五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

日本文化講義(独逸に於ける教育と科学)

2009-09-12 04:05:54 | 五高の歴史
教育と科学との問題は方法の問題ではなくして、生活の理念であり意味がある。
其の中心は要するに祖国への奉仕であり、公益は私益に先んじ、全体は部分に先んずるという考え方である。此の考え方も独逸に於いては独逸古来よりの欠陥を指摘して正確をつきとめ、独逸的理念を実現し、之に背く者を重く罰すると言うところまで進むことにより完成するに到った。世界大戦後、独逸は民族的自覚が茫洋として勃興し来り生活領域の拡販に亘り民族としての全体的思想を基調とするに到った。共同体への奉仕は、責任観念は自発的に生じ来った。小我を滅して大我につき教育は人間を真の自由へ教育することに於いては『ナチス』教育と穫し得、科学でも事故の民族性の信念に基いて科学してこそ価値を見出すことが出来る「ナチス」独逸では真なる認識には何等の制肘を加えるものではない、自由の動機、研究の結果の応用問題が自由でないのみである。悟性としての人間として科学することは十九世紀に生じた科学者も国民の一人である限りに於いて民族の一成員として科学することである。真理判断は今迄と変わりないがそれに民族や全体を結びつけると認識の価値が変わって来る。国家的立場から考えると科学は研究対象が国民に切実な問題であるとして之を取り上げなくてはならぬ。唯、真理に於いては民族的様式の差異がある。宗教、文学などは民族の地盤から出発する限り他民族の理解の限度がある。新秩序とは民族の特性を生かして行く秩序であって、日本と独逸との結びつきが好ましいのは、両者の間に類似点があるからのみではない、両者の間の相異なること、その特性の有無相通ずることを得て一層緊密なる結合を必要とするからである。其の点教育の立場からみて充分の期待を持ち得、欣快に堪えない次第である。