虚空見つ国・・・終わりなき物語

遥か古代からの遺伝的エトランゼ。
一人だけの幻想国開拓日記。

かわいい顔して

2021年05月17日 | Weblog
雨の降りしきる庭。
ふとベランダの隅に目をやれば・・・
鳥ではないか?

我が家の狩猟能力抜群の猫達は、庭にやって来る鳥達を見ると、歯がガチガチ鳴ります。次に狙いをつけた鳥は決して逃しません。
私は何事も何者も、なるべく自然が、本能のままが、一番魅力的だと思っているので、飼い猫ではありますが、自分の敷地の中だけでも、生まれながらのものをそのままにしておいてやりたいと飼って来たのですが、また鳥の為に穴を掘らねばなりません。
一番怖がりで、誰が見てもクリクリお目目が可愛いといわれる猫が一番瞬発力抜群なのです。


それはそれで感心ですが、ぜったいに何があっても殺生はせず、姉妹たちにも本当に優しかったノラ太閤を思い出します。
いつも一番最後に食べ、夜は私が寝床に入るのをカーテンの陰から確認し、一番最後に胸の上に顔をうずめる優しい猫で、
私はその子のことだけは思い出すとどうしても涙が出てしまうのです。
今年は墓のまわりに去年よりたくさん百合が咲きます。



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曰く、不可解

2020年12月14日 | Weblog
巌頭之感を残して、華厳滝に投身自殺したのは藤村操。

大秀才でも不可解なことは世の中には山ほどあり、私なんぞ不可解なことばかりだといっても過言ではないくらいだが、時に理解しようと言う気をなくす人達がいる。死ぬほど悩み、いくつもの病院にも通い、というなら、長い年月の間には何かが変わる、何かが変えられそうなものなのに、それこそ実に不可解である。
わが妹なんぞも、歴史上のどんな偉人達よりも上の姉を尊敬していると言うのだが、はて?尊敬するとはどういうことなんだろう?と、はたと考えてしまうのである。

偉い人も凄い人も世の中には沢山いるが、ただ単にその人たちを遠めに見て、口先だけで感嘆する尊敬でなく、人生の師として仰ぎ見、教えを乞おうとする意味での尊敬とは何か、どういうことか、ついつい会話するのが阿呆くさくなってしまったりする時があるのである。

私は、尊敬する人が、汗水たらして身を惜しまず働く人なら、自分もただ黙々と働こうと思う。
尊敬する人が師と仰ぐ人なら、師の師は一体どのような人生を生きたのか、その人のことも深く知りたいと思う。
尊敬する人がこの本がいいと言われれば是が非でも読みたいし、今までに読んで来られた本も出来れば全部辿ってみたいと思う。尊敬する人が畑を耕しておられたら一緒に最後まで耕してみたいし、真似事にしかすぎなくても、どこか少しでも「神に似ていたい」と思い、真似をしてみる。

ただ単の真似事なら、それはいつかは卒業して、やがては自分の生を生きねばならないが、絵描きさんだって、大抵は好きな作家や優れた絵画の模写から始まるのである。
尊敬するしないは関係なく、人はオギャーと産まれる以前からでも親の影響を受けている。産まれては真似をする。環境を自然に受け入れ、色んなことを身につける。が、遅かれ早かれ自我は形成され、師を選ぶ、尊敬する人を見つけるなんぞは個の自由、個だけの心の範疇のことである。

それだのに、尊敬する人の言動の一つだに真似ることが出来ない。時間を守るというような簡単なことさえも出来ない。尊敬する人が教えてくれた映画も観ないし、ましてや本など読まない。日記もつけない。幼少時の記憶を書き留めることもしない。
無駄な多くの荷物を持ち歩かない。すぐに捨ててしまうようなものは持って帰らない。安いからさしたる意味のない物は買わない。相手が喜ばないお土産は買わない等々も守られたことがない。

持って生まれたDNAというものがあり、性格だし、環境だし、それらはすべて病気だと言われれば、
それはそうかもしれないが、ならば何もする必要はない。
自分は変わる必要はないし、人が、周りが変わればいいのである。
私は、彼女たちには本当の反省はないし、変わろうという気がないのだと思うのである。
彼女達は言動と裏腹に、頑固に決して変わろうとはせず、
いつも他人が変わってくれることを願っているように感じるのである。

セラピスト達や精神科医は人の話を黙って聞いてやるだけでもいいとも言うが、
胸にたまった言いたいことを全部言ったらすっきりしたなんぞという人を私は幾人も知っているが、
吐き出す、すっきり。吐き出す、すっきり。
それは一生そういう人生を送る人達であった。



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純粋永遠 永遠不変

2020年12月12日 | Weblog
『ダイヤモンドは傷つかない』
そういうタイトルの邦画があった。
内容は知らない。観ていないから。
が、
ダイヤモンドは傷つかないと言われている。
真に綺麗なものは傷つかない。
ということだ。

綺麗なものが一番強い。
人間の心の話。
真に美しい者を傷つける行為は
人間には出来難いのである。

ということは、、、傷ついたとか、傷つけるなどと簡単に言うけれども、
人を傷つける行為は厳に慎むほうが良いには違いないが、
自分がもし何かに、誰かの言動に傷ついたと思うなら、
それは自分にそれ相応の醜さがあるということでもある。

恐ろしいまでに透き通った境地には人はなかかな行けない。
写真を撮っても透き通っていたというかの人のようには
なかなかなれないもんである。

純粋永遠 永遠不変


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寂れた秋

2020年12月07日 | Weblog



奥の院のことを、福寿ではなく、
あ、なるほど!とすぐに思うような○○山という名があるのですが・・・
思い出せません。。。なんだったかな~



宿坊で修行する人も今は少なく、
霊験あらたかとはいかないみたいですが、
毘沙門ですからね、流石!という感じはします。




マー、あまり腑に落ちない言い伝え、物部と太子の古代史ですが、
遠い遠い昔のことだもの、本当とも嘘とも言えません。









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コロナ第三波は政府の責任

2020年11月30日 | Weblog



毎日コロナ報道でイヤになる。国民に緊張感がなくなったというが、そもそも寒くなったら危ないと言っていたくせに、コロナ収まる前の、見切発車のGOTOトラベルにGOTOイートなんて実におかしい。おまけに今はあちらこちらの自治体のプレミアム商品券もあるという次第。これは誰が考えたって、さー旅行に行って下さい、さー何か食べに出かけて下さいというメッセージだ。大いに移動することを促している。

国民の多くは自粛自粛に嫌気がさして、GOTO支援なくても多くの人が旅行に出かけたいと思っていた筈。家に閉じこもっていた人達は、友人たちとあって美味しいものでも食べたいと思っていた筈。観光業界、飲食業界が苦しいのは誰だって知っている。政府が税金ばらまかなくても、呼びかけだけでも多くの者は、秋になれば観光地や繁華街に出かけるに違いないではないか。
GOTOはもっと後で大々的にやればいいのだ。

それより金銭的支援は医療関係にこそ必要だ。医療従事者が足りないと言う話は毎日聞く。その足りない従事者を国民がどうにかしてあげられるわけではない。それこそそれは関係者に任せる以外にないが、コロナにかかわっている病院やそこの従事者は精神的肉体的に追い詰められているだけでなく、ボーナスが出ないとかカットされるとかそういう事態もあるという話。
政府はそこにこそ一番に支援するべきではないか。

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清富

2020年11月26日 | Weblog
ゴウンさん続きで「名家」を最初観た時は何も思わなかったが、
昨夜は「清貧」でなく「清富」という言葉に夢までみてしまった。
本当にそのような世があれば!

先生は、今に天から金が降って来るぞー!と、
やるべきことをただ懸命にやってさえいればいいんだ。
然らば必ずそうなるんだというようなことをよく仰っていたが、
まーそのようなことでもある。
名家で皆で開墾することと、先生が一人で多くの人の役に立っていたこととは
行動が多少違うが、まーどちらも清富への道みたいである。
天は清貧の民を見放さない?

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海はひろい~大きい~

2020年11月23日 | Weblog




竹田から出石を経て、久美浜から経ヶ岬まで。
竹田では大本の王仁さまおスミ様和明様しのび、王仁様の白馬に跨ったお写真の姿を思い出しました。議会決議を通過して、竹田城が大本に献上された大本の一番全盛期の頃と弾圧された一番苦しい時期が同眠している城址です。

日本海はまだ秋模様。サーフィンの人たち、釣り糸を垂れる人たち、釣り船を出す人達。
私のように在りし日を偲んで貝殻拾いをする人は、今の時期にはいません。
海は飽きない。
そのどこまでも続くかのような深い蒼。心にしのびこむその音色。
海に囲まれた島ですが、日本海は特にいいな~と思います。
幼少期の子供たちの笑顔。
その幼い友達の笑顔。
まだ皆が若かった友人達とのUFO。
ママ友だった人の物憂げな横顔。
丹後の海には思い出がいっぱいです。







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長生きするということ

2020年11月08日 | Weblog



今もって、時折考える。
まだこの世に体があるということは、何かまだお役目があるということを。
王仁三郎の言葉にそういう箇所があったし、私自身もそう思う。
何かせねばならない、まだ学びきっていない、、、
すべきことがあると言うことだ。
さてそれは何だろうと時折考える。
命はあの世に行ってこそ決まる。
この世の修業次第だと先生は仰った。

私は考える。
あの人達は何を欲して、どこかへ行きたがるのか?と。
秀和師の本にある。
崑崙山の五百歳の仙人は、立って半畳寝て一畳。
ただあそこにいただけで、この世を三百六十度見渡せた、と。
美しい風景も、悲惨な光景も、過ぎた日の想いも、
全ては心の中にある。

思った時は達した時。
なにをそんなに欲するというのだろうか?
思った時は達した時になる為にはただ修業あるのみなのだ。
自分で修業できなければ、思考を促す為に何かが起こる。

今の世。
長生きする人が多いと言うことは、
人が幼稚になってきているということだ。






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ある伝記

2020年10月19日 | Weblog
小学生の頃一番好きだった本は偉人伝で、
学校で大抵一人だった私は、休み時間になると図書室に行った。
世で偉人とは、何かを成した人だろうし、そうでなければ伝記として出版してもらえないのだろうし、
その頃はそれで結構満足していたと思えるが、
不思議なことに、だからナイチンゲールのようになりたいとも、
北里柴三郎みたいになりたいとも思わなかった。
どんな偉人のどんな業績にも全然興味はわかなかったことは事実だ。
子供だからか、ただ読むだけで、なぜ偉人伝が好きなのか、
そんなことは考えたこともなかった。

ずっと後になって分かった。
私は何か立派な業績を残した偉人が好きだったのではなく、
人の一生が好きだったのだ。
人の人としての歩み、生きる姿勢。
世に認められる大きなことを成したとか、成さなかったとか、
そういうことではないのだった。
だからか、最近の長ったらしい漫画なんかはちっとも面白くない。
ただだらだらと長いだけだ。
成功するまではまだいいとしても、成功してから後の浮き沈みを延々と描き、
成功したことが人間完成に役立ったかのような思い込みを描く。
それは精神の病におかされた子供を持った団塊の世代の親たちの姿とよく似ている。
親たちは苦労してだんだんといい生活を手に入れたことで、
さもさも自分が人間的に、精神的に、
随分成長したのだとの錯覚の中で生きていると私には思えた。
そうだろうか?
豊かな生活を手に入れたことや、肩書が自慢できるほど出世したことや、
それが偉くなったということなんだろうか?
成長したということなんだろうか?
私は錯覚で生きてはいないかとよく諭した。

まーそれはそれとして、
とある名もなき人の偉人伝というのがあって、それが昔近所に住んでいた人だと知って、
興味があって読んだことがあった。
本当に世間的には何の名もなき人だったが、
その偉人伝というのが実に素晴らしかったことを、
今夜、なぜか急に思い出した。

その伝記は、嫁いだ先の母親、つまり義母の生涯を綴ったもので、
勿論、その人が嫁いでからのものが多いわけだが、
とにかく自分のことは全く書かない。
ただただ、義母の日頃の言葉、行動。
義母を敬い、が故に、その言葉、行動を書き留め、忘れないために出版した。
香典返しではなく、忘れないために、他の誰かにも知って欲しい為に、本にしたかったらしい。

私は伝記に書くことも難しいくらい偉大な母に育てられたせいか、
その義母という人がそんなに偉いとは思わなかったが、
その書いた人を本当に偉いと思った。
自分というものを一切書かず、ただただ母親の姿を描いた。
自己をそこまで表現せずに誰かを描くことの出来る人。

人の生涯が好きな私が、感動というのではないけれども、
実に感心した一冊。
今夜はなぜか、その本のことを思い出した。



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月は昇りぬ

2020年10月02日 | Weblog
月が山の端から昇り始めてたったの一分。
月って随分はやいのだ。

昨日が中秋の名月だったというけれど、今日の方が美しい。
中秋の月でなくとも、月が随分美しい夜がある。
空気が澄んでいるのか、我が心の問題か・・・
中秋の月が一番美しいと限らないなどと思う。

月はぽっかり目の前だ。
中也の詩を思い出す。
詩といっても歌だから友川かずきだが。

 ぽっかり月が出ましたら
 
     舟を浮かべてでかけましょ
 
   波はひたひた打つでしょう
 
      風 少しはあるでしょう

          ~ ~ ~ ~ ~ ~






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