あるクリスチャンのブロガーが、自分にとって聖書の福音書で一番印象深い言葉は「汝の敵を愛せよ」であり、キリストの教えを一言で表わしたのがこの言葉だと言う。日本には思想、信仰の自由が保障されており、キリストの教えをそう解釈するのは自由である。このブロガー氏は日本でキリスト教が敬遠されるのは、このような荒唐無稽な教えを強要していることに原因を求めているが、非キリスト教徒の私の見方は全く異なる。何故ならキリスト教徒ほど、「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」(マタイ福音書5章44節)に程遠い振舞いをした信徒もないからだ。
ガンディーは自伝で子供の頃はキリスト教は嫌いだったと書いている。多感な子供時代、ヒンドゥー教の悪口ばかり言っていた西欧人宣教師を見れば、抜きがたい嫌悪感を覚えるのは当然だろう。後年“マハートマー”(偉大なる魂)の尊称を受けてもガンディーは、「キリストは好きだがキリスト教徒は好きではない。彼らはキリスト的ではないからだ」と語っていた。『神道』(青土社)のアメリカ人著者P.R.ハーツは戦後日本がキリスト教化しなかったのは、キリスト教徒が原爆を落としたのを忘れていないからだ、と見ている。
簡単な聖書の教えにこのようなものがある。「あなたはわたしの神、主である。あなたにはわたしの他に、他の神々があってはならない」(出エジプト記20章2-3節)。これこそがキリスト教の本質であり、他の神々を全く認めぬ非寛容な一神教の教義が見事に表れている。
時々、我が家にはキリスト教系の宗教勧誘者が来る。主に女性2人組みであり、聖書や悩み事といった言葉を発するので、また来たか、と毎度ながらウンザリさせられる。先日など、「近所に住むXです。集会のお知らせに来ました」とドアホーン越しに言ってきたので、「何の集会?」と問えば、キリスト…と言いかけたので「宗教に関心はありません」ときっぱりと断った。断わられても、よろしかったらパンフレットを差し上げます…と言うので、「ゴミになるから無用」と突っぱねる。パンフの受け取りも断わられたためか、最近郵便ポストに直接それが入れられていた。
パンフはA4サイズ、観音開き式の折りたたみとなっており、全部で8頁、しかもオールカラーと手が込んだ代物。発行先は「聖書配布協力会」、住所は〒981‐2153 宮城県伊具郡丸森町私書箱第3号とある。末尾には次のような断りが記されていた。「本会は聖書の配布を唯一の目的としており、宗教団体や聖書研究会への勧誘、献金の要求、本・雑誌・物品の販売等は一切行っておりません」。
全く白々しい断りであり、私ならそんな言い分は端から信用しない。勝手に他人の家の郵便受けに入れられたのも不快だが、ならばブログネタにすることを決めた。私が興味深いと感じたパンフレットにある聖書の言葉を、一部紹介したい。
-空しい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます(ヨナ書2-8)
-義人はいない。ひとりもいない。善を行う人はいない。ひとりもいない(ローマ人への手紙3:10-12)
-御子(イエス)を信じる者は裁かれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、既に裁かれている(ヨハネの福音書3-18)
-その時主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです(テサロニケ人への手紙 第ニ 1:8-9)
-彼らの苦しみの煙は永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、また誰でも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない(黙示録14-11)
聖書を見た方の感想は千差万別であり、キリスト教徒同士でもその解釈はかなり異なる。十字架やキリスト、マリア像は偶像に当たらぬのか、と皮肉はさて置き、抜粋した箇所だけでも何処が愛の宗教か、と言いたくなる。裁くやら報復、永遠の滅びの刑罰…何と禍々しい言葉で脅しつけるものか。これではキリスト教を信仰する程、「キリストを信じない者は地獄に落ちる」と異教徒に脅迫、改宗を迫るのも当然の成り行き。聖書におけるジェノサイト「聖絶」は、何度か拙ブログで取り上げたが、その典型「ヨシュア記」を解説したサイトがある。その一部も紹介したい。
-創造主からの命令で戦争を戦いました。それは政治上の理由ではありませんでした。神様がこういう命令をしてくださったのはイスラエル人を守るためでした…聖なる神は罪を罰しなければなりません…カナン人がモラル的に堕落したということは考古学でも確認されています。小さい子どもも殺されましたが、この子どもたちは道徳(正しさと悪さ)が分からなかったから、イエス様の御血で救われました(天国へ行った)…
カナン人がモラル的に堕落していたとは、具体的に何を意味するのだろう?人身御供なら聖書にも見られ、士師(指導者)エフタは一人娘を神に捧げている。(士師記11章)。堕落していた民はイエスの血で救われるので、子供でも殺害してもよいという論理だ。十字軍や異端審問、魔女狩りもこの延長といえる。未だに聖絶を神の命と信じる教徒がいるとは、恐るべし、キリスト教!
その②に続く
◆関連記事:「キリスト教嫌い」
「教会は最大の犯罪組織?」
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ガンディーは自伝で子供の頃はキリスト教は嫌いだったと書いている。多感な子供時代、ヒンドゥー教の悪口ばかり言っていた西欧人宣教師を見れば、抜きがたい嫌悪感を覚えるのは当然だろう。後年“マハートマー”(偉大なる魂)の尊称を受けてもガンディーは、「キリストは好きだがキリスト教徒は好きではない。彼らはキリスト的ではないからだ」と語っていた。『神道』(青土社)のアメリカ人著者P.R.ハーツは戦後日本がキリスト教化しなかったのは、キリスト教徒が原爆を落としたのを忘れていないからだ、と見ている。
簡単な聖書の教えにこのようなものがある。「あなたはわたしの神、主である。あなたにはわたしの他に、他の神々があってはならない」(出エジプト記20章2-3節)。これこそがキリスト教の本質であり、他の神々を全く認めぬ非寛容な一神教の教義が見事に表れている。
時々、我が家にはキリスト教系の宗教勧誘者が来る。主に女性2人組みであり、聖書や悩み事といった言葉を発するので、また来たか、と毎度ながらウンザリさせられる。先日など、「近所に住むXです。集会のお知らせに来ました」とドアホーン越しに言ってきたので、「何の集会?」と問えば、キリスト…と言いかけたので「宗教に関心はありません」ときっぱりと断った。断わられても、よろしかったらパンフレットを差し上げます…と言うので、「ゴミになるから無用」と突っぱねる。パンフの受け取りも断わられたためか、最近郵便ポストに直接それが入れられていた。
パンフはA4サイズ、観音開き式の折りたたみとなっており、全部で8頁、しかもオールカラーと手が込んだ代物。発行先は「聖書配布協力会」、住所は〒981‐2153 宮城県伊具郡丸森町私書箱第3号とある。末尾には次のような断りが記されていた。「本会は聖書の配布を唯一の目的としており、宗教団体や聖書研究会への勧誘、献金の要求、本・雑誌・物品の販売等は一切行っておりません」。
全く白々しい断りであり、私ならそんな言い分は端から信用しない。勝手に他人の家の郵便受けに入れられたのも不快だが、ならばブログネタにすることを決めた。私が興味深いと感じたパンフレットにある聖書の言葉を、一部紹介したい。
-空しい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます(ヨナ書2-8)
-義人はいない。ひとりもいない。善を行う人はいない。ひとりもいない(ローマ人への手紙3:10-12)
-御子(イエス)を信じる者は裁かれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、既に裁かれている(ヨハネの福音書3-18)
-その時主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです(テサロニケ人への手紙 第ニ 1:8-9)
-彼らの苦しみの煙は永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、また誰でも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない(黙示録14-11)
聖書を見た方の感想は千差万別であり、キリスト教徒同士でもその解釈はかなり異なる。十字架やキリスト、マリア像は偶像に当たらぬのか、と皮肉はさて置き、抜粋した箇所だけでも何処が愛の宗教か、と言いたくなる。裁くやら報復、永遠の滅びの刑罰…何と禍々しい言葉で脅しつけるものか。これではキリスト教を信仰する程、「キリストを信じない者は地獄に落ちる」と異教徒に脅迫、改宗を迫るのも当然の成り行き。聖書におけるジェノサイト「聖絶」は、何度か拙ブログで取り上げたが、その典型「ヨシュア記」を解説したサイトがある。その一部も紹介したい。
-創造主からの命令で戦争を戦いました。それは政治上の理由ではありませんでした。神様がこういう命令をしてくださったのはイスラエル人を守るためでした…聖なる神は罪を罰しなければなりません…カナン人がモラル的に堕落したということは考古学でも確認されています。小さい子どもも殺されましたが、この子どもたちは道徳(正しさと悪さ)が分からなかったから、イエス様の御血で救われました(天国へ行った)…
カナン人がモラル的に堕落していたとは、具体的に何を意味するのだろう?人身御供なら聖書にも見られ、士師(指導者)エフタは一人娘を神に捧げている。(士師記11章)。堕落していた民はイエスの血で救われるので、子供でも殺害してもよいという論理だ。十字軍や異端審問、魔女狩りもこの延長といえる。未だに聖絶を神の命と信じる教徒がいるとは、恐るべし、キリスト教!
その②に続く
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「教会は最大の犯罪組織?」
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現在でも、クリスチャン・非クリスチャンを問わず、キリスト教の教義が「汝の敵を愛せよ」だと思っている人は少ないでしょうね。
そして、クリスチャンでも、「汝の敵を愛す」事は不可能に近く、日本・アフガン・イラク等と戦争をするのでしょうね。
(私的には、先の大戦時中、米国某提督の「キル・ザ・ジャップ 、 キル・ザ・モア・ジャップ 」の言葉こそ、クリスチャンの本質を表しているように思えます)
私の家にも、たまに、宗教の勧誘(大抵は、mugiさんも仰るように、おばさん二人組)が来たりもします。
ま、信仰・言論等の自由をいう者は大抵、信仰しない・反論の自由を認めない場合が多いですね。
宗教とは、愚かな者は信じ、賢い者は利用するそうですが、「信じる者は救われる」事よりも、「信じる者は馬鹿を見る」方が多いようにも思えます。
(ま、信じる事で、騙されている事にも気づかなくなるものですが、、、。
また、宗教を信じなかろうが、悪逆な事を行おうが、安楽な死を迎える事もあります。
それだけ、宗教人が語る程、世の中は単純ではないのかもしれませんね)
「汝の敵を愛せよ」は全くの建前であり、その理想を実行する者などごく稀でしょうね。
特に旧約聖書には、「汝の敵を愛せよ」とは全く反対の教義がふんだんに出てくる。十字軍などもろにその精神に乗っ取り、「あの忌まわしい民族(※トルコ人を指す)を根絶やしにするように」と法王自ら檄を飛ばしていた。
日本人クリスチャンのえげつない点は、日本の先の戦争時の歴史を糾弾しながら、欧米諸国の覇権主義は黙殺、ひたすらキリスト教文明を讃え、日本社会を貶しつける。
日本の信仰・言論の自由に付け入って、やりたい放題の輩もいますからね。異教徒の国にいるのに、「多神教は淫祠邪教」と平然と罵る。それで差別や偏見と金切り声。そもそも、他宗教の存在も認めぬ連中こそ超差別主義者。
> モグたっこさん
仰るように、異郷の文化を理解した人徳のある宣教師もいたでしょう。
しかし、それは一部であり、彼らもまた無償ボランティアのために来日したのではない。「異教の闇を晴らし、キリストの光明をもたらす」ためであり、布教活動なのは書くまでもありませんよ。
ロシア正教はまた同時に国内では、ポグロム(ユダヤ人大虐殺)を煽ったりもしました。
我が家の近くでもキリスト教系のほか、法華経系団体信者が勧誘し、「選挙は○明党」のポスターが貼られています。
信者になってしまえば、もうその宗教を批判的に見られなくなるし、彼らが社会の要職を占めるのは恐ろしいですね。ネットでも「気軽に教会に立ち寄ってみよう」と呼びかけ、「理解するのではなく感じて、楽しくなれば良い」と書いている者を見ましたが、思考力停止に宗教は効果的のようです。
いつの時代も悩みのない人はいないし、宗教は昔から巨大ビジネスの面もありますので、利に敏い者には堪らないでしょう。
ひろさちや氏の本で読んだのですが、“キリスト教でいう「愛」は「渇愛」で、「愛欲」を意味し、絶対に充足されない欲望と考える。自分が他人を自由にしたいという欲望にすぎず、つまり本質は「自己愛」である”とのこと。そして、“本当の愛、即ち無私の愛を仏教では「慈悲」と表現する”と仰っていますが、成程と思った覚えがあります。日本人には「愛」より「慈悲」の方が感覚的に合うのでは…、それがキリスト教がいまひとつ伸びない理由ではないでしょうか。
一神教、多神教ともに神様って実に気紛れですね。いかに人間と価値観が違うといえ、無差別に人を殺すわ、苦しめるわ。地上の不幸って、神が原因ですよ。それでも人間は弱いから、神にすがるという矛盾。
釈迦はあらゆる煩悩の中で、「渇愛」こそが最も苦しいと言っています。人間の理性も滅ぼすほど強いものであり、この煩悩が人間の苦しみの元だと。「渇愛」を瀬戸内寂聴さんは、私が10愛したのだから、貴方も最低10、利息をつけて13愛して、と要求するようなものだと、巧い例えをされていました。例え10愛しても、返って来るのはせいぜい1か2がよいところ、だとか。
キリスト教も一応「無償の愛」は説いてますが、やはりキリストへの帰依が絶対条件。信じない者は「永遠の滅びの刑罰」対象。「有償の愛」としか思えませんね。
イエス様とやらの、非常に興味深い動画を発見しました。キリスト教は存在自体、すでにジョーク
なのです。
http://www.youtube.com/watch?v=WLKk00OYKhU
拙ブログにコメントを有難うございました!貴方のご意見はクッキングホイルさんのブログで何度も拝見しました。
紹介された動画ですが、お笑いミュージカルとしても愉快です。ただ、大都市ならともかくこれをバイブル・ベルトでやれば、ジョークでは済まされません。
またもやイエス様なる人物の興味深い動画を見つけました。復活したイエス、それはゾンビでは?というジョークです。身の回りの自称クリスチャンの人々、カトリックからエホバの証人まで注意深く観察していると、彼らはキリスト教を絶対視しており、ある意味で脳死状態の生きたゾンビと化しています。まさに、事実は小説よりも奇妙なりですね。
http://www.youtube.com/watch?v=tDENmSJIlMI