菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

伊独仏風味の映画鍋。最後は米を入れて雑炊で。『イングロリアス・バスターズ』

2009年11月29日 00時00分34秒 | 映画(公開映画)

で、ロードショーでは、どうでしょう? 第88回。



「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」







『イングロリアス・バスターズ』





 


タランティーノの映画は、どうしても引用元が取りざたされる。
でもね、この映画は、観る人によって違う可能性すらある。
なんというか、この映画、人によって違う映画の記憶をくすぐられる、ということ。
おいらは、『生きるべきか死ぬべきか』と『マチネー』と『デモンズ』、『どぶ鼠作戦』が浮かんだ。

それは、今までのタランティーノ作品にだってあったが、それはどこかで、直球過ぎて、気楽な息子というか、直系の弟子という匂いもあった。
ゆえに、この映画はタランティーの進化を感じるのだ。
これは、すさまじい数の映画DNAが溶け込んでいるスープ。
元の素材の味はわずかにするが、それはそれぞれに溶け込んで、から見合って、一つの違う味になっているのだ。
いや、スープでは足りない。
これは鍋の汁だ。
具材を煮込んで、その成分がとろとろに溶けた鍋の汁。
それだけを飲むという料理はなかなかない。
鍋を食べるその合間に飲む汁の美味さ。
当然、メインは、鍋の具だ。
魚でも、肉でもいい。湯豆腐のように豆腐なんてのもありえる。
だが、そこには、やはり具材がいるのだ。
鶏肉は白菜でやわらかくなり、肉を硬くすると分かっていても、こんにゃくを入れる。
嫌いな人がいても、春菊を入れる。
それをみなでつつきあう。
それぞれが、それぞれの椀で、小鍋を作り出しながら。
タランティーのは鍋奉行だ。

だから、ブラッド・ピットは肉かもしれないが、ソレはあっという間に食べられる。
実質的な主役はメラニー・ロランで、白菜のように山盛りだ。
キャスト人は嬉々として、演じてるのが伝わってくる。
ダイアン・クルーガーのハスッパな感じ、クリストフ・ヴァルツのカリスマと鍋を豪華に飾る。


東南アジアの鍋のように辛さや酸っぱさもある。
暴力や人間の醜さだ。
甘いのが好きないともいるだろう、同じくコレは辛いのが好きな方向けなのだ。



人の強烈な傷つけ合いとしての興奮の戦場シーンを排除したのが、タランティーノならでは。
人と人のぎりぎりのやり取りにこそ、面白さを見出しているからだな。
まさに、人と人のやり取りで築き上げたサスペンスが積み重ねられていく。
演劇的とも言えるはずの状況をカメラで切り取った、映画ならではの表現。
それが、ある種、映画の成り立ちからの精神を引き継いでるのだ。
まだCGや特殊撮影もなく、映像で語りつくせなかったがゆえの、映画ならではのドラマ手法の現代的な申し子だともいえる。

それだけじゃない。
『パルプ・フィクション』では、そのまま三文小説の手法を取り入れている。
そう、小説的手法も映画に取り込んだのだ。
映画、演劇、小説と、複数の物語メディアを貪欲に取り込んだのが、タランティーノの物語なのだ。


だから、タランティーノ映画は饒舌にする。
自分の映画愛を刺激されるんだな。
鍋が一人で食べるのははばかられるように。
会話も食べるんだ、鍋は。
大勢と、映画館で、笑いながら、眉をひそめながら、観終わった後は大いに話すが吉。
そういう映画。







この戦場シーンの無い戦争映画は、物語の枠を目いっぱい詰め込んで語られる。
ユダヤ人によるナチスの物語的復讐。
だけでなく、物語による歴史への復讐。
その痛みと、緊張。
大スクリーンで、登場人物の額に浮かぶ一滴の汗を、バケツいっぱいの水として浴びる楽しみをぜひ。

 


 

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