色と光の図鑑なる本を買って来た。
あの山の上の大きなオレンジの楕円形の光のことが知りたくて。
しかしこの本の著者の斎藤さんという人はどうなんだろう?
人麻呂のかぎろひを知らず?武田康男なる人の写真を掲載していたが。
もっともそのかぎろひは人麻呂以外知るはずもないから、
それはそれで仕方のないことかもしれない。
ただ私には思うことがある。
私はかぎろいの写真を調べてみた。
が、私がこうだと思い探しているかぎろいは一枚もなく、それにだいぶ近いものが一枚あるきりだった。
それにしても、あんなに沢山集まっていた写真家達は万葉の丘でああいう朝陽にしか出会わなかったんだろうか?
それがなんとも不思議である。
私は何度か今のかぎろいに出会った。
だからああそうかと、地元の人のいうかぎろいを納得した。
朝早く起きてまで見る気もなかった者に、それはあまりにも幸運な出会いだったのだろうか?
地元の人のいうかぎろいは、服や布の端っこにステッチする、あれである。
つまり、まだ明けやらぬ暗い黒っぽい墨絵のような連山の頂上が、光り輝くオレンジ色のクレヨンで縁取りされたかのようになるのである。
その縁どられたオレンジは、もうそこからは外に光を放たないかのようで、
だから何も考えずに見れば、それは朝陽のせいだとも夕陽のせいだとも思わないのである。本当に子供が絵を描いていて、山の頂上に綺麗にオレンジの縁取りをしたかのように見えるのだ。
人麻呂のかぎろひは古代では陽の炎で、だからそれは全体に山を覆うものではなく、私が見たとそっくりの写真を一枚だけ見つけた。
ま、一つ問題解決。
あの場所は大宇陀だったから、方角的にも私が見たのと同じである。
がも一つの疑問。
一体朝陽はあそことは全く違う場所から昇るのに、あの時間はあそこが輝くような場所にいるということなのか?
いるなんて人間のようだが、すべては神なのだからそのような言い方になる。