五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高六代校長松浦寅三郎校長について

2009-09-20 04:13:55 | 五高の歴史
第五高等学校第六代校長 松浦寅三郎
五高記念館の資料によると長崎県士族旧平戸藩、慶応二年八月(一八六六)長崎県北松浦郡生まれている。明治一三年(一八八〇)平戸藩第十二代藩主松浦詮が創設した猶興書院で和漢学を修めた。同十五年には猶興書院の給費生となり「諸生監督漢学研習ノ事ヲ分担ス」とあり、十七年には東京へ遊学を申しつけられ、東京では松浦泊邸の寄宿舎に入舎し、英学・漢学・数学を修めた。その後東京府尋常中学校から、第一高等中学校を経て、明治二五年、帝国大学法科大学に入学、二八年卒業後、直ちに教育者としてスタートを切り、翌明治二九(一八九六)年五月には、愛知県豊橋尋常中学時習館校長、三二(一八九九)年七月には山形県尋常中学庄内中学校長を歴任、三三年八月には山口高等学校教授に就任する。更に三九年には山口高等商業学校を経て、明治四〇年一月、栗野事件の責任を取った桜井房記校長の後任として就任した。
五高生の思い出によると、「謹厳そのもので、ある時の寮祭で、女学生が誘かいされる場面」では「ソッポむいて一度も舞台を見なかった」(住江金之「天下とるまでぢゃ」『龍南回顧』所収)、という面もあったが、「威あって猛からず、という方であって、生徒一同の心からの尊敬を受けて居られた。生徒の宴会の席などでは、一同が親愛の意をこめて、『松浦寅さんは話せる男、四角四面で角(かど)がない』と合唱していた」(村瀬直養「金峰山は紫にして」『龍南回顧』所収)という。
明治四十五年九月十三日、明治天皇の御大葬遙拝式を執り行い、十月十二日から一週間、職員生徒一同による桃山御陵参拝修学旅行を行っている。その様子は「龍南会雑誌」第百四十八号に詳しい。
在任中の事件としては、かつて清国からの戦利品で、佐世保鎮守府から貰った二艘の端艇が江津湖に繋がれたままになっていたものを、前の端艇部委員が勝手に砂取の浜屋に売却、処分したということがある。真相解明のため大正二(一九一三)年二月二五日午後、瑞邦館で会長、端艇部長、由比教頭、江部の各教官、新旧委員の端艇部委員、その他一般学生が出席の上報告会が開かれた。会長はこの端艇が前の委員によって正当な手続きを経ることなく売り払われ、その代金は龍南会の会計には入金されていないことを明らかにし、これは監督者としての自分の不行届きであることを謝った。この結果由比教頭が責任をとる形で四国の高等学校に転出した。
 さらに、松浦校長を窮地に立たせたのが、同じころ真冬の習学寮内で発生したチブスである。汚染で寮生十人が死亡してしまった。四月には伝染病は収まったかに見えたので慰霊祭を実施した。しかし、十月には再びパラチブス患者、赤痢患者が続出したので、学校側は臨時休校を行い、寮生の外出禁止、習学寮の閉鎖に踏み切った。そのため学内は騒然とした。校長はその責任を取って依願退官した。
その後大正七(一九一八)年五月、神宮皇學館館長に就任し、翌八年二月には、皇太子傳育官長に就任、若かりし頃の秩父宮、高松宮の両殿下を教育した。大正一二(一九二三)年八月には、初代女子学習院院長を兼務し、大正一四(一九二五)年からは院長に専任した。昭和七(一九三二)年八月から終戦時の昭和二〇(一九四五)年一一月まで、宮中顧問官を務めて教壇生活の最後を飾った。昭和二二年(一九四七)一月一五日死去した。五高人物史を参照する