『「わたしはな、世代の差というものはどうしようもないと思うと同時に、
環境というものは、教育というものは、
実に恐ろしいものだと思った。
どんな思想の人間も環境と教育次第でつくれるんだ。
―かつての特殊軍兵士達が 国のために死んでいったようにな」』
(ジャスミン・クーア,「スカーレット・ウィザード」)
環境というものは、教育というものは、
実に恐ろしいものだと思った。
どんな思想の人間も環境と教育次第でつくれるんだ。
―かつての特殊軍兵士達が 国のために死んでいったようにな」』
(ジャスミン・クーア,「スカーレット・ウィザード」)
(続き)
(許可取得済み)
― 洗脳と教育の違い、かぁ。
「なかなか、イイ質問だね」
ちょっと失礼するよ、と、珈琲を淹れに行きつつ、私は、おもしろい質問だが、さて、どういうべきか、と思い巡らした。
(教育学畑の人がいたら、食いつくだろうなぁ・・・)
(絶対、そんな中途半端な、とか、十分に言えていない、と突っ込まれそうだが…)
(この前、貸した本も消化できてないんじゃないか、と言われそうだが・・・)
-これまた、たたき台の一つということでご容赦していただければ-
振り向いて、キャベツはゆっくりと言った。
「教育や洗脳というのを、どう定義するかにもよるだろうけど」
こたつに戻りながら、続けた。
「そもそも、教育それ自体が、洗脳、とも言える」
「うん、そうだね」
思いがけず、同居人から同意を得た。
「でも、そう思われないのは、周囲も同じ環境を経てきたり、同じような考え方だから」
これにも、違和感がないようだ。
「もちろん、教育の第一の目的はそれではないとしても、
また、今でこそ、個性を伸ばす、その人の能力を高めるということがよく言われるけれど、
何らかの価値観に乗っ取って、社会に適応できるようにする、
右ならえ、というような、
型にはめる、という役割もあるだろ?」
「加えて、日本は『出る杭は打たれる』よね」
と、同居人は言った。
「海外から見たら、日本の教育がおかしい、ということもあるだろうし、
逆に、日本から海外を見たら、それまた変じゃないかということもあるし。
どこから(どこを基準として)みるか、で、けっこう異なる。」
(続く)
(このとき、言わなかったことだが、戦前の日本の教育、たとえば、
「天皇は現人神(あらひとがみ)であらせられる」とか、
ポル・ポト政権が行った教育は、
教育というべきか。それとも、洗脳と言うべきだろうか。)
「天皇は現人神(あらひとがみ)であらせられる」とか、
ポル・ポト政権が行った教育は、
教育というべきか。それとも、洗脳と言うべきだろうか。)