五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

熊本城案内

2010-10-30 04:50:47 | 熊本城を散策する
10月29日 金 晴
台風が日本近海を通っているので寒く風がひどい。

熊本城常駐に行ってきた。常駐というのは今まで何回か紹介したと思うが,観光客が団体でなく、個人的に熊本城を見学に来た人を一時間程度案内することである。出発点が二の丸の駐車場周辺であるので、通常の入城門である頬当門から入城するまで大体十分から掛かる

しかし観光案内であるため、その十分間にも説明する箇所は多い。ただ単にお城を見て、帰るだけでは、「熊本城を見てきたばい」というだけでは何の雰囲気もなく味気ないものになってしまうものではなかろうか、

宇土櫓の武者返しを望む。

西大手長塀と並ぶ奉行丸長塀

以下のような説明を付け加えることも多い。一つは櫨方門からの入城を勧めることにも一因があるのかもしれない。空堀であるが備前堀は水をたたえている。 熊本城本丸は空壕を主とする城である。坪井川や井芹川を水濠として利用しているが、それで堀と言えるものは本丸東側の備前堀だけで、あとは二の丸から三の丸にかけての城下町の境へ伸びていた。加藤清正の家臣佐々備前の屋敷が近くにあったとする説と細川の時代に小笠原備前の屋敷が近くにあったと云う説がある。
平成元年堀の浚渫と護岸工事が行われ竹の丸の井戸からも水が加えられ常時きれいな水をたたえている。

二様の石垣建築の時代が違う、石垣が急な方が細川時代で、緩やかな方が清正の時代の建築

櫨方門は備前掘を左に見て、鍵形に曲って入ると竹の丸で入場料の徴収所が櫨方門である。櫨方門は現在の加藤神社の正面鳥居付近にあったものだが、昭和29年崩壊したので昭和31年竹の丸西桝形の内側の現在地に移築されたものである。
寛延2年細川重賢は藩政改革で櫨蝋の生産と販売を藩の専売事業として行うため櫨方役所を宇土櫓の北、現在の加藤神社の場所に設置した。西南戦争でもこの櫨方門だけが焼失を免れた。その後は櫨方跡に設置された陸軍法務部の正門として、また戦後は県立図書館の正門として使われたこともあった。中央に門扉、両側に番人が居る長屋門である。

肥後名花園は櫨方門を通って竹の丸入った所が肥後名花園である。肥後朝顔、肥後椿、肥後芍薬、肥後、花菖蒲、肥後山茶花、肥後菊の肥後六花である。その花の特徴を示すように植栽され、2月から3月の椿、5月上旬の芍薬、6月中旬の菖蒲、8月の朝顔、11月中旬からの菊、そして11月から12月に架けての山茶花が見られる。菊の時代も少々早く現在はまだ何もなかった

長塀は竹の丸に入って右手に見える長い塀が、国の重要文化財に指定されている長塀の裏側である。東の平御櫓下から西の馬具櫓下までの260メートル続く長い塀で坪井川越に眺める長塀は白と黒のコントラストは背景の緑や石垣に映え、熊本城の一つの顔である。竹の丸からは塀を支える石の支柱と塀が貫で固定され構造が解かる。

熊本城の特徴は石垣である。その雄大さが基礎になっている。観光客は二の丸駐車場から西大手門を通り頬当門からの入城し、宇土櫓二階櫓下を通って天守閣に行くのが普通であるが、この道順では真の熊本城を見たことにはならないのである。

二の丸公園から西大手長塀の向こうに大天守、小天守、宇土櫓を望む

熊本城の雄大さは見事な石垣の構成を一歩づつ確かめて登ってこそ理解できるものだからである。竹の丸から天主閣方面を眺めると加藤清正が築いた武者返しの美しいカーブを描き豪壮優美な石垣が幾重にも重なった向うに天守閣が高く聳えている