虚空見つ国・・・終わりなき物語

遥か古代からの遺伝的エトランゼ。
一人だけの幻想国開拓日記。

天空の馬車

2008年04月29日 | 約束の地
いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな

  いちめんのなのはな いちめんのなのはな
いちめんのなのはな いちめんのなのはな



好きなだけ そう言ってくださいと言えるような写真を撮ろうと、

けれど・・・行けども行けども暮鳥さん喜ばす景色なく、

わが記憶の畦道に馬車ゆけど、


とうとう車は山道に入った。



と、


天空の馬車!!




天空・・・・・の 馬車だ!




それはいつの記憶か、


私はどこにいるのだろうか。


夢うつつに見上げれば・・・四輪馬車が軋む。








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わが愛しの命

2008年04月28日 | 私の古代史
今日はまた一転大降り。
神様というのはやっぱりそこここにおられるものらしい。
天照国照様というくらいだから、いかに忘れ去られた存在といえども、
自分の墓を訪ね、ぼうぼうたる草木をかきわけ、道なき道を登る愛い奴の為に、
青々とどこまでも晴れわたる空を一日だけプレゼントするくらいはわけないのであろう。
昨日は何回汗をぬぐった事か。
けれど、森は静か。森は涼しい。


死んでも生きててたまるかい、
死んだら死にきり、それが好き。
なんて言って何十年も生きてきたのに、
そんな考え、変えざるをえなくなって、しようがないねぇ。
しかし、好き嫌いはそんなに簡単には変えられなくて、
死んだら死にきり、昏々と眠る・・・それは今も幸せな夢。。。



川の傍にある社の鳥居の前に立つと、風の向きが変った。
どんな街中にあっても、例えば住吉さんでも、石切さんでも、
一瞬。
気・・・だろうか、風と共に何かがサッと変り、私はいつも天を仰ぐ。
鳥居から向こう、それは喧騒から隔絶された別世界。おそらくは異次元。
おそらくは有り難き方の御鎮座。

いつだったか、大本の鳥居を抜けようとした途端、
にわかに吹いてきた風の香を彼らに言ってみたけれど、
禅院でも、アジャリの前に頭から抜けたものの分からぬというくらいだから、
その微風が分からぬのは無理はなかったが、手だけは一生懸命合わせた。
彼らは神様のお留守の所でも同じように手を合わせる。
それは日本人としての、もう習慣なのだろう。

昨日も一つ、神のいない社に立った。
神主様、修行せねば、村は御守護されませんぞえ。

しかし、皆が分からぬという一の矢の場所はなんなくわかった。
こういう所には・・・ちょっと運がある。

一の矢

↑ 自分が写っている。横は案内人さん。


                                 
      ↓ ありがたき方の御鎮座なさっている登弥神社。

神の社



さて・・・・道なき道を登る。

命の墓

わが恋する人の御魂は高天原にあると言い、墓はここぞと言う。
  我、花のかわりに フツの祝詞を奏上せん。 
      
  ヒ~ト~フ~タ~ミーヨ~イツムーユー ナナヤーココノータリ モモチヨロズー








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天照御魂神社

2008年04月28日 | 私の古代史
御鏡を宮中から出した事の意味。
伊勢に御鎮座なさるまでの長い長い道のりの真の意味。
その代替の御鏡を作ったとされる田原本の鏡作神社。

鏡作

鏡作奥の院


彼はなぜわざわざ日吉神社の写真なんかに送ってきたのだろうと以前考えたが、
ま、鏡作のそばのお屋敷の人だから、縁があるのだろう。
主人なんか子供の頃よく行った忘れ難い竜野の不思議な石の場所が
多分、天照神社の所だというのだから、それはホント、不思議な御縁。


夕暮れ時、
物部の子孫かもしれないその子の案内で当麻寺に。
門の間を夕陽が沈む。
ココには日本最古の梵鐘と、拝み松があるが、
朝日も門の間を昇るように創られているのだろうか?
朝日を拝むんだか、夕陽を拝むんだか、
文字が消えかけていてよく分からなかった。
あちらこちらの本ではよく子午線の図を見かけるが、なんだか不思議な気がした。
しかし・・・・ここは猫寺かというくらい美猫だらけだった。

当麻寺の夕陽


当麻本殿


当麻寺塔








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自我霊尊 2007年09月24日

2008年04月28日 | 私の古代史
生駒には夫婦塚なのだろう真弓塚があるが、石切さんのどこかに三炊屋媛が祀られる事はごく自然の事だと思われるので、きょうは上社まで上がってみた。さしたる事もない。
しかし、一心不乱に祝詞をあげておられる方のあって、少しばかり感じ入って後に佇んだ。

霊社の方は暗かった。それでも鈴はなんとも良い音を出すので、天河を思い出した。勿論天河の鈴とは音が違う。霊社とは関係ない話だが、天河の鈴はなかなか鳴ってくれないように出来ている。そして、その鈴のちょっとななめ後に3メートルくらい下がると、天柱みたいなものがある。。。多分、ある。なにか、そういうものがある。霊社には関係ないが、ちょっと思い出した。

登美霊社では御火焚神事というのがあって、それは毎月27日とある。大祭は10月27日とあるから、今風の暦になおすと10月27日が三炊屋媛の誕生日だったりするのだろうか。なんにしても27というのが気に入った。私の誕生日と同じだから覚えやすい。
いつか気が向いたら来てみようかと思う。火焚というくらいだから、火を炊くのだろう。
火はいい。護摩法要なんかに行って焔を見ていると、それはもう一日中だって見ていられるくらい飽きない。摩訶止観の境地を垣間見る。



しかし、私は社寺仏閣にさして興味あるものではないし、格別の信仰心厚い者でもないから別段かまわないが、坊さんにあんたはこういう所には来ちゃいけないと言われたのはここの下社でだった。坊さんにそう言われるのはへんな気がして尋ねてみると、手の平をちょっと横に向けて、ほら、ここに霊能が出てるからね、あんたは誰にもつかず、本も読まず、一人で勉強しなさい。口のうまい奴はだめだし、文章だって人を騙す。おまいりなんかしないでよろしい、だって。
もとより私は一人で勉強する性質だけど、そんな事を言われると妙に気になって、あとに並んでいる人達になにを言うのか聞いていたら、別段誰にも変った事をいうでなし、ただ病気の事や、金運の事や、その人たちの悩みを聞いてはアドバイスをしている。
石切さんは近いから、気が向いたら行くし、気が向かなければ行かないし、
誘われたら行くし、誘われなければ行かないしだからどうでもいいが、あのへんな坊さんは最近みかけなくなった。神社から追い出されちゃったのだろうか。(手の平の霊能うんぬんは嘘ではないらしい。なんとか媛がついた足洗術の先生が、他の人全部だめだけど、私の手の平は能力出てて宜しいとか言っていたから、それはどうやら本当だったらしい。。。)
参道には若い托鉢坊主が一日中立っていて、一方の坊さんのバックには札が入りきらないくらいなのに、こちらの若い坊さんの方には徳を感じないのか、一円だって喜捨する者はいなかった。まー、徳を感じないのではなく、得を感じないのだ。
私は徳も得も感じないけれど、一日中微動だにせず?立っているのはさぞや辛い事だろうと、こういう修行はこの坊さんの何かの役に立つのだろうかと、そんな事を考えながら手に持っているお鉢(というのだろうか)に丸いものを入れる。笑ってくれたら嬉しいのだけど、精神統一の妙境かな?なにがあっても微動だにしない修行なんだろう。あんまり楽しくない修行だね。私ならやんぴ。パチンコ屋にでも入るかもしれない。坊さん、あんまり固くないほうがいいよ、な~んて。
しかし、今はその若い托鉢さんもいなくなった。
いなくなって多分三年くらいになる。
それでも変らず、石切さんはいつも人でいっぱい。
神武ニ年に建てられ饒速日命を祀る社に、私は来るなと言われ、
饒速日命なんか知らない多くの人に支えられて社は毎年大きくなっていく。
へんなものだ。大昔、誰かが御祭神を横取りしてここにこんなものを建てたのだという説の方をちょっと信じたくなってしまう時があるね。










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海にいるのは・・・

2008年04月28日 | Weblog
素晴らしき出会いに期待して

遠路はるばる来た人が

波打ちぎわで見つけたものは、時を越えた白い小石。


  むかし、海にいたのは人魚・・・。

  むかし、もらったのは富士山の石。


  むかし、海にいたのは陽にやけた男たち。

  むかし、失恋の記念にと、白い貝殻をくれたのはあいつ。

  むかし、地球は丸いんだと言ってその海を見つめて泣いたのは、私。



過ぎた日を楽しむように話した人とそっくりのその人が、手を差し出した。

握り返したはいいけれど、やっぱりその手は温かくて、

いつもちっとも熱くならない自分の手の平をみつめて、また思わず苦笑した。


   よせるいつわり

   かえす真実。

   海にいるのは・・・。

   




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おぼろげながら・・・

2008年04月28日 | 私の古代史
相変わらず吾郷清彦という人は顔の見えない研究家だな~と思うが、
今頃になると、こんな私でもちょっと色々と分かる事があって、食事の後片付けもせず、こんな時間までうっかり本を読んでしまった。これでも主婦だし・・・もうこんな時間とは実に残念!

吾郷さんが亡くなられた時、私はまだ『日本神学』を購読していて、その前の年だったかに中野裕道師とお話し出来たのだった。裕道師はわざわざ熱海電鉄だかのパンフレットを送って下さって、おまけに迎えに来て下さると、霊系悪いかもしれない一購読者に何とも勿体無いお言葉。
健造先生ほどではなかったけれど、私の耳のそばから裕道師の宇宙が広がり、ちょっと透明な空気の中で会話は弾んだ。
と、どうした事か、何かの弾みに・・・たしか練成会の話の最中だったかに、突然電話の糸が緩んだようになった。すると裕道師は「あなた、今、気がおちましたよ」と言われた。「あ、わかりました?」。私のこれを気付く人はほとんどいないのだけど、流石、耳のそばの私の感覚も分かっておられたってわけなのだ。
それで、吾郷さん本人の事に話題を変えてみたのだが、師は『上記』を偽書だと私に言い、その偽書の片棒を担いだような初期の神学はいやなのか、電話でも憮然とされた。『ウエツフミ全訳』以来、ほとんど親交はなくなってしまったものらしかった。
しかし、それでも、次の年の神学には吾郷さんの訃報に接した思いが、独特の真面目さで書かれていた。細々と始め、何十年と続いた二人の研究への思い入れ。
それこそを天翔ける思いというのかもしれないと思った。

古代、超古代の本と資料を年間何百冊もめくって十年。
ようやく、おぼろげながら、いろんなものが繋がってくれて、第二の混沌脱出。
最初の何行かくらいなら何かが書けそうだ。







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行く末を思うなら

2008年04月28日 | Weblog
 『お土を、持てい!!』 開祖様は言われた。

 『田んぼを増やそう!!』 先生90。

 額にタオルを巻いた。

 
 技術の進歩、最先端技術、

 そんなもので最早多くの者の真に喜ぶ時代は過ぎた。

 土こそは光明。







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なるべく手を加えない在り方

2008年04月28日 | Weblog
昨日読んでいた岡田朝雄氏の文中に『虫愛づる姫』の事が出てきた。

虫を愛し、自然を愛し、人工的な事を嫌い、眉毛を抜く事をせずお歯黒もせずの変人畸人のお姫様学者?

 本地尋ねたるこそ 心ばへをかしけれ

 よろづのことどもを尋ねて末を見ればこそ ことは ゆゑあれ

と、言ったとか。

あるがままを見、観察し、様々の現象の根本を追求し、真を知るわけである。
どうしたらどう出来るかではないのである。
在るがままで真を知る。


仙道おばあさんを知って、桜井の川口由一先生と、半永久備長炭を知った時、
この神ながらの農業に胸ときめいた。

♪ ああ、神ながら 神ながら

という歌まで思い出した。


老いも若きも、分からない者ならいざ知らず、
惟神、分かっていると言いながら、
降りたくない言い訳にもっともらしい邪智説く者は、
樹木の先っぽだけ剪定する者にどこか似ている。






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再生の地

2008年04月28日 | 約束の地
最初、ここはなんという地名ですか?と聞いた時、面白いもんだな~と思った。
字は違うけど、呼び名も僅かに違うけど、
実は私は同じ地名の所から来ているのだと言ってみたくなった。
そういう面白さが分かる人のような気がしなかったから言わなかったけれども、
昨日はバス停の名前を見て笑った。
字は違うけど、まったくまったく同じ呼び名になっていた。

それらの地名は飛騨から来たのだと先生なら言われるだろう。
九州邪馬台派なら九州から来たのだと言うだろう。
地名なんぞは、ましてや漢字などは勝手に当て字など使ってきただろうから、
どこがどこまでとはあてにはならないし、私はそんな嘘か本当か分からぬような事は、
色んな説があるくらいでいいと思い、混沌お楽しみというばかりだが、
自分の引っ越した先の住所がたまたま前の所と同じだったりして、
また今度もそういう所に当たり、その妙縁に心楽しくする。
ただそれだけの事だ。
これが本当だと感ずるまでは、疑い深い私メは、先生の説だとて無闇には信じない。
答えは保留。

しかし、面白いのは高倉山に、菟田穿邑顕彰碑を見つけた時。
行く先々で神武顕彰碑に何回もであってみれば、やけに楽しくなってくる。
何かに導かれているような気がしないでもない。
新宮の佐野にある顕彰碑の名前は狭野顕彰碑。「さの」ではなく「さぬ」だから、
これは先生は喜ばれるに違いない。
先生の「そうじゃ!」と言う声が聞こえてきそうな気がする。


「お名前は神武天皇の矢を射たとされる事からつけられたのではないですか?」
あまりに空が青かったので外に出て、再生したい山を見つつそう尋ねてみると、
「そうかもしれません。ここいらは古戦場だったそうだから・・・」
と、橡を植えたいという山を見ながらその人は言われた。

ぼうぼうたる棚田の一番上に立つと風が渡り、空はますます青く晴れわたった。


私は、神社には神主さんを置き、
寺には誰かに住んでもらう事をすすめた。
私は稲を植えるのだ。






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尼僧さまへ

2008年04月28日 | Weblog
     分寺?

     少ない檀家の人達だけで細々護られてる建物。
     こういう建物のことを、正式にはなんと呼ぶのでしょう。
     私が尼さんだったなら、すぐにも尼僧堂にするのだけど、
     なんて冗談を言いながら・・・
     
     尼さんでなくても喜んで住まわせてはもらえるんですが、
     今はまだ家族と一緒に居る方が自然なことでしょう。

     
     正面

     
     分寺


     しかし、里を昔のようにしたい村人達にとっては
     ここはその中心になる良い建物になるでしょうと、一つ提案をしてみました。
     米も一人食べるくらいなら十分つくれますし、
     利口なりこう様、
     あるいは私の好きな尼僧様、
     関西にお越しの節はぜひお立ち寄り下さいませ。
  










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