ちはやふる 神(かみ)の御坂(みさか)に 幣(ぬさ)奉(まつ)り
斎(いは)ふ命(いのち)は 母父(おもちち)がため
=巻20-4402 神人部子忍男=
荒ぶる神が居られる峠道に幣をささげてわが命の無事を祈るのは、国にいる母と父のためだ。 という意味。
作者は主帳(しゆちやう)埴科(はにしな)の郡(こほり)の神人部子忍男(かむとべのおしを) 。
歌を詠んだのは信濃の郡役人であるが、この峠は信濃から美濃への御坂峠と考えられている。
防人として九州に出向く信濃国の埴科郡(坂城町付近)の若者が、神坂峠を越えていくときに歌ったもの。峠を越えて西国に行くことは、当時としては決死の覚悟であった。
会地早雄神社(おうちはやお)は長野県埴科郡(はにしなぐん)坂城町(さかきまち)南条31の北側にある。
上田市から車の往来の激しい北国街道を走り、次の坂城町に入った街道に面して石鳥居が見えてくる。
神社の入り口付近の雨よけの屋根の下に天保年間に建立された万葉仮名の歌碑と芭蕉付句塚のふたつが建っている。
万葉歌碑は鼠宿に生まれた滝沢公庵により文政8年(1825)に建立されたという古いものである。
芭蕉付句塚(明治24年、建立)
膝行(いざり)ふ便や姨捨の月 翁
散花に垣根を穿つ鼠宿 嵐雪
神社の裏手には山がせり出し大きな奇石が社殿に接している。
近くの鼠橋からの千曲川
このあたりは千曲川とせり出した山に挟まれた地で鼠宿(ねずみじゅく)と呼ばれる北国街道の宿場の南端だった。