五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

端艇、旅順・大連の終焉

2009-09-21 04:07:27 | 五高の歴史
龍南の春は未だ来らず・・吾人の見たる端艇事件・・
龍南会雑誌149巻P98-56では標記のことについて端艇部委員選挙で曾て清国からの戦利品で政府から貰った二艘の端艇が江津湖に繋がれたままなっていたものを前の端艇部委員が艇は龍南会所属の物品である筈であるが、端艇部部員が勝手に砂取の浜屋に売却、処分しているとの流言を聞き真相解明のため1913年2月25日午後瑞邦館で報告会が、会長、端艇部長、由比、江部の各教官、新旧委員、その他一般学生が出席の上報告会が開かれた。会長はこの端艇は前の委員によって浜屋に正当な手続きを経ることなく売り払われ、その代金は龍南会の会計には入金されていないこと、これは監督者としての不行届けであることを謝った。此の端艇問題は校風刷新運動の先駆として理解される精神的問題であった。

以下は大野熊雄氏(大正2英法卒)の龍南悪童記から抜粋 
(前略)・・・・・・・・・・・・・・・・・
これは私の最初の二年の時の話である。日清戦争の海戦で敗れた清国の旗艦鎮遼号に搭載してあった、でっかいカッターを五高が海軍省から貰っていた。余り役に立たないので、江津湖の岸に繋ぎっぱなしにしてあった。何年かそのままにしてあったので、半分は腐って、勿論役に立たない代物だが、打ち込んである大きな銅の釘が値打ちものだった。それをボート部の連中が捌いて、飲んでしもうたと云うことだ。大した金でもなかったろうが,我がパーチーがこれを取り上げ、予算会議の問題にした。丁度今の国会の予算会議で、野党が政府を攻撃する様なことをやったのであった。その前夜宮崎高四の下宿に集り、献立を練り、弁論の稽古までして乗込んだわけである。私が質問の皮切りをやり,次いで長船、児玉等雄弁家が充分準備してかかったので、流石老練の松浦校長も由比教頭もしどろもどろで、結局当事者の責任を取らせた。その結果はお気の毒に、由比教頭が全部の責任を負い、四国の高等学校に転任された。後に七高の校長になられた。その後私が鹿児島に行った時お会いし、当時のお詫びをした事があった。後では想い出多き笑い話になったが、余りよい心地はしなかった。(後略)
参考 熊本パーチー、五高に入学した済々黌と熊本中学出身者が自然に集り、何事によらず活躍した。