五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

第十三臨時教員養成所

2010-05-02 18:41:48 | 五高の歴史
第十三臨時教員養成所 
五高に出来た所謂高等師範学校である。第十三臨時教員養成所関係の資料をそれとなく眺めていたところ小学校の時の担任の先生の名前が目に付いた、そこで臨時教員養成所について一寸纏めてみようかと云う気になって、まず五高五十周年史を読んでみると、第十三臨時教員養成所については、ここの卒業生は卒業時までには五高の教官にお世話になっていたが卒業後は五高同窓会等とは全く無関係になり消息不明で音沙汰がないようなことが記載されていた。
 まず第十三臨時教員養成所の卒業生の概略を眺めてみると、卒業生の総員は昭和四年数学科卒業二十七名、昭和六年国語漢文科卒業二十五名、昭和七年数学科卒業二十八名の八十名である。一方入学許可者は三十五、二十五、三十名の九十名を採ってあったのだが在学期間三年間を全う出来た者の少なさを感じた。
五高の学校一覧では昭和九年と翌十年までここ第十三臨時教員養成所の卒業生を追跡調査してある。
 
 昭和四年卒については文部省への報告書では就職口が多く、断るのに苦労し大変であったようなことが報告されている。昭和五年の一覧では全員中学校の教師になっている。しかしその中の一人は早くも昭和九年の時点では卒業生名簿から既に行方不明になっている。
 
 昭和六年の卒業生は国語漢文科であるので全員国語の先生であるが、そのうちの十二名は高等師範卒業の肩書きでの小学校の教員になっている。また卒業生の一人は九大へ進学している。就職先の学校の場所は当時の朝鮮と満州へ各一名、国内では大阪三人、千葉と神戸そして岡山へ各一名、九州では福岡県、佐賀県、宮崎県、鹿児島県に各一人、県内には七名が就職している。
 
 昭和七年の卒業生になれば就職そのものが困難になって来たようで、昭和九年四月現在でもまだ未就職者と思われる者が八名、就職者でも国外での当時の台湾・朝鮮に就職している者が各一人あり、県内就職者は六名に留まっている。他県に就職した者の就職した県を挙げて視ると、福岡県、広島県、鹿児島県、香川県、宮崎県、愛媛県、大分県、佐賀県に各一名に就職している。そのほか大学へ進学したものも一人あった。

 五高五十年史において筆者の高森先生は第十三臨時教員養成所卒業生は五高同窓会に参加しないのは同窓となる学校を持たないことになる事は淋しい事じゃないかと表現されている。そこで五高同窓会の設立を眺めて見ると、それは昭和五年に行われている。その第四条には「本会は本校卒業生を以って通常会員とし、本校職員及び職員たりし者又は本校に縁故ある者にして会長の推薦せる者を以って特別会員とす。」とあり、龍南会規則においても、第十三臨時教員養成所についての規則の追加、改正等も行われている様子はなく、第十三臨時教員養成所卒業生は五高同窓会からは五高とは別学校であり継子扱いにされていたように感じた。ここ第十三臨時教員養成所卒業生は五高卒業生と同席することを憚り肩身が狭いと感じたのではなかったのだろうか?
 この第十三臨時教員養成所の設立等を眺めてみたいと思う

大正十五年四月一日五高に第十三臨時教員養成所が設置されたが、これは文部省告示第二百三号により設置されたもので、明治三十五年三月二十八日の勅令第百号臨時教員養成所管制並びに二十九日の文部省令に第八号臨時教員養成所規程に基づいて設置されたものでその明治三十五年の臨時教員養成所官制を掲げて見る

臨時教員養成所官制
第一条臨時教員養成所ハ師範学校中学校及高等女学校ノ教員タルヘキ者ヲ養成スル所トス
第二条 臨時教員養成所ハ文部大臣ノ指定スル帝国大学及直轄諸学校内ニ之ヲ置ク
第三条 臨時教員養成所ハ当該帝国大学総長及直轄諸学校長ヲシテ之ヲ管理セシム
第四条 臨時教員養成所ニ教授及書記ヲ置ク教授ハ奏任トシテ各所ヲ通シ専任九人ヲ以テ定員トス生徒ノ教授ヲ掌ル
書記ハ判任トシ各所ヲ通シ専任五人ヲ以テ定員トス上官ノ命ヲ承ケ庶務ニ従事ス
臨時教員養成所管理者ハ講師ヲ嘱託シ授業ヲ担任セシムルコトヲ得
第五条 臨時教員養成所ノ名称ハ文部大臣之ヲ定ム
附則
本令ハ明治三十五年四月一日ヨリ之ヲ施行ス

五高に於いては第十三臨時教員養成所規則、学資支給規程を作成し文部省の許可を得て直ちに生徒募集を行っている。この時代全国の中学・高等女学校等々においては専門学科の教官が足りなかったのである。以下第十三臨時教員養成所規則の必要な処を掲げる。

第十三臨時教員養成所規則
第一節 総則
第一条 本所は師範学校・中学校及び高等女学校の教員たるべき者
を養成する所とす。
第二条 本所に数学科を置く。
第三条 修業年限は三箇年とす。

     修身 教育 数学 物理  簿記 英語 体操  時間数
第一学年  1  2 17  3   2  3  2   30
第二学年  1  2 19  3      3  2   30
第三学年  1  2 19  3       3  2   30
<  略   >
第八条 生徒の定員は凡そ三十五名とし内若干名を給費生徒とす。
第九条 本所に於いては授業料を徴収せず。

< 略  >
第十一条 生徒は左の資格を有する男子にして出身学校長の薦挙に依         り、当臨時教員養成所管理者に於いて品行方正、身体健全にして教員たる適当なりと認むる者に就き試験の上選抜す。
      但し第二号中出身学校を有せざる者は薦挙を要せず。
     1師範学校及中学校の卒業者
     2専門学校入学者検定規定に依り試験検定に合格した者及一般の専門学校に関し試験検定を受くる資格を有する者並びに小学校本科正教員免許状を有する者

<  略   >
第六節 服務義務
  第二一条 卒業生は卒業証書を受得の月より左の期間引続き教育に関する職務に従事する義務を有す。
       学資の支給を受けたる者は修業年限の一倍半に相当する
       期間
       学資の支給を受けざる者は修業年限の二分の一に相当する期間右の内最初の一箇年は文部大臣の指定に従い奉職する義務を有す。
  第二二条 前条の外服務に関しては大正十年四月二十六日文部省令第二十九条高等師範学校等卒業者服務規則に依る。

大正十五年五高に第十三臨時教員養成所が出来たが、同時期に全国の各地の学校に設置された臨時教員養成所を紹介しよう。
臨時教員養成所設置の学校

第一 臨時教員養成所 東京高等師範      第九    東北帝大 
第二         広島高師        第十    四 高
第三         奈良女高師       第十一   浜松高商
                       第十二   東京外国語学校
第四         東京音楽学校      第十三   五 高
第五         大阪外国語学校     第十四   小樽高商
第六臨時教員養成所   東京女高師        第十五       佐賀高
第七          東京帝大         第十六      北海道帝大  
第八          九州帝大

第一臨時教員養成所は東京高等師範学校に設置されたと言う意味である。以下同じ。

大正十五年四月に五高に第十三臨時教員養成所が入所生徒をばたばたと言う感じで決定させているが、この年度の入学志願者は百五十三名でその中から給費生十五名、私費生二十名を入所させている。入学者は師範学校出身者が三名、中学校出身者が三十名、その他が二名の三十五名を合格させて入所を許可している。入所者の年齢は給費生の最高齢が二十二年十ヶ月、最低十七年二ヶ月、一方私費生では最高二十一年五ヶ月、最低十七年二ヶ月であった。しかし一年を修了出来ず退学した人が二名あった。(給費生一名、私費生一名)いずれも病気であったので仕方がなかった。入所希望者が多かったのは給与を貰えて学校に行って学べると言うことが受けたのである。学校は生徒に教える場所、教室が必要であるが、この臨時教員養成所のため五高は倉庫の一部を改修して教室として使用していた。
職員や生徒の机・器具類は五高の備品を借用して使用し、職員・生徒の参考用図書の多くも五高の備品を借りて使用している。
この第十三臨時教員養成所には専任の教官は居なく、担当の職員は管理者一名、主事一名、講師十名、事務五名、医師一名の合計十八名で、講師の一名は熊本県立商業学校の教師であり、他の教官は五高の教授、講師及び書記を嘱託として全て五高の教官の兼務であった。そのため給与は五高から出ていた。

次の年昭和二年には入学試験ここでは入所試験は行われていない。

しかし規程の改正は昭和三年度より数学科の外に国語漢文科を設置することとなりに規程を追加改訂して認可を受けている。
設備は国語漢文科設置に就き先の数学科の倉庫の隣を修理して教室に充てている。昭和二年には募集はなかったが前年と異なるところは学年末では成績不良で中途退学したものが六名ありそのうちの一名は給費生であった。

参考として臨時教員養成所の学科目修業年限を眺めて見たい。
 数学科、歴史地理科、英語科、国語漢文科、博物科、体操家事科は修了年限三年であり 
 体操科、音楽科は修了年限二年であった。

学資は年額参百円支給で これを十二分の一づつ毎月支給している。一ヶ月五十円の給与を貰うということであり、もちろん授業料は必要としない。

就職後の条件としては服務規程として
学資の支給を受けた者は修業年限の一倍半に相当する期間
学資の支給を受けなかった者は修業年限の二分の一に相当する期間
を文部大臣の指定に従い奉職する義務を負っていた

昭和四年には国語漢文科の試験が行われている。その志願者百八十八名で厳選の結果、収容人員予定三十名であったが、給費生十二名、私費生十三名の合計二十五名の入所を許可している。
生徒図書閲覧の状況を示してみると貸出書籍千七百六十八冊、
正人数は千百九十三名で休暇中の館外貸出は次のようであった
春期休暇八名が十五冊を夏期休暇には七名が十三冊、冬休暇は十一名で二十一冊を借り出している。
数学科は実地授業所謂教生で参考書教授用として館外貸出をさせた。
文部省は夏休みには二週間に亙る講習会を実施し教員の質の向上を図っている。

翌年の昭和三年に第十三臨時教員養成所には国語漢文科が設置されているのでどこ
の臨時教員養成所にどんな学科が設置されていたのか調査してみた。
昭和三年第十三臨時教員養成所に国語漢文科が設置されたが当時の他の各養成所の
専門教員養成の学科以下の如くであった

第一 英語・歴史地理・物理化学・体操     第九 数学
第二 英語・歴史地理・数学・博物       第十 国語漢文
第三 数学                第十一 数学・物理化学
第四 音楽                第十二 英語
第五 国語漢文  第十三 国語漢文
第十五 歴史地理
修業年限は 音楽・体操は二年で 他は何れも三年であった

夏期講習会に関する件として  期間が二週間の十四日間    定員は凡そ五十名で
      条件として 臨時教員養成所卒業者及び中学校当該学科担当教員であった。

五高生は成績が悪いと落第が行われていたが、第十三臨時教員養成所の生徒は落第などの余裕はなく成績が悪いと則退学であった


昭和四年の数学科の入学志願者は師範卒で給費を五名が望み、 中学卒では給費を二百三十六が望み、私費二十八名 専九名、専門学校十九名で 受験者合計は三百名であった。給料貰えて学校に行けるとは大正十五年と同じで二百四十一名が給費を望んでいる。試験の結果は中学卒で給費生十四名、私費生十五名と専門学校卒の私費生一名の合計三十名を合格させている。

第十三臨時教員養成所には専任の教官いなく職員は管理者一名、主事一名、講師十八名、事務嘱託五名、嘱託医師一名で講師一名のほかはいずれも五高の兼任職員で皆興給であった。

「臨時教員養成所に関しては御配慮相煩わしをる處昭和五年度に於ては都合に依り貴所は新たに募集せざる見込みに付豫め御了知相成度。」と言う生徒募集断りの通知文書が見える。
昭和六年の五高から文部省への報告として 昭和六年五月十九日付で 退学等四 就職者 中学校一 高等女学校三 その他七とあり まだ未就職者が十四名あることは専門教科の教官が充足して来たことが窺える。
更に昭和七年一月八日付け文部省からの通知は
発普一三九号で第十三臨時教員養成所の廃止に関し「臨時教員養成に関し多年御配慮相煩したる慮都合に依り貴養成所は昭和六年度限廃止せらるる見込みに付豫め御了知相成度」という第十三臨時教員養成所の廃止の通知が来ている

昭和四年の卒業生では就職の売り手市場で卒業生全員就職が決まった後でも、就職についての打診があったものについては断わったという報告がなされているが、三年後の昭和七年の卒業生では就職先がなく、昭和八年の新学期になっても卒業生の大半は未就職であったようで、文部省はそのため臨時教員養成所に廃止に踏み切らせたのであろう。
次に第十三臨時教員養成所の三回に亙る卒業生の数を確認する。

昭和四年三月十一日 数学科卒業   二十九名
昭和六年三月十一日 国語漢文科卒業 二十五名
昭和七年三月十二日 数学科卒業   二十八名

ここでは第十三臨時教員養成所の三回の卒業式の様子卒業生の就職口が少なくなり昭和七年には廃止になったこと。就職先はどこに赴任したかそのあたりを検討して見たい。

先ず卒業式の様子、特に文部大臣の挨拶が第2回の卒業式に祝詞が送られてきている。
第一回卒業式 昭和四年三月十一日
送別の辞 職員総代  下村市郎
       送辞   在所生総代 田島耕一郎
       答辞   卒業生総代 杉田好太郎
第二回卒業式 昭和六年三月十一日
       祝辞   文部大臣  田中隆三(校長代読)
       送辞   教員総代  八波則吉
       答辞   卒業生総代 清田耕一郎
第三回卒業式 昭和七年三月十二日
       送別の辞 講師総代  野村武衛
       答辞   卒業生総代 有松喬造

第十三臨時教員養成所の資料から昭和四年数学科卒業二十七名、昭和六年国語漢文科卒業二十五、昭和七年数学科卒業二十八名で入学許可者に対し卒業者は前述したように三年間の学習をまっとう出来て卒業者の少なさを改めて感じた。学校一覧を覗くと昭和九~十年までこの卒業生を追跡調査してあり、昭和四年卒については文部省への報告書では就職口が多く、断るのに大変であったようなことが報告されてる。昭和五年の一覧では数学の教師として全員中学校の教師になっている。しかしその中の一人は五高とは連絡できないようになってしまい昭和九年では既に不明になっている。昭和六年卒業生は国語の教官であるが、中学校の専門教科を希望したのだろうが、十二名は高等師範の身分で小学校の教員になっている。又一人は九大へ進学しているし。朝鮮・満州へ各一名、国内では大阪三人、千葉・神戸・岡山に各一名、その他福岡・佐賀・宮崎・鹿児島に各一人、県内には七名しか就職していない。七年卒業になれば就職そのものが困難であったようで、卒業後一年を経過したと思われる九年四月現在でも未就職者と思われるものが八名、海外の台湾・朝鮮に就職している者が各一人、県内は六名であり国内の県を挙げてみると、福岡・広島・鹿児島・香川・宮崎・愛媛・大分・佐賀、各一名、大学へ進学したものも一人ある。以上のような状態であったので五高の卒業生とは全く異質であったと思われ、まだ創設早々の五高の同窓会等からは彼等に充分な連絡も出来たのだろうか、彼等の方からも五高への連絡はその職場に唯一人在職しているのであるから一寸不可能な状態であったのではなかったろうか・・・・・。
文部省令に基づいて臨時教員養成所は規程を定めて設置されていたものであるが、向陵史・一高六十年記念史を参照して臨時教員養成所の形態を眺める。明治三十五年四月に創設された第一臨時養成所は東京帝国大学内に国語博物科が、第二臨時教員養成所は第一高等学校内に物理化学科が、そして第三臨時教員養成所は第二高等学校内に英語科が、第四臨時教員養成所が第三高等学校内に数学科が、そして第五臨時教員養成所が東京外国語学校内に英語科が設置されている。その生徒は主として師範学校、中学校の卒業生から取り、或は一般志願者中より試験選抜せられたものであり、その入学は隔年毎に、即ち前回入学の生徒の卒業を俟って行われた。そのため専門教師の充足が見られたときには廃止の方向に持っていかれたものである。明治三十九年三月には第一と第四および第五を廃止し、翌月の六月には第六臨時教員養成所を東京女子高等師範学校に設けたが明治四十一年三月三十日の文部省告示第十四号に依り第二も第一と共に三十一日限りで廃止されている。この時代の臨時教員養成所の修学期間は二年間であった。第二臨時教員養成所の志願者、入学者、そして卒業者を眺めてみると 明治三十五年・志願者三十五 入学者二十二 明治三十七年卒業者二十 明治三十七年志願者八十八 入学者二十七 明治三十九年卒業者 明治三十九年志願者百五十五 入学者二十一 明治四十一年卒業者十七の 合計六十二名であった。以上(一高60年記念史)から、
このことから推察できることは、文部省は全国の中学校・高等女学校等の専門教官が不足すると思えたときは臨時教員養成所を創設し入所試験を行い、その専門教官の定員が十分であると見極めた時はこの入所試験は行わなく臨時教員養成所は廃止するという方針であった。この制度は五高に第十三臨時教員養成所が出来た大正十五年の二十年後も変わってはいなかった。
昭和六年卒(国漢) 昭和四年卒業(数学) 昭和七年卒業(数学)
氏   名 氏      名 氏      名
安部正美 松岡正広 松村安高
大原光男 高辻哲夫 有松喬道
鵜池護 天藤正遠 北古賀親芳
上野正雄 永長貞夫 末松一二三
牛留致義 畠山千幸 大場京一
有働恭輔 杉田好太郎 上田清盛
江藤保定 坂本克己 能勢純敏
斉藤益己 竹原林平 亀高加久一
竹田哲 吉原政嗣 松尾優
園田敏明 土岐忌年 藤木辰雄
高石康雄 木村筆夫 清水義一
高崎清市 広松武夫 平賀章憲
清田耕一郎 石原正孝 福田勇
田辺章一 田中健治 中原順一
蔦屋喜重 城戸清 牟田口政次
能登原陸三 古谷勲 木郷安
原田光男 安田譲 神崎圭一
久留景辰 田鍋友雄 橘憲一
広島虎雄 石本透 矢野正造
深見正夫 生田公義 宮内克
藤吉保家 加藤憲治 中尾俊之助
古川嘉郎 高村文夫 荒木雄蔵
牧義光 松永猛 中村日出男
益永生男 北村尚 浜田休次郎
安永章一 田中三郎 深川肇
志気政興 田村政雄
隅山辰雄 上野俊幸
本郷如夫



最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
初めまして (鈴木聡)
2019-08-20 22:39:48
はじめまして
鈴木と申します。
臨時教員養成所について調査していたところ、このブログを発見しました。
第十三臨時教員養成所について詳しく書かれていたので面白かったです。
ただ、1点だけ違うのは臨時教員養成所はあくまでも臨時教員養成所であって高等師範学校ではありません。
臨時教員養成所を設置している学校卒となります。つまり第十三臨時教員養成所を設置している第五高校卒です。
あえて、高等師範学校卒といえるのであれば、高等師範学校に附設されている臨時教員養成所のみとなります。
ご参考になれば幸いです。

コメントを投稿