五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

高等中学校の成立

2009-09-19 03:50:06 | 五高の歴史
明治政府は国家の柱石にとなる人材の養成を目的に、明治十九年勅令第15号(中学校令)により全国を五学校区に分け、それぞれに高等中学校を設立することにした。第一区の東京、第二区の仙台、第三区の京都、第四区の金沢の設置は早く決定したが、第五区(九州)の場所選定は難航した。熊本に決定した事情について、「五高五十年史」は、当時の文部大臣森有礼が「所謂社会上流に立つべき人物を養成するには、大藩にして而も良風漲る熊本の地が、地理的にも、歴史的にも、条件を具備している」と考えられたからだと述べている。
第五高等中学校の成立は明治20年(一八八七)5月だが、九州の最高学府にふさわしい赤煉瓦2階建の本館は、明治21年2月に着工して翌年8月に完成した。当時の洋風建築を代表する建物の一つで、建築費は20,504円22戦2厘であった。ちなみに、土地購入費と建築費の総額10万円のうち、8万円は熊本県が支出し、残り2万円は旧藩主細川護久の寄付をはじめとする地元有志の寄付であった。
明治23年10月10日、開校記念式が盛大に行われ、爾来この日が五高開校記念日となっている。明治27年9月(明治27年勅令第75号)の高等学校令により、第五高等中学校は、第五高等学校と改称され、昭和25年(1950)3月の閉校まで「五高」の名で親しまれてきた。
嘉納治五郎、秋月胤永、小泉八雲(ラフカジイオ・ハーン)、夏目漱石などによって育まれた「剛毅木訥」の龍南精神は、その後の龍南健児(五高生)の精神的支柱となった。そして、五高の教授や生徒達の活動は、地方の教育や文化の発展に大きな影響を及ぼした。また、13,582名の卒業生の中には、内閣総理大臣を務めた池田勇人、佐藤栄作を始め、日本の政界・官界・財界・学界などで活躍した人物が多い。
第五高等学校は、戦後の学制改革によって60年余の栄光の歴史を閉じたが、その伝統の遺産は熊本大学に引き継がれている。