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キリスト教の本質 その②

2008-11-18 21:26:08 | 歴史諸随想
その①の続き
 宗教研究者ひろさちや氏の著書『宗教練習問題』(新潮文庫)3章はキリスト教を取り上げているが、その見出しは「キリスト教は“押し売り的”!?」。ひろ氏は明らかにキリスト教に好感を持っておらず、むしろイスラムを高く評価している。氏の解釈はそれゆえ私には実に面白く刺激的だった。ひろ氏の解釈を要約すればこうなる。
 ユダヤ教の神は契約を結んだ者だけ守るが、キリスト教では神の方から無差別平等に全ての人を愛してくれると考える。すると、全ての人間は唯一神と契約を結ばねばならない…そういう論理になってしまうが、これは押し付け・押し売りの倫理だ。勝手に商品を郵送し、代金を払えと要求するようなものだ、と。

 神は人間からの見返りを求め人間を愛したのではなく、一方的に神は人間を愛している、それがキリスト教の神学なのだ。いかに神学的にはそうであれ、実際にはやはり押し売りになってしまう。キリスト教徒からすれば異教徒の日本人をも神は愛しているのに、一向に神の愛に気付かない日本人が感謝するどころか、「南無阿弥陀仏」など仏を拝んでいる。全くケシカラン、という訳だ。ひろ氏はもはやキリスト教は強制加入宗教だとまで断言。なお、マルコによる福音書にはこう記されている。
-それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(16-15)

 キリスト教徒はユダヤ、イスラム教の「目には目を」を野蛮だと非難、己の「右の頬を打たれたら、左の頬を向けよ」(マタイ福音書5-39)を誇りと拠り所とする。理想としては大変結構だが、実際にキリスト教徒の姿勢は反対だったのは言うまでもない。同等報復どころか、何倍もの拡大報復を行っていたのだ。ユダヤ、イスラムの同等報復も同教徒であり、異教徒は対象外にせよ、キリスト教は出来もしない理想を掲げていたのであり、イスラムの禁酒と同じ類である。ひろ氏はイスラム教よりキリスト教の方が怖い宗教だと書いており、ソフトイメージで布教する後者がむしろ厄介と私も感じることがある。

 日本のマスコミはキリスト教にかなり好意的な報道をするが、それでも改宗する者は至って少ない。日本でキリスト教徒は未だに圧倒的少数派である。そのためクリスチャンが信徒を増やそうと改宗、布教活動を行うのも分らぬものでもないし、日本人キリスト教徒ブロガーが紹介記事を書きたがるのも無理はない。だが、嘘も方便とばかり、彼らは総じて耳障りのいいことばかりを記し、キリスト教の負の面は殆ど取り上げないのだ。そして日本人クリスチャンは概ね親欧米、というより欧米べったりの「出羽の守」傾向が見られる。

 歴史に無関心の人でも、欧米諸国がキリスト教を帝国主義の具にしたことは知っている。クリスチャンに欧米人宣教師が植民地支配の尖兵的役割を果たした歴史を指摘すると、その言い訳が興味深い。「どんな宗教や宗派にも最低の宣伝マンが居る」「そんな低度の低い宣教師はキリスト教徒ではないかも」「アジア・アフリカに来た欧米人宣教師たちは、キリストの教えを根本的に間違って解釈してしまった」…ならば、またも聖書にあるイエスの言葉の一部を抜粋したい。以上のような弁明が全くの詭弁なのが知れる。
地上に平和をもたらすために、私が来たと思うな。平和ではなく剣を投げるために来たのである。私が来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と仲違いさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。私よりも、父または母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも、息子や娘を愛する身なのは、私にふさわしくない。(マタイ福音書10章34-37節)

 クリスチャンのブログ記事を読むと、感性と感覚、価値観が非キリスト教徒と乖離しているのは否めない。私自身、かなりへそ曲がりの性質だが、それでも違和感を覚える。どの宗教にも功罪両面があり、暗黒面ばかりを見るのは全く公平さを欠く。しかし、きれい事ばかり並べられると、逆に胡散臭さが増すものなのだ。この姿勢はかつて北朝鮮を「地上の楽園」と持ち上げていたマスコミと酷似している。
 あるカトリックブロガーのコメントで、苦笑させられたものがある。「お釈迦さまは神に関してコメントしていませんから、仏教からはキリスト教へ入るのに心理的抵抗感が無いのだと、かねがね考えていました」!仏教徒を改宗させたくて堪らない心理が伺えた。ビルマ(現ミャンマー)では、仏教が対英独立闘争のイデオロギーとなった。

 カトリック以外の日本人キリスト教徒でも、ローマ法王は特別の存在だろう。しかし、非キリスト教徒なら、必ずしもそうではない。先日、私は若いブロガーさんにローマ法王について質問したが、実に健全、常識的な回答で満足させられた。
そもそも、ローマ法王が○○したから、という事に正義や聖なるものと受け取れるのは、 我が国ではごく普通の人間でなく、一部の人間ではないでしょうか。また、それが普通である事を気づかないのは、一部の人間ではないでしょうか…聖職者=人格者を探すのは、砂場で砂金を探すようなものですね。クリスチャンから見て、クリスチャン弾圧の引き金となった、サン=フェリペ号事件をどう思われるのでしょうね。

 もちろん、他宗教同様キリスト教徒にも様々な人間がおり、善人、悪人、異教徒に寛容な人、蔑視せず友好的な人もいる。宗教教義と信者全てを同一視するのこそ、宗教迫害の元となる。ただ、遠くない昔キリスト教が全世界で果たした拡張主義を、私は大目に見るつもりも忘れる気もない。

◆関連記事:「キリストの勝利―ローマ人の物語ⅩⅣ
 「宗教の衣をまとった帝国主義
 「パールシーと西欧の衝撃

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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ブルガリア研究室・室長)
2008-11-19 17:08:43
アイルランドにいた頃、進歩主義系の婦人が、「宗教による個人への締め付け」がいかに社会的弊害であるか、すなわち、婦人の人権のために中絶をせざるを得ない事情とかがありうるし、そういった女性を守るために「選択の自由」(中絶の権利)を擁護する運動などで、いかに教会という社会権威が、じゃまをするか、ということを口を極めて批判していた。
西欧では、近代化とか、市民の自由とか、人権という概念が、現代社会、市民社会という意味で、社会進歩と不可分に論じられるのだが、古いカトリック教義が教会の説教として、あるいは宗教保守系の社会運動として存在するアイルランドでは、進歩的な議論は、一定のサークル内で、しかも酒でも飲みながらの議論では自由だが、それを政治的に立法までさせるとなると、とてつもなく困難となる。仏教は、皆が覚えるほどの絶対的な教典がなくて、幸いです。
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Unknown (とり)
2008-11-19 21:26:41
「仏教は、皆が覚えるほどの絶対的な教典がなくて、幸いです。」

テーラワーダ仏教があるじゃないですか。
パーリ語の経典を読めば良いんですよ。
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押し売り (乳輪火山)
2008-11-19 22:10:55
以前、問題の多い法華経系団体に入信した友人から電話で呼び出されました。現場には、別の勧誘役が一緒にいて、見たこともない奇跡を聞かされました。サラリーマン時代の職場では、別の法華経系団体の上司が勤務時間中に勧誘をしてきました。宗教は、迷惑者を正義の味方ヅラに変える程度の効用はあるようです。
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コメント、ありがとうございます (mugi)
2008-11-19 23:18:26
>ブルガリア研究室・室長さん

カトリック国で中絶や離婚を立法化させるのに、宗教界の妨害は相当なものがあるようですね。イタリア在住の作家・塩野七生氏も法王庁がいかに政治に介入してくるのか、かなり以前のエッセイで書いていました。「宗教を正しく理解すれば、平和になる」と書いていた日本人カトリック信者のブロガーもいましたが、戯言の典型ですね。キリスト生誕2千年を経ても、紛争が絶えない(笑)。日本の文化人は紹介したがりませんが、アイルランドに限らず西欧での宗教の重圧は想像以上にあるようです。
「マグダレンの祈り」というアイルランド映画を見たことがあり、その感想を記事にもしましたが、このような施設が90年代半ばまで存続していたことに、唖然とさせられました。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/64b6876f24edcc6bfd9c69989f56b209


>とり さん

日本の仏教は戒律があまりにも緩すぎる傾向もありますが、宗教を特に必要としない社会こそ、平穏となりますよね。
「自灯明、法灯明」で結構だと思いますが、神を説かない仏教は哲学に過ぎず、宗教などではない…というのが一神教側の見解のようです。やはり一神教は絶対的な教典があるからこそ、パワーに溢れている面もありますね。


>乳輪火山さん

近所にいる法華経系団体信者も選挙近くとなれば、電話をかけて投票を呼びかけていますよ。まして、職場の上司が勧誘を迫るとは、完全なパワハラで、困ったものです。ネットでもその某法華経系団体のことを批判すると、早速反応があり、いかに○田先生は素晴らしい方なのか、世界中から夥しい顕彰を受けているのか、丁寧に実例を挙げたりします。
返信する
クリスチャンのイジメ (りり)
2013-01-08 13:18:17
「敵を愛す」「右の頬を叩かれたら左頬を差し出しなさい」と言いながら、それ以下のクリスチャンたちについて…。

最近、キリスト教関係の施設(メンバーのほとんどがクリスチャン)で、こんないじめがあったそうです。

主婦Aさんとしましょう。
Aさんはその団体に「手伝ってほしい」と頼まれ、
その団体の仕事をボランティアで手伝っていました。
「交通費くらい出せると思う」と言われたにもかかわらず、
一度も出してもらったこともなく、毎月計1万円近くの交通費を自腹を切っていたそうです。
でも、Aさんは「それで沢山学ばせて頂いているから」
Aさんの夫(信者ではない)も「人の役に立つことはいいことだ」と気にしないでいたそうです。

ところが、その年の冬のこと。
その団体の人にAさんは聞かれました。
「そういえば、Aさんのご主人って何の仕事をしているの?」
Aさんのご主人は電力会社の関係者でした。
すると、その人たちは
「原発反対~」とAさん相手にふざけかかってきたり、
「あんたは、どう考えてるんだ」と問いただしたりしてきたそうです。

その人たちが払わない交通費を払ってくれるのは、まわりまわってご主人であり、
その人たちの手伝いでご主人と家で食事をとれないことがあっても、
「会社の近くで食べるから大丈夫だよ」
と言ってくれていたご主人であり、
その団体の人たちはそうした事情を知っていました。

ご主人は、間接的であれ、その人たちを応援し、決して少なくない負担をして協力してきた人であるにもかかわらず、
その人たちは、そんなAさんのご主人に対してそうした言動しか取らなかった。。

Aさんは情けなかったそうです。
その日、Aさんの様子がおかしいのにご主人が気づき、
何があったのかご主人は尋ねたのだそうです。
隠し切れずにAさんがその日あったことを話すと、

「そうだったんだ。何も隠さなくていいのに。
自分は、今の仕事は結局誰かがやるしかないからやっているけど、
自分だけが正しいとは思っていない。
だから、そうした人がいても、Aが自分のために怒ってくれることはないんだよ。
ただ、たとえ受け入れがたい立場の人であっても、どんな人であっても基本的な尊敬を忘れないのが大人だと思う。
その人たちはそういう勉強をしてこなかったんだね」

電力会社に批判があることに異論を唱える気はありませんが、
お世話になった人たちの左頬をいきなり打つようなクリスチャンがおり、
右頬をぶたれても、打ち返すことをしない非クリスチャンがおり…。
その人たち、日頃、世の中は冷たいとか愛がないとか、意識が低いとか言っているらしいのですが、
その前に自分たちの人間の基本的なあり方が間違っていることに気付くべきではないかと思います。

敵を愛するなんて嘘です。
味方であっても、悪とみなせば攻撃を仕掛ける人たちです。
勿論、そうでない人もいるとは思いますが、
大抵そういう空気が嫌なクリスチャンの2世は教会を離れるように思います。
返信する
RE:クリスチャンのイジメ (mugi)
2013-01-09 21:44:25
>りりさん、

 主婦Aさんのお話には言葉もありません。これが宗教施設の実態なのですね。私は耶蘇の言うところの“無宗教”で本当によかった。実は拙ブログにも耶蘇が「地獄へ放り込まれる」と嫌味を言ってきたことがあります。私のような異教徒には「それが何?」程度だし、せっかくだからネタにしてやりました。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/3a6e778dd9a2138119978c0da166b8c8
 
 それにしてもAさんのご主人、とても良い方で感心しました。信者でもないのに、ここまで妻の活動を支えているとは、こ主人の方こそ真のキリスト教徒の鑑(笑)。大抵の旦那なら怒りますよ。下手すると離婚騒動に発展しかねない。
 私は信者仲間よりも、Aさんの方に不快を覚えました。ご主人の稼ぎを自分の宗教活動に使っている。善人を利用するのが宗教団体ですが、有閑マダムが宗教に入れ込んでいるようです。

 色々問題のある原発ですが、原発反対を訴える団体や個人には胡散臭い者が少なくないし、その類に限って暮らし向きは豊かそうです。2009-04-05付で私は「反原発主義の胡散臭さ」という記事を書いており、気が向いたらご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/a403319cc2e4e2881e2a35259fbd0191
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天国だとか地獄だとか (りり)
2013-01-10 20:45:44
お返事ありがとうございます。
ご紹介いただいた記事、読ませていただきました。
mugiさんが遭遇した宣教師と言い、引用されていたブログ主と言い、
常軌を逸しているとしか言いようがありません。

私もまだ教会にちゃんと通っていた頃、
「死ぬ時に、神のいる世界を目の当たりにすることで、
『ああ、こんな素晴らしい世界なのに、
神という存在はこんなに素晴らしいのに、
何故私は信じなかったんだろう、もっと信じればよかった』
と(その世界に行けない自分に対して)誰もが後悔するんですよ」
と説教の中で脅されたことがあります。

そして、この死後の自分の運命への不安からキリスト教を信じるのをやめられずにいましたが、
彼らの言う天国のほうが私には地獄かも知れないなと最近思うようになりました。

だって天国ってAさんのご主人みたいな立派な方は入れなくて、
Aさんの信者仲間や、関連記事に登場してきた宣教師やブログ主みたいな人たちが、わんさかいるところなんですよね?きっと…。
しかも「天国に入れた」ことで、ますます傲慢になっていることでしょう。
そんな中に行きたいとは正直思わなくなりました。

原発関係の記事も読ませていただきました。
そうなんですよね。
矛盾が多いし、原発をやめたときの色々な不利益については「努力しろ」と無責任です。
原発がなくていいならそれに越したことはないけど、
今すぐ、とか、解決策がないうちに…というのは難しいだろうなというのが、
大方の人の考え方なのではないかと私も見ています。
年末の選挙の時も、「脱原発」を大々的に訴えていたところは信用出来ないところが多かったようにも思います。

Aさんの件ですが、ネットなのでぼかして書いていたのですが、宗教活動そのものというよりは、キリスト教系福祉施設のボランティアですので、
Aさんのご主人も「社会貢献」のつもりで協力していたのかもしれませんね。
交通費を出すと言って出さなかったのは、施設の連中ですしね。

ただAさんが今後出来ることがあるとすれば、
その者達の本性を知ったことですし、
一切その人たちとは手を切って、
その人たちに利用されて注いできてしまった分、
立派なご主人を今まで以上に大切にすることでしょうね。
(それが出来ないのがクリスチャンかもしれませんが)

ただ、Aさんはお金の件もご主人に許可を取り、、
「ご主人のおかげで…」という気持ちがあるだけ、クリスチャン主婦の中ではまだマシなように思います。

教会には、結婚後に洗礼を受け、、
それを許してくれたご主人が稼いだお金を教会に使い、
教会の活動のために休日ろくに家事もしない癖に、
信者じゃない夫を見下している中高年の女性たちが少なからずいました。
夫婦仲がうまくいかないのは自分の言動のせいなのに、
「夫も信仰があれば…」とか、とんちんかんなことを考えていたり…。
(この典型が私の母なのです…情けないです)

有閑マダムが宗教に入れ込むと、夫や子供が犠牲になります。救われるのは本人だけ。
身近な家族を犠牲にし、自分だけが救われて幸せでいられる時点で既に、
「そこに愛はないんじゃないの?」と言いたくなります。

長々とお付き合いをさせてしまってすみません。
mugiさんもお忙しいでしょうし、お返事などは無理をなさらないでくださいね。
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RE:天国だとか地獄だとか (mugi)
2013-01-11 21:16:40
>りりさん、

 貴女の様なカトリック2世から見ても、私が遭遇した宣教師や引用先のブログ主は常軌を逸しているとしか言いようがないとは。ならば、一般の非キリスト教徒日本人なら尚更でしょう。

 私の様な不信仰者には、天国や地獄というのも生者による作り話としか思えません。誰も死後の世界を見た訳でもないのに、まるで神のいる世界を目の当たりにしてきたようなことが言えるのでしょうね?そうでも言わない限り、キリスト教は成立しないのでしょうけど。
 前に他のコメンターさんも言っていましたが、キリスト教徒の言う天国とは、「あそこは狂信的殺人者で満員じゃないですかね」。そんな殺人者の側に行くのは願い下げです。

 ネットでも脱原発を主張する人を見かけますが、彼らの意見は何とも非現実的な空論ばかりです。特に私の住む東北では冬の寒さが厳しく、電気は必要です。今さら三内丸山遺跡時代の暮らしには戻れない。東日本大震災の時、私の住む地区では3日間停電となりましたが、それだけでも辛く感じられました。脱原発主義者には一生ロウソク暮らしをする気もないはず。

 Aさんはキリスト教系福祉施設のボランティアをしていたのですか。嫌でも共稼ぎせざるを得ない家庭の多いご時世、やはり恵まれていますね。他人事にせよ、信者ではなく今まで以上に御主人を大切にしてほしいものです。
 私の両親は殆ど無宗教同然でした。母など、「神様は何も言わない」「金は天から降ってくるものじゃない」が口癖だったし、宗教に入れ込む人間を毛嫌いしていました。もし母が入信、教会の活動のために休日ろくに家事もしなれば、父は叩きだしていたと思います。それにしても、貴女が挙げたクリスチャン妻には驚きました。これでは夫婦仲が悪くなるのは当たり前…と思うのは異教徒の見方ですよね。

 耶蘇連中の「世の中は冷たい、愛がない、意識が低い…」など、タカリと怠けの口実にしか聞こえない。彼等にあるのは自己愛だけでしょ?「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」(テサロニケ人への第二の手紙3-10)を実践してもらいたいものです。
 もちろんキリスト教に限らず、狂信的な宗教組織は珍しくない。どの宗教でも狂信者となれば、異教徒だけでなく信者内の“異端”を迫害するようになります。
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