五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

武藤校長と龍南会雑誌

2009-09-27 04:12:07 | 五高の歴史
五高が開校し五年を経過し文芸部が有志により組織され毎月論文、詩歌を中心とする雑誌を発行していた時、龍南会が組織された、そして学友会雑誌、「龍南会雑誌」が創設され、第一号は二十四年十一月第一号が発行された。この誕生に際して創業の苦心を嘗められた委員は部長は教授大瀬甚五郎氏で編集委員は武藤虎太が中心で、加藤本四郎、白石秀大、古森幹枝、佐藤伝蔵、中山文次郎、安住時太郎、江口俊博等々の人々であった。
明治二十八年帝国大学国史科を特待生の成績で卒、。卒業と同時に母校五高の教授に就任した在職中は朴訥勤勉振りを発揮した。
明治三十九年に起こった栗野事件の余波を被り翌四十年に仙台の第二高等学校教授として転任した。二高では教頭を歴任してまもなく居座ったまま校長へ上り敏腕を振るった。その後欧米へ遍歴し、帰朝後金沢の第四高等学校校長として十年間を勤務し、昭和六年再び母校へ、五高の校長として赴任した、この時は陸軍熊本大演習のため、宮内庁、文部省と連日の折衝で東京より帰途中の京都駅で腎臓炎を発病しそのまま入院した。・奉迎準備を整えた十一月十五日の行幸の日には陛下から「健康はどうか、なお体を大切にするように」との言葉を賜りこの感激と光栄は武藤校長の生涯の思い出であった。教育は職業意識を超越した道楽とも言うべきで高潔で子弟の塾愛が学生からも愛された有縁である。若い頃より漢学に造詣深く菊漂と号しまた謡曲の素人大家でもあった.五高人物史参照

龍南会雑誌は図書館をアクセスすると出ます。