廃校を巡る

風雪に耐えた美しい木造校舎。小さな空き地にポツンと二宮尊徳。
錆びたブランコに、朽ちかけた百葉箱。廃校ノスタルジア…。

南会津 下郷町 旭田小学校 中妻分校

2014年08月31日 10時48分06秒 | 福島の廃校
2005年閉校の中妻分校。
現在は払い下げられたか、貸与されているのか
「学びや ボッポ館」というアトリエになっていました。

御用の方はボタンを押してください。のボタンを押してみましたが反応無し。
オーナーの方がいれば中も見せていただけるとの情報があったのですが、
どうやら不在のようです。

窓からちょっと中を見ると当時の机もそのままで、
なかなかいい感じです。
オーナーの方の作品らしきものも見えます。

残念ですが次の機会を待ちましょう。









日光市 川治小中学校

2014年08月25日 12時16分19秒 | 栃木の廃校
狭く急な坂道をクネクネと上った先には思いがけず広々と開けた学校跡がありました。

学校のある川治温泉も鬼怒川温泉と共にかつての勢いはなく、
寂びれた雰囲気の温泉街です。
お土産屋さんはシャッターを下ろしてずいぶんと経っているようですし、
荒れた感じの廃旅館もあったりします。

細い渓流沿いの道からさらに狭い道を登った先にある
日光市 川治小中学校は閉校から4年。
まだまだきれいで、子供達の声が聞こえてきそうです。

玄関にはまだ子供が遊んでいますよ…。

誰かのいたずらでしょうか、内蔵むき出しの人体模型がお出迎え…。
そう言えば、去年の夏は尿管結石で辛かったなー。
尿管はどの辺りかなちょっと調べてみよう…。

全く霊感とか無い自分ですが、
こんないたずらはちょっとビビりますね。

コンクリート3階建ての校舎に、
一段高くなった敷地に切り妻造りの校舎が4棟と体育館。
ちょっと変わった造りですね。
切り妻の校舎は小学校でコンクリートの校舎が中学校の校舎ようです。
小中学校併設なので低学年向けの遊具から中学生向けの体育施設まで充実してます。


沿革
明治7年5月 高原、川治二村連合の高原小学校として栃久保に開校
大正10年4月 藤原尋常高等小学校高原分教場と改称
昭和16年4月 藤原町国民学校高原分教場と改称
昭和19年3月 藤原町第二国民学校として独立
昭和22年4月 藤原町立川治小学校と改称 藤原町立藤原中学校川治分校併置
昭和31年4月 藤原町立川治中学校として独立
平成18年3月 市町村合併により日光市立川治小学校 中学校に改称
平成22年3月 統合により閉校 統合先鬼怒川小学校 藤原中学校

















会津 金山町 玉梨小学校

2014年08月21日 10時03分10秒 | 福島の廃校
校舎は昭和13年築の木造2階建。
いやー、美しいですね。
スイスのアルプス山岳地帯に建つホテルの様な佇まい。
会津の豪雪地帯で戦前の木造校舎がここまで美しく保たれているのは奇跡。
昭和13年の建築とは思えないモダンでヨーロッパ風のデザインがお洒落です。

1977年に廃校になっていますが、
現在は金山町の自然教育村会館として研修や合宿ができる施設になっているようです。
訪れた日も合宿の学生が泊まっているようでした。

これだけの木造校舎を美しく維持していくのは大変でしょうが
ぜひとも末永く保存してもらいたい物件ですね。



















足利市 名草小学校 足松分校

2014年08月19日 17時55分34秒 | 栃木の廃校
名草巨石群の後に訪れた分校跡。
足利市 名草小学校 足松分校。
公民館として使われているようですが、雰囲気は当時の分校を思わせますがさすがに建て替えられたものでしょう。
大正4年11月の日付が刻された立派な門柱が現存。

ウンテイと一体化した藤棚の下には小さなシーソーが1台だけ残されていました。
沿革が刻された閉校記念碑がありました。

以下記念碑から抜粋
明治8年  大橋地内の民家清水氏宅を仮校舎として名草学校分校として発足する
明治12年 仮校舎を大橋の臥龍院に移す
明治18年 名草小学校分校となる
明治30年 北郷村立第二尋常小学校第一分校となる
明治33年 独立し北郷村立名草尋常小学校となる
明治41年 義務教育が4年から6年となるに伴い北郷第二尋常小学校文教所となる
大正11年 北郷村より分村 名草村立名草尋常高等小学校分教所になる
昭和29年 足利市に合併 足利市立名草小学校足松分校となる
昭和57年 本校に統合

本来なら戦後すぐに名草小学校になっていると思われますが記載がありませんでした。
足松分校の名前が出てくるのが足利市合併時なのがちょっと不思議です。
名草小学校のHPでも確認できませんでした。













足利市 北郷小学校 月谷分校

2014年08月18日 19時53分29秒 | 栃木の廃校
足利の名草の巨石群を見に行った帰りに二つの分校跡を見てきました。
名草の巨石群は興味は有ったものの、宇都宮からはなかなか遠く今回初めて見ました。
山の中でもあるし人もたいしていないだろうと思っていましたが、
これがなかなか観光地化しており、駐車場前の売店はヤキソバやかき氷で賑わっています。

巨石の横で濃厚にいちゃつくカップルまでいます。
うーん、幽玄な雰囲気を期待していましたが、
ちょっとイメージがちがいますねぇ。

そんな巨石巡りの後に訪れたのが、
足利市立北郷小学校 月谷分校。

分校とはいえ体育館にプールまであり、
閉校になったのは平成になってからなのでわりと新しい分校跡です。

赤い瓦のモルタル平屋建ての木造校舎も残っています。
なかなか可愛らしい学校ですが、
門は固く閉じられ、他の入口もチェーンや針金で頑に封鎖されています。
校舎に近づくことはもとより校庭や敷地にもまったく入れません。
何もここまで厳重にしなくてもいいのでは?
校庭には遊具や閉校記念碑もあるのですから地元に解放すればいいのにねぇ。
写真は全て敷地の外から撮影。

沿革 廃校記念碑より
明治7年  敬業学校より分舎 月谷分校創立
明治33年 月谷尋常小学校として独立
明治36年 北郷第一尋常小学校と改称
明治41年 北郷尋常高等小学校第二文教所となる
大正5年  児童数147名 学級数3で運営
昭和17年 北郷村立北郷国民学校 月谷分校となる
昭和22年 北郷村立北郷小学校 月谷分校となる
昭和29年 足利市に合併 足利市立北郷小学校 月谷分校となる
平成8年 本校に統合 121年の歴史に幕を下ろす

名草巨石群 弁慶が割ったらしいです。


赤い瓦にクリーム色のモルタルが可愛らしいですね。


閉校記念碑の裏の沿革。表には校章に校歌らしきものが刻されていますが立ち入り禁止で確認できず。


二宮像は足首から折れて損傷。本体も確認できず。




小さいながらも体育館(講堂)も現存。




きょうも仲よく と良いながら頑に立ち入りを阻んでいます。


生け垣にセミの抜け殻 そろそろ夏も終わります…




南会津 只見町 只見小学校 蒲生分校

2014年08月12日 12時50分20秒 | 福島の廃校
只見町の国道252号線沿いをクルマで走っていて、たまたま見つけた学校跡。
国道横にはJR只見線が走っていますが、2011年の豪雨によって橋梁が流され今だ不通区間となっています。
鉄路には夏草が生い茂りつつあります。このまま廃線になってしまうのでしょうか。

ポツンと講堂だけ残された学校跡。
廃校記念碑らしきものもなく学校名も判りません…。

校庭の隅で何やら作業をしているおじいちゃん発見。
少しお話を聞いてみましょう。

「こんにちはー。昔の学校跡を見て回っているのですが、ここはなんて言う学校だったんですか?」
「ここには小學1年から小學6年までいたんだ」

「何年ぐらい前まで有ったんですか?」
「今は工場になっている」

ちょっと会話がかみ合いませんが、
どうやら小学校の後で20年ほど前に無くなったようです。
最初、遠くから見たときは70歳代のおじいちゃんと思ってましたが、
近づくと90歳代近いおじいちゃん。
耳は遠そうですがかくしゃくとしておりました。
ありがとうおじいちゃん。

帰って調べたところ1976年に閉校になった
只見小学校蒲生分校であることが判りました。
20年どころか40年近くたって経っていました。






南会津 田島町 長野小学校

2014年08月11日 10時30分56秒 | 福島の廃校
会津の廃校巡りはまだまだ続きます。
会津鉄道沿いの田島町 長野小学校は現在「長野林業研修センター」の看板を揚げています。

国道沿いには今もたくさんの製材所があり林業が盛んな地域です。
何しろ木材を摘んだボンネットトラックが現役で走っています。
間違いなく昭和40年代のトラックと思われます。

そんな、林業の盛んな町の「長野林業研修センター」。
正しいチェーンソウの使い方に木材の運搬方法など研修しているのでしょうか。

昭和50年の閉校ですが施設はとてもきれいなので、
かなり手を入れられたか、一部は増築されているのかもしれません。
林業関係の記念碑はたくさん建っていましたが、
廃校記念碑など学校関係のものは確認できませんでした。

校庭はわずかにウンテイに野球のバックネットが残っています。
校庭のすぐ脇に会津鉄道が走っていて、
この日は夏休み用の特別列車なのかトロッコ列車が走っていました。
昭和40年代までは蒸気機関車、C11が走っていた会津鉄道。
校庭からの姿は迫力が有ったでしょうね。















南会津 下郷町 楢原小学校中山分校

2014年08月07日 12時20分39秒 | 福島の廃校
南会津下郷町の楢原小学校はかつて7つの分校を持っていました。
今回の廃校巡りで栄富分校と中山分校が確認できたので
残りは1961年に閉校になった宮山分校のみ。
どうやら、今までもっとも奥の分校と思っていた戸赤分校のさらに先に有ったようで、
再調査が必要です。

で、今回訪れた中山分校は中山峠を越えて大内宿に向う旧下野街道(日光街道)沿いにあります。
1993年に休校となり、2005年に閉校になっています。
木造の校舎には「なかやま古民具館」の看板が掲げられていますが、
使われている様子はありませんでした。

小学校につきもののブランコや鉄棒などの遊具もありませんでした。
桜の木も切り倒してしまったのか切り株しかなく、
何となくサッパリとかたずけた感があります。
わずかに小さな椅子の残骸が小学校であったことを教えてくれます。

学校横には旧街道の名残の一里塚がありました。


楢原小学校宮山分校(1961年12月閉校)
楢原小学校栄富分校(1966年閉校)
楢原小学校三ツ井分校(1970年閉校)
楢原小学校豊成分校(1979年閉校)
楢原小学校弥五島分校(1979年閉校)
楢原小学校中山分校(1993年休校 2005年閉校)
楢原小学校戸赤分校(1999年休校 2005年閉校)












南会津 田島町 栗生沢小学校

2014年08月06日 10時47分51秒 | 福島の廃校
かつての会津中街道の宿場町 南会津栗生沢(くりゅうざわ)
この地区の歴史を調べてみると平家の落人伝説や、
隠れキリシタンの伝説など興味深い話がいろいろと出てきます。

栗生の由来もクリスチャンのクリスの日本語表記である栗栖・栗須・栗巣などから派生したようだ。
また、隠れキリシタンとして生きるためあえてキリストの裏切り者のユダを名乗ったらしく、
ここ栗生沢でも湯田姓が多い。
また、集落にはお寺がなく、お彼岸の供養をする風習もないようです。

会津の旧田島町にある南山鴫山城にはキリシタン大名の蒲生氏郷の姉が嫁いでいるようで、
会津におけるキリシタンの歴史を探るのも面白そうですよ。

そんな会津栗生沢にある栗生沢小学校。
数年前の航空写真を見ると木造らしき校舎はそのまま残っているようです。
期待を胸についた場所は、スコーンと空き地が広がるばかり…。

うーん残念、最近になって取り壊されてしまったようですが、
校庭の真ん中にはまるで現代アートのオブジェのように机と椅子が並べられています。
山の緑と夏空、何ともシュールな風景です。

机や椅子以外には朝礼台にブルーの平均台、それに体育用具入れらしき小屋が残っています。
校舎が有ったらしき場所には真新しい観測機器。どうやら放射線のモニターのようです…。
廃校記念碑などは確認できませんでした。

石の階段の隙間からはナラや松の木が芽を出し始めています。
後何十年もするともとの林に戻るのかもしれません。

昭和40年4月 田島小学校の栗生沢分校から田島町立栗生沢小学校として独立
平成6年3月 田島小学校統合のため閉校


校舎は取り壊されても学校名が入った門柱は無事でした。



かつての校舎の玄関に続く階段とシンボルツリー。



ベルナール・フォコンの写真の様なオブジェ






モニタリングポスト。やはりここは福島だと再認識させられます。












南会津 下郷町 旭田小学校大松川分校

2014年08月05日 09時37分53秒 | 福島の廃校
猛暑の中の会津廃校巡りは続きます。
体力を消費した後の昼ご飯は会津名物ソースかつ丼と決めてます。

頭に浮かぶソースかつ丼(大盛り)を振り払いつつ、
目的の下郷町立旭田小学校大松川分校に到着です。

道路から高くなった場所に緑の屋根が見えていますので探すのは楽でした。

下郷町立旭田小学校大松川分校は平屋建ての木造校舎なので、
一見すると閉校から数十年経っているように思えますが、閉校したのは2004年春。
まだ10年しか建っていません。

しかし、盛夏の校庭には雑草が生い茂り遊具類をを飲み込み始めています。
国旗掲揚塔、ウンテイ、ブランコなど一通り残っていますが二宮像は確認できませんでした。
会津の学校跡にはあまり二宮像が残っていないのは何か理由があるのでしょうか。

二宮訓より会津の什のおきての方が強く人々の心に残っているのかもしれませんね。
「ならぬものはならぬのです」

では、ソースかつ丼屋にGO。