ひさかたの天(あめ)知(し)らしぬる君(きみ)ゆゑに
日月(ひつき)も知(し)らず恋(こ)ひ渡(わた)るかも
=巻2-200 柿本人麻呂=
今は、薨去されて天をお治めになるようになってしまった高市皇子であるのに、月日の流れ去るのも知らず、いつまでも恋い慕いつづけるわれわれである。という意味。
高市皇子が死んだ時、柿本人麻呂が詠んだ長歌に対する反歌である。
672年の壬申の乱、高市皇子は近江大津京にあり、挙兵を知って脱出し父天武天皇に合流し軍事の全権を委ねられ乱に勝利した。
柿本人麻呂が壮大な挽歌を寄せていることから、2人は親交があったのではないかと言われている。一方持統天皇のお抱え歌人としての人麻呂が、あくまで天皇の意思を体現して詠んだ歌だともいわれている。
690年(持統4)、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。その4年後に飛鳥浄御原宮から藤原宮へ遷都した。しかし高市皇子はその2年後に急死する。高松塚古墳に葬られたともいわれている。
歌碑は藤原宮そばにある鷺栖(さぎす)神社に静かにたたずんでいる。