本木にあったので、移動はいつも徒歩でした。そういうときの坂井さんは、デニム、Tシャツ、キャップというラフなスタイルです。キャップは目深にかぶって、アーティストオーラを消します。それでも、モデル事務所のスカウトマンに頻繁に声をかけられていました」

 その場ですっぴんになって撮影に臨んだエピソードが象徴するように、坂井さんはいつも覚悟のある女性だった。

■カラオケでリクエストされた『揺れる想い』

「クルマを運転する撮影のときは、どうしようかと思いました」

 小林さんは慌てた。というのも、坂井さんはペーパードライバーで、ふだんはまったくハンドルを握っていなかったのだ。

「当日は、坂井さんだけではなく、私たちもものすごく緊張しました。危険があったら、クルマを体で止める覚悟でした」

 しかし、運動能力の高い坂井さんは、最初は戸惑っていたものの、すぐに自動車教習所時代の感覚をとりもどす。心配するスタッフたちの前を涼しい顔で、時には笑顔を浮かべてハンドルを切り、通り過ぎて行った。

 坂井さんは、自分を支えるスタッフに囲まれている時には心をほどいた。

「ロンドン・ロケの時にみんなでカラオケに出かけました。坂井さんが仕切って、それぞれが歌う曲を決めていました」

 小林さんへのリクエストは「揺れる想い」だった。

「まさか坂井さんご本人の前で歌うことになるとは思いませんでした(笑)」

 予想外のことだったが、そこは担当として断るわけにはいかない。

「覚悟を決めて、歌いました。この時、お店にいた日本人旅行者のグループが坂井さんに気付いて、ZARDの曲を歌っていて、日本から遠く離れたヨーロッパで響く自分の歌に、坂井さんはうれしそうにしていました」

 感謝の気持ちは、坂井さんはいつも文字でつづってくれた。

「自筆の温かいメッセージカードをいつもいただきました。その1通1通は今も大切にもっています」

 坂井さんは、ファンからの手紙への思いも特別に強かった。

「ファンレターも大切にしていました。メディアへの露出が少なく、ライヴもほとんどやらず、リスナーとの接触がなかったからかもしれません。ファンレターはいつもじっくりと読んでいました」

 読みながらとてもうれしそうな表情を浮かべていた。

 そんな坂井さんは2004年に初めてのツアーを行い、ファンの前に立った。

 小林さんは会場でその光景を目にしてつぶやいた。

「やっとファンに皆さんに会えましたね」

 1998年、社内で担当替えがあり、小林さんはZARDの担当から離れる。

「担当を離れる時には、坂井さんがオフィスを訪ねてくださいました。シャンパンと手紙を手に。ところが私は外出中で、お目にかかれず、申し訳ない気持ちになったことを覚えています」

 その後小林さんはZARDのプロモーションも行ったが、坂井さん本人のメディアへの稼働はなく、接触はなかった。

「再会したのは担当を離れてから8年後です。坂井さんが社内で打ち合わせをしてクルマで帰られるタイミングに居合わせて、ほかの社員と一緒にお見送りしました。エントランスですれ違ったのはその後です。あの時は2人だけだったのに、まともに会話ができなかったことが悔やまれます」

 坂井さんの歌声は、小林さんの中で今も響いている。

「同世代だったからかもしれませんが、坂井さんとご一緒していた時期も、その後も、いつの時代もZARDの歌詞に共感して、感銘を受けています。今もZARDの曲に触れることは多く、私が音楽業界を離れたからかもしれませんが、坂井さんは存在しているように感じています。今この時も、スタジオにこもって歌っている、と。それは、おそらく、坂井さん亡き後も、長戸プロデューサーをはじめスタッフのかたがたが、存命中の坂井さんの作品や思いを大切に守っているからでしょう」

 小林さんが特に好きなZARDのナンバーは「きっと忘れない」「明日を夢見て」「君とのふれあい」。

「『きっと忘れない』は、私が25歳のときに初めてフルサイズの音源を聴いて、仕事が手につかないほど心が震えました。『明日を夢見て』は、2004年のツアーで、坂井さんがステージで歌う姿を初めて見て、スタッフたちと涙を流しました。ずっと夢見ていた瞬間だったからです。『君とのふれあい』での語りかけるような坂井さんの歌唱も大好き。坂井さんのキャリア終盤の曲ですが、なぜかA&Rとして仕事でご一緒していた1990年代のがむしゃらだった自分を思い出します」

 坂井さんが作詞家として、ほかのアーティストに提供した曲もよく聴いた。

「坂井さんが男性アーティストに書いた作品には、自立している夢を持つ女性がよく登場するからです」

 DEENの「瞳そらさないで」、FIELD OF VIEWの「DAN DAN 心魅かれてく」など。

「ちょうど、精神的にも経済的にも自立する女性が目立ち始めた時代の作品です。ひょっとすると、それは坂井さん自身だったのかもしれません。というのも、音楽と向き合っているときの坂井さんには、男性的な強さを感じました。もし坂井さんが存命していたら、さらに表現の場を広げ、今頃は美人エッセイストとしても活躍していたのではないでしょうか」

(文/神舘和典)
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永遠の歌姫 ZARDの真実 第4話 [ZARD・坂井泉水は『負けないで』ヒット中も誰にも気づかれず、小田急線で通勤]

2017-05-27 20:07:43 | ZARD
https://dot.asahi.com/dot/2017052700019.html

ZARD・坂井泉水は『負けないで』ヒット中も誰にも気づかれず、小田急線で通勤
永遠の歌姫 ZARDの真実 第4話
2017/5/27 16:12

 没後10年となるZARDのヴォーカル・坂井泉水さんを偲び、命日の5月27日、多くのファンが東京・六本木に設けられた献花会場を訪れた。『負けないで』『永遠』など誰もが口ずさめる大ヒット曲を多く残しながら、その短かった40年の人生は謎のヴェールに包まれている。坂井さんが所属したレコード会社でマネージメントオフィスのビーイングで、彼女のレコーディング・ディレクターを長年、務めた寺尾広氏が、その知られざる一面を明かしてくれた。

*  *  *
「実は私、ずっと寺尾さんがトラウマだったんですよ」

 坂井さんにこう言われて、レコーディング・ディレクターの寺尾氏はキツネにつままれたような気持ちになった。

「えっ?」

 寺尾氏はあらためて坂井さんの表情を見つめる。

「私のデビューの時のことです。覚えてますか?」
「いえ……」
「そばにいてほしいの、を私、1週間ずっと歌った」
「あっ、そんなこと、ありましたね」
「あれ以来、寺尾さんの顔を見る度に、私、またたくさん歌わされるのかな!?って思って(笑)」

 言われたのは2005年ごろだった。

「坂井さんがZARDでデビューした1991年から、僕はいろいろとレコーディングに携わってきました。でも、15年の間、まったく気づきませんでした」

 寺尾氏が坂井さんと出会ったのは、ZARDのデビュー直前。坂井さんが気を遣わないようにと、総合プロデューサーの長戸大幸氏が若手スタッフを中心にZARDのスタッフを編成したときに召集された。

「坂井さんの第一印象は、おとなしそうな女性、かな。姿勢がよくて、凛としていました」

 それからまもなく、デビューシングル「Good-bye My Loneliness」のレコーディングがスタートする。

「声量がすごくて、コンソールのヴォーカルのメーターが目一杯振れていた。おとなしそうな容姿とのギャップが大きかったことをよく覚えています」

 驚きだった。寺尾氏のモチベーションのメーターも振り切った。

「『Good-bye My Loneliness』の、<だから今は そばにいて欲しいの>、というフレーズの一番高いところの『て』が、坂井さん、当時は安定していなくて、何度も録音し直しました。カップリング曲の『愛は暗闇の中で』はすぐに録り終えたけれど、『Good-bye My Loneliness』はその部分だけでも一週間掛かりました。最後は、頭蓋骨を響かせるような声がポン!と出て、OKになりました」

 その時のことが、坂井さんにとっては、キャリアを通してのトラウマになったと打ち明けられたのだ。

「あっ、いえいえ、でも、あの一週間があったから、その後の私があると思っているんです」

 坂井さんは顔をほころばせた。

「申し訳なく感じました」

 寺尾氏は反省した。というのも、長戸プロデューサーに念押しされていたのだ。

「ディレクターとアーティストは、絶対に先生と生徒の関係になったらだめ。アーティストのほうが、音楽の中にたくさんのものが見えている。そのアーティストが作品をつくる、手助けをするのがディレクターの役割だということを忘れてはいけない」

 長戸氏のこの言葉を寺尾氏は肝に銘じていたのだ。

■スタジオでのお気に入りの出前はチャーハンと餃子

 レコーディング・スタジオに、坂井さんは家族と一緒に住む家から小田急線で通っていた。

「ビーイングの所属アーティストは、結構電車でスタジオに通っていて、坂井さんも例外ではありませんでした。彼女には、いわゆる“アーティスト・オーラ”を消す才能があったのか、混んだ電車に乗っていても気づかれなかったようです。『負けないで』が売れても、『揺れる想い』が売れても、ずっと電車移動。レコーディングは夕方にスタートすることがほとんどでした。レコーディングが深夜に及んだときはタクシーかスタッフの車で送ります。ただ、1990年代後半は自分で車を用意して、運転手を雇用していました。彼女は音を徹底的に追求するので、レコーディング時間がどうしても長くなったので。自分で運転できればよかったのかもしれませんが、彼女はペーパードライバーでした。大阪でのレコーディングや撮影にももちろん電車です。1人で新幹線に乗って、キャリーバッグを転がして来ました」

 100万枚を超えるヒットを連発しても、坂井さんの生活が派手になるようなことはなかった。ごくふつうの20代女性の感覚を失わなかったからこそ、多くのリスナーが共感できる歌詞をかけたのかもしれない。

 食事も、特別なものではなかったという。

「シンガーとしての、食べるものへの気遣いはありました。レコーディング中は特に。時間、内容、量……。歌うために何がいいか、どのくらいのペースで食べるのがいいか、いろいろと試していましたね。六本木のスタジオバードマンの時は、最初は外苑東通りにある叙々苑の焼肉弁当です。マッドスタジオでレコーディングしていた頃は、スタジオの近くにあったグッデイというお店でBLTサンドイッチを頼みました。時代は後になりますし、ごくまれですが、大阪でレコーディングしたときは、心斎橋の明治軒でオムライスを頼みました。そして、1990年代の後半に行き着いたのがチャーハンと餃子でした。高級なフカヒレチャーハンとかではなく、ごく一般的な五目チャーハンです。そして、歌の合間に少しずつ食べます。冷めても気にせず。加減に個人差はあるものの、シンガーは喉に少し油を与えるといい状態で歌えます。たぶん、チャーハンと餃子の油分は彼女の喉にちょうどよかったのでしょう。逆に、スタジオでは、ウーロン茶は口にしませんでした。歌に必要な油分を喉から洗い流してしまう心配があるそうです」

■シュークリームが苦手だった坂井泉水

 坂井さんに気を遣わせてしまったという失敗もした。

「1994年のアルバム『OH MY LOVE』のレコーディング中に、坂井さんが誕生日を迎えましてね。僕、ふだんは手ぶらでスタジオへ行くんですけれど、その日はシュークリームを買って行ってみんなで食べました」

 寺尾氏にとっては、楽しい思い出の1つだった。そして、2005年の「君とのDistance」の制作時も一緒に仕事をすることになった。

「長戸プロデューサーも僕も大阪で仕事をしているので、坂井さんもよく打ち合わせやレコーディングにやってきました。大きなキャリーバッグを両手で2つ転がしてきたこともあります。服が入っているのかと思ったら、1つは歌詞のもとが書かれたノートやレポート用紙がぎっしり詰まっていました。長戸プロデューサーから指示を受けた後は、歌詞ができるまでは一人で会議室にこもって書いていました」

 そして坂井さんは前年2月6日、大阪滞在中、誕生日を迎えた。

「あっ、寺尾さん、どうぞお気遣いなく。誕生日のプレゼントはいりませんから(笑)」

 会うなり、坂井さんに言われた。事情を訊くと、坂井さんはシュークリームが苦手だったのだ。10年前の誕生日のシュークリームは、坂井さんにとっては苦い思い出になっていた……。

「ゴメンね。知らなかったので」

 謝る寺尾氏。

「いえ、大丈夫です」

 坂井さんは表情をほころばせる。

「でも、坂井さん、あの時、シュークリーム、食べたよね?」

「そりゃあ、あの状況では食べますよ」

 坂井さんはさらに笑顔になる。

 そのとき、別のスタッフがスタジオにやってきた。

「坂井さん、お誕生日おめでとうございます! これ、差し入れです!」

 そういって、シュークリームがたっぷり詰め込まれた箱を掲げた。その場がしんと静まる。

「あれ、どうしたんですか?」

 状況を理解できずに立ち尽くすスタッフ。

 坂井さんは笑顔で「ありがとうございます」と言ってシュークリームを食べた。

「あれ? 坂井さん……大丈夫?」

 寺尾氏の心配をよそに坂井さんは

「あ、いえ……、美味しいシュークリームだったら食べられます」
「うわ~俺のは不味かったのか……」

 次の瞬間、スタジオ内は爆笑が響いた。

■途中からセルフプロデュースだった坂井泉水

 ZARDの輝かしいキャリアにおいて、「Good-bye My Loneliness」の「頭蓋骨を響かせるような声がポン!」と出ると寺尾氏が表現した歌唱が、持ち味の1つになったことは間違いない。

「2年後の『君がいない』のアルバムバージョンはコーラスも坂井さんですが、そこではE、つまり高音域のミまで、坂井さんは地声で出ましたから。かなり高い声です。最初は苦労していたけれど、2年ちょっとでこの音域が安定して出るようになりました。声は喉の筋肉によって発せられるので、正しく鍛えれば、どんどん状態はよくなっていきます。ただし、疲労もします。だから、2テイク目、3テイク目あたりまでがいいんです」

 初期は、坂井さんが歌い、寺尾氏がテイクを選び、エンジニアの島田勝弘さんがつなぎ、坂井さんがさらに選ぶ……という役割分担だった。

「でも、1992年の4枚目のシングル『眠れない夜を抱いて』から3枚目のアルバム『HOLD ME』のあたりで、ZARDのイメージや方向性をその時のディレクターや関係スタッフみんなが共有できてきた。サウンド面でも、ビジュアル面でも。サウンドに関しては、『TODAY IS ANOTHER DAY』以降、坂井さんのセルフプロデュースになり、やがて、彼女と島田さんの2人で進めるようになりました」

 この「HOLD ME」によって、ZARDはアーティストとしてのステージを上げた。

「デビュー時は坂井さんのロック性や、セクシーな声質も意識しながら制作していたけれど、『HOLD ME』からは明るいサウンドになっています。失恋を歌う切ない歌詞でも、曲は明るい。それがリスナーに受け入れられました。『負けないで』が売れる前で、ZARDの知名度はそれほどでもないにもかかわらず、最終的にミリオンヒットになりました。あそこで全員が自信を深め、ZARDの方向性も明確になりました」

 坂井さんが書く歌詞の自由度も増した。

「ZARDの曲は、そのほとんどはZARDのために書かれたものではなく、長戸プロデューサーのもとに届いたデモ音源から選ばれます。だから、坂井さんは、作曲家とは基本的に会っていません。作曲家に会うと、その人を尊重したり、気を遣ったりして、その気持ちが歌詞に影響します。必要以上にメロディーに合わせようとして言葉を選ぶかもしれません。それを長戸プロデューサーは避けようとしたのでしょう」

 ZARDの音作りに携わっていた寺尾氏が特に好きだったZARDの曲は「心を開いて」。

「サウンド面では、池田大介さんのアレンジとアンディ・ジョーンズのミックスが素晴らしかった。ドタッ!というドラムスから始まるイントロは、コンピューターの打ち込みで作っていますが、まるで生のドラムスのようです。その後に入ってくるピアノも好き。サビもエンディングも好きです。ZARDはサビのアタマにタイトルが入っているケースが多いんですよ。『負けないで』も『揺れる想い』も『きっと忘れない』も『あなたを感じていたい』も『こんなにそばに居るのに』も。でも、『心を開いて』のタイトルは、終盤にちょっと歌われるだけ。どこにでもありそうな日常、何でもないような風景を切り取って歌詞にしてしまう才能は素晴らしい。この歌、僕は最初、主人公が恋人に向かって、『心を開いて(ほしい)』、と思っているのだと思いました。ところが、素敵な男性と出会って、閉ざしていた自分の心が今度こそ開いてほしい、と歌っていると気づいて、胸が震えましたね」

 次に挙げたのは、バラードナンバーの「Forever you」。

「真実を切々と歌う曲です。ソナタ形式でね。Aメロ→A'メロ→サビ→Aメロ→間奏→サビ→Aメロという構成です。この30年くらい、日本のポップシーンのヒット曲の多くが、Aメロ→Bメロ→サビという構成ですが、その定型をいい意味で裏切った。新鮮でした。そして主人公が過去に思っていたこと、迷っていた体験は間違いじゃないという内容の歌詞も、歌い方も坂井さんの思いがこもっているし、演奏も全部が好きです。この思いはファンの方にも伝わっていたと思います。坂井さんがこの世を去った後に行った追悼ライヴでは、見に来てくださった皆さんが一音一音、一語一句を感じるようにサイリウムを振ってくれました」

 寺尾氏があげたもう1曲、「Today is another day」には特に思い出がある。

「2004年に1度だけ行ったツアー『What a beautiful moment Tour』。大阪のリハーサルスタジオでバンドだけで入念にリハーサルをしました。2月下旬に坂井さんにも大阪に来てもらい、数曲のリハを一緒にしただけでした。そして後はバンドだけでリハーサルをしているのを坂井さんは見ていました」

 リハーサルが終わった後、坂井さんから「寺尾さん、『Today is another day』が好きなんですか?」。

 唐突な質問だった。

「なんでですか?」
「この曲の時が一番楽しそうでした」

 曲に合わせて体を揺らす寺尾氏の姿を坂井さんは見ていたのだろう。

「ライヴで映える曲なんですよ。失恋を歌っていながらも、坂井さんが生で全開の声で歌うと、前向きになろう!という気持ちになる。とても共感できます。思い出深い曲です。ちなみに坂井さんはバンドとのリハーサルはその時だけで、あとは自分で練習していていました」

■『森のくまさん』みたいと体を揺らす

 坂井さんがこの世を去って10年経ってなおZARDの曲が多くのリスナーに支持されている理由を寺尾氏はどう考えているのか――。

「まず作品、特に歌詞、そして歌声。そしてその完成を目指す坂井さんの集中力と音楽への執着力でしょう。スタッフみんながOKを出しても、自分が納得しない限りは絶対に譲りません。そして、たとえ完成度が高くても、納得できなければ全部バラしてゼロからやり直す勇気も持っています。さらに、これは関係者全員が感じていることだと思いますけれど、自分が歌いながらも、坂井さんは常にリスナー目線の判断を大切にしていました」

 例えば、人気アニメの劇場版『名探偵コナン 水平線上の陰謀(ストラテジー)』の主題歌となった「夏を待つセイル(帆)のように」の曲を選ぶ打ち合わせの時のこと。長戸プロデューサーのもとに集まってきたデモ音源の中で、坂井さんが大野愛果さんのデモに反応した。

「『森のくまさん』みたいですね」

 そう言って体を揺らした。

「この曲を聴いていただくとわかると思いますが、『森のくまさん』には似ていません。つまり、坂井さんはイメージを伝えた。コナンのファンの子どもでも喜ぶような曲のイメージです。作業に作業を重ね、レゲエのリズムを取り入れたり、ストリングスを入れたり。あらゆる手法を施しました。それでも、最終的に、子どもでも魅力がわかるような音楽になっています」

 寺尾氏の話を聞いていると、ZARDとしての坂井さんは、デビューから亡くなるまで、ごく限られたスタッフのサポートで作品を生んできたことがわかる。

「坂井さんは内輪の人には常に気を遣いつつも、明るくハキハキと話していましたけれど、よく話をしていましたけれど、そこに知らない人が加わると、寡黙になるタイプでした。内弁慶とはちょっと違うけれど、繊細だったのでしょう」

 こうして、寺尾氏と坂井さんは、お互いの20代、30代の時間を共有した。しかし、坂井さんの最期に、寺尾氏は立ち会えなかった。

「最初に病だと聞いた時は思わず泣いてしまいました。結局僕はお見舞いには行っていません。メールでやり取りはしていましたが。坂井さんは歌詞を書いて、ライヴをやるつもりだと聞いていました。今ふり返ると、僕が知る坂井さんは、どの時期もまじめで、ストイックでした。プライベートでは、画を描いたり、ゴルフをやったり、愛犬と戯れたり、ジュエリーを自作したり、楽しんではいたようです。でも、僕が直接、接していた坂井さんは、いつも、自分の作品を作り上げるために貪欲に突き進んでいく女性でした」

(神舘和典)
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