雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  天下所司代

2014-06-26 08:00:49 | 運命紀行
          運命紀行
               天下所司代

「所司代」というと言葉は、室町幕府の職名として登場している。
都の治安警護の任務に携わる役所が「侍所」で、その長官は「所司(あるいは頭人)」であり、その代官が「所司代」というわけである。
もっとも、「侍所」という役所は鎌倉時代には登場していたが、その頃の長官は別当であった。その任務は、軍事・警察といったもので、京都の治安維持を主目的としたものではなかった。
室町幕府の「侍所」も、幕府の軍事・警察権を担っていて、その長官には、赤松・一色・京極・山名の有力四家が交代で就き、四職と呼ばれた。因みに、さらに上位にあたる管領職には、斯波・細川・畠山の三家が交代で就き、こちらは三管領と呼ばれた。

さて、この軍事・警察権を「侍所」の長官、すなわち所司は重臣を「所司代」として実務を指揮させた。
室町幕府が安定していた時には、「所司代」による京都の警察権は機能していたが、次第にその力を失い、応仁の乱後の混乱では全く機能しなくなり、京都の治安を守る「所司代」は任命もされなくなったらしい。
幕府を背景とした軍事力を遥かに上回る軍事力を有する豪族が輩出し、戦国の世となっていったからである。

その混乱の戦国時代にあって、やがて織田信長が登場し、天下統一へと向かって各豪族の戦いは激しさを増していく。
永禄十一年(1568)、信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、天下人への先頭に立った。
その後、義昭との関係は互いの利害でこじれ続けるが、ついに元亀四年(1573)七月、信長は義昭を追放し、辛うじて存続していたとされる室町幕府は消滅する。
この直後に元号は天正と改められ、信長は本格的に京都の基盤を整えることになった。その施策の第一歩は、途絶している「所司代」の復活であった。
信長に「所司代」を復活させるという意識があったか否かは未詳であるが、鎌倉時代や室町時代の「所司代」とは、その権限において全く違うものであった。これまでの所司代は、軍事や警察権に限定された職務であったが、信長が定めた「所司代」は、警察権や裁判権に限らず、諸色全般、つまり、京都に於ける政(マツリゴト)すべての権限を与えるものであった。しかも、その職名は「天下所司代」という大げさなものであった。
そして、その京都の運営すべてを任せる任務に指名したのが、村井貞勝であった。

織田信長という強烈な個性を持った武将が、天下統一の実現に向かって邁進することが出来たのには、当然いくつかの要因が考えられる。
信長固有の能力はもちろんであるが、天の配剤と思われるような幸運もあるだろう。例えば、武田信玄や上杉謙信の死没などもそう考えられないこともない。
しかし、やはり一番大きな要因は優れた家臣に恵まれたことであろう。恐怖政治を行った信長に本当に真髄する家臣は少なかったという意見も根強いが、生涯同盟関係にあった徳川家康、柴田勝家らの譜代の武将、天才的な働きを見せた羽柴秀吉、最後に裏切られたとはいえ明智光秀の貢献も小さくないはずである。そして、ややもすれば、戦働きに優れた武将たちに目が向きがちであるが、それを支えた内政を担う人物の存在も小さくないはずである。
村井貞勝とは、まさしく信長を支えた重要な人物だったのである。


     ☆   ☆   ☆

村井貞勝の前半生については、よく分からない部分が多い。
生年は、永正十七年(1520)とも、あるいはそれ以前だとも伝えられている。仮に永正十七年とすれば、信長より十四歳年上ということになる。共に仕事をすることも多かった明智光秀は八歳年下、秀吉となれば十七歳年下ということになる。

生地もはっきりしないが、近江国の出身というのがほぼ定着しているようである。従って、織田家の譜代の家臣ということではないが、信長にはかなり早い時期から仕えていたようである。
信長の弟である信勝が反旗を翻した弘治二年(1556)にはすでに信長に仕えており、両者の実母である土田御前の依頼を受けて、信勝や柴田勝家らとの和睦交渉に信長の家臣としてあたっている。この時信長はまだ二十三歳であるが、すでに重要な交渉役を任される地位にあったと考えられる。
信長が家督を継承したのは十九歳の頃であるが、その前後の頃に仕えるようになったらしい。

もちろん村井貞勝も、最初から文官として仕えたわけではなく、武者働きに奔走したものと考えられる。信長に従って多くの合戦に加わっていると考えられるが、信長の所帯が大きくなるにつれて、織田家の家政だけではない内政に優れた人物が必要になっていったのは当然の流れである。最初から文官として仕えている人物も数多くいるが、信長の侍大将たちと戦歴などにおいて引けを取らず、しかも内政面に才能を発揮した村井貞勝は、信長政権の中でかけがえのない人物になっていったのである。

信長が上洛を果たすに至る一連の合戦の多くにも参加しており、上洛後、足利義昭の将軍宣下を見届けると信長は京都を離れ岐阜に戻っている。
この時、京都の治安維持のために信長は五人の家臣を残している。村井貞勝・佐久間信盛・丹羽長秀・明院良政・木下秀吉の五人である。
このうち明院良政は信長の右筆であるが、他は一軍の将たちといえる人選であるが、信長が村井貞勝に期待したのは内政面での才覚であり、年齢から見ても貞勝が筆頭格であったと考えられる。

村井貞勝が信長から「天下所司代」に任じられるのは、この五年後のことであるが、その権限と責任は、室町幕府の「所司代」とは比べ物にならないほど大きなものであった。
この「天下」というのは、京都を指すが、京都内のすべての仕切りを任せられることになったのである。軍事・警察権を主体とした治安の維持はもちろんのことであるが、まだ根強い影響力を有していた公家や寺社との交渉や権益の安堵、あるいは禁裏との折衝事も含まれていた。
当然、これらの任務遂行には貞勝の手勢だけで事足りるはずはなく、信長旗下の諸将の協力があり、特に明智光秀とは緊密に相談しあっていたようであり、連署で文書が発給されたりもしている。
しかし、「天下所司代」という役職を与えられていたのは、村井貞勝ただ一人であった。

村井貞勝の仕事には、これらの他に、二条城の建設があった。足利義昭が使っていたものとは別に建設にあたったのである。
また、天正八年(1580)には、信長の京都での宿舎を本能寺に移すことになり貞勝がその普請の指揮をとっている。
天正九年、貞勝は出家して家督を子の貞成に譲っている。もしかすると、この年あたりが還暦だったのかもしれない。

天正十年六月二日未明、信長の宿舎・本能寺は、明智光秀軍の襲撃を受けた。
村井貞勝は、本能寺門前の自邸にいたが、騒ぎに気付いたときにはすでに手の施しようがない状態であったらしい。
貞勝は本能寺への突入を諦め、貞成と専次の二人の息子や郎党とともに、信長の嫡男・信忠の宿舎妙覚寺に向かった。
信忠も異変を察知していて、本能寺に向かおうとしているところであったという。明智光秀ほどの人物が起こした謀反であるが、本能寺を万全の体制で囲んでいながら、信忠の宿舎には軍勢を指し向けていなかったようである。

結果としては、信忠が京都を脱出し、さらには安土、あるいは岐阜に向かうことも可能であったと考えられるが、信忠は父・信長を残して京都を離れようとしなかったらしい。
貞勝は、本能寺に向かうことの困難を訴え、隣接の二条御所へ移ることを進言した。
二条御所は、皇太子誠仁親王の住まいであるが、もとは信長の京都での屋敷として建造されたものなので、頑強な造りになっていたからである。
信忠は貞勝の進言に従い、二条御所に入った。分宿している信忠の従者たちも次々と駆け付けたが、その数はおそらく千にも及ばない数だったと思われる。
結局信忠は自刃、村井貞勝も二人の息子とともに信長・信忠に殉ずる形で散っていった。

貞勝には、三人の娘がいた。三人は、佐々成政、前田玄以、福島高時 ( 福島正則の弟 ) に嫁いでいる。
考えてみれば、嫁いだ先の三人はそれぞれに一流の武将であるが、戦国の世にあって、難題を背負うことになった人物ばかりである。

戦国時代の一つの頂点ともいえる織田信長という人物の活躍を考えるとき、それを支えた人物といえば、羽柴秀吉や柴田勝家や前田利家を思い浮かべてしまう。あるいは徳川家康や明智光秀という人物の存在に思いをはせることもある。
しかし、荒々しくも世の中に大きな変化を与えた信長の業績を考えるとき、村井貞勝という人物をもっともっと重視するべきだと思われてならない。

                                                        ( 完 )









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