雅工房 作品集

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運命紀行  歴史の語り部

2013-06-13 08:00:59 | 運命紀行
          運命紀行

              歴史の語り部


昭和六十一年(1986)、奈良市の建設現場で古代の広大な邸宅跡が発見された。
発掘が進められていく中で、これが長屋王の邸宅跡であることが判明し、同時に木簡を中心とした貴重な古代資料が発掘されたのである。
このニュースは、単に研究者ばかりでなく、飛鳥・奈良時代の歴史ファンから大きな期待が寄せられ、実際に、木簡などから新たな事実や推定が公になっていった。
まさに長屋王は、飛鳥や平城京の息吹を現代に伝えてくれる語り部ともいうべき存在となったのである。

もちろん長屋王は、語り部ではなく歴とした王族である。
それも、都が飛鳥から奈良に移った時代、激しい王権の争いがあり、藤原氏という新興貴族が台頭してくる動乱の時代の中で、重要な役割を担った人物なのである。
その生涯は、悲劇的な最期も含めて謎も多く、それゆえに多くのことを語りかけてくれているような気がする。

長屋王は、天武十三年(684)に誕生した。
父は天武天皇の皇子・高市皇子であり、母は天智天皇の皇女・御名部皇女である。御名部皇女は後の元明天皇の同母姉にあたる。つまり、天武系と天智系による皇位の争奪がしのぎを削っていた時代、その中核に極めて近い存在として誕生したのである。

父の高市皇子は、天武天皇の第一皇子であり、天武天皇(大海人皇子)と天智天皇の子である弘文天皇(大友皇子)とが王権を争った壬申の乱において大活躍している。本来ならば、天武天皇の後継者となっても不思議はないのだが、生母が皇女でなかったため、数多いる皇子の中で、草壁皇子、大津皇子に次ぐ第三の位置付けであったらしい。
しかも天武天皇の皇后は天智天皇の皇女である後の持統天皇であり、皇后は何としても自分の子供である草壁皇子を次期天皇に就けたかったのである。
天智・天武・持統、そして文武天皇へと王権が移って行く時代は、新旧豪族の栄枯盛衰も絡み合って、王権を巡る権謀術数が繰り広げられた時代であった。
長屋王は、その時代の真ん真ん中に生きた人物なのである。

慶雲元年(704)、正四位上が与えられる。長屋王二十一歳の時である。なお、長屋王には、生年が天武五年という説もあるが、初めて爵位を受けた年齢が二十一歳というのは決して早すぎるものではなく、天武五年の生まれでは二十九歳となり遅すぎる気がする。
和銅二年(709)には従三位宮内卿、霊亀二年(716)には正三位へと昇進してゆく。

この頃の天皇の在位期間を見てみよう。(和暦は省略した)
天武天皇(673~686)、持統天皇(690~697)、文武天皇(697~707)、元明天皇(707~715)、元正天皇(715~724)、聖武天皇(724~749)となっている。
天武天皇と持統天皇との間が二年空いているが、この期間は「称制」と呼ばれるが、持統天皇が次期天皇を模索していた期間ともいえよう。
しかし、意中の草壁皇子が死去したため自らが皇位に就き、草壁の皇子・文武天皇に皇位を譲るまで頑張ったのである。そしてその意志は、持統天皇が没した後も継承されていった。
すなわち、文武天皇が二十五歳という若さで没した後も、元明天皇(文武天皇の母・草壁皇子の妻)、元正天皇(文武天皇の皇后)と女帝がつないでいるのは、文武天皇の子である聖武天皇を実現させるための苦肉の策といえる。
そして、この持統天皇の意志を継承した者こそが、藤原不比等だったのである。

壬申の乱の後、天武天皇が即位した後は皇親政治と呼ばれる天皇を中心とした有力皇族による政治が行われた。その中心となったのが高市皇子であったが、旧貴族が没落し壬申の乱の功績者が年老いてたり死去していく中、政権の中心に躍り出てきたのが、持統天皇の信頼を得ていた藤原不比等である。
都が平城京に移った後は右大臣である不比等が政権の中心に立っていた。
持統天皇没後も、若い天皇や女帝の補佐役として君臨し、聖武天皇実現のために奮闘したのである。その理由は、聖武天皇の生母は娘の宮子であり、さらに夫人となっている娘・光明子に皇子誕生を夢見ていたからである。

長屋王は、不比等の娘を妃に迎えていたこともあって、その関係は親しいものであった。
霊亀三年(717)、左大臣石上麻呂が没すると、その翌年、長屋王は大納言に任じられ、太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占めたのである。この昇進は、参議・中納言という地位を飛び越えてのもので、不比等が長屋王を皇族の代表者として遇するとともに、協力者として期待していたことが分かる。

養老四年(720)、藤原不比等が没すると、その子らの藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)はまだ若く、政治の中枢にあるのは参議の地位にある房前一人であった。
長屋王は、皇族の代表者であるばかりでなく、政治の中心人物になったのである。
長屋王の正夫人は、草壁皇子と元明天皇の娘・吉備内親王であり、元正天皇の妹であった。このこともあって元明・元正天皇の長屋王夫妻に対する信頼は厚く、吉備内親王の子供はすべて皇孫として扱う旨の勅を出しているのである。
また、藤原一族とも不比等の娘婿という関係からも良好であり、存分な働きが出来る環境にあった。
養老五年(721)には、従二位右大臣となり、神亀元年(724)には、聖武天皇即位とともに正二位左大臣に進んでいる。
この五・六年が、政治家としての長屋王の絶頂期といえる。

長屋王に陰りが見えるようになる事件は、聖武天皇の生母宮子に対する称号に関しての対立であった。
辛巳事件と呼ばれるこの騒動は、勅により与えられた「大夫人」という称号が、長屋王の反対により撤回されたというもので、これにより長屋王と藤原四兄弟の対立が表面化したのである。
もっとも、この事件で対立が表面化したことは確かであろうが、長屋王の絶大な権力に対して、藤原氏の不満が大きくなっていっていたことが下地になっていたと考えられる。

神亀六年(729)二月、悲劇は起こった。
漆部君足・中臣宮処東人という二人の下級役人が、「長屋王が密かに左道を学びて、国家を傾けんと欲す」と、朝廷に訴え出たのである。もちろん、長屋王の息がかかっていない部署にであろう。
「左道」というのは、国家が認めていない呪術などのことを指し、呪詛などと同一と考えて大差ないと思われる。

報せを知った藤原宇合は直ちに行動した。宮廷を警護する六衛府の軍勢を率いて長屋王の邸宅を包囲した。そして、舎人親王などによる尋問が行われたが、言い開きなど不可能と知った長屋王は、吉備内親王を殺し自ら毒を飲んだという。
膳夫王など、四人(三人とも)の息子も運命を共にしたという。
権力の頂点にあった人物の、あまりにも無残な最期であった。

     * * *


天平十年(738)七月、長屋王を密告した人物の一人、中臣宮処東人が大伴子虫という人物に斬り殺されるという事件が起こった。
碁を楽しんでいるうちに諍いになったのが原因ともいわれるが、どうやら密告の状況をうっかりと漏らしてしまったらしい。大伴子虫は、長屋王の恩顧を受けていたことがあり、真実を知り成敗したらしい。
不思議なことであるが、この事件で大伴子虫は何の咎めも受けていないのである。
「続日本紀」にも長屋王の事件が無実の罪を被せられたものと記されているそうで、平安時代初期には冤罪事件であることは公然の秘密であったらしい。
さらに、大伴子虫への対応を考えると、事件発生当初から、長屋王並びに皇位継承の資格を持つ四人の御子を消し去ることが目的の仕組まれた事件であることは、多くの人は感じとっていたものと思われる。
例えば、吉備内親王の御子たちは全員が運命を共にしていながら、不比等の娘である妃を始め、他の妃や子供たちも全く罪を問われていないのであるから、騒動の狙いは見え見えといえるものだったのである。

藤原四兄弟は、長屋王を亡ぼすと、光明子を立后させ(光明皇后)盤石の政治基盤を築いて行った。
しかし、取って代わられる可能性のある王や皇子たちを片っ端から粛清していったがために、この後、再び淳仁天皇や井上内親王などの悲惨な事件を引き起こすことになるのである。

昭和になって発見された長屋王邸宅跡の資料からは、「長屋親王」と記述されている物があるという。
長屋王が「親王」とされていたらしいことは、古くから知られていることではあった。しかし、親王というのは、天皇の子か孫で親王宣下がなされている人物だけが名乗れるのである。
従って、「長屋親王」が事実であったとすれば、一つには、父の高市皇子が実は即位していたのかもしれないこと。二つめには、吉備内親王の子はすべて皇孫とするという勅が出されているので、その父は「親王」であっておかしくない、という説もある。さらに、この当時、まだ皇族や位階制が完全ではなく、実力が抜きんでていた長屋王は親王に匹敵するとされたという考え方もある。
いずれもそれらしいが、いずれにも確定されていない。

そういえば、長屋王には、前例や格式を重んじられた時代にあって、異例なことがいくつかある。
例えば、皇族が初めて爵位を受ける時は、従五位下が普通なのである。それが長屋王の場合は、いきなり正四位上と三段階上なのである。
また、大納言に抜擢される時も、参議・中納言という重職を飛び越えているのである。
他にも、食封(領地)などにおいても、親王並みの待遇がなされていた。

これらを見ると、長屋王という人物は、若い頃から特別な人物だったのかもしれない。
その特別な器量が、藤原四兄弟に恐怖を与え、とんでもない事件を捏造させたのかもしれない。
そして、それだけ特別な人物を非業の死に追いやったからには、藤原四兄弟が無事なはずがないのである。

事件から八年後の天平九年(737)、藤原四兄弟は次々と死を迎え、長屋王の怨霊の成せる業だと人々は噂したという。
死因は、大流行していた天然痘によるものらしいが、そうだとすれば、多くの人が亡くなっていることになる。長屋王の悲運を見て見ぬふりをしていた者や、積極的に四兄弟に加担している人物などをじっくりと見定めたうえで、それらの者たちを成敗したのかもしれない。
まことに無責任な発言ではあるが、長屋王ばかりでなく、吉備内親王や御子たちの非業の死を思う時、せめて怨霊となってうっぷんを晴らしたものだと信じたいのである。

                                    ( 完 )






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