塩野 七生氏の『ローマ人の物語 ⅩⅣ』を読了。ローマがいよいよキリスト教に飲み込まれる4世紀前半から末までの時代を描いている。ローマ皇帝の親キリスト教政策により、他の宗教、それも特にローマ伝来の宗教を排斥する方針が明確になってくる。
皇帝コンスタンティウス(在位337-61)の時代にまず初めに夜中に家畜を生贄に捧げることの禁止、これに続き日中に行われるのが普通だったローマ伝来 の神々に捧げる公式の祭儀と、それに伴う生贄を捧げることも禁止される。違反した者は死罪に処す、と明記された。さらに偶像崇拝を禁じる法も発布され、神 殿の閉鎖命令まで出される。“信仰の自由”を謳歌してる現代のわが国から見れば、宗教弾圧以外の何者でもないが、キリスト教が優勢となっていくローマから すれば当然の流れだろう。
塩野氏はキリスト教振興を目的にした諸政策を3段階に分けている。第一段階は公認する事で他の諸宗教との同等の地位にする、第二段階、キリスト教のみの優遇にはっきりと舵を切る、第三段階はローマ伝来の宗教に他宗教排撃の目標を明確に絞る、だった。
それにしても、いかにローマが異民族侵入が相次ぎ混迷したにせよ、ローマ伝来の宗教の弱さはどうしたものか。ローマの宗教には専門の聖職者や教典もなかっ たのだ。それがキリスト教との武装理論にも弱かったのだろうか?インドに関心のある私はどうしてもインドの宗教事情と比較したくなる。インドも中世以来イ スラムや近世はイギリスのような一神教徒に支配されながらも、屈せず古来からの伝統文化を守り抜いたのは驚きだ。ローマと違いインドは見事な教典や宗教専 門職が健在だったし、膨大な人口と領土もあったが。
最後の第3章での元老院議場に安置されていた勝利の女神像の撤去をめぐる問題での論戦は実に面白い。撤去反対者シンマクスの訴えで私が気に入った文言を一部抜粋したい。
「貴 方(皇帝テオドシウス)に懇願するのは、単なる像の撤去の撤回ではない。幼少の頃に父から教えられたことを、我々も子に教えられる状況に戻して欲しいこと なのです。伝統への愛ほど良き生を全うしようと願っている者にとって、偉大なものはない。…人間には誰にでも各人各様の生活習慣があり、各人の必要に応じ ての信仰する対象がある。…また、理性といえども限界がある。それを補うのに自分たちの歴史を振り返る以上に有効な方法はあるだろうか。
私には多くの人々にとっての心の糧が、唯一つの神への信仰のみに集約されるのは、人間の本性にとって自然ではないと 考えてもいるからです。我々全員は同じ星の下に生きている。我々誰もが同じ天に守られている。同じ宇宙が我々を包んでいる。その下に生きる一人一人が拠っ て立つ支柱が異なろうと、それがいかほどの問題でありましょうか。唯一つの道のみが、かほども大きな生の秘密を解けるとは思われません」
これに対するミラノ司教アンブロシウスの反論の一部。
「世 界の秘密の探求は、それを創造した唯一神に任せるべきで、自分自身のことにさえも無知な人間に託してよいことではありません。シンマクスは言う。世界の秘 密に迫るには一つの道だけでは充分でない、と。だが彼にとっての秘密は、我々キリスト教徒にとっては神の声によって明かされたことによって、もはや秘密で はなくなっているのです。彼らが探求しようと努めていることも、我々には既に神の叡智と真理によって明らかにされている。…キリストへの信仰は無知な魂を 救うのではなく、これまでは法によって真実が示されてきたと信じてきた文明が崩壊した後に、その過去の誤りを正す勇気を持つ人々の上に輝くことになるであ りましょう」
論戦に勝ったのは勿論キリスト教徒側。そして勝利の女神像は撤去される。ただ、塩野氏はキリスト教徒でないので司教アンブロシウスへの論評は控えたいと断りながらも、「強引な論法とはしばしば、スタートしたばかりで未だマイナス面が明らかでないからこそ、可能で有効な戦術でもある」とかなり皮肉な感想を記していた。
元老院議場からの女神像撤廃以降、異教排斥の名の下に次々と勅令が公布される。まず公式な祭儀だけが禁止されていたのが、私的な祭儀も禁止される。ローマ 人の家ならどこでも神棚のような、中庭に面した一角に家の守護神や先祖を祭る場所が設けられていたが、取り払うよう強制され、違反すれば死罪。さらに祭壇 の前で灯明をともすこと、香を焚くこと、壁面を花飾りで飾ること、神々や先祖に献酒することまでもが禁止される。これらの禁を破った者は高額の罰金が科せ られ、罰金は必ず黄金で払うと決められた。
かくしてキリストは勝利し、ギリシア・ローマの宗教は滅亡する。西欧はキリスト絶対主義の中世に入っていく。
正確な生没年ははっきりしてないが、16世紀を中心に生涯をおくったと思われるインドの神秘主義者ラッジャブ(Rajjab)はこう歌っている。
―人間の数と同じだけの宗派がある。神の創造はそれほどまでにも多様なのだ。
―各派の祈りは多くの小川にも似て、大海の如きハリ(神)のなかへ共に流れ込む。
4世紀のローマ人シンマクスのことなど知らなかったのは確かなラッジャブだが、その精神の何と似てるものだろうか。
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皇帝コンスタンティウス(在位337-61)の時代にまず初めに夜中に家畜を生贄に捧げることの禁止、これに続き日中に行われるのが普通だったローマ伝来 の神々に捧げる公式の祭儀と、それに伴う生贄を捧げることも禁止される。違反した者は死罪に処す、と明記された。さらに偶像崇拝を禁じる法も発布され、神 殿の閉鎖命令まで出される。“信仰の自由”を謳歌してる現代のわが国から見れば、宗教弾圧以外の何者でもないが、キリスト教が優勢となっていくローマから すれば当然の流れだろう。
塩野氏はキリスト教振興を目的にした諸政策を3段階に分けている。第一段階は公認する事で他の諸宗教との同等の地位にする、第二段階、キリスト教のみの優遇にはっきりと舵を切る、第三段階はローマ伝来の宗教に他宗教排撃の目標を明確に絞る、だった。
それにしても、いかにローマが異民族侵入が相次ぎ混迷したにせよ、ローマ伝来の宗教の弱さはどうしたものか。ローマの宗教には専門の聖職者や教典もなかっ たのだ。それがキリスト教との武装理論にも弱かったのだろうか?インドに関心のある私はどうしてもインドの宗教事情と比較したくなる。インドも中世以来イ スラムや近世はイギリスのような一神教徒に支配されながらも、屈せず古来からの伝統文化を守り抜いたのは驚きだ。ローマと違いインドは見事な教典や宗教専 門職が健在だったし、膨大な人口と領土もあったが。
最後の第3章での元老院議場に安置されていた勝利の女神像の撤去をめぐる問題での論戦は実に面白い。撤去反対者シンマクスの訴えで私が気に入った文言を一部抜粋したい。
「貴 方(皇帝テオドシウス)に懇願するのは、単なる像の撤去の撤回ではない。幼少の頃に父から教えられたことを、我々も子に教えられる状況に戻して欲しいこと なのです。伝統への愛ほど良き生を全うしようと願っている者にとって、偉大なものはない。…人間には誰にでも各人各様の生活習慣があり、各人の必要に応じ ての信仰する対象がある。…また、理性といえども限界がある。それを補うのに自分たちの歴史を振り返る以上に有効な方法はあるだろうか。
私には多くの人々にとっての心の糧が、唯一つの神への信仰のみに集約されるのは、人間の本性にとって自然ではないと 考えてもいるからです。我々全員は同じ星の下に生きている。我々誰もが同じ天に守られている。同じ宇宙が我々を包んでいる。その下に生きる一人一人が拠っ て立つ支柱が異なろうと、それがいかほどの問題でありましょうか。唯一つの道のみが、かほども大きな生の秘密を解けるとは思われません」
これに対するミラノ司教アンブロシウスの反論の一部。
「世 界の秘密の探求は、それを創造した唯一神に任せるべきで、自分自身のことにさえも無知な人間に託してよいことではありません。シンマクスは言う。世界の秘 密に迫るには一つの道だけでは充分でない、と。だが彼にとっての秘密は、我々キリスト教徒にとっては神の声によって明かされたことによって、もはや秘密で はなくなっているのです。彼らが探求しようと努めていることも、我々には既に神の叡智と真理によって明らかにされている。…キリストへの信仰は無知な魂を 救うのではなく、これまでは法によって真実が示されてきたと信じてきた文明が崩壊した後に、その過去の誤りを正す勇気を持つ人々の上に輝くことになるであ りましょう」
論戦に勝ったのは勿論キリスト教徒側。そして勝利の女神像は撤去される。ただ、塩野氏はキリスト教徒でないので司教アンブロシウスへの論評は控えたいと断りながらも、「強引な論法とはしばしば、スタートしたばかりで未だマイナス面が明らかでないからこそ、可能で有効な戦術でもある」とかなり皮肉な感想を記していた。
元老院議場からの女神像撤廃以降、異教排斥の名の下に次々と勅令が公布される。まず公式な祭儀だけが禁止されていたのが、私的な祭儀も禁止される。ローマ 人の家ならどこでも神棚のような、中庭に面した一角に家の守護神や先祖を祭る場所が設けられていたが、取り払うよう強制され、違反すれば死罪。さらに祭壇 の前で灯明をともすこと、香を焚くこと、壁面を花飾りで飾ること、神々や先祖に献酒することまでもが禁止される。これらの禁を破った者は高額の罰金が科せ られ、罰金は必ず黄金で払うと決められた。
かくしてキリストは勝利し、ギリシア・ローマの宗教は滅亡する。西欧はキリスト絶対主義の中世に入っていく。
正確な生没年ははっきりしてないが、16世紀を中心に生涯をおくったと思われるインドの神秘主義者ラッジャブ(Rajjab)はこう歌っている。
―人間の数と同じだけの宗派がある。神の創造はそれほどまでにも多様なのだ。
―各派の祈りは多くの小川にも似て、大海の如きハリ(神)のなかへ共に流れ込む。
4世紀のローマ人シンマクスのことなど知らなかったのは確かなラッジャブだが、その精神の何と似てるものだろうか。
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私も降臨して人間に何も言った事もない唯一神の声を引き合いに出すのが不可解でした。政教分離が原則の現代の日本人からは呆れ果てるものですが、これが司教の立場なのです。神の声は全て聖書にあると主張するのでしょう。
アンブロシウスは決して狂信的宗教者ではなく、元はローマの高級官僚と言ってよい仕事をしていましたから、形勢有利なキリスト教会に鞍替えしたようです。優秀な人物だったのは確かで、司教の立場で皇帝を操るようになりました。宗教の持つ力をよく理解していたのでしょう。
お久しぶりです。むかしあにまるです。
拙ブログを更新したのでTBさせていただきました。
キリスト教に限らず一神教はこの手の狭量さがあってどうにも八百万の神の伝統を引き継ぐ輩には受け入れがたいのですよね。^^;
ミッション系の高校でいくら説明されてもキリスト教の根本原理である原罪と三身一体がりかいできなかったものです。
「不可解なるが故に吾信ず」は誰でしたか思い出せませんが、理性的とされる西欧諸国の帝国時代の狂気を見れば、自ずと底が知れるのかもしれません。
所詮、一介の人間が全能の神を代弁することなどおこがましいと言うことでしょうかね?
汎神論と唯一絶対神論は近いような気もしますが根本的に謙虚であるか傲慢であるかの差があるような気がします。
まとまらないコメントで済みません。^^;
むかしあにまる
この世の中や宇宙には、もしかしたら、「絶対唯一の真理」というものは、あるのかもしれません。しかし、教えの時点で、「善い・悪い」が絶対であるのならば、「真理」が本当に「真理」であることを、検証することさえ許されない。で、あるのであれば、偏狭に陥りやすく、「真理」を理解することは、到底、不可能にも思えます。
それでなくても、多くの者にとって、「真理」がなくても生きていけると思いますし、考え方・価値観は違っているのが普通だと思うのですが。できれば、考え方・価値観が違う者にまで強制するのであれば、独善・非寛容と罵られても、不思議ではないと思います(が、それもできなくなるのでしょうけど)。
話が脱線して申し訳ないですけど、一神教的価値観は、ファンタジーの世界にも影響されていると思います。なんとなくですが、神と悪、聖と邪の二項対立が多いように思います。
それに対し、「ロードス島戦記」(実在のロードス島は、関連ないと思われます)などでは、邪神は一つ(ファラリス)でも、複数の神(ファリス、マーファ、マイリーなど)が存在するのも、日本的だと思います(また、日本の妖怪と西洋の妖怪を対決させたりするのも、日本的だと思います)。
追伸、
ナルニア国の映画は、ご覧になる予定(もしくは、既にご覧になられた)でしょうか?
ユダヤ、キリスト、イスラムは皆同じ穴のむじなと思ってます。ユダヤは布教こそしませんが、その選民思想は中華思想と張れる。
宗教に無関心な日本人なら、一介の人間が全能の神を代弁することなど倣岸としか思えませんが、一神教世界では“預言者”は一介の人間ではありませんからね。人間ではなく、神の言葉を預かる者となるから。近代は西欧諸国の帝国時代でしたが、かつてのイスラムもまず武力征服でした。十字軍顔負けのことを行っています。
「絶対唯一の真理」こそ、一神教的価値観ですね。考え方・価値観が違う者にまで己の真理を強制し、それを受け入れるのが真理に帰依したと独善に陥るのだから。共産主義も一神教の変種ですよ。中共に限らず共産主義国家の粛清は凄まじいものがある。マルクスがユダヤのラビ(ユダヤの坊さん)の家系でした。
『指輪物語』など、もろに善と悪、光と闇の二元論でした。著者のトールキンは熱心なカトリックで、宗派違いの奥さんや友人を改宗させたほどです。
「ロードス島戦記」、未読ですが、日本の妖怪と西洋の妖怪の対決があるとは「ゲゲゲの鬼太郎」と同じ話ですね。
ナルニア国映画は見るかどうか迷ってます。
いかにも大作商業主義路線だし、ディズニー系はまずお子様映画なので期待できない。