生駒には夫婦塚なのだろう真弓塚があるが、石切さんのどこかに三炊屋媛が祀られる事はごく自然の事だと思われるので、きょうは上社まで上がってみた。さしたる事もない。
しかし、一心不乱に祝詞をあげておられる方のあって、少しばかり感じ入って後に佇んだ。
霊社の方は暗かった。それでも鈴はなんとも良い音を出すので、天河を思い出した。勿論天河の鈴とは音が違う。霊社とは関係ない話だが、天河の鈴はなかなか鳴ってくれないように出来ている。そして、その鈴のちょっとななめ後に3メートルくらい下がると、天柱みたいなものがある。。。多分、ある。なにか、そういうものがある。霊社には関係ないが、ちょっと思い出した。
登美霊社では御火焚神事というのがあって、それは毎月27日とある。大祭は10月27日とあるから、今風の暦になおすと10月27日が三炊屋媛の誕生日だったりするのだろうか。なんにしても27というのが気に入った。私の誕生日と同じだから覚えやすい。
いつか気が向いたら来てみようかと思う。火焚というくらいだから、火を炊くのだろう。
火はいい。護摩法要なんかに行って焔を見ていると、それはもう一日中だって見ていられるくらい飽きない。摩訶止観の境地を垣間見る。
しかし、私は社寺仏閣にさして興味あるものではないし、格別の信仰心厚い者でもないから別段かまわないが、坊さんにあんたはこういう所には来ちゃいけないと言われたのはここの下社でだった。坊さんにそう言われるのはへんな気がして尋ねてみると、手の平をちょっと横に向けて、ほら、ここに霊能が出てるからね、あんたは誰にもつかず、本も読まず、一人で勉強しなさい。口のうまい奴はだめだし、文章だって人を騙す。おまいりなんかしないでよろしい、だって。
もとより私は一人で勉強する性質だけど、そんな事を言われると妙に気になって、あとに並んでいる人達になにを言うのか聞いていたら、別段誰にも変った事をいうでなし、ただ病気の事や、金運の事や、その人たちの悩みを聞いてはアドバイスをしている。
石切さんは近いから、気が向いたら行くし、気が向かなければ行かないし、
誘われたら行くし、誘われなければ行かないしだからどうでもいいが、あのへんな坊さんは最近みかけなくなった。神社から追い出されちゃったのだろうか。(手の平の霊能うんぬんは嘘ではないらしい。なんとか媛がついた足洗術の先生が、他の人全部だめだけど、私の手の平は能力出てて宜しいとか言っていたから、それはどうやら本当だったらしい。。。)
参道には若い托鉢坊主が一日中立っていて、一方の坊さんのバックには札が入りきらないくらいなのに、こちらの若い坊さんの方には徳を感じないのか、一円だって喜捨する者はいなかった。まー、徳を感じないのではなく、得を感じないのだ。
私は徳も得も感じないけれど、一日中微動だにせず?立っているのはさぞや辛い事だろうと、こういう修行はこの坊さんの何かの役に立つのだろうかと、そんな事を考えながら手に持っているお鉢(というのだろうか)に丸いものを入れる。笑ってくれたら嬉しいのだけど、精神統一の妙境かな?なにがあっても微動だにしない修行なんだろう。あんまり楽しくない修行だね。私ならやんぴ。パチンコ屋にでも入るかもしれない。坊さん、あんまり固くないほうがいいよ、な~んて。
しかし、今はその若い托鉢さんもいなくなった。
いなくなって多分三年くらいになる。
それでも変らず、石切さんはいつも人でいっぱい。
神武ニ年に建てられ饒速日命を祀る社に、私は来るなと言われ、
饒速日命なんか知らない多くの人に支えられて社は毎年大きくなっていく。
へんなものだ。大昔、誰かが御祭神を横取りしてここにこんなものを建てたのだという説の方をちょっと信じたくなってしまう時があるね。